児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年07月

今日7月9日は、「アボガドロの法則」で知られるイタリアの物理学者・化学者のアボガドロが、1856年に亡くなった日です。

1776年イタリアのトリノに生まれた科学者として知られるアメデオ・アボガドロですが、初めは大学で法学を学び、博士号をとって弁護士となり、法律事務所を開いていました。

ところが、1800年ごろから数学と物理学に興味を覚え、やがてその研究は化学にもおよび、1809年ベルチェリ大学の物理学教授となりました。アボガドロは、電気、液体の膨張、比熱、毛管現象など、広い分野に研究を進め、フランスのゲー・リュサックに刺激されて、気体の分子的構成についての研究まで拡がりました。そして、1811年に「気体は原子だけでなく、原子が集まった分子からなりたっていて、同温同圧のもとでは、すべての気体は同じ体積中に同数の分子を含む」という仮説を発表しました。

この仮説は、「分子」という考えを打ち出し、原子と分子を区別したもので、ドルトンが1803年に発表した「一種類の元素からなる気体は原子から構成される」という原子論の不備を補うもので、ゲー・リュサックの「すべての気体は同じ温度の上昇と等しい割合で体積がふえる」という法則にも合致していました。しかし、ほとんど注目されないまま数十年が過ぎていきました。

その後アボガドロは、サルディニャ王国エマヌエーレ1世が1820年、イタリア初の数理物理学教室をトリノ大学に設立すると、初代理論物理学教授にむかえられ、気象や度量衡、統計学などの研究を進めました。ところが王の退位直後の1822年、革命の動乱などにまきこまれて、教室は閉鎖されてしまいました。しかたなく、弁護士事務所を開いて生計をたてましたが、1834年に数理物理学教室が再開されると再び教授となり、1850年まで、もくもくと研究を続け、ほとんど名声をうることなく一生を終えました。

そして、死後2年目の1858年、イタリアのカニッツァーロという科学者が、アボガドロの仮説に基づく原子量決定法の原理という論文を発表しました。国際化学者会議でアボガドロの仮説の正しさと重要性を説いたことを契機に、はじめて公認され、仮説は「アボガドロの法則」とよばれるようになったのでした。


「7月9日にあった主なできごと」

1854年 日章旗を船印に決定…徳川幕府は、「日の丸」を日本船の印と決定しました。やがてこれが慣習化されるようになり、正式に国旗となったのは1999年「国旗国歌法」の公布以降です。

1922年 森鷗外死去…『舞姫』『山椒太夫』『高瀬舟』など明治・大正期に活躍した文学者 森鷗外が亡くなりました。

今日7月6日は、幼児期に失明したにもかかわらず、『アランフェス協奏曲』などたくさんの名曲をのこしたスペインの作曲家ロドリーゴが、1999年に亡くなった日です。

1901年、バレンシア地方のサグントに生まれホアキン・ロドリーゴは、3歳のころに悪性ジフテリアにかかり、失明してしまいます。しかし、音楽の才能を見いだされ、8歳でピアノとバイオリンの学習をはじめました。地元バレンシア音楽院で学び、作曲家アンティチの指導と援助を受け、パリのエコール・ノルマル音楽院に留学した後、フランスの作曲家ポール・デュカスの元で1927年から5年間作曲法を学びました。

1939年にパリで作曲された代表曲『アランフェス協奏曲』は、クラシック・ギターの独奏と管弦楽のために発表されたものです。しかし、ロドリーゴはギターを弾くことができず、ピアノを弾きながら、スペイン音楽の伝統を受け継いだ抒情的で幻想的な作品に仕上げました。この曲が有名になるのは、帰国してマドリードに住むようになった翌1940年12月、名ギタリスト、サーインス・マーサの独奏、マドリード室内管弦楽団の演奏で初演されて大成功を納めたのがきっかけでした。

ロドリーゴは、1947年からマドリード総合大学の哲学科・文学科の教授として音楽史を担当するようになりました。作曲活動は依然続け、著名なギタリストのセゴビアに依頼されて『ある貴紳のための幻想曲』を作曲するなど、作品は歌曲『4つの愛のマドリガル』合唱曲『ドゥルシネアの不在』ギター独奏曲『3つのスペイン風小品』のほか、管弦楽、ピアノ曲などさまざまなジャンルにわたっています。作風は古典の様式とリズムを土台としながら、スペインの国民音楽と、師であるデュカスのフランス音楽の影響を受けたメロディックで色彩感豊かな音楽を、生涯貫き通しました。

1991年にはスペイン国王から貴族に列せられ、1996年にはスペイン国民にとって最高の名誉となるアストゥリアス王太子賞、1998年にはフランス文化勲章も獲得しています。なお、亡くなる直前に会った日本のギターリスト村治佳織さんを孫のように可愛がったといわれています。村治さんのギターによる『アランフェス協奏曲』をぜひ視聴してみてください。


「7月6日にあった主なできごと」

1783年 浅間山の大噴火…長野と群馬の県境にある浅間山がこの日に煙を吐き出し、2日後に大爆発をおこし、火砕流が村々を襲って、2万人の命を奪いました。火山灰が広い地域をおおったため作物が出来ず、天明の飢饉の要因となりました。

1885年 狂犬病ワクチン…フランスの細菌学者・化学者のパスツールが、1885年に狂犬病ワクチンを初めて人体に接種しました。

1893年 モーパッサン死去…『脂肪の塊』『首飾り』などの短編をおよそ260編も遺したフランスの作家モーパッサンが亡くなりました。

1912年 初のオリンピック参加…ストックホルムで開催された第5回オリンピックに、日本選手2名が出場しました。

1917年 アラビアのロレンス…トルコに抵抗するアラブ人の反乱を支援していたイギリス軍人トマス・エドワード・ロレンスは、ヨルダン南部の都市アカバにあるトルコ軍基地を奇襲して陥落させました。これら一連のオスマントルコからのアラブ独立闘争をえがいた映画「アラビアのロレンス」は1962年に公開(日本公開は1963年)され、世界中で大ヒットしました。

「おもしろ古典落語」の76回目は、『岸流島(がんりゅうじま)』というお笑いの一席をお楽しみください。

隅田川に橋がかかる前、渡し船で往来していたころのお話です。浅草方面から渡し船に乗りあわせていた、年のころは30くらいのゲジゲジまゆげにギョロ眼という、あまりたちのよさそうでない侍が、キセルを出して煙草をすいはじめました。船ばたでポンポンとキセルたたいて、ジュッと、川の中へ火を落とします。侍は、うまそうに2、3服そうやっていましたが、そのうちにどうしたわけか、コツンとたたいたはずみに、ポロリ…、キセルのがん首がはずれて、そのまま川の中に落ちてしまいました。「あっ、しまった。これ、船頭! 船を止めてくれ、止めろ!」「えっ、どうしました?」「せっ者のキセルのがん首が、川に落ちたのじゃ、あのあたりだ、すぐに船を止めてさがせ」「冗談でしょ、落ちたところに印があるわけじゃなし、そんな小さなもの、もぐったって見つかるわけはありません」

「さようか、あれは銀でこしらえた、せっ者の気にいりであったがなぁ」無念そうにブツブツいってる侍に、乗りあわせたくず屋が、不要になった吸い口を買い上げたいと声をかけます。「だまれっ、ぶれい者」と、侍は手に持っていたせんすで、くず屋の頭をたたきました。「へぇ、どうかごかんべんを」「そまつななりをしておっても、四民の上に立つ武士じゃ。くず買いの分際で、武士に対して吸い口を売りはらえとは無礼千万、今せっ者が落としたがん首と、きさまのがん首を引き換えにいたしてくれるから、そこへ直れっ」ときましたからくず屋はびっくり仰天。どんなにはいつくばって謝っても、侍は聞く耳を持たず、へたに仲裁をすればとばっちりを受けそうで、誰もとりなすものはいません。

あわれ、首が飛ぶかと思ったその時、中間に槍を持たせた六十過ぎくらいの品のよい侍が、人をかきわけてやってきました。「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴殿のお恥。いずれのご藩かご直参か相わからんが、ご主名にもかかわることでござる。町人のぶれいの段、てまえ成り代わってお詫びいたす」「うむ、しからば貴殿を相手にいたそう。いざ尋常に勝負をさっしゃい」

「これほど、詫びごとをいたしてもご勘弁なさらぬか。それではやむを得ずお相手するが、ここは船中、たってとあれば広き場所で」「おもしろい。船頭、船を向こう岸にやれ」さあ、船の中は大騒ぎです。どちらが勝つか、カケまで始まるありさま。若侍は、この爺ただ一撃と勇んで支度するいっぽう、老人の方はゆっくりと槍のさやを払って、りゅうりゅうとしごきます。さん橋が近くなると、若侍は勢いこんで飛び上がり、さん橋にヒラリと下り立ちました。すると、老人は槍の下の先をさん橋に当て、ぐっと力をこめて押すと、船はすっと後もどりして、岸を離れました。

「あ、こら、ひきょう者。船頭、返せ、戻せ」「これこれ、あのようなおろか者に構わず、船を出せ」乗合のやじ馬連中は「へいっ。ざまあみやがれ、居残り野郎め」などと船の中からワイワイはやし立てます。真っ赤になって怒った若侍、何を思ったか裸になると、大小を背負い、川にザブーンと飛びこみました。腹いせに船底に穴を開けて沈めるらしいと、乗客たちはあわてますが、老人は少しも騒がず、槍をぐっとかかえこんで、水の上を見ております。そこへ、若侍の頭が船の横にプックと浮き上がってきました。「これその方、わしに、はかられたのをうらみ、船の底でもえぐりに参ったか」

「なぁに、落としたがん首をさがしにきた」


「7月5日にあった主なできごと」

1215年 栄西死去…鎌倉時代の初期、禅宗の日本臨済宗をひらいた僧・栄西が亡くなりました。栄西は、茶の習慣を日本に伝え、茶の湯のもとをきずいたことでも知られています。

1590年 秀吉天下統一…豊臣秀吉は、小田原城を包囲して北条氏政・氏直父子を降伏させました。最後まで抵抗していた戦国大名をしたがわせたことで、応仁の乱から120年近く続いた「戦国時代」を終わらせました。

1949年 下山事件…日本国有鉄道(JRの前身=国鉄)の下山総裁が出勤途中に失踪。翌日の未明に、常磐線の北千住駅と綾瀬駅間の線路上で、死体となって発見されました。真相不明のまま捜査が打ち切られたため、「戦後史最大の謎」とされています。

今日7月4日は、寒冷地の自然現象研究に大きな成果をあげた物理学者で随筆家の中谷宇吉郎(なかや うきちろう)が、1900年に生まれた日です。

石川県加賀市に生まれた中谷は、小学校を卒業するとまもなく父が亡くなったため家計は苦しくなりました。しかし、成績が優秀だったため、援助してくれる人があらわれ、旧制小松中学、第四高等学校を経て1922年に、東京帝国大学理学部物理学科に入学しました。

大学3年のとき、教授だった寺田寅彦に教えを受けたことが、中谷の将来を方向づけることになります。物理学ばかりでなく、自然現象のとらえ方や対応のしかたを指導されたばかりでなく、その人柄にほれこみました。卒業後は理化学研究所に入り、寺田研究室の助手となって、電気火花の実験物理学に従事するうち、寺田から独自の観察眼をもって突きすすめる研究法を身につけました。

1928年文部省留学生として、アメリカ、ドイツ、特にイギリスで軟X線(透視力の弱いX線)の研究をすすめた留学後に帰国すると、1930年北海道帝国大学理学部助教授となって札幌に移りました。1932年に教授になると、寒冷地の自然現象、とくに雪と氷に関連する研究をテーマに選び、たくさんの業績をあげ、その成果は「雪氷学」「雪物理学」という学問を構築する基礎としました。なかでも天然雪結晶の分類は代表的なもので、1936年には大学の低温実験室で人工雪の製作を世界で初めて成功させたほか、氷、雪、永久凍土、樹氷などが、どんな気象条件で形成されるかの過程解明にも、先駆的で独創的な研究を行ったことで、1941年には学士院賞を受賞しました。

戦後は、『霜の華』『大雪山の雪』など、霜や雪を題材にした科学映画を完成させて、多くの人たちに科学啓蒙をしています。執筆活動もさかんに行い、師の寺田にならい、科学を一般人に分りやすく伝える随筆や評論『冬の華』『続冬の華』『雪』『雷』『樹氷の世界』『科学と国境』など、たくさんの著書を残して1962年に亡くなりました。

なお、中谷と「立春の卵」のエピソードは有名です。1947年の2月6日付の新聞に、各社は実際に卵が立っている写真を載せました。これはおかしいと思った中谷は、立春に卵は立ったことは明瞭だが、立春とは限らないと確信、翌日曜日に自宅の卵で実験したところ、見事に立ちました。日をおいてもう一度挑戦したところ、10分後に立ちました。念のため中谷は、顕微鏡で卵殻表面の凹凸を調べ、「卵は季節などに関係なく立つ」ことを解明、『立春の卵』という著書に記しました。


「7月4日にあった主なできごと」

1106年 源義家死去…平安時代後期の武将で、八幡太郎(はちまんたろう)の通称で知られる源義家が亡くなりました。

1776年 アメリカ独立宣言…イギリスからの独立をめざし前年から戦争のさなか、アメリカ東部13州はこの日に独立を宣言、7年後の1783年の「パリ条約」で正式に認められました。アメリカ合衆国では、以来この日を「独立記念日」としてお祝いをしています。

1807年 ガリバルディ誕生…たくさんの都市国家があり、フランスやオーストリアなどに支配されていたイタリアを、イタリア王国として統一させたガリバルディが生まれました。

1820年 フォスター誕生…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家フォスターが生まれました。

1826年 ジェファソン死去…第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いたジェファソンが亡くなりました。

1934年 キュリー夫人死去…ラジュームを発見して夫ピエールといっしょにノーベル物理学賞をもらい、夫の死後ラジュームの分離に成功してノーベル化学賞をえた女性科学者キュリー夫人が亡くなりました。

今日7月3日は、『日高河清姫図』『裸婦図』などを描いた日本画家の村上華岳(むらかみ かがく)が、1888年に生まれた日です。

大阪に生まれた村上華岳(本名・武田震一)は、家庭の事情により幼いころに実の父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である神戸の村上家で育てられ、のちにその養子となりました。

子どものころから病弱だったため、好きだった絵の道にすすみたいと、1903年京都市立美術工芸学校に入学しました。ここで、竹内栖鳳から京都の伝統的な写生画を学ぶとともに、同級の榊原紫峰らと腕をきそいました。1909年には開校したばかりの京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に紫峰とともに進学すると、ここでも栖鳳の指導を受け、土田麦僊とも別科ながら同級でした。1911年卒業制作として描いた吉田山から銀閣寺方面をながめた穏やかな田園風景『二月の頃』は、第5回文部省主催美術展(文展)に出品され、当時の京都画壇にない「清新な表現は天才的」と注目をあびました。

1913年には、江戸時代の初期浮世絵の情緒を採り入れ、甘美な花見風俗を描いた『夜桜図』を発表すると、麦僊らは大絶賛するものの、文展では落選してしまいました。さらに1917年の文展でも落選、前年の華岳にとって初の仏画である『阿弥陀之図』が文展で特選となっているにもかかわらず評価の極端な変わりようと、新傾向の絵画を受け入れないことに懐疑をおぼえました。そこで華岳は1918年、絵画専門学校の同窓だった土田麦僊、榊原紫峰ら若手日本画家5人と文展を離脱して「国画創作協会」を設立し、西洋美術と東洋美術の融合による新たな絵画の創造をめざしました。

国画創作協会の第2回展に出品した、大和絵によりながら独自の幽玄な世界を描いた『日高河清姫図』と、1920年同協会第3回展に出品した中世からルネサンス期の宗教画研究の上に永遠の女性像を描いた『裸婦図』(下の絵)は、華岳の代表的傑作といわれています。

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以後の華岳は、しだいに京都の画壇とは距離を置きながら、山水図や牡丹図、仏画などを残しています。ところが1924、5年ころからは持病のぜん息に苦しむようになり、求道の生活をつづけながら静かに制作に打ちこみ、著書の『画論』に、自らの制作姿勢は「密室の祈り」と称し、仏画も山水も生命の深淵を研ぎ出す行為という境地を示しています。

華岳の仏画は、「世俗性と精神性」「妖艶さと聖性」「官能美と悟り」という相反する要素をみごとに調和させているといわれ、20世紀宗教絵画の最高峰と多くの人に評価されています。1939年、ぜん息の発作で亡くなりますが、亡くなる年に描いた『紅焔(ぐえん)不動』『観世音菩薩』も印象的な名品です。


「7月3日にあった主なできごと」

607年 遣隋使…聖徳太子は、小野妹子に国書を持たせ、隋(中国)に派遣させました。

1549年 キリスト教伝来…スペインの宣教師ザビエルは、弟子のヤジロウを案内役として、日本にキリスト教を伝えるために、鹿児島に上陸しました。

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