児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年07月

今日7月24日は、中国・明朝の創始者で初代皇帝「洪武(こうぶ)帝」となった朱元璋(しゅ げんしょう)が、1398年に亡くなった日です。

1328年に濠州(現・アンホイ省)の貧農の家に生まれた朱元璋は、元末の政治混乱に伴って飢きんが頻発し、兄弟のほとんどは飢え死にして孤児になりました。朱だけは近くの寺に入って托鉢僧となって各地をさまよいながら、なんとか生きのびることができました。

1351年、白蓮教という農民を中心とした新興宗教が各地で反乱を起こし、紅色の頭巾を目じるしに「紅巾の乱」をおこしました。この大乱の際に濠州で挙兵していた郭子興(かくしこう)の紅巾軍に加わり、朱はたちまち頭角をあらわし、武将として活躍をはじめました。

1355年に郭子興が亡くなると、後継の一人となって軍を拡大させて元の都がおかれていた集慶路(現・南京)を占領しました。長江下流の一大勢力としたことで、朱の名声を聞いて各地から優秀な人材が集まり、各地の自衛軍や有力な地主を味方につけると、しだいに支配する地域を広げていきました。やがて、やっかいな存在となってきた白蓮教を邪教として捨て、モンゴル族の元朝を北方へおいやり、1368年、現在の南京に「明朝」をたて、初代の皇帝に即位し「洪武帝」を名乗りました。

こうして、1387年までに中国をほぼ統一した洪武帝は、漢・唐王朝をお手本にしながら、皇帝独裁のしくみをつくり、24人の皇子を藩王として全国の要衝に配置して、政治が全国すみずみまで行きとどくようにしました。農村部にはピラミッド型の連帯責任制とする「里甲制」をしき、全国一斉に「魚鱗図冊」という土地台帳や「賦役黄冊」という戸籍台帳を作り、税を確実におさめさせ、村民を相互監視させて治安維持がはかれるしくみを作りました。

しかし、洪武帝のあとをつぐべき皇太子が次々と亡くなり、さびしく晩年をすごし69歳で亡くなると、孫の「建文帝」があとをつぎました。なお、一人の皇帝が年号を一つとする原則(一世一元)は、洪武帝が初めてもうけたものです。(3代目の皇帝となって民の全盛期を築いた「永楽帝」については、7月17日ブログを参照)


「7月24日にあった主なできごと」

1802年 デュマ誕生…フランスの作家で、『モンテクリスト伯』『三銃士』などを著したアレクサンドル・デュマが生まれました。

1876年 ウェブスター誕生…「足ながおじさん」を著したアメリカの女流作家ジーン・ウェブスターが生まれました。

1886年 谷崎潤一郎誕生…『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の谷崎潤一郎が生まれました。

1927年 芥川龍之介死去…『杜子春』『蜘蛛の糸』 『鼻』『河童』などの短編小説を著した大正時代を代表する作家 芥川龍之介 が、36歳の若さで自殺しました。

今日7月23日は、明治期の陸軍幹部で、日清・日露戦争の勝利に貢献した児玉源太郎(こだま げんたろう)が、1906年に亡くなった日です。

1852年、周防国(現・山口県)徳山藩士の長男として生まれた児玉源太郎は、父が5歳で亡くなったため、姉の配偶者である義兄に養育されながら藩校で学びました。13歳のとき、父代わりの義兄が藩内の佐幕派に暗殺されて児玉家は廃絶しましたが、やがて源太郎が家長となって再興されます。

1868年下士官として戊辰戦争に参加後、陸軍の軍人となった児玉は、1874年の「佐賀の乱」や1877年の「西南戦争」など、旧士族による反乱を鎮めるために出征しました。その後は連隊長をへて、1885年には参謀本部第一局長になり、陸軍大学長を兼ねて多くの人材を養成しました。1892年にヨーロッパ視察を終えて帰国すると、陸軍次官となってドイツ式軍事法をとりいれるなど、陸軍の軍制を近代化するために努力を重ねました。1994年に勃発した日清戦争では、輸送と補給を担当して活躍しました。

1898~1906年の8年間は、日清戦争後に植民地となった台湾をおさめる台湾総督となり、後藤新平を民政局長に任命して、抵抗運動を制圧しながら穏健な植民地経営を推し進め、二人の統治によって日本は台湾を完全に掌握することに成功しました。

1900年からは、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣を兼ねましたが、1903年に対露戦計画を立案していた参謀次長が急死したため、大山巌参謀総長から特にこわれて参謀次長となりました。1904年に日露戦争が開戦すると、陸軍大将・満州軍総参謀長として満州に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令官の大山を補佐しながら全作戦を指導し、とくに旅順攻囲戦では、苦戦中の第三軍司令官・乃木希典(のぎまれすけ)にかわって指揮をとり、作戦を成功させたといわれています。ロシアと戦うための資金・人材・作戦の分析管理、海底ケーブルの敷設と無線による情報網整備、戦後の講和にむけての冷静な判断など、知将として知られる児玉の働きなくしては、日露戦争の勝利はなかったとまでいわれています。

日露戦争後、児玉は参謀総長に就任、南満州鉄道(満鉄)創立委員長を兼務するものの、委員長に就任した10日後に急死しました。


「7月23日にあった主なできごと」

1787年 二宮尊徳誕生…江戸時代後期の農政家で、干拓事業などで農村の復興につくした二宮尊徳が生れました。薪を背負いながら勉学にはげんだエピソードは有名です。

1867年 幸田露伴誕生…『五重塔』などを著わし、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家の幸田露伴が生れました。

1918年 米騒動…富山県魚津の主婦たちが、米穀商が米を買い占め、船で県外へ持ち出そうとするのをこの日にとがめたことがきっかけとなって、米穀商を襲う米騒動が全国規模で拡がり、30名以上の死者と2万5千人以上の逮捕者を出す大事件となりました。

今日7月20日は、無線電信の開発で知られるイタリアに生れイギリスで活躍した無線研究家・発明家のマルコーニが、1937年に亡くなった日です。

1874年、裕福な銀行家の子としてボローニャで生まれたグリエルモ・マルコーニは、少年時代から、父の別荘にある図書室で科学の本に親しみながら成長しました。また、有名な科学者たちを家庭教師に招いて電気について学び、17、8歳のころには、電気科学者を夢見るようになっていました。

20歳のとき、ある雑誌を読んだことから、マルコーニの進む道が決まりました。ドイツの物理学者ヘルツの死を伝える記事といっしょに出ていた、電波を作りだしたヘルツの実験の説明が、マルコーニの心をとらえたのです。電波を利用して、通信ができるようにならないだろうかという思いに夢中になったマルコーニは、別荘の3階を実験室にして、実験をくり返しました。しかし、失敗の連続でした。

実験を始めて1年後の1895年、ひとつの成功にこぎつけました。それは、3階の実験室で発振器に火花をおこすと、地下室にとりつけたベルが鳴るという簡単なものでしたが、マルコーニには、天にものぼるほどの喜びでした。マルコーニは、装置を改良してすこしずつ距離をのばしていきました。やがて、別荘から2キロも離れた丘まで電波を送ることに成功して、無線電信の実用化への第一歩をふみだしました。

1896年マルコーニは、イギリスへ渡りました。無線電信の価値を信じようとしないイタリア政府が、研究費の援助をききとどけてくれなかったからです。イギリス政府の力ぞえで、郵便局の中に無線電信局をもつことができたマルコーニは、つぎつぎに送信距離をのばしていきました。1897年には無線会社マルコーニ社をつくって、いよいよ実用化にとりくみ、2年後にはイギリスからフランスまでの海峡横断通信に成功、1901年には、イギリスからカナダまでの大西洋横断通信にも成功しました。「電波はどこまででもとどく」「地球の表面が丸くてもとどく」──世界の人びとが、電波のすばらしさと不思議さに目を見はったとき、マルコーニはまだ27歳でした。

1920年には、マルコーニ社は真空管送信機を使ってイギリス初の娯楽ラジオ放送を行いました。1922年からは定期ラジオ放送を開始しましたが、これが英国放送協会(BBC)の発祥となりました。こうして長距離無線通信の時代をきりひらいたマルコーニは、ノーベル物理学賞など、かずかずの賞を受け、63年の無線通信ひとすじの生涯を終えました。

父の別荘の小さな実験室でめばえたマルコーニの夢は、いまも電波にのって、世界の空をかけめぐっています。


「7月20日にあった主なできごと」

1883年 岩倉具視死去…公家出身で幕末から明治前期に活躍した政治家 岩倉具視が亡くなりました。

1969年 人類初の月面着陸…アメリカが打ち上げたアポロ11号が、月面の「静かの海」に着陸し人類が初めて月面に立ちました。その様子は全世界にテレビ中継されて、話題を独占しました。

「おもしろ古典落語」の78回目は、『金明竹(きんめいちく)』というお笑いの一席をお楽しみください。

骨とう屋のおじさんに世話になっている与太郎が、猫のヒゲを抜いています。「なんでそんなことするんだ、ねずみをとらなくなっちゃうだろ。それに、よそさまの赤ちゃんに、なにか食べさせちゃいけないよ、お隣の赤ちゃんになにをたべさせたんだ?」「かかとの皮。でも食べなかった」「馬鹿もん!」いつもこんな調子なので、おじさんの気が休まるひまがありません。表の掃除をさせればホコリを立てる、掃除の前には水をまくものだと教えれば、二階の床にも水をまくしまつ。

今日も、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた男に、新品の蛇の目傘を貸してしまったといいます。「知らない人に傘を貸しちゃだめじゃないか。そういう時は、『傘はみんな使いつくして、バラバラになって使いものにならないから、焚きつけにするので物置へ放りこんであると断るんだ』と叱ると、ねずみが暴れて困るので猫を借りに来た人に『猫は使い物になりませんから焚きつけに……』ってことわった」「それは傘のことわりようだ。猫なら『さかりがついてとんと家に寄りつきません。ひさしぶりにもどったと思ったら、おなかわこわしてたれながしです。いま、またたびをなめさせて寝かしてあります』と言うんだ」そう教えると、おじさんに目利きを頼んできた客に「家にもだんなが一匹いましたが、さかりがついて、とんと家に寄りつきません……」こんな調子で、役に立つどころか、店の信用にもかかわります。こんど客がきたら、おばさんに取り次ぐようにいいつけて、おじさんは用たしにでかけました。

次に来たのは上方の人らしい男です。「ちょっとごめんやす」「なんだろ、ごめんってあやまってる」「だんなはんおいでっか? あんた、でっちはんでっか。わて、中橋の加賀屋佐吉方からさんじましたん。へぇ先度、仲買の弥市が取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三どころもの。ならびに備前長船(びぜんおさふね)の則光(のりみつ)、四分一(しぶいち)ごしらえ横谷宗岷(よこやそうみん)小柄(こづか)つきの脇差し、柄前(つかまえ)は、だんなはんが古鉄刀木(ふるたがや)といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうに、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。つぎは、のんこの茶碗、黄檗山(おうばくさん)金明竹、ずんどうの花いけ、『古池や蛙飛びこむ水の音』と申します。あれは、風羅坊正筆(ふうらぼうしょうひつ)の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてなぁ、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、兵庫へやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようことづけ願います」

「わーい、こりゃおもしれぇや。なんべん聞いてもわからねぇ、ひょうごのひょうごのって…、おばさん、聞いてごらんよ、よくしゃべる乞食がきたよ」「まぁ、失礼なことをいうんじゃありません、いらっしゃいまし。これは親戚からあずかったおろかしいものでございまして、たいへん失礼いたしました。あの、どちらからおいででございますか?」「あのう、旦那はんお留守でやすか? それではなぁ、ちょっとおことづけ願います。わて、中橋の加賀屋佐吉方からさんじましたん。先度、仲買の……」と、さっきよりも早口で、おなじことをいいます。

「これ与太郎、はやくお茶を持ってらしゃい。あのう、これに小言をいっておりまして、聞き取れなかったものですから、申しわけございませんが、もう一度おしゃていただけませんでしょうか」「ああ、さよかぁ…、わて、でっちはんに二度、あんたはんに一度だっせ、もう口が酸(す)うなってまねん…」と、うんざりしながら、もう一度くりかえして帰ったところへ、おじさんが帰ってきました。

「あの、いまお客さんがおみえになりまして」「どちらの方だ?」「着物を着て帯をしめて」「お前まで与太郎がうつったんじゃないか? どこのだれが、どんな用件できたんだ?」「それが、上方の方らしくて早口で、あっそう、中橋の加賀屋佐吉さんっていったかしら」「佐吉さんが見えたか、あいたかったな」「いえ、そこからのお使いの方のようでした」……おばさんは、少しずつ思い出しながら話していきますが、話がかみあいません。「どうも、よくわからないな。仲買の弥市が気がちがって、遊女を買って、遊女が孝女で掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいにずん胴斬りにしちゃった。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝た? さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか?」「たしか、古池に飛びこんだとか」「えっ、それを早くいいなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか?」

「いいえ、買わず(蛙)です」


「7月19日にあった主なできごと」

1834年 ドガ誕生…たくさんの「踊り子」の絵を描いたフランスの画家ドガが生まれました。

1864年 蛤御門の変…天皇を中心に外国勢力を追い出そうと「尊王攘夷」を掲げる長州藩の志士たちが京都に攻めのぼり、京都御所の警備にあたっていた会津・薩摩の両藩と激突。わずか1日で長州の敗北に終わり、長州は一時勢いを失いました。

1870年 普仏戦争…フランスがプロイセン王国に宣戦、プロイセンが大勝して、翌年のプロイセン主導によるドイツ帝国が成立しました。

今日7月18日は、第二次世界大戦期に天皇の側近となり、「日記」を遺したことで知られる政治家の木戸幸一(きど こういち)が、1889年に生れた日です。

東京赤坂に、明治維新の立役者だった木戸孝允の養子孝正の長男として生まれた幸一は、学習院高等科をへて京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業後、農商務省へ入りました。1917年、父の死により侯爵を受けつぎ、貴族院議員となりました。1930年には、学習院時代からの友人だった近衛文麿にばってきされて、内大臣府秘書官長となり、1937年の第1次近衛内閣では文部大臣・初代厚生大臣に就任、つぎの平沼内閣では内務大臣をつとめました。

1940年から1945年までは内大臣となって、昭和天皇側近の中心として天皇の権威を高めることに力をそそぎ、近衛文麿らと政界をリードしました。几帳面な性格で天皇の信頼は厚く、重臣会議は幸一が主催し、1940年11月に西園寺公望が死去してからは、木戸が首班指名の最重要人物となるほどでした。

太平洋戦争の前夜ともいえる1941年10月、第3次近衛内閣後の首相に陸軍大臣だった東条英機を指名したのは木戸で、このときは重臣会議さえ開かれませんでした。この指名には、東条自身が一番おどろいて、顔面蒼白になったといわれています。

太平洋戦争初期は東条内閣のうしろ楯となりましたが、戦局が不利になると和平派の重臣たちと提携して東条を見限り、和平工作に傾倒しました。戦争末期には、「国体護持」(天皇制維持)を目的として終戦工作をおこない、1945年6月には「木戸試案」を作成し、小磯内閣を引きついだ鈴木貫太郎内閣の幹部や陸海軍に和平方針を説いて回るなど、和平派の中心人物として行動しました。本土決戦を主張する陸軍を説得することで、和平への動きに大きく流れを変えることになったのでした。

敗戦後木戸は、東条を首相に指名したことが主な要因となり、戦犯として逮捕され、極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身刑を受けました。このとき、法廷に提出された『木戸幸一日記』は、身の潔白を示すための操作があるといわれますが、国民を無視した政界や軍部の動きを明らかにした資料として、大きな反響をよびした。

1955年に仮出所してからは、再度刑務所に入れられることなく神奈川県大磯で余生を送り、1977年に亡くなりました。


「7月18日にあった主なできごと」

1572年 室町幕府滅亡…応仁の乱後、室町幕府は世の中を治める力を失っていましたが、第15代将軍足利義昭が、織田信長に京都を追放されたことで、およそ230年続いた室町幕府が亡びました。

1952年 大賀ハス開花…植物学者の大賀一郎博士は、千葉市にある弥生時代の遺跡から見つけた2000年も前のハスの実を発芽させ、ついに花を咲かせました。「大賀ハス」と名づけられ、全国各地で今も花を咲かせています。

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