児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年06月

「おもしろ古典落語」の72回目は、『狂歌会(きょうかかい)』というお笑いの一席をお楽しみください。

めずらしい落語の一席を申し上げます。太閤秀吉が大坂城にいるときのお話で、雨がしとしと降って、庭に出ることもできません。「あー、これ、だれかあるか?」の声に、ご前にまかり出ましたのは、細川幽齋(ゆうさい)、この人は武将でもありますが和歌の名人で、頭を丸めております。「おお、幽斎か、よく降るのう。余はたいくつじゃ、なんぞ、たいくつをまぎらわす遊びはないか」「歌比べなどはいかがでしょう」「歌比べ? わしとそちでは、こりゃ、とてもかなわんな」「いえ、ご前とわたしではござりませぬ。次の間にひかえておりますものどもと、読み比べなぞいかがでござります」「して、誰がおるのじゃ」

「はい、加藤清正どの、福島正則どの、それに曾呂利(そろり)新左衛門、千利休がひかえております」「うむ、おもしろい。みなこれへ集まれ」ということになりました。加藤清正は、太閤さんと同じ尾張中村(名古屋)の生れで、幼いときから秀吉につかえて、数々の武勲があります。熊本城主で「清正の虎退治」は有名、その名を聞いただけで虎もふるえあがるという猛将です。福島正則も賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦には、清正らとならぶ「七本槍」のひとりで、清正に負けない秀吉の忠臣。曾呂利新左衛門は、さむらいではなくて「御伽衆(おとぎしゅう)」といって、太閤さんにいろいろ面白い話を聞かせる役をしています。千利休は、茶の湯の名人で、曾呂利と同じように秀吉の大のお気に入りです。

「ただいまより、雨のうさばらしに、ご前で歌くらべを行います。歌と申しましても和歌ではなく、狂歌でまいりたいと存じますが…、お題は、ご前よりたまわりたいと存じます。ご採点のほどもよろしくお願い申し上げます」「よし、余が題をつかわそう。いつぞやはたしか『小さきもの』という題を出したことがあったの? あの折、余が感心したのは『あわつぶの中をくりぬき家を建て いく間へだてて囲いつくらん』というのがあった。その反対じゃ、『大きなもの』という題とする。いちばんの銘吟には、ほうびとして、この秘蔵の刀をつかわそう」「これは、結構で」「これはありがたき…」「しあわせに…」「ござります…」一同みんな、自分が刀をもらったような顔をしています。

いちばんに名乗りをあげたのが千利休。「『武蔵野に一輪咲きし梅の花 天地に響く うぐいすの声』というのはいかがでしょう」「うむ、さしも広い武蔵野の原に、たった一輪梅の花が咲き、うぐいすのさえずる声が天地に響くというのじゃな、これはみごとじゃのう」「ご前、いいだしっぺの私のは、もう少し大きいかと存じます」「よし、幽斎もうしてみよ」「『富士山を枕となして寝てみれば 足のあたりは難波にぞある』」「なるほど、これはいい、秀逸じゃ」「あいやぁーご前、そんなちっぽけな歌をおほめになるのは、しばらくお待ちくだされ」「こりゃ正則、もっと大きな歌ができたのか? もうしてみよ」

「『須弥山(しゅみせん)に 腰うちかけて大空を 笠にかぶれど耳は入らず』」「いやー、これは大きいのぅ。須弥山といえば、仏教でいう世界の中心にそびえたつ高山のことじゃな。その山に腰かけて、大空を笠にかぶっても耳が入らないとは大きい、ほうびの刀は正則に決まったようじゃな」「あいやぁ、しばらくしばらく」「これ、清正、もっと大きな歌があるのか?」「大あり(尾張)名古屋のコンコンチキ。『須弥山に 腰うちかけしその人を くしゃみの風に吹き飛ばしけり』は、いかがでござる。ごほうびの刀、ちょうだいつかまつります」

手を出す清正につられるように、太閤が刀を握ってさしだそうとしたそのとき、「オッホン…」とせきばらいがして、さっきからだまっていた曾呂利がノソノソ進み出てきました。「なんじゃ新左衛門、不満そうな顔をして、お前も一首詠んでみるか?」

「はい、お刀をお忘れなく。『天と地をダンゴに丸めて手にのせて グッと飲めどものどにさわらず』」 これには秀吉はじめ満座の諸将も納得の顔です。「ご前、カネミツの名刀、まことにありがたきしあわせに存じます」「これ、新左、その白鞘ものは無銘なるが確かに兼光、ぬいてもみぬもせぬに、なぜ兼光とわかる」

「軽いのは竹光(竹の刀)、重いのは金光(金物の刀)でございます」


「6月8日にあった主なできごと」

632年 マホメット死去…キリスト教、仏教とともに世界3大宗教のひとつとされるイスラム教の開祖マホメット(ムハンマド)が亡くなりました。

1810年 シューマン誕生…「謝肉祭」 「子どもの情景」 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが生まれました。

1947年 日教組結成…奈良県橿原市で日本教職員組合(日教組)の結成大会が開かれました。戦後教育の民主化、教育活動の自由、教育者の社会的・経済的・政治的地位の向上をめざすとし、教師は、これまでの「聖職者」から「教育労働者」へと大きく転換するキッカケとなりました。

今日6月7日は、明治時代に活躍した新聞記者の岸田吟香(きしだ ぎんこう)が、1905年に亡くなった日です。岸田は、目薬「精�リ水」(せいきすい)を販売するなど、薬業界の中心人物としても知られています。

1833年、美作国(今の岡山県美咲町)に酒造を兼ねた農家の子として生れた岸田は、幼少年時代に郷里や津山で漢学を学び、1850年に江戸に出て、津山藩の塾や幕府の儒者林図書頭に入門して漢学を深めました。その間に藤田東湖や大橋訥庵と知り合い、秋田藩や水戸藩で林の代講を務めるほどでした。

1855年、健康を害していったん郷里にもどったのち、翌年ふたたび江戸へ出て、水戸学派の藤森天山の塾に入門しました。ところが、藤森が幕府より追われたため、岸田もそのとばっちりをうけて上州に逃れ、また江戸に入って浅草で仕切屋銀次と偽って寺子屋を開きました。やがて、きさくな性格が好かれ、仲間たちから銀公銀公と呼ばれるうち、「吟香」と名乗るようになったといわれています。

岸田はそのころ眼病に悩んでいたため、ある人物の紹介で1863年、アメリカ人宣教師ヘボンを横浜に訪ねました。ヘボンの治療で全快したばかりか、和漢の語に詳しいことが認められた岸田は、ヘボンが当時手がけていた和英辞書編集の助手となり、1867年に『和英語林集成』として出版されました。この辞書は、収録語数2万、1906年までに7回重版されています。いっぽう、ジョセフ彦(浜田彦蔵)と知り合い、外国新聞を飜訳する『海外新聞』発行の手伝いをしました。

1868年には、『もしほ草』という半紙4つ折り数枚つづりの新聞を横浜で発行、18号まで続けたところ、その記事の面白さを「東京日日新聞」が注目、1872年に主筆としてむかえられました。翌年の台湾出兵の際にはわが国初の従軍記者としておもむき、『台湾従軍記』を連載して好評を博しました。これは、人々に新聞の価値とはたらきを教えた画期的なことでした。

1877年、新聞社を退社した岸田は、ヘボンから伝授された目薬「精�リ水」を、銀座に開いた「楽善堂」という薬屋で発売して、売薬業に専念しました。1880年には、中国の上海に楽善堂支店を開くなど販路を中国各地に拡げて大成功を収めました。

いっぽう日中間の将来のための文化交流に力を入れ、「日清貿易研究所」や「東亜同文書院」の設立に中心的な役割を果たしたばかりか、中国各地に病院を設けた「同仁会」の設立にも積極的に参加しました。また、漢方薬にも注目して日本に普及させたり、盲人教育への関心も深く「楽善会訓盲院」(現筑波大学附属盲学校)を創設しています。

なお、「麗子像」で名高い洋画家の岸田劉生は、岸田の4男です。


「6月7日にあった主なできごと」

1848年 ゴーガン誕生…日本の浮世絵や印象派の絵画を推し進めるうち、西洋文化に幻滅して南太平洋のタヒチ島へ渡り『かぐわしき大地』『イヤ・オラナ・マリア』などの名画を描いたゴーガンが生まれました。

1863年 奇兵隊の結成…長州(山口県)藩士の高杉晋作は、農民、町民などによる「奇兵隊」という軍隊を結成しました。奇兵隊は後に、長州藩による討幕運動の中心となりました。

今日6月6日は、スイスの精神科医・心理学者で、深層心理について研究し、分析心理学の理論を創始したユングが、1961年に亡くなった日です。

1875年、ツールガウ州ボーデン湖畔ケスウィルのプロテスタント牧師の家に生まれたカール・グスタフ・ユングは、少年の頃から自己の内面に深い注意を向けるようになるうち、形式的な信仰に疑問を感じるようになりました。そして、牧師のあと継ぎを望む父の期待に反し、バーゼル大学で精神医学を学びました。卒業後、チューリヒ大学の精神科で精神分裂症を独立した病気とみなすブロイラーに師事し、精神分裂症の心理を研究しました。一時フランスに留学して、ジャネの下で研究して帰国すると、言語連想法の実験による研究で注目されるようになりました。

やがて、オーストリアの精神医学者フロイトの「夢判断」による精神分析に共鳴したユングは、1907年にフロイトを訪問し、協調して精神分析学の建設と発展を誓い、1909年にはフロイトとともにアメリカへ講演旅行に行くほどでした。しかしユングは、『早発性痴呆の心理』を著わしたところ、フロイトとの考え方の違いに気づき、1912年に発表した『リビドーの変遷と象徴』でフロイトとの決定的な相違が明らかとなりました。両者は論争の末に訣別、ユングは精神疾患の人々の治療にあたる医院を開業しながら、独自の分析的心理学の研究を推し進めるようになりました。

1919年にユングは、精神病者の幻覚や妄想が、古くから民族に語り継がれてきた民話(神話、伝説、昔話など)と共通するものがあり、祖先の意識や経験がひそんでいる(元型)という考えを提唱しました。そして、人間の無意識は個人的無意識と普遍的無意識の2層が存在し、普遍的無意識は、人類に共通するものであるとしました。さらに、全世界の宗教に目を向け、1920年代になると、ヨーロッパ中心主義に反対するようになり、欧米文化を支えていたキリスト教を絶対化することにも反対するようになりました。東洋にも深い関心を示すようになったユングは、中国の『易経』や日本の禅などの紹介にも努めたことでも知られています。

1948年、ユングは共同研究者や後継者たちと、チューリッヒに「ユング研究所」を設立し、臨床心理学の基礎と伝統を確立しました。日本におけるユング心理学の第一人者とされた河合隼雄(かわい はやお・2007年死去)は、同研究所で学んだ学者として著名です。

なお、一般によく使われる「内向的」「外交的」「コンプレックス」といった心理用語は、ユングが創りだしたものです。


「6月6日にあった主なできごと」

1281年 弘安の役…モンゴル(中国・元)の皇帝フビライ軍は、文永の役から7年後のこの日、再び大軍を率いて北九州の志賀島に上陸しました。苦戦していた日本軍でしたが、折からの暴風雨により元軍は総崩れとなって7月初めに退散しました。日本を救ったこの暴風雨は「神風」といわれますが、鎌倉幕府は手柄のあった者に恩賞を与えることができず、衰退を速めることになりました。

1599年 ベラスケス誕生…スペイン絵画の黄金時代を築いた17世紀を代表する巨匠ベラスケスが生まれました。

1944年 ノルマンディ上陸作戦…第2次世界大戦中、ドイツが占領していた北フランスの海岸ノルマンディに、17万6千人の連合国軍が上陸に成功、これがきっかけになってフランス各地のドイツ軍を打ち破り、8月25日にパリ解放に成功しました。

今日6月5日は、イギリスの古典派経済学者・哲学者で「経済学の父」といわれるアダム・スミスが、1723年に洗礼を受けた日です。

関税監督官を父に、スコットランド東海岸の町カコーディに生まれたアダム・スミスでしたが、父は生まれる半年前に死亡したため生年月日はわかっていません。未亡人となった母の手で育てられたスミスは、町立学校を出て13歳でグラスゴー大学に入学しました。当時のグラスゴーは、植民地のアメリカとタバコ貿易で活気にあふれていたため、自由な空気を尊ぶ精神がスミスにも芽生えはじめました。特に哲学者ハチソン教授から道徳哲学の教えを受け、自由を大切にしながら、人生で幸福を得るための心の尊さを学びました。同大学を卒業後の1740年、聖職者となるための奨学金をうけてオックスフォード大学に留学、約6年間在学後、その保守性に失望して退学、帰郷しました。

1748年からエジンバラで、修辞学や純文学の公開講義を何回か行ったところ好評で、1751年にグラスゴー大学に招かれて論理学教授となり、翌年道徳哲学教授に就任しました。1757年には、のちに蒸気機関の改良で産業革命をリードすることになるワットが、同大学構内で実験器具製造・修理店を開業する手助けをしています。

1759年にグラスゴー大学での講義録『道徳感情論』を出版すると、ヨーロッパじゅうに名声が広がりました。人間の行動の正しさは、他人が同感できるかどうかにかかるという理論は、「モラル・センス」といわれ、好評を博しました。

1763年に教授をやめたスミスは、ヘンリー・スコット公爵の家庭教師としてフランスへ同行、当時のパリの知識人ケネー、チュルゴー、ダランベールらと親交を結びました。帰国後、公爵から一生涯の年金を得たスミスは、郷里スコットランドで約10年間研究に打ちこみ、『国富論』の執筆にとりかかります。

こうしてアメリカ独立の年の1776年に発表した『国富論』は、スミスに絶大な名誉をもたらしました。同書のなかでスミスは、近代社会は、一人ひとりが自分の利益を追求することで、「見えない手」が働いて、ひとりでに社会秩序がうまれて発展する。そのために、商業や工業などの経済活動に国家は口出しをせず、自由でなくてはならないと説きました。この考え方は、産業革命を進めるイギリス経済の理論的なささえになったばかりか、経済学という学問が発展するきっかけになりました。

その後スミスは、エディンバラの関税委員やグラスゴー大学名誉学長をつとめながら、1790年に亡くなるまで、上記2冊の著書の増補改訂に集中したということです。


「6月5日にあった主なできごと」

1215年 栄西死去…鎌倉時代の初期、禅宗の日本臨済宗をひらいた僧・栄西が亡くなりました。栄西は、茶の習慣を日本に伝え、茶の湯のもとをきずいたことでも知られています。

1864年 池田屋騒動…京都三条木屋町の旅館・池田屋に、京都の治安組織で近藤勇の率いる新撰組が、公武合体派の守護職松平容保(会津藩主)らの暗殺を計画していた尊皇攘夷派の志士を襲撃、およそ2時間にわたり斬り合い、志士数名を殺害しました。

1882年 柔道道場…嘉納治五郎は、東京下谷の永昌寺に柔道の道場(のちの講道館)を開きました。

今日6月4日は、江戸時代前期の儒学者で、新井白石や室鳩巣らを育てた木下順庵(きのした じゅんあん)が、 1621年に生まれた日です。

京都の錦小路に生まれた順庵は、幼いころから才気に富んで詩文ををよく作ったといわれ、13歳の時に作った『太平頌(しょう)』は後光明天皇から称賛をえたほどでした。

儒学を藤原惺窩の弟子の松永尺五(せきご)から学んだ順庵は、一時江戸に出たこともありましたが、京都にもどるとその後20年近く東山に居をさだめて読書に励むいっぽう、私塾を開いて門人に教えました。やがて名声があがり、金沢藩主の前田利常に招かれて仕えました。この時順庵は、自分より師である松永尺五の子を推せんしたところ、感心した金沢藩主は、二人とも召しかかえたといわれています。

1682年、62歳になった順庵は5代将軍徳川綱吉に招かれ、幕府の侍講をつとめることになりました。これは、幕府の官学である林家一門以外の学者を登用する道を開いたものであり、家康の一代記『武徳大成記』をはじめ、幕府の編さん事業にもたずさわりました。

順庵の学問は、朱子学に基本を置いていますが、古学にも傾倒したばかりか、朝鮮の文章を好み、中国明の時代に活躍した王陽明の著書を愛読するほど視野の広いものでした。教育者としても特筆され、「木門」という独創的な一派を築き、新井白石、室鳩巣、祇園南海ら「木門十哲」と呼ばれる優れた人材を輩出しました。 1693年に徳川綱豊(後の将軍徳川家宣)の使者が、甲府徳川家のおかかえ儒学者を探しに来たとき、順庵は新井白石を推せんしたといわれています。順庵は1698年に亡くなりますが、門下による「木門」の隆盛は、林家にとっての大きな脅威となりました。


「6月4日にあった主なできごと」

822年 最澄死去…平安時代の初期に、天台宗をひらいた僧最澄が亡くなりました。

1928年 張作霖爆殺…中華民国の軍閥政治家で、奉天派の首領だった張作霖が、日本の関東軍によって爆殺されました。

1989年 六四天安門事件…言論の自由化を推進し「開明的指導者」として国民の支持を集めた胡耀邦の死がきっかけとなって、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、「中国人民解放軍」は戦車、装甲車を出動させ無差別発砲を行なって武力弾圧。中国共産党の発表は、死者は319人としていますが、数百人から数万人の多数におよんだといわれます。

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