児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年06月

今日6月15日は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師の鈴木春信(すずき はるのぶ)が、1770年に亡くなった日です。

春信は、1725年に江戸で生まれ、京都に出て西川祐信に学び、1760年前後に江戸へ移り住んでいたことは判っていますが、それまでは何をしていたかはほとんどわかっていません。本姓は穂積、通称は次郎兵衛、長栄軒、思古人と号しました。

春信が活躍したのは1760年から亡くなるまでの約10年間で、はじめのうちは2~3の原色で摺る「紅摺絵」による役者絵で知られています。多色摺を可能にしたきらびやかな絵「錦絵」がはじまるのは、旗本の大久保甚四郎と阿部八之進が、薬商人の小松屋三右衛門らと協力して、金に糸目をつけずに多色摺りの技術を開発し、1765年頃当時江戸で流行した絵暦交換会でさまざまなデザインの絵暦が競って作られたことがきっかけでした。

そして、この「錦絵」に独自の繊細で優美な美人画を形成し、好事家の彫師、摺り師の技術者と協力して中間色を加えた豊かな多色刷木版画を完成させたのが春信でした。いちやく浮世絵界の人気絵師となった春信は、亡くなるまでの5~6年間に、700点以上の作品を残しています。次々発売される細身で、かれんで繊細な夢見るような表情の女性像、人形のようなあでやかな、また叙情的で幻想的な美人画は、浮世絵版画の主流を占めるようになり、まさに春信の美人画は江戸じゅうにあふれました。当時評判の町娘をモデルにしたり、『古今和歌集』や古今東西の故事説話からとった題材を当世の風俗に置きかえた「見立絵」の作品も描きました。

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若い男女が一つの傘に寄り添う姿を描いた『雪中相合傘』(上の絵)は代表作のひとつで、ほかに『座敷八景』『縁先美人図』などがよく知られています。

絶頂期に亡くなった春信を惜しむ声は多く、友人の平賀源内をはじめ、画風は春重と称して春信の偽作まで試みたという司馬江漢、天明期に活躍する勝川春章や鳥居清長に受け継がれていきました。


「6月15日にあった主なできごと」

774年 空海誕生…平安時代に中国から真言密教をもたらして真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を建てた空海が、生まれました。空海は弘法大師の名で親しまれています。

1215年 マグナカルタ成立…イギリス憲法の聖書ともいわれる「マグナカルタ」(大憲章)に、横暴だったジョン王が署名し、王も法に従うという原則が定められ、イギリス立憲政治の出発点となりました。

1242年 北条泰時死去…鎌倉時代の3代目の執権となり、、武士の初めての法律『御成敗式目』(貞永式目)をこしらえ、16代続いた執権政治の基礎をきずいた北条泰時が亡くなりました。

1769年 佐藤信淵誕生…明治維新の100年近くも前に生まれながら、国学、儒学、蘭学、動・植物、天文、地理、測量など広い学問に通じ、明治以降の日本のすがたを明確に予想した学者佐藤信淵が生まれました。

「おもしろ古典落語」の73回目は、『うそつき村』というお笑いの一席をお楽しみください。

「うそつきは泥ぼうのはじまり」などといいまして、ウソというのはよいものではございませんが、だれが聞いても、すぐにウソとわかるようなのは、かえってばかばかしくて愛きょうのあるものです。「神田の千三ツ」とあだ名されるうそつき男が、だんなの家に久しぶりに現れて、さっそく大ボラを吹きます。

「信州へ行ってきましたが、あんまり寒いんで驚きました。とくに山ん中へとくると、じつにたまりません。なんでも氷っちまうんですから」「ほうっ、どんなものでも氷る?」「へぇ、酒なんぞは、こっちでは飲むといいますが、あちらでは氷ってますんで、かじるっていいます」「冗談いいなさんな、酒は氷らねぇもんだというぜ」「それが氷るんですから、寒いのなんのって。あっちで食べあきたのは、カモです」「鳥のカモかい、そんなにとれるのか?」「あんまり寒いので湖でカモの足に氷が張って飛び立てなくなっているのを幸い、鎌で足だけ残して片っ端から刈り取りました」とか、春になると、刈り残した足から芽がふきだしたのでカモメだとか、いいたい放題です。

ところがだんなが、「向島のずっと先に、うそつき村というのがある。そこの奴らは一人残らずうそをつくが、その中でも、鉄砲の弥八という男は、いくらおまえでもとてもかなわない」といわれて、千三ツ、名誉にかけてそいつを負かせてみせると、勇んでうそつき村に乗りこみました。早速、村人に弥八の家を聞きましたが、さすがにうそつきぞろい。向かい側の引っ込んだ家だの、松の木の裏だのとでたらめばかりで、いっこうに見当がつきません。子どもなら少しはましかと、遊んでいた男の子に聞くと、「弥八はオレのおとっつあんだ」といいます。そこで「おまえんとこのおやじは、見込みがありそうだと聞いたんで、弟子にしてやろうと江戸から来たんだ、いるか?」と、ハッタリをかまします。

すると子どももさるもの、「おとっつぁんはいないよ。ゆうべの風で、富士山が倒れそうになったのでつっかい棒をかけに行って留守だし、おっかさんは近江の琵琶湖まで洗濯に行った」と、なかなかの強敵。その上、「薪が五わあったけど、三つ食べたから、おじさん、残りをおあがり。たどんはどうだい」ときます。子どもがこれならおやじはどんなにすごいだろうと、千三ツは尻尾を巻いて退さんしました。

と、そこへおやじが帰ってきたので、せがれは千三ツが来たことを報告し「…その人、大変なガキだって、大急ぎで逃げていっちまったから、そっちへ行くとおおかみがいるよ、あっちはうわばみが出るってどなってやったの。そしたらね、あわてて財布を落としていったんで、中を見るとお金がうんと入ってた」「そんなもの、子どもが持ってちゃためにならねぇ、こっちへ出せ」

「おとっつぁん…、それもウソだ」「ばかっ、親にウソつくやつがあるか」「だっておいらは弥八の二代目なんだから、今のうちから鍛えなくっちゃ。ところでおとっつあん、どこへ行ってたんだ?」「オレか。世界がすっぽり入るくらいの大きな桶を見てきた。親にウソをつくようなやつは、そん中へぶちこんじゃうぞ」「おいらも、大きな竹を見たよ。裏の山へのぼったら、タケノコがひとつ出てたんだ。それがどんどん伸びて、雲ん中に隠れちまった」「うん、それで?」「少したつと、上の方から竹が下りてきて、それが地面につくと、またそれから根が生えて、雲まで伸びて、また上から…」「いいかげにしろ、そんなばかばかしい竹があるもんか」

「だって、そんな竹でもなけりゃ、おとっつぁんの見た桶のタガができないじゃないか」


「6月14日にあった主なできごと」

1571年 毛利元就死去…戦国時代に全中国地方と四国の一部を支配し、毛利家の最盛期をつくった毛利元就がなくなりました。

1811年 ストー夫人誕生…キリスト教人道主義の立場から、黒人奴隷の悲惨な境遇に心を痛め『アンクル・トムの部屋』を著したアメリカの女流小説家ストー夫人が生まれました。同書刊行から9年後に南北戦争がおきたため[戦争を巻きおこした小説]といわれるほど人々の支持を受けました。

1910年 『遠野物語』発刊…古くから庶民のあいだに伝え受けつがれてきた民話、生活のすがたや文化などを研究する学問「民俗学」を日本に樹立した柳田国男が代表著作『遠野物語』を刊行しました。この本で、岩手県遠野地方に伝わる民話が全国的に広まりました。

今日6月13日は、戦国大名・織田信長の重臣の一人でありながら「本能寺の変」をおこして信長を討ったものの、秀吉との戦いに敗れた明智光秀(あけち みつひで)が、1582年に亡くなった日です。

光秀の出身地は不明ですが、美濃(今の岐阜県南部)の守護土岐氏の支族として生まれたと思われます。父の死後、諸国を放浪したのち越前の朝倉氏に仕え、のちに室町幕府15代将軍となる足利義昭を通じて1568年ころから織田信長に仕え、信長が入京すると秀吉らと共に京都や近辺の政務にあたったことが文書に残されています。

光秀は、義昭と信長が対立しないようにうまく仲立ちをしたため、両者からその能力を高く評価され、1571年近江に2郡を領し坂本(大津市)に築城して「日向の守」に任じられました。やがて、義昭と信長が対立し始めると、義昭とたもとをわかち、信長の直臣となりました。1575年には石山本願寺や信長にそむいた荒木村重、また松永久秀らを攻めるなど近畿の各地を転戦、1579年までには丹波国を平定する功績を残し、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられるまでになりました。光秀は、農民支配や武士をまとめる能力も巧みで、1581年に京都で行われた信長の「閲兵式」にあたる「京都御馬揃え」の運営を任されるほどでした。

いっぽう光秀は、和歌や茶道・連歌にも優れた教養人だったのと、内気な性格は、信長とは相いれないものがありました。また、丹波の有力な豪族の波多野秀治をおさえるために、自分の母と秀治とを人質交換して戦いを収めたことがありました。ところが信長が秀治を殺したことで母を殺されてしまった事件がおこり、光秀が信長をうらむ原因となったのでしょうか。1582年6月2日、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途中、とつぜん、京都の本能寺にいた信長を襲い、自害させました。これが歴史に残る「本能寺の変」です。「ときは今 天(あめ)が下知る 五月かな」の野心に満ちた句はよく知られています。

しかし、天下をとる夢は、すぐに引き返してきた秀吉軍に「山崎の合戦」で敗れ、近江に逃れる途中、農民に殺され、その首は本能寺にさらされたのでした。光秀は、「主君を殺した逆臣(反逆者)」として歴史に名を残すことになってしまいましたが、光秀の心情を理解する人たちも多く、事件の背景がいまだにあいまいなこともあって、光秀に焦点をあてた作品が、いまも数多く作られています。


「6月13日にあった主なできごと」

1931年 北里柴三郎死去…ドイツのコッホに学び、ジフテリアや破傷風の血清療法の完成やペスト菌の発見など、日本細菌学の開拓者北里柴三郎が亡くなりました。

1948年 太宰治死去…『人間失格』『走れメロス』『斜陽』『晩年』 などを著した作家・太宰治が、玉川上水で心中しました。

今日6月12日は、大和朝廷の大臣で蘇我氏の長だった蘇我入鹿(そが の いるか)が、645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに討たれて亡くなった日です。

蘇我氏は、大和地方の豪族で、広大な土地を所有していました。入鹿の時代には、、国の政治を自分たちの思うままに動かすほどになっていました。入鹿の父の蝦夷(えみし)も、祖父の馬子(うまこ)も、それぞれ大臣という最高の位について、何代も天皇につかえてきました。そして、馬子や、そのまた父の蘇我稲目(いなめ)らは、日本に仏教をうけ入れることに力をつくし、古代日本の文化の発展に大きな役割を果たしました。

ところが、稲目の時代に、自分の娘と天皇のあいだにふたりの皇子とひとりの皇女が生まれ、やがて、その皇子が用明、崇峻天皇に、皇女が推古天皇になると、天皇の即位に口だしするだけではなく、じゃまな天皇や皇子は殺してしまうようにさえなってしまいました。蘇我氏の血すじをひくものを天皇にしたほうが、自分たちにつごうがよかったためです。

とくに、豪族の力を弱め、天皇を中心として国の政治をととのえようとした聖徳太子が亡くなると、蝦夷と入鹿のわがままはますますひどくなりました。生きているあいだに自分たち親子の大きな墓をつくり、天皇の墓と同じように陵と名づけました。また、入鹿は、天皇からさずけられるはずの大臣の位を、父から勝手にゆずりうけてしまいました。さらに、甘檮(あまかし)の岡には、きらびやかな家を建て、これを宮門とよばせたということです。

さらに643年には、皇極天皇のつぎの天皇に蘇我氏とつながりのある古人大兄皇子(ふるびとのおうえのおうじ)をたてることを考え、じゃまになる聖徳太子の皇子の山背大兄王(やましろのおうえのおう)を、討ちほろぼしてしまいました。

「入鹿は、旻(みん)という僧から高い学問を学んでいるのに、どうして人の道からはずれたようなことばかりするのだ」──まわりの豪族たちは、だれもが蘇我氏をにくむようになりました。しかし、権力をおそれて、入鹿を討とうとするものは、だれもいません。天皇でさえ、厳しくしかろうとはしませんでした。

ところが、それから2年後、入鹿は、あっけなく身をほろぼしてしまいました。のちに天智天皇となった中大兄皇子に、宮中の皇極天皇の前で、命をうばわれてしまったのです。そして、父の蝦夷も宮門に火を放って死にはて、大きな勢力をもった蘇我氏はほろんでしまいました。

入鹿の死によって、中大兄皇子の「大化の改新」が始まり、日本は、天皇中心の統一国家へと歩みだしました。


「6月12日にあった主なできごと」

1942年 アンネの日記…ナチスのユダヤ人迫害により、ドイツのフランクフルトからのがれ、オランダのアムステルダムの隠れ家で暮していたアンネ・フランクは、両親からこの日の誕生日に日記帳をプレゼントされました。密告されて一家は捕えられ、アンネは1945年15歳でユダヤ人収容所で病死しますが、1944年8月までのおよそ2年間綴られた日記は、戦争の恐ろしさと、つらい生活の中でもけなげに成長してゆく内容に、今も世界じゅうの人たちを感動させています。

今日6月11日は、オーストリアの政治家・外交官で、ナポレオン失脚後の「ウィーン会議」を主宰し、オーストリア宰相となったメッテルニヒが、1859年に亡くなった日です。

1773年にコブレンツ(現ドイツのボン北西にある都市)の名家に生まれたクレメンス・メッテルニヒは、16歳の時にフランスのストラスブール大学に入学して外交学などを学んでいるときにフランス革命が勃発、その革命思想に嫌悪して一家でウィーンに逃れ、宮廷に仕えました。

1795年、マリア・テレジアの前宰相カウニッツの孫娘と結婚したメッテルニヒは、侯爵となったことで高級官職への道がひらかれました。1806年にオーストリアのフランス駐仏大使、1809年より外相に就任しました。皇女マリー・ルイーズをナポレオンの皇后とするなど巧妙な外交でフランスとの友好をはかりながら、自国の国力を強める時間をかせぎ、ナポレオンのモスクワ遠征失敗をきっかけに、1813年にはロシアなど対仏連合国側に加わり、ライプチヒの戦いでナポレオン軍を打ち破りました。

そして、1814~5年の「ウィーン会議」(各国の利害が衝突して数か月経っても進まなかったため「会議は踊る、されど進まず」といわれたことで有名な会議) では、議長となって中心的役割を果たし、フランス革命の波に荒らされたヨーロッパをふたたび保守的な組織するため、反革命的な「正統主義」と「勢力均衡」の原則で、ヨーロッパ国際秩序の再建をはかりました。

ウィーン会議後も、イタリアやスペインの革命運動やドイツでの自由と統一運動を制圧するなど、自由主義・ナショナリズムを抑圧することで、ヨーロッパの平和・安定を追求しました。1821年からはオーストリア宰相に就任、30年近くもその座にありましたが、1830年代になって工業化が本格化し、新興ブルジョワジーの台頭による反体制運動が激化したため、しだいに内政上の影響力が低下していきました。

1848年に「フランス二月革命」がはじまると、オーストリアでは三月革命が勃発、メッテルニヒは失脚してイギリスに亡命しました。1851年に帰国、フランツ・ヨーゼフ1世の君主政治を助けるなど、ヨーロッパの大きな変化を冷静にみきわめる現実主義的な側面もあわせもった人物でした。


「6月11日にあった主なできごと」

1873年 わが国初の銀行…「第一国立銀行」が日本橋兜町に創立し、初代頭取に渋沢栄一が就任、立派な西洋建築は、東京の名所となりました。その後国立銀行は、1879年までに全国各府県に153行が設立されていきました。

1899年 川端康成誕生…『伊豆の踊り子』『雪国』 など、「生」の悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづった功績により、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家・川端康成が生まれました。

1916年 ジーン・ウェブスター死去…手紙形式で書かれた名作『あしながおじさん』など著したアメリカの女流作家ジーン・ウェブスターが亡くなりました。

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