児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年07月

今日7月31日は、第2次世界大戦のさなか、リトアニア領事館に勤務していた外交官の杉原千畝(すぎはら ちうね)が、1986年に亡くなった日です。杉原は、ナチス・ドイツの迫害により欧州各地から逃れてきた難民たちに同情、外務省の命令に反してビザ発給をしたことで知られています。

1900年岐阜県八百津町に生まれた杉原は、英語教師となる夢をめざし、1918年に早稲田大学高等師範部(今の早大教育学部)へ入学。生活苦と闘いながら猛勉強のすえに、翌年外交官留学生試験に合格しました。大学を中退し、ロシア語研修生としてハルピン(現・中国東北部の都市)に留学、能力を評価されて、この地で長く外交官勤務を続けました。

1939年杉原は、バルト海東部にあってソ連に支配されていた「リトアニア」の日本領事代理として赴任しました。第2次世界大戦が激しくなったころで、ドイツのヒトラーによるユダヤ人迫害が激しさを増してきたため、ユダヤ人を受け入れるヨーロッパの国はほとんどなくなってきていました。そして1940年7月、ナチスの目を盗んでアメリカ合衆国へ渡ろうとする6000人ものユダヤ人らが、日本を通過するためのビザ(入国許可証)を求めて、領事館へおしかけてきました。

杉原は、日本の外務省へビザの発給許可を求める電報を打ったところ、「正規の手続きができない者にビザ発給は不許可」というものでした。何度くりかえしても回答は変わりません。悩みぬいた杉原は、ビザ発給を独断しました。次の文は、のちに杉原が綴ったものです。

「……仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは、何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。……果たして、浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している」──と。

当時、杉原はソ連から9月5日までにリトアニア領事館の閉鎖をいいわたされていたのと、ビザ発給は手書きでなくてはなりませんでした。1日に発給できるビザはどんなに急いでも300人分でしかなく、最後のビザは、杉原がベルリンへ向かう列車の窓からだったといわれています。

第2次世界大戦後の1947年、夫人と二人の子どもを連れて日本に引きあげてきた杉原でしたが、独断でビザを発給したことで外務省をやめさせられました。しかし1968年、杉原の許へ一人のユダヤ人が訪れ、ボロボロになった当時のビザを手に杉原に涙ながらに礼の言葉をのべたのでした。これがきっかけになって、亡くなる前年の1985年、「ヤド・バシェム(諸国民の中の正義の人)賞」をイスラエル政府から贈られ、その行動が全世界に知られるようになりました。


「7月31日にあった主なできごと」

1875年 柳田国男誕生…『遠野物語』を著すなど日本民俗学の開拓者といわれる柳田国男が生まれました。

1905年 日露戦争終結…5月末に「日本海海戦」に勝利し、ロシアに講和を受け入れるようアメリカに仲裁を申し入れていた日本に、この日樺太を占領に成功したことでロシア軍が降伏、「日露戦争」が終結しました。

1944年 サン・テグジュペリ死去…『星の王子さま』をはじめ、『夜間飛行』『人間の土地』などを著わした作家で飛行家のサン・テグジュペリが亡くなりました。

今日7月30日は、平安時代末期の武将で源氏の棟梁だった源為義(みなもとの ためよし)が、1156年におきた「保元の乱」で敗れ、長男源義朝に処刑された日です。

1096年源義親の六男として生まれた為義は、 父が平正盛に殺されたため、養父となった義忠が家督を継ぐものの、1109年に義忠も暗殺されてしまいました。その容疑が義忠のおじの源義綱にかかると、朝廷は為義に義綱追討を命じました。義綱を打ち破った為義は、わずか14歳で左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられ、京の夜警にあたるとともに、藤原頼長に仕え、六条堀川に住んでいたことから「六条判官」とよばれました。

こうして一族の内紛を封じたことで、源氏の家督を継いだ為義でしたが、平忠盛(清盛の父)率いる平氏の武士団のような勢いはなく、忠盛が白河法皇の信頼を得たのに対して、為義は一介の検非違使のまま長く留め置かれ、官位も低迷したままでした。

法皇が亡くなって鳥羽上皇の院政がはじまり、1135年の海賊追討使の人選にあたった上皇は、その任務を平忠盛に与えました。その後為義は、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復をはかりましたが、1154年に八男の源為朝(鎮西八郎)が九州で乱暴を働いたことで検非違使を解任され、家督も長男の義朝(源頼朝や義経の父)に譲らざるをえませんでした。

1156年、鳥羽上皇の死後、皇位継承問題や藤原摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇・藤原忠通方と、崇徳上皇・藤原頼長方に分裂すると、政変「保元の乱」がおこりました。武力衝突となり、為義は為朝や平忠正らとともに崇徳上皇方につき、義朝や平清盛らの天皇方と戦いましたが敗北、比叡山にのがれた後、義朝をたよって自首しました。義朝は自らの戦功に代えて、為義と為朝ら弟たちの助命を願いましたが許されず、厳命により義朝の手で斬首されたのでした。


「7月30日にあった主なできごと」

1502年 宗祇死去…室町時代の連歌師で、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに漂泊の人といわれる宗祇が亡くなりました。

1863年 フォード誕生…流れ作業による自動車の大量生産に成功し「世界の自動車王」といわれる実業家フォードが生まれました。

1898年 ビスマルク死去…プロイセン王の右腕として鉄血政策を推進し、1871年ドイツ統一の立役者となったビスマルクが亡くなりました。

1911年 明治天皇死去…王政復古をなしとげ、近代国家の形を整えた明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位しました。

1947年 幸田露伴死去…『五重塔』などを著し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家幸田露伴が亡くなりました。

1965年 谷崎潤一郎死去……『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の谷崎潤一郎が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の79回目は、『汲(く)みたて』というお笑いの一席をお楽しみください。

長屋に住んでる連中には、暇な人がたくさんいるようで、髪結床で将棋をさしたり、歌や踊りの師匠のところへ通ったりしています。とくに美人の常磐津(ときわづ)の師匠でもいようものなら大変です。

「おぅ、いるな、師匠のとこにいってるか? あんまり見かけねぇようだけど」「いってるよ。おれはみんながこねぇうちいって、早く帰ってくるんだ」「なんだと? さてはおまえ、みんなを出しぬいて、師匠にゴマすってやがんな。どうも師匠を見るときの目つきがおかしいと思ってた。師匠と所帯を持ちてぇなんたって、そうはいかねぇぞ」「ちがうったら」「わかってんだよ。おめぇなんぞは師匠が相手にするわけがねぇ、いってたぞ師匠が…」「なんだって…」「子どもでもやれる唄を1年たってもおぼえない、あの人はもう唄なんぞやめたほうがいいのにって」「おめぇはどうなんだ」「芸熱心よ。おめぇとはじめたあの唄をなぁ…」「もう、とっくにあげちまったのか?」「いや、ずうっとこの一年、あきずにおそわってる」これじゃどうも、同じようなものでして。そこへ似たような連中が集まってきて、「野郎が四度稽古してもらったのに、なんでおれはまだ二度なんだ」とか、「膝と膝を突き合わせて、間違えたらツネツネしてもらえるから、唄より三味線を習おう」とかワイワイやっています。

「師匠はどうやら建具屋の半公とできてるらしい」と、留さんが、いいだしたもので、一同の顔色が変わりました。なんでも、師匠の部屋へ入ってみると、半公が主人然として、師匠と長火鉢越しのさし向かい。火鉢が真ん中。半公向こうの師匠こっち、師匠こっち半公向こう。やがて半公がすっと立つと、師匠もすっと立ち、ぴたっと障子を閉めて、中でコチョコチョじゃれついていたというから、穏やかではありません。

「あぁ、いいあんばいに与太郎がきやがった。与太、おめぇ、いま師匠の家にいるんだろう」「うん、いるよ。女中さんが病気になってうちへ帰ったから、手伝いにいってる」「それじゃおめぇに聞くけど、師匠んとこへ泊りにくる男の人があるだろう」「よく知ってんね」「だれだ」「あたい」「なにをいってやがる…ほかに男の人がくるだろ。建具屋の半公なんか…」「うん、くるよ」「師匠と仲がいいんだろ?」「でも、こないだけんかしたよ」といいます。この前、二人が大げんかして、半公が師匠の髪をつかんでポカポカなぐったが、その後、「いやな奴に優しくされるより、好きな人にぶたれた方がいい」と、師匠がいったとか。そういえば与太郎、今日はいつになくいい身なりをしているので聞いてみると、師匠と半公のお供で柳橋から船で夕涼みにいくのだといいます。

「なんでぇ、それならちょっと声をかけてくれりゃ、こっちだってつきあうんじゃねぇか、気がきかねぇな」「だめだよ、お師匠さんがいってた『あの有象無象(うぞうむぞう)どもにいうとうるさいから』って」「何だ、その『うぞうむぞう』ってぇなあ」「おそくなると叱られるから、いくよ」「こんちくしょうめっ、聞いたか? おれたちゃ、うぞうむぞうだとよ。なんでぇ、師匠が町内にころがりこんできたとき、どんなざまぁしてきやがった? おれたちが弟子ついてやって、やっと近ごろ、それらしくなってきたんじゃねぇか、これからいって師匠んちをたたっこわして、火つけようじゃないか」「おいおい、お待ちよ、そんな乱暴したってしょうがねぇ、仕返しするにもやりかたがあるだろ。どうだ、おれたちも船にのって、あいつらが涼んでるそばへいくんだ。そこで、ばかばやしなんかで、わって騒ぐ寸法ってのはどうだ」と、相談がまとまりました。

さて数刻後。「ちょいと、半ちゃんごらんよ、こうして涼んでると、命の洗濯だね。ちょいと与太さん、お燗ができたら、こっちへ持ってきておくれ」半公がいよいよ端唄(はうた)をうなり出すと、例の連中が待ってましたとばかり、スケテンスケテン、スケテンテン、ピーヒャラドンドン、チャンチキチャンチキ…。「やあ、お師匠さん、見てごらん。うぞうむぞうが真っ赤になって太鼓をたたいてら、やぁい、うぞうむぞう」「うるせえ、てめえはひっこんで、半公を出せ」「なんだ、なんだ、てめぇたちか、おれに何か用か」「やい、こんちくしょうめ、こそこそいやなまねをするねぇ、あいさつぐらいあってもいいじゃねぇか、おめぇもなんとかいえ」「なにがって、おめぇふてぇぞ。てめぇもてめぇなら師匠も師匠だ、師匠なんざ、いい女だ」「そんなくだらねぇこというな、半公が笑ってるじゃねぇか」「やい、半公、師匠と二人で、うめぇ酒飲んで、なんか食いやがって、こちとら暑いのに、太鼓たたかなきゃならねぇんだ、とほほ、なさけねぇ」「泣くな、みっともねぇ、半公になめられるじゃねぇか」「やい、いうことはそれだけか。それじゃこっちでいってやらぁ。師匠とどうしようとこうしようと、おれの勝手だ、てめえたちの指図は受けねえ。糞でもくらえ!」「おもしれえ、くってやるから持ってこい」と、双方でやりあっている真ん中へ、肥船(こえぶね=糞尿運搬船)がスーッ入ってきて……

「ははは、どうだ、汲みたてだが、一ペェあがるけぇ?」


「7月27日にあった主なできごと」

1719年 田沼意次誕生…江戸時代の中期、足軽の子に生まれながら、側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった田沼意次が生まれました。

1872年 アムンゼン誕生…人類史上初めて南極点への到達に成功したのち、飛行船で北極点へ到達、人類史上初めて両極点へ到達したノルウェーの探検家アムンゼンが生れました。

1887年 山本有三誕生…小説『路傍の石』『真実一路』や戯曲『米百俵』など、生命の尊厳や人間の生き方についてやさしい文体で書かれた作品を多く残した山本有三が生まれました。

1953年 朝鮮戦争休戦…板門店で、国連軍代表と北朝鮮代表が、休戦協定に調印して3年にわたる朝鮮戦争が終わりました。しかし、講和条約は結ばれず、いまだに休戦状態のままです。

今日7月26日は、19世紀末から20世紀前半に活躍したイギリスの劇作家バーナード・ショーが、1856年に生れた日です。

アイルランド東部にあるダブリンの穀物商の家に生れたジョージ・バーナード・ショーでしたが、幼い頃に家が没落し、きびしい境遇の中で少年時代を送りました。小学校を卒業すると、不動産会社の事務員をつとめたのち、20歳のころにロンドンへ出て、会社勤めをしながら雑文を書いたり小説を書いたりしました。

1884年、穏健な社会主義の考え方を推し進めるフェビアン協会に入会、その有力メンバーとして活躍するようになり、評論家としてもジャーナリズムの世界で名をあげるようになりました。

1892年、スラム街の住宅事情を攻撃した戯曲『やもめの家』の上演により劇作家としてデビューをはたすと、精力的に作品を書き続け、1950年に94歳で亡くなるまでに53本もの戯曲を残しました。いちばんの代表作は、1912年に発表した『ピグマリオン』があげられます。ギリシャ神話を基にしたショー喜劇で、音声学者のヒギンズが下町の花売り娘を特訓して、りっぱな貴婦人に育てあげるというストーリーで、ガブリエル・パスカルによって1938年に映画化され、ショーはアカデミー脚色賞を受賞しました。さらに、アラン・ラーナーによってミュージカル化され、『マイ・フェア・レディ』としてブロードウェーで大ヒットしました。演劇もミュージカルも、現在にいたるまで世界各地で上演されています。

そのほか、検閲で上演禁止にされ作者を怒らせたことで知られている売春と結婚制度について論じた『ウォレン夫人の職業』(1893年)、ヒロイズムを風刺した『悪魔の弟子』(1897年)、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に対抗して書いた『シーザーとクレオパトラ』(1898年)など風刺や皮肉、ユーモアにみちあふれた作品をつぎつぎに発表して、演劇界に新風をふきこみました。20世紀に入っても、生命力あふれる『人と超人』(1905年)、ジャンヌ・ダルクを主人公にしてのちに映画化もされた『聖女ジョーン』(1923年)などがあげられます。

ショーの劇作の大きな特長は、豊富な知識を自在にあやつり、独自の警句や機智をおりこむことで観客をおかしみに誘って笑わせながら、社会の仕組みや人生を深く考えさせる思想劇を多く書いたところにありそうです。1925年にはノーベル文学賞を受賞しています。 

名言を数多く残したことでも有名で、「グラスに入っているワインを見て『もう半分しか残っていない』と嘆くのが悲観主義者。『まだ半分も残っている』と喜ぶのが楽観主義者」「人生には二つの悲劇がある。一つは願望が達成されないこと、もう一つは、それが達成されること」「信仰を持つ者が無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間よりも幸せだということに似ている」等など……思わず吹き出したくなるものがたくさんありますが、本人は、一生禁酒禁煙で通し、菜食主義者だったそうです。


「7月26日にあった主なできごと」

1881年 小山内薫誕生…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が生まれました。

1945年 ポツダム宣言の発表…アメリカ、イギリス、ソ連(現ロシア)3国首脳の名で、日本に無条件降伏をせまる「ポツダム宣言」を発表しましたが、日本はこれを無視しました。しかし、8月に入って広島と長崎に原爆を投下され、日本と不可侵条約を結んでいたソ連の参戦などの情勢の変化により、8月14日の御前会議で受諾を決めて終戦をむかえました。発表から受諾までの20日間で、およそ38万人もの人が亡くなったといわれています。

1956年 スエズ運河国有化宣言…地中海と紅海を結ぶ国際的な水路でエジプトにあるスエズ運河は、開通した1869年から100年近くものあいだ、通行料はフランスやイギリスが株を占める万国スエズ運河会社に入り、エジプトには何の利益も受けられませんでした。エジプトのナセル大統領はこの日、スエズ運河国有化を世界に宣言しました。これを不服としたフランスやイギリスは、国際連合に解決を求めましたが、その解決を待たずに両国は、10月にイスラエルと連合してエジプトに戦争をしかけました(スエズ動乱・中東動乱)。これに対して世界中から非難がまきおこり、連合軍は11月に撤退。翌年4月にエジプト国有になって、スエズ運河は再開されました。

今日7月25日は、西洋的な感性の中に日本的油絵を確立させた洋画家の小磯良平が、1903年に生れた日です。

兵庫県神戸市に、貿易に携わる岸上家に生れた良平は、洋館が立ち並ぶ「西洋的な空気」にふれながら幼・少年期を過ごし、鉛筆と紙を与えておけば、飽きることなく絵を描いているほどでした。

兵庫県立第二神戸中学校(現 兵庫高校)に進学し、のちにモダニスト詩人となる竹中郁と親交をむすぶようになり、良平の心の眼はヨーロッパに向けて開かれていきました。そして、竹中と倉敷へ出かけ、大原コレクションで公開された「現代フランス名画家作品展覧会」に感動を覚えると、画家をめざす決意を固め、1922年東京美術学校(現・東京芸術大学)の西洋画科に入学しました。猪熊弦一郎・岡田謙三ら優秀な同級生と画架を並べてきそいあうなかで、在学中の1925年(この年小磯家の養子となる)、第6回帝展に『兄妹』が初入選し、翌26年には『T嬢の像』が特選を受賞して注目を浴びるようになりました。

主席で卒業後の1928年から2年間、小磯は念願だったフランス留学に出発し、一足先に到着していた竹中とともに2年間ヨーロッパを遊学しました。絵画技法の習得よりも、各地の美術館をめぐり、アングル、コロー、クールベ、マネ、ドガなど巨匠たちの作品を鑑賞することに熱心でした。とくに、ルーブル美術館でみたベロネーゼの『カナの婚礼』に衝撃を受け、群像表現をきわめることを生涯のテーマにしたようです。帰国後は精力的に絵筆をふるいはじめ、「欧州絵画の技法を日本の洋画に根づかせる」ための研究をねばりよく続け、独自の画境を開いていきました。

1936年、「新制作派協会」(現・新制作協会)の結成に加わり、1938年から1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡って戦争画を描きました。のちに、戦意高揚のために戦争画を書いたことを悔い、画集にはいっさい採り入れない決意をしたということです。

戦後は、母校の教授として東京芸大で教鞭をとり、画学生たちの若い感性を大切にした指導を行いました。定年退官後も赤坂の迎賓館大広間の壁画を制作するなど、日本の洋画界に大きく貢献しました。1983年には文化勲章を受賞、1988年に亡くなりました。

なお、遺族から神戸市に寄贈された小磯の油彩・素描・版画など約2000点の作品を収録する「神戸市立小磯記念美術館」が、六甲アイランド公園内に開館しています。また、ホームページ「小磯良平画像検索」では、小磯のたくさんの女性像を見ることができます。


「7月25日にあった主なできごと」

1801年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、日本全土の実測地図「大日本沿海輿地全図」を中心となって完成させた伊能忠敬が亡くなりました。

1894年 日清戦争始まる…日本軍は朝鮮の豊島(ほうとう)沖で中国の清艦隊を攻撃し、日清戦争がはじまりました。朝鮮を属国とする清と、朝鮮を清から奪おうとする日本との対立が原因でした。

1978年 古賀政男死去…『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家古賀政男が亡くなりました。

↑このページのトップヘ