児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年07月

今日7月17日は、中国明朝第3代皇帝の永楽帝(えいらくてい)が、1424年に亡くなった日です。

14世紀のなかば、それまで中国を支配していたモンゴル人の王朝「元」をほろぼして、洪武帝が明の国を建てて、南京を首都としました。

1360年に洪武帝の4番目の子として生まれ永楽帝は、顔つきも身体も堂どうとして、知恵にも武勇にもすぐれていたため、父から信頼されていました。燕王という名をもらい、モンゴル人の侵略から国を守るために、北方へおもむきました。洪武帝が死ぬと、次に即位したのは孫の建文帝です。建文帝は家来たちのいうままに、燕王やほかの有力者たちの権力を奪おうとしました。これを知った燕王は兵をあげて、4年間もの戦いのすえ、ついに南京をおとしいれました。戦いにやぶれた建文帝は燃えあがる宮殿のなかで死んでいきました。こうして、燕王は明の3代目の皇帝、永楽帝となったのです。

永楽帝は北京を明の新しい首都とし、壮大な宮殿を築きました。そして、明の力を世界に示そうと、モンゴル、シベリヤ、チベット、安南(いまのベトナム)、朝鮮、日本にまで兵を送り、または使者をやって明に従うよう命じました。さらに、鄭和(ていわ)を総司令官として大船隊による南海遠征を行なったことでも有名です。これは東南アジアの諸国に明へ貢物をさせ、貿易によって利益を得ようとする目的をもった遠征でした。そのため、これらの船は「宝船」または「西洋取宝船」とよばれました。

1405年、劉家港(いまの上海の西北)に集まった第1回の遠征隊は、総数62隻、乗組員2万8000人という大船隊でした。そのなかには長さ約140メートル、幅16メートルの船もあり、いずれも見あげるような巨大船ばかりでした。この南海遠征は7回も行なわれ、大船隊は、マラッカ、パレンバン、スラバヤ、セイロン(いまのスリランカ)、カリカットなどを訪れました。なかには、遠くインド洋、アラビヤ海をわたって、ペルシャ湾のホルムズ、アラビヤのアデン、アフリカの東海岸にまで達した船隊もあります。大船隊は各地で大いに明の勢力を示し、諸国のめずらしい品物やライオン、キリンなどの動物をみつぎものとして持ちかえりました。

また永楽帝はモンゴル族を討つため、自ら大軍をひきいて砂漠をこえて北へ進み、3度にわたって勝利をおさめました。しかし5回目の遠征のとき、病気にかかり、楡木川(ゆぼくせん)というところで亡くなりました。雄大な生活を好んだ皇帝らしい最後でした。

なお、永楽帝は、図書の編さんに力を入れ、中国最大級の百科事典ともいえる『永楽大典』をまとめさせました。しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し宦官を重用したことで、後代における宦官による政治腐敗の原因をつくりました。


「7月17日にあった主なできごと」

1604年 徳川家光誕生…江戸幕府第3代将軍として、参勤交代制、キリシタンの禁制、鎖国などを断行して、幕府の全国支配体制を確立した徳川家光が生れました。

1795年 円山応挙死去…江戸時代中期の絵師で、『雪松図屏風』など、写生を重視した日本画を完成した円山応挙が亡くなりました。

1868年 江戸が東京となる… 明治天皇は、幕府のあった江戸を東京と改め、首都としました。これまでの首都は京都にあり、東京は京都の東にあたるため「東京」となりました。

今日7月13日は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏をおこし、平泉に「金色堂」を建てた藤原清衡(ふじわらの きよひら)が、1128年に亡くなった日です。

陸奥国の豪族藤原経清と、安倍頼時の娘の間の子として生まれた清衡は、父が「前九年の役」(1051~1062年、 安倍氏が滅び清原氏が東北の覇者となった戦)で殺されたのち、母は清原武貞と再婚、清衡は二人の養子となりました。

やがて、清原家の複雑な兄弟関係のもつれで一族のあいだに激しい対立がおこり「後三年の役」となると、清衡は大苦戦の末に、陸奥守としてこれをしずめる役割をになった八幡太郎・源義家とたくみに同盟関係を結び、義家の助けを借りて1087年、清原一門を滅ぼしました。こうして、奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手郡の総称で、現・奥州市から盛岡市にかけての地域)を領する勢力者となった清衡は、父の姓である藤原にもどし、奥州藤原氏の祖となりました。

清衡は、「蝦夷」とか「道の奥」といわれた広大な地に勢力拡大をはかるいっぽう、京都の藤原氏と交流を深め、奥羽の統治者としての地位を築き、1094年ころには平泉に居を移して、政治文化の中心都市の建設に着手しました。

1108年には、中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくりました。こうして清衡の政治支配は、南は白川関から北は奥羽湾岸までの範囲に及び、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡と100年にわたる栄華の基礎を築きました。戦乱の続く京都を尻目に、平泉は、ひとつの独立した政府のような発展を続けました。

1124年清衡は、中尊寺に、当時の技術の粋を集めた金銀螺鈿(らでん)をちりばめた「金色堂」の建立を開始しました。のちに芭蕉が「五月雨の降り残してや光堂」とうたったことは有名です。清衡はこの金色堂が完成した翌年、当時としては長命の73歳で亡くなりました。遺体は金色堂に安置されています。

なお平泉は、「平泉の文化遺産」として2011年、世界遺産に登録されました。


「7月13日にあった主なできごと」

BC100年 シーザー誕生…古代ローマ帝国の基礎を築いた軍人政治家で、「ガリア戦記」を著わしたシーザーが生まれました。

1930年 サッカー初のW杯で国交断絶…サッカーのワールドカップの第1回大会がこの日はじまり、13か国の選手がウルグアイの首都モンテビデオで熱戦をくりひろげました。勝ち進んだのはウルグアイとアルゼンチンで、ウルグアイが4対2で逆転優勝しました。ところが、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで暴動がおき、ウルグアイの領事館が襲われて国交断絶にまで発展しました。

「おもしろ古典落語」の77回目は、『真田小僧(さなだこぞう)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「おとっつぁんは、いいおとっつぁんだね、ものわかりがよくって、気前がよくって、近所でも評判だよ」「子どもが親に、おせじなんぞいうない。はやく遊んでこい」「へへへ、おとっつぁん…いくけど、なんか忘れものがありませんかね、まるいもの」「このやろう、銭がほしいんだろ、ダーメ、銭なんぞ」「少しぐらいいいだろ」「子どものうちから銭を使うと、ろくなもんにゃならねぇ」「でも、おとっつぁんぐらいにゃなれらぁ」「おれぐれぇになれりゃ、豪儀なもんだ」「おとっつぁんより悪けりゃ乞食だ」「ひっぱだくぞ、こんちくしょう。ダメだ」「じゃあ、おっかさんにもらうからいいよ」「おまえは甘い。おれが、金坊にはやるなってひと言いったら、くれるもんか」

「へへへ、考えが甘いのはおとっつぁんだ。この間、おとっつぁんが留守のとき、よそのおじさんがきたことを、あたいがほうぼうへいってしゃべってやるって、おっかさんにいうだろ。おっかさんは、きっと青くなって、『そんなことしゃべっちゃいけないよ』って銭くれるよ」「えっ、そりゃぁどういうことだ」「ほら、のりだしてきたな。話をしてやろうか」「うん、してみろ」

「おとっつぁん、寄席へ行ったことある?」「しじゅう寄席にいってるの、知ってるだろ」「寄席ってぇのは、話を聞いてから木戸銭払うの、払ってから話を聞くの?」「あたりめぇじゃねぇか、聞いてから木戸銭を払う寄席なんぞあるもんか」「だったら、話す前に銭をおくれよ」「わかったよ、さぁ1銭やるから話しちゃえ」「よそのおじさんが『こんにちは』って入ってくるとね、『あーら、ちょいとまぁ、ちょうどいいときにきておくれだね。こっちへあがっておくれ』って、おじさんの手をとって、おっかさんが部屋へあげたんだ」「うんうん、それでどうした」「あとが聞きたければ、2銭おくれ」「今やったばかりだろ」「さっきのは1銭、これからさきは2銭の値打があるんだ」「いやなやつだな、ほら2銭」「ありがとう…、それからおっかさんが『金坊、おまえはうるさいから、どっかへいっといで』って銭をくれたんで、遊びにいっちゃった」「ばか、そういう時はそばにくっついてろ」

「でも、気になるから帰ってきたら、開いてあった障子がぴったり閉まっていたよ。あたいが障子ぃ穴を開けて、中をのぞいてみたらね」「なにをしてた?」「ここまでが2銭の切れ場、これからは3銭になるんだ」「つり上げやがったな、この野郎、もってけ3銭だ!」「…その男のやつ、おっかさんの肩なんぞに手をやったりなんかしてるんだ」「うーんっ」「その男がこっちをヒョイと見たからね、あたいもそいつの顔を見たんだ」「だれだっ」「それがつまらねぇ話、横町のあん摩さんだった。どうも、ありがとう」

金坊が逃げていってしまうと、帰ってきた女房とふたりで、すえ恐ろしいガキだ、今に盗賊になるかも知れないと嘆くことしきり。それに引き換え、講釈の『真田三代記』にでてくるあの真田幸村公は、えらくなろっていう人は、子どものときからちがう。金坊より一つ上の十四歳の時、父真幸について、天目山の戦いに初陣、多勢に取り囲まれて真幸が切腹の覚悟をした時、せがれの幸村が自分に策があると申し出て、敵の松田尾張守の旗印である永楽通宝の六連銭の旗を立てて、敵陣に夜襲をかけ、混乱させて同士討ちを誘い、見事に信州真田まで逃げ延びた。それ以来、真田の定紋は二ツ雁から六連銭になった。この真田幸村という人は、のちに大坂落城のおり、切腹して死んだという話があるが、講釈師にいわせると薩摩に落ちのびたという。あれくらいの人だから、薩摩まで落ちのびたというのがほんとうかも知れない──と親父が女房に話してきかせているところへ、金坊のご帰還。

いつの間にか盗み聞きしていて、「えへへへ、さっきはごめんね。ところでおとっつぁん、六連銭の旗ってどんなふうになってるの?」「六っつ連なる銭と書いて六連銭だ。いいか、上へ3つ、下にも3つだ」「よくわかんねぇな、並べて見せておくれよ」「うるさいやつだな、なんでもトコトン聞くのがおまえのいいとこで、悪いとこだ。おっかぁ、そこの引出しに、穴のあいた五銭玉が、ひもにくくってあるだろ。こっちへかしてくれ。いいか、上にひぃ、ふぅ、みぃ…、下にひぃ、ふぅ、みぃ」「あたいもやってみるね、こうして全部にぎっておいて、…わーい、もーらった、もらった」「あっ、また親をだましぁあがったな。やい、それを持ってどこへ行くんだ」「今度は焼きイモを買ってくる」

「あぁー、うちの真田も薩摩へ落ちた」


「7月12日にあった主なできごと」

1192年 鎌倉幕府始まる…源平の戦いで平氏に勝利した源頼朝は、征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府は、武士によるはじめての政権で、1333年に執権の北条氏が新田義貞らに滅ぼされるまでおよそ150年間続きました。

1614年 角倉了以死去…豊臣秀吉、徳川家康の朱印状による安南(ベトナム)貿易で巨万の富を得、富士川、高瀬川などの河川開発を行なった角倉了以が亡くなりました。

1925年 ラジオ放送開始…東京放送局(のちのNHK)が、ラジオの本放送を開始しました。

1966年 鈴木大拙死去…禅の悟りについてなどを英語で著し、日本の禅文化を海外に広めた仏教学者の鈴木大拙が亡くなりました。

今日7月11日は、ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍したアメリカの作曲家ガーシュインが、1937年に亡くなった日です。

1898年、ユダヤ系ロシア移民の子としてニューヨークのブルックリンに生まれたジョージ・ガーシュウィンは、音楽的環境に恵まれてはいませんでしたが、幼いころから音楽好きの素質をあらわしていました。父親は貧しい生活の中、ジョージが12歳の時、兄アイラに音楽を学ばせようとピアノを買ってやったところ、兄よりジョージがピアノに親しむことになり、13歳で正式にピアノを習いはじめました。

やがてポピュラーソングに興味を持つようになり、16歳のとき高校を中退して楽譜屋に勤め、客の求めに応じてピアノを弾いたり作曲をするようになりました。いっぽう歌手の伴奏、ミュージカルの練習ピアニストなどをつとめながら、売り込みのチャンスをねらっていました。そして1919年、歌曲『スワニー』が一世を風びしました。当時最高の流行歌手アル・ジョルスンによって歌われたこの曲は、数百万枚ものレコード売上を記録し、ガーシュウィンはいちやく人気ソングライターとなりました。1920年代以降は、作詞家となった兄アイラと組んで、レビューやミュージカル向けにたくさんのポピュラーソングを送り出します。

クラシックにも取り組み、アメリカのジャズ王といわれたポール・ホワイトマンの依頼による『ラプソディ・イン・ブルー』を1924年に発表。ジャズとクラシックを融合させたこの作品は「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価されました。さらに翌年、カーネギーホールで『ピアノ協奏曲』をガーシュイン自身のピアノ独奏で発表して名声をさらに高めました。また、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたフォーク歌劇『ポーギーのベス』の劇中で歌われる『サマータイム』も大ヒットし、ガーシュインは「アメリカの生んだ偉大な作曲家」と讃えられたばかりか、この曲はポピュラーソングのスタンダードナンバーとして今も親しまれています。

『パリのアメリカ人』もよく知られています。1928年兄アイラと、仕事の疲れをいやすためにパリを訪れたガーシュインは、ホテルに訪ねてくるラベルやストラビンスキーらたくさんの作曲家と交流するうち、パリの印象を曲にして聞かせ、いっしょに楽しみました。帰国後『パリのアメリカ人』として同年の年末に、ニューヨーク・フィルハーモニーの演奏で初演されました。全体が3つの部分に分かれ、第1部は、陽気なアメリカ人が楽しそうにパリを歩きます。第2部は、ブルース調で、故郷への郷愁にかられます。第3部は気分をとりもどして、愉快にふるまう──という感じの作品で、『ラプソディ・イン・ブルー』『ピアノ協奏曲』よりもっと独創性が高いという賛辞をうけ、ガーシュインの作曲家としての地位を不動のものにしました。

しかし1937年、脳腫瘍のために昏睡状態となり、わずか38歳で亡くなってしまいました。


「7月11日にあった主なできごと」

1156年 保元の乱…後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇方の平忠正、源為義らのこもる白河御所へ未明に夜討ちをかけて打ち破りました。その結果、上皇は隠岐に流され、為義らは処刑されました。これにより、武士が政治に進出することが決定的となります。

1864年 佐久間象山死去…幕末の志士として有名な吉田松陰、勝海舟らを指導した開国論者の佐久間象山が、攘夷派の武士たちに襲われて亡くなりました。

1893年 真珠の養殖成功…御木本幸吉は、この日アコヤガイを使った貝の中に真珠ができているのを発見、約10年を費やして、真円真珠の養殖に成功しました。

今日7月10日は、大正・昭和期に活躍したキリスト教社会運動家の賀川豊彦(かがわ とよひこ)が、1888年に生まれた日です。

回漕業者の父と、正妻でない芸妓の子として神戸市に生まれた賀川豊彦は、幼少期に相次いで父母と死別して、5歳の時、徳島の本家に引き取られました。しかし、15歳の時に賀川家は破産してしまい、叔父の家に移りました。旧制徳島中学時代にキリスト教に入信し、そのころ安部磯雄や木下尚江の著作を読み、キリスト教社会主義に共感を覚えはじめました。

やがて伝道者を志した賀川は、上京して明治学院予科で神学をまなび、1907年新設の神戸神学校(後の中央神学校)に入学しました。当時肺結核に苦しみ、絶望的な病状でした。ところが奇跡的に回復すると、神戸市新川のスラムに住みこみ、路ばたで伝道をはじめました。この地で、賭博、スリ、子殺し、淫売などの社会悪と戦いながら神学校を卒業、『貧民心理の研究』(出版は1915年)を書き残しました。

人びとの援助で、1914年にアメリカのプリンストン大学へ留学、2年後に帰国すると、神戸のスラムにもどって無料巡回診療を始めました。また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、スラム周辺にたくさんの労働者がいたことから神戸地区労働組合の指導者となり、その新鮮な労働者解放論が支持されて、たちまち関西労働同盟会の理事長になりました。

1920年には、自伝的小説『死線を越えて』を刊行すると爆発的な人気を集め、ベストセラーとなって、賀川の名を日本中に広めることになりました。しかし、印税のほとんどを関与した社会運動や伝道運動につぎこみます。また同年には神戸購買組合(灘神戸生協→現・コープこうべ)を設立したり、武藤富男らと共に「キリスト新聞」を立ち上げ、1922年には杉山元治郎をバックアップして「日本農民組合」を結成しました。1923年に突如としておきた「関東大震災」の報を耳にすると、賀川は最も被害の大きかった東京・江東地区にテントを張り、日本赤十字社や日本キリスト教連盟などと連絡をとり、衣服、寝具、食糧の配給、行方不明者の調査、法律相談、建築相談等にあたりました。

ところが昭和に入ると、軍閥が次第に頭をもたげてきて、賀川の運動は日を追うごとに困難になってきました。特に太平洋戦争開戦前後は、賀川の動きは厳重な監視のもとにおかれ、警察に留置されたり、憲兵隊に取り調べをうけたりしました。

敗戦後に賀川がもっとも力を入れたのは、世界平和実現をめざす「世界連邦運動」と全世界へのキリスト教伝道でした。日本ではいくつかの賀川批判はありますが、海外では「貧民街の聖者」としてガンジーと並ぶ20世紀の聖者と高く評価されています。また、同志と共に、日本救癩(らい)協会をつくるいっぽう、婦人雑誌に救癩小説を連載するなど、癩病(ハンセン病)に対する認識を大衆にあたえた功績も大きなものがあります。

評論家の大宅壮一(故)は、「大衆生活に即した新しい政治運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、運動と名のつくものの大部分は賀川豊彦に源を発しているといってもいい過ぎではない」と、1960年に亡くなったその人物と業績を称賛しています。


「7月10日にあった主なできごと」

1509年 カルバン誕生…フランスの宗教改革者のカルバンが生れました。「カルバン派」は、オランダ、イギリス、フランスなど産業の盛んな地域に広まりました。

1821年 大日本沿海輿地全図…伊能忠敬が中心となって制作した日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が完成し、江戸幕府に献上されました。

1993年 井伏鱒二死去…『山椒魚』『ジョン万次郎漂流記』『駅前旅館』『黒い雨』など、多くの笑いと哀感のこもった作品を著した井伏鱒二が亡くなりました。

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