児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年08月

今日8月31日は、ピカソとともに「キュービズム」(立体派)の創始者といわれるフランスの画家ブラックが、1963年に亡くなった日です。

1882年パリ郊外にあるセーヌ川沿いの町アルジャントイユで生まれたジョルジュ・ブラックは、ル・アーブルで育ち、少年時代は家業のペンキ屋・装飾画家の見習いをしながら、1897年ころから2年間美術学校の夜学で絵を学びました。 

1900年、装飾画家としての資格を得ようとパリに出ました。1年間の兵役後にパリのモンマルトルに住み、アルベール研究所に学びましたが、アカデミックな指導にいやけがさして、毎日のようにルーブル美術館へ通い、街へ出ては印象派などもっとも新しい傾向の画廊をのぞいては、絵の研究に没頭しました。やがてマティスの影響を受け、フォービズム(野獣派)に属して大胆な筆使いによる強い色彩の絵を描くようになります。

1907年に開かれた、サロン・ドートンヌの「セザンヌ記念回顧展」に刺激を受け、同年11月に、画商の紹介で詩人アポリネールと共にピカソのアトリエを訪れ『アビニョンの娘たち』を見たことで大きな衝撃を受けました。それ以後ブラックは、プロバンヌの港町レスタックとパリを往復しながら絵画制作に取り組み、ピカソとお互いに影響しあって、「キュービズム」という新しい絵画運動をはじめました。しかし、「キュービズム」とは、1909年にブラックの描いた『レスタック風景』を見たマチスが「これはキューブ(立方体)でてきている」といったことや、詩人のアポリネールが二人の交流を応援し、その芸術が広く認知されるようになっていったためです。ピカソがアフリカ芸術への取り組みからキュビスムへ発展したのに対し、ブラックはセザンヌへの取り組みからキュビスムへ発展したまさに革命的な画法でした。『楽器』(下の絵)は、当時ブラックの描いた絵のひとつです。

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第一次世界大戦の兆しが強くなってきた1914年の前半までは、ブラックはピカソとパリで作品を制作していましたが、大戦が勃発してブラックが出征してしまうと、長らく続いたピカソとの共同作業は途絶えてしまいます。

1917年にブラックは制作を再開するものの、大戦以前のキュビスム絵画とは決別していました。1920年代に入ると、写実的で落ち着いた静物画を多く描くようになり、油絵ばかりでなく、版画や彫刻、ステンドグラス、室内装飾や書籍のさし絵、宝石デザインなども手がけました。

晩年になって、ブラックはピカソと交友を復活しますが、「わたしは革命的な画家ではない。熱狂をもとめない。熱意があれば充分だ」と語り、もはや熱狂することなく、自己の密室にとじこもって、鳥のイメージのある絵をかきつづけていきました。


「8月31日にあった主なできごと」

1957年 マラヤ連邦独立…19世紀後半からイギリスの支配下にあったマラヤは、マラヤ連邦として独立宣言をしました。なお、マラヤ連邦は、1963年にイギリス保護国だった北ボルネオ他と統合し「マレーシア」となりました。

1997年 ダイアナ妃交通事故死…イギリスの元皇太子妃ダイアナが、パリ市内で不慮の交通事故で亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の83回目は、『船徳(ふなとく)』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸の隅田川の川筋には、船宿というのがありまして、ここから舟をだすというぜいたくな遊びがはやっていました。なかには、遊びに夢中になりすぎて、親から勘当されてしまった若旦那が、お出入りの船宿に居候をしてたなんてのが、よくありました。柳橋の船宿・大枡(だいます)に居候していましたのが大家の若旦那の徳三郎。ひまをもてあました末に、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」といいだしました。「竿(さお)は3年、櫓(ろ)は3月」というくらい、小さな舟をあやつるのはむずかしいのに、親方はじめ船宿の若い衆の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と、船頭になる宣言をしてしまいます。

お暑いさかりの四万六千日。浅草の観音様にこの日一日おまいりすれば、四万六千日おまいりしたのと同じご利益があるというので、ものすごい人出です。なじみ客の通人が連れとやってきましたが、あいにく船頭が出払っています。柱に寄り掛かって居眠りしている徳をみつけた通人は、そこに若いのがいるじゃないかと引き下がりません。船宿のおかみが止めるのもきかず、「おかみさん、やらしてくださいよ。このまえみたいに、ひっくりかえすようなことはございませんから」と、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことになりました。

竿で岸をぐいとついた徳三郎でしたが、舟がなかなか出ません。「徳さん、もっと腰をぐっと張って」「張ってるんですよ、おかみさん。これ以上張ったら、おならが出ます」「出るわけねぇや船頭さん、舟がもやったままだ」「あっなるほど、では綱をほどいて…へへ、出ました。出りゃこっちのもんだ」「どうだい、舟は、いい気持ちだろ?」「おまえは好きだから、そうやってはしゃいでるけど、あたしゃ、あんまり好かないね」「おい、若い衆、いつまで竿をつっぱってねぇで、櫓にかわったらどうだ?」「ええ、それじゃご希望にこたえて、櫓にかえて、うんうん、うんとこしょ」「どうした? 櫓にかわったはいいが、舟がぐるぐる回るよ」「へっ、ここはいつも三どっつ回るんで。立っちゃだめですよ。あっ、竹屋のおじさーん…、これからお客をね、大桟橋まで送ってきまきますから…」「徳さん、ひとりかい? 大丈夫か?」「おい、おれぁあげてもらいてぇな。いま、へんなことをいったよ」「うるさいよ、君は、若い衆、心配ないだろ?」「へぇ、たいしたことないんですよ、この前ね、子どもを連れたおかみさんを、川ん中落っことしたんで、ああいって心配してくれてるんです」「おい、おい、たいしたことあるよ。しかしこの舟は、がくがくゆれるだけじゃなくて、だんだん端に寄るよ…、石垣へくっつくよ」

「へぇ、さようでござんす。この舟は石垣が好きでして…はい、くっつきました」「くっつきましたっていばってねぇで、どうするんだ」「こうもり傘を持ってる旦那、それをつぼめて、石垣をちょいと突いてください」「こんな用の多い舟ってのはねぇな。石垣を突くんだな、離れたら、ずっとこぐんだよ、そらっ、離れた。あっ、だめだ、おいおい、石垣の間に、傘がはさまっちゃった」「あきらめなさい。もうそこへは二度と行きません」「冗談じゃない、あの傘は、まだ買ったばかりだ」「お客さん、傘と命はどちらが大事ですか?」「そりゃ、命だ」

さんざん二人の客に冷や汗をかかせて、大桟橋へやってきた徳さん、こんどは舟を浅瀬に乗りあげてしまいました。「驚いたね、さすがのあたしも、こんな舟に乗ったことないよ。三年ばかり寿命をちぢめちゃった。…おい、若い衆、桟橋はそこに見えてるんだ、もういっちょう頼むよ。えっ? もうだめ? 声も出ねぇのか、なんだい、勝手にあがってくれって、手で合図してるよ」「じゃ、どうやって、あそこまで行くんだい?」「しょうがないだろ、川ん中へ入っていくしか」「冗談いっちゃいけませんよ。あたしがいやだってのを、おまえが無理にのせたんだ。だから、あたしをおぶってっとくれ」「まぁ、いい。もうここは浅いんだ、さぁおぶさり。おい、若い衆、おれたちゃあがるけど、おめぇ、青い面してるが大丈夫か?」

「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」


「8月30日にあった主なできごと」

1871年 国木田独歩誕生…『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』 『源叔父』 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した国木田独歩が生まれました。

1945年 マッカーサー来日…第2次世界大戦に敗れた日本は、9月から1952年4月まで6年9か月間占領され、連合国軍司令部(GHQ)による間接統治が行なわれました。その最高司令官に任命されたアメリカのマッカーサー元帥が、神奈川県の厚木飛行場におりたちました。

今日8月29日は、江戸時代末期の医師・考証学者の渋江抽斎(しぶえ ちゅうさい)が、1858年に亡くなった日です。なお、渋江は、明治・大正時代の文豪・森鷗外の史伝小説により、一般の人たちに広く知られるようになった人物です。

1805年、弘前藩(青森県)の侍医の子として江戸の藩邸で生まれた渋江抽斎(幼名・恒吉)は、儒学を考証家・市野迷庵に学び、迷庵の没後は狩谷棭斎(えきさい)に学び、医学を伊沢蘭軒から学びました。さらに多くの儒者や国学者、医者と親交をもちました。やがて家督をつぎ、津軽順承に医官として仕え、1844年には幕府の管轄する医学校の講師となっています。

本業の医学に関する著書『護痘要法』のほか、当代並ぶ者なしといわれた考証学の分野では、森立之との共著で中国古典の解題書『経籍訪古志』は、特に優れたものといわれています。蔵書家としても知られ、その蔵書数は三万五千点といわれていましたが、家人の金策や貸し出し本の未返却などでその多くが散逸しました。生涯で4人の妻を持ち、最後の妻である五百(いお)は、抽斎没後の渋江家を守りつづけました。

鷗外が渋江抽斎の存在を知ったのは、江戸時代の大名家の名簿のような「武鑑(ぶかん)」を蒐集していたときでした。そのなかの多くの書に「抽斎」という蔵書印が押されてあったため、鷗外はその人物に興味を覚えたことがことがきっかけでした。詳しく調べるうち、抽斎の娘で長唄の師匠をしている陸(くが)と、文筆家の息子保の生存を知り、二人から話を聞くうち、抽斎が医者として考証家として、誠実で強靭な精神をもち、心やさしい人物であることを知りました。貧しい病人からは診察料はとらず、逆に生活費を与えたりするような行動を知るにつけ、ますますほれこみ、鷗外自身が考証家のような姿勢で、淡々と抽斎のこと、そして抽斎の回りの人について事実を細大漏らさず調べあげ、この本を書き上げたのでした。「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。其跡が頗るわたしと相似ている」と記述しています。

『渋江抽斎』は119章から成る大著ですが、抽斎は半分の62章あたりで亡くなり、そのあとは4番目の妻五百と子どもたちの話が中心になっています。家に三人の侍が金目当てで押し入ったとき、ちょうど沐浴をしていた五百は匕首(あいくち)を片手に腰巻ひとつで飛出してきて侍を追い出した話など、五百があまりに魅力的に書かれているので、鷗外は抽斎に名を借りて、ほんとうは五百の話が書きたかったのではないかという人がいるのも興味深いところです。

作家の永井荷風は、1959年に市川の自宅で亡くなりましたが、机上には鷗外の『渋江抽斎』が置かれ、文学の最高傑作と知人に話していたそうです。荷風にとって鷗外は師弟をこえた親以上の存在で、ケチで有名だった荷風は、鷗外記念館設立にあたっては惜しげもなく5万円(当時3千円で家が一軒買えた)を出すほどのほれこみようでした。

なお、鷗外の『渋江抽斎』は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「8月29日にあった主なできごと」

1708年 シドッチ屋久島へ上陸…イタリア人宣教師シドッチが屋久島に上陸。鎖国中だったため捕えられて江戸に送られ、新井白石の訊問を受け幽閉されましたが、このときのやりとりは後に『西洋紀聞』にまとめられました。

1862年 メーテルリンク誕生…『青い鳥』など劇作家、エッセイスト、詩人として活躍し、ノーベル文学賞を受賞したメーテルリンクが生まれました。

1929年 ツェッペリング号世界一周…全長236mものドイツの飛行船ツェッペリング号は、約12日間かけて世界一周に成功しました。しかし飛行船は、実用的には飛行機にかなわず、現在では、遅い速度や人目につきやすい特長をいかして、広告宣伝用として使われています。

今日8月28日は、わが国最古の和歌集で日本文学史上第一級の史料とされる『万葉集』を編さんした奈良時代の歌人・大伴家持(おおともの やかもち)が、785年に亡くなった日です。

718年ころ、のちに大納言の位にまでのぼり歌人としてもすぐれていた大伴旅人の子として生まれた家持は、10歳のころ、大宰帥(だざいのそつ)に任命された父といっしょに、筑紫(北九州)の大宰府へくだりました。筑紫には、やはり都からくだってきていた山上憶良をはじめ、何人もの名高い歌人がいました。家持は、父や心美しい歌人たちに囲まれ、のどかな筑紫の野を眺めながら、和歌をよむ心を育てていきました。家持には、生涯のうちでこのときが、いちばん幸福だったのかもしれません。

数年ののちに都へもどると、まもなく父を失い、やがて、父のあとをついで朝廷へ仕えるようになりました。貴公子の家持は、多くの女性にしたわれ、また自分も燃えるような恋をして、たくさんの恋の歌を作りました。

28歳のころ、越中守に任命されて北陸へくだりました。都を遠くはなれた雪深い越中(富山県)での暮らしは、さみしいものでした。でも、この越中での5年間が、家持を歌人として大きく成長させました。さみしさに打ちかつために、柿本人麻呂や山上憶良らの歌を学びながら、歌日記をつけ、越中の美しい自然と都をしのぶ自分の心を深くみつめた和歌をよみつづけました。

751年、家持は都へもどってきました。ところが、越中で夢にまで見た都は、藤原氏だけが栄えて、大伴氏の一族が出世できる道は何も残されてはいませんでした。家持は、大伴氏がとだえていくことをなげき、人間の悲しみや苦しみを歌にして、自分をなぐさめました。

このとき家持が都にとどまったのは、7年たらずでした。そののちの家持は、因幡国(鳥取県)、薩摩国(鹿児島県)、相模国(神奈川県)などの国守をつとめ、最後は、蝦夷をおさめる鎮守府の将軍として東北へおもむき、785年に、その東北の地でさみしく生涯を終えてしまいました。しかも、死後になって、長岡京をつくる指揮をしていた藤原種継が暗殺された事件にかかわっていたと疑われ、官位を取りあげられてしまいました。

衰えつつある大伴氏のなかで、いくつもの困難に出会った家持は、貴族としてはたいへん不幸でした。しかし『万葉集』には、480首ちかくの歌が収められ、歌人として名を残しました。この『万葉集』の編さんには、家持が重要な役割をはたしたといわれています。

なお、オンライン和歌集「千人万首」では、家持の作品約100首を、解釈付きで読むことができます。


「8月28日にあった主なできごと」

1583年 大坂城完成…豊臣秀吉が「大坂(大阪)城」を築きました。1598年の秀吉死後は、遺児・豊臣秀頼が城に留まりましたが、1615年の大坂夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡します。

1749年 ゲーテ誕生…『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた文豪ゲーテが生れました。

1953年 民放テレビ開始…日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。

今日8月27日は、『ウルビーノのビーナス』『聖母被昇天』など、イタリア・ルネサンス最盛期にベネチア派を代表する画家として活躍したティツィアーノが、1576年に亡くなった日です。

1490年ころ、ベネチア共和国近郊にある名家の長男に生まれたティツィアーノは、10歳から12歳くらいのときに、画家の内弟子になるためにベネチアの叔父のもとへと送られました。ジョバンニ・ベリーニ工房で年齢の近い芸術家たちと競い合って修行ののち、10代後半には10歳年上のジョルジョーネの助手を務めるようになりました。

1510年にジョルジョーネが夭折すると、わずか20歳をこえたばかりの若さで、以後半世紀以上にわたって、ベネチア美術界の頂点に立ちました。初期のころはジョルジョーネ風の作品を描くものの、大胆で表現力豊かな独自の作風を確立すると、スペイン国王フェリペ2世や神聖ローマ帝国皇帝カール5世ら内外の有力者をパトロンにつけ、ローマ教皇をはじめ聖職者や高官の大量の肖像画の注文をさばいていきました。カール5世にいたっては、ティツィアーノ以外の画家には肖像画を描かせなかったといわれています。

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とくに1516年から1530年にかけての時期は、『性愛と俗愛』『聖母被昇天』(上の絵)『バッカスとアリアドネ』など、より大規模で複雑な構成の名作を次々に描いたことで、「熟成の時代」といわれています。さらにローマを訪れ、古代彫刻や絵画にヒントをえて、横たわるビーナスをモチーフとした連作『ウルビーノのビーナス』(下の絵)『ダナエ』『ビーナスとオルガン奏者』などの傑作を残しています。

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90歳近くまで生きたティツィアーノは、同時代を生きたミケランジェロとともに、当時としては異例の長寿でした。しかし、ミケランジェロが苦悩と葛藤に満ちた生涯だったのに対し、若いうちから名声と、莫大な収入をえていたことでは、はるかに幸せな人生だったようです。肖像、風景、古代神話、宗教画、裸婦などあらゆる絵画分野に優れ、華麗な色彩感覚や筆使いは革新的なもので、イタリアルネサンスの芸術家ばかりでなく、次世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えています。ミケランジェロらと並び、まさにルネサンスを代表する巨匠の名にふさわしい生涯でした。


「8月27日にあった主なできごと」

紀元前551年 孔子誕生…古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた孔子が生まれました。

663年 白村江の戦い…当時朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が唐(中国)の力を借りて、百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼして半島を統一しようとしていました。百済から援軍を求められた斉明天皇は、日本水軍を援軍に送りましたが7月に病没、かわって中大兄皇子が全軍の指揮にあたりましたが、この日、白村江(はくすきのえ)で、新羅・唐軍を迎え撃って奮闘するものの、翌日に敗れてしまいました。

1714年 貝原益軒死去…江戸時代の初期、独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著わした貝原益軒が亡くなりました。

1910年 マザー・テレサ誕生…インドのスラム街で献身的な働きをし、「スラムの聖女」と慕われたことでノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサが生れました。

1957年 日本初の原子の火…茨城県東海村にある原子力研究所の原子炉で、初めて「原子の火」が灯りました。この原子炉は、ウランなどが原子核反応によって得たエネルギーを、発電用に利用するために建設されたものです。

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