児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年06月

今日6月29日は、明治期に文芸評論家・翻訳家・小説家として活躍した内田魯庵(うちだ ろあん)が、1929年に亡くなった日です。

1868年、今の東京台東区下谷に幕府御家人の父、吉原の芸妓をしていた母の子として江戸・下谷に生まれた魯庵(本名・貢)は、政治や実業に関心を持ち、立教学校(現立教大学)や東京専門学校(現早稲田大学)などで英語を学びましたが、どこも卒業せず、文部省の翻訳係だった叔父のもとで下訳をしたり、友人の編集を手伝ったりしながら、図書館で独学しました。

1888年、山田美妙の『夏木立』が刊行されると長文の批評を書き、それが『女学雑誌』に『山田美妙大人(うし)の小説』として掲載され、文壇にデビューをはたすと、翌年には処女小説『藤の一本』を『都の花』に連載しました。そのころドストエフスキーの『罪と罰』の英訳を読んで衝撃を受け、生涯の友となる二葉亭四迷にも心酔して、文学はどうあるべきかを深く考えるようになりました。

1892年には、英語から重訳した『罪と罰』を刊行して翻訳家として名乗りをあげ、以後ボルテール、アンデルセン、ディケンズ、デュマ、ゾラ、モーパッサン、ワイルド、トルストイらの翻訳を次々と発表していきました。いっぽう、尾崎紅葉や山田美妙らの硯友社が遊戯文学であるとして批判したり、1894年には三文字屋金平の名で『文学者となる法』を刊行し、当時の文壇の俗物性を批判しました。

小説の代表作は、1898年に刊行した知識人の内面の空白や葛藤をリアルに描いた社会小説『くれの廿八日』や、1902年の社会各層の矛盾を風刺的に描いた『社会百面相』などで、戦後になって、魯庵の社会小説の意味が再評価されるようになっています。

やがて、丸善に書籍部門の顧問として入社し、PR誌「学燈」の編集にたずさわって、匿名で書評や随筆を書きました。1906年に出版されたトルストイの翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』も同誌に連載されたものでした。

文壇の一線を退いた晩年は、文壇回顧、人物評伝、随筆などを執筆し、特に1925年に刊行された『思ひ出す人々』(岩波文庫刊「新編思いだす人々」)は、同書の3分の1以上を熱く記した二葉亭四迷にはじまり、坪内逍遙、山田美妙、尾崎紅葉、斎藤緑雨、淡島椿岳、島田沼南、森鷗外、幸田露伴、夏目漱石、大杉栄らとの交友の中での想い出を語る内容は、明治の一流の作家たちを知る上での一級の書とされ、史料的価値をもつ傑作と高く評価されています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、魯庵の評論23点を読むことが出来ます。


「6月29日にあった主なできごと」

1866年 黒田清輝誕生…『湖畔』『読書』などの作品を描き、わが国の洋画の発展に大きな功績を残した画家 黒田清輝が生まれました。

1903年 滝廉太郎死去…『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した滝廉太郎が亡くなりました。

1932年 特高の設置…特別高等警察(特高)は、日本の主要府県警の中に設置された政治警察で、この日に設置されました。警察国家の中枢として、共産主義者はもとより、自由主義者や宗教人にも弾圧の手をのばし、国民の目や耳や口を封じ、たくさんの人々を自殺においこみ、虐殺させた思想弾圧機構ともいえるものでした。

「おもしろ古典落語」の75回目は、『笠碁(かさご)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「碁がたきは 憎さも憎し なつかしし」と、川柳にもあるくらいわずか一目か二目で仲のよい友だちが、たちまちケンカになったりします。ケンカになるくらいですから、腕まえのほうは似たりよったり、ほかの人とやればいいのに、やっぱりあいつでなくちゃ…というのが碁がたきというもののようです。よい碁がたきの伊勢屋のだんなと吉兵衛という商人が、ウマがあうのか毎日のように石を並べあっています。いつもお互いに待った、待ったのくり返しなので、「そんなことでは上達しない」と碁の達人の隠居にいわれ、伊勢屋の旦那は、今後いっさい「待ったなし」にしようということで、吉兵衛も納得しました。

「じゃ、きょうは私が先手の番だから、いいね。…さて、むずかしくなってきたな…、うーむ」「なにをうなってるんです?」「考えてるんだ」「冗談でしょ、いくら隠居にいわれたって、ひとつも打たないうちから考えてちゃだめですよ」「じゃごめんこうむって、こう打ちましょう」「なるほど、あたしはこういって、…さぁさぁいらっしゃい」「なるほど、そこへきたか。ふむふむ、こいつはおもしろいぞ、これでどうだ」「あたしはこういって、…なにしろ待ったがないんだからぁ」「そうくりゃ、こうさ」「じゃ、てまえはここんとこをこういきますよ」「あっ、こりゃ弱ったな。まずいとこに打たれたねぇこりゃ…うーん、その一目で、こっちの連絡、みんな切れちまう…こりゃ困った、この石はよすよ」「そりゃいけません。あなたが、待ったなしとお決めになったんですから」「そりゃいったが、この石が切れようとは思わなかった。かりに将棋を指したって、王手なら王手というだろ、碁だって将棋だって同じことだよ」「なにもこれで勝負がついたわけじゃなし、これからの打ちようで、一目や二目はどうにでもなりましょう」

自分で作ったルールを破るのは身勝手だと吉兵衛さんが「正論」を吐けば、伊勢屋は、おまえは不親切だ、理屈っぽすぎると、だんだん雲行きがあやしくなってきます。「わかったわかった。待ったをしなきゃいいんだろ、おまえはまったくおこりっぽい」「おこりたくもなりますよ、あなたがあんまりひきょうだから」「なに、あたしがひきょうだ? もうよしにしよう。ああ負けたよ負けた」「負けたも勝ったもないでしょ。打ちはじめたばかりで」

「いいよ、わたしが負けたんだから。けれど、おまえとあたしの仲で、そういうものじゃなかろうと思うんだ。あたしゃこんなことはいいたかないが…、そりゃ今じゃ、おまえさんもずいぶんお金もできて結構な身分になってるが、ずいぶん困ったこともあっただろ。十二、三年前、おまえさんが裏通りで小さな道具屋だしていなすったころだ、暮れがせまって家賃が払えないので家をあけわたせといわれたと泣きこんできた。わたしが都合したのをおぼえてるだろ。それからも、おまえさんがくれば、きまってお金の用だ。のべつまくなし貸してくださいってんだ。そのたんびに、あたしは待ったをしたか? この恩知らず」「そりゃあなた、少しおことばが過ぎやしませんか。そりゃ、お世話になりました。だからわたしだって、それだけのご恩がえしはしているつもりです。忙しいのに、店は奉公人にまかせておいて、おもしろくもない碁の相手に毎日のようにきてるでしょ。それも勝ってばかりじゃぐずぐずいうから、わざと骨おって負けてるんだ。こんなへぼ碁の相手をするなぁ、おもしろくもなんともあるもんか」「この野郎、へぼ碁とはなんだ、帰れ」「二度と来るもんか」

……という次第でケンカ別れをしましたが、雨が二、三日も降り続くと、伊勢屋のだんなは退屈も手伝って、吉兵衛さんのことが気になってしかたがありません。女房に鉄瓶の湯を沸かさせ、碁盤も用意させて、外ばかり見ながらソワソワしています。いっぽう、吉兵衛さんも同じこと。どうにも我慢ができなくなって、こっそり出かけて様子を見てやろうと思いますが、あいにく傘が一本しかありません。かみさんが、傘を持っていかれると買い物にも行けないと苦情をいうので、しかたなく菅笠をかぶって、敵の家の前をウロウロと行ったり来たり。それを見つけて、だんなは大喜び。「やいやい、ヘボ」「なにがヘボでございます?」「ヘボかヘボでねえか、碁盤が出ている、さぁ一番くるか」「おう、やりましょうとも、この前はあなたが先手でしたが、きょうはわたしが先手だ、ようございますか」「いいとも、さぁ、おやり」「やぁ、こりゃいけない。雨がたいへん漏りますよ」「はてな、雨が漏るわけはないが…、おい、だれか二階で水でもこぼしゃしないか? そうでもなきゃこうポタポタと…、

ありゃ、吉兵衛さんいけねぇな、かぶってる笠をとらなくっちゃあ」


「6月28日にあった主なできごと」

1491年 ヘンリー八世誕生…首長令を発布して「イングランド国教会」を始め、ローマ法王から独立して自ら首長となったヘンリー8世が生まれました。

1712年 ルソー誕生…フランス革命の理論的指導者といわれる思想家ルソーが生まれました。

1840年 アヘン戦争…当時イギリスは、中国(清)との貿易赤字を解消しようと、ケシから取れる麻薬アヘンをインドで栽培させ、大量に中国へ密輸しました。清がこれを本格的に取り締まりはじめたため、イギリスは清に戦争をしかけて、「アヘン戦争」が始まりました。

1914年 サラエボ事件…1908年からオーストリアに併合されていたボスニアの首都サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が過激派に暗殺される事件がおこり、第一次世界大戦の引き金となりました。

1919年 ベルサイユ講和条約…第一次世界大戦の終結としてが結ばれた「ベルサイユ講和条約」でしたが、敗戦国ドイツに対しあまりに厳しい条件を課したことがナチスを台頭させ、第二次世界大戦の遠因となりました。

1951年 林芙美子死去…『放浪記』など、名もなく・貧しく・たくましく生きる庶民の暮らしを、みずからの体験をもとに描いた作品で名高い女流作家 林芙美子が亡くなりました。

今日6月27日は、日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要場面に外交官ないしは外務大臣として関わった松岡洋右(まつおか ようすけ)が、1946年に亡くなった日です。

1880年、山口県室積村(現・光市)の廻船問屋に生まれた洋右は、11歳の時に父が事業に失敗して破産したことで、渡米して成功を収めた親戚をたよって、1893年に渡米しました。しかし、当時のアメリカは、東洋人に対する人種差別や排斥が激しく、労働移民のような状況でした。苦学のすえ、オレゴン大学法学部に入学し1900年に卒業、1902年に帰国するまでの9年間の体験から、アメリカ人に対しては、常に毅然たる態度で、対等の立場で臨むという信条を身につけることになりました。

帰国後、東京麹町に山口県人会の寮があったことで、明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら、独学で外交官試験をめざしました。1904年に外交官試験に合格して外務省に入省すると、中国の上海に赴任、南満州鉄道(満鉄)総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎と知りあいました。1919年からのパリ講和会議には報道係として派遣され、日本政府の代弁者として英語で弁舌する活躍をしましたが、1921年外務省を41歳で退官。満鉄総裁となっていた山本条太郎の紹介で満鉄理事として着任、1927年には副総裁となりました。

1930年に満鉄を退職すると、衆議院議員総選挙に郷里山口から立候補して当選をはたし、政友会に所属しました。議会内では対アメリカ・イギリスとの協調・対中国内政不干渉を方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝さいを浴びました。1931年9月に「満州事変」が勃発すると、松岡はいちやく国際政治の表舞台に躍り出て、1932年秋に開かれたジュネーブ国際連盟総会では、全権大使として「満州における日本の特殊な立場と有効性」を主張しました。しかし全世界の反対にあい、1933年2月「日本の主張が認められないならば国際連盟脱退はやむをえない」と、日本代表団を引き連れて退場、日本の連盟正式脱退をリードする形になりました。

その後も松岡は、満鉄総裁として新興国満州に采配をふるって侵略政策を推進し、政党解消運動をおこして、政友会を脱会しました。さらに、1940年7月に成立した第2次近衛内閣で外務大臣に就任した松岡は、大東亜共栄圏の完成をめざすこと、日本・ドイツ・イタリア・ソビエトの四国連合をつくりアメリカ・イギリスに対抗する方針を打ち出し、その第一段階として、1940年9月に日独伊三国軍事同盟を成立させました。ところが、まもなく独ソ関係は急速に悪化したことで、自らおもむいて外交的駆け引きをすることを決意し、ドイツとイタリア訪問の帰路の1941年4月、日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげました。ところが、6月にドイツがソ連と開戦すると、松岡のあまりの独断専行ぶりに、これまで協力関係にあった陸軍とも対立するようになって松岡外交は破たん、中枢を追われてしまいました。

第2次世界大戦後、松岡はA級戦争犯罪人としてGHQ命令により逮捕され、極東国際軍事裁判の公判中に病死しました。


「6月27日にあった主なできごと」

1809年 上田秋成死去…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる『雨月物語』 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が亡くなりました。

1850年 小泉八雲誕生…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が生まれました。

1880年 ヘレンケラー誕生…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍したアメリカのヘレンケラーが生まれました。

今日6月26日は、戦前を代表する東洋史学者・ジャーナリストで、邪馬台国論争や中国の時代区分論争などで学会をリードした内藤湖南(ないとう こなん)が、1936年に亡くなった日です。

1866年陸奥国毛馬内(現・秋田県鹿角市)に、南部藩士の子として生まれた湖南(本名虎次郎)は、父から漢文の手ほどきを受け、13歳のときには『日本外史』を通読するほどでした。1883年秋田師範学校に入学すると、運よく高名な儒者西宮端齋に漢詩文を学び、詩才を認められました。生物学教師からは生物進化論を英語で学んだことは、湖南の視野を広げ、哲学への情熱が芽生えました。

卒業後、小学校の先生になりましたが、 1887年に父の反対を押し切って上京すると、大内青巒(せいらん)が主宰する仏教雑誌「明教新誌」の記者となりました。大内は、明治初年の廃仏毀釈運動によって仏教の衰えを嘆き、復興を志す人物でした。やがて湖南は、大内のはじめた雑誌や新聞を評論する「万報一覧」や、尊王奉仏運動の機関紙「大同新報」などの編集人となってジャーナリストとして頭角をあらわすようになりました。

当時、三宅雪嶺や志賀重昂(しげたか)らが「政教社」をおこし、国粋主義をスローガンとした「日本人」を発刊していました。しかし、彼らの主張は当局ににらまれ、発禁処分を受けました。湖南は志賀の要請を受けて1890年に政教社へ入り、「日本人」を改名した「亜細亜」の記者となって主筆の三宅や志賀の論文の代筆をしたばかりか、自ら短評や書評をてがけるようになりました。いっぽう読書にいそしみ、政治、宗教、哲学、文学、美術、演芸などあらゆるジャンルの書を読破しました。その総合的思考の中から、湖南は三宅の著書となっている『真善美日本人』や『我観小景』を代筆し、その共同作業の中から、自己の思考は、抽象的な学問である哲学より、具象的な美形式に適していることを悟ったようです。

「大阪朝日新聞」「台湾日報」の主筆を経て、「万朝報」の記者になった湖南は、ロシアの南進に対して日露戦争主戦論を展開しました。この間に中国へひんぱんに出かけ、中国の学術全般についての研究を深めていき、中国学が従来の漢学ではなく、実証学でなくてはならないと提唱するようになりました。

1907年、京都帝国大学(現・京都大学)の史学科に講師として招かれた湖南は、「東洋史学講座」を担当しました。1909年に教授、1910年には総長の推薦を受けて文学博士となり、20年にわたり文化史を中心とした東洋史の体系化を試み「京都学派」といわれる学風を形成し、京大の宝とまでいわれました。

湖南の学術論の代表的なものは、「中国史」では後漢までを古代、六朝・唐を中世、宋以後を近世とする時代区分の提唱、甲骨文による古代史研究の推進、目録学、絵画史などあらゆるジャンルに及びます。また、邪馬台国論争については、白鳥庫吉(くらきち)の九州説に対して、畿内説を主張し、激しい論争を戦わせたことでも知られています。

1926年に60歳定年制にもとづいて退官、日本文化史においても「内藤史学」といわれる透徹した体系をつくりあげた実力者でした。


「6月26日にあった主なできごと」

1833年 木戸孝允誕生…大久保利通、西郷隆盛と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人木戸孝允が生れました。

1945年 国際連合憲章の調印…4月25日からドイツや日本に宣戦していた連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開き、この日国際連合憲章が採択されました。国際連合の発足は、同年10月24日で、最初の加盟国は51か国。主な活動目的は国際平和の維持、経済や社会などに関する国際協力の実現です。日本が国際連合に加盟したのは1956年12月、80番目の加盟国でした。現在の加盟国は193か国となっています。

今日6月25日は、スペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリア(聖家族教会)、グエル公園、ミラ邸など、独創的なデザインや造形で知られる建築家ガウディが、1852年に生まれた日です。

南部カタロニアのレウス(またはその近郊リウドムス)の銅細工師の5番目の子として生まれたアントニオ・ガウディは、1863年、貧しい家庭の子弟のために設立されたピアリスト修道会の学校に入学し、友人たちとこしらえた雑誌に独創的な挿絵をかいたり、学校演劇の際には特異な大道具や小道具を制作したり、ユニークな存在だったといわれています。

1873年にバルセロナ建築学校に入学したガウディは、77年に卒業するまでに、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働き、バルセロナの公園や修道院の装飾にもかかわり、78年に建築士の資格を取得しました。同年、パリ万国博覧会に出展する手袋店のためにショーケースをデザインすると、この作品を通じてガウディの才能をいち早く評価したのが、実業家の富豪エウゼビ・グエル侯爵でした。グエルは、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援しました。その交友をもとにグエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼し、ガウディはその期待に応えて、異彩をはなつ作品を次々にうみだしていきました。1883年には、サクラダ・ファミリアの専任建築家に推薦されました。

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ガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過し、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注ぎこみました。しかし、親族や友人の相次ぐ死、バルセロナ市が財政危機に見舞われてサグラダ・ファミリアの建設はなかなか進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまいました。1918年にはグエルの死という不幸の連続に、ガウディは取材を受けたり写真を撮られたりするのさえ嫌うようになったようです。そして、1926年6月、ガウディはミサに向かう途中、路面電車にひかれてしまいました。身なりに気をつかわなかったため、浮浪者と間違われために手当てが遅れ、事故の3日後に73歳で亡くなったのでした。

ガウディの特異な作品群は、機能主義全盛の世界的な流れの中で、長い間異端児扱いをされてきました。しかし、今日では、「形式主義からの解放」をテーマに、曲線と細部の装飾を多用した生物的な建築や、幻想的で怪奇とさえ感じるような独創的なデザインや造形は再評価されるようになり、たくさんの建築家や芸術家に影響を与え続けています。そして1984年には、現在も建設続行中のサグラダ・ファミリアをはじめ、グエル公園、ミラ邸(カサミラ)などの作品は「ガウディの作品群」としてユネスコの世界遺産に登録されています。


「6月25日にあった主なできごと」

845年 菅原道真誕生…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者で、「学問の神」として信仰されるようになった菅原道真が生まれました。

1734年 上田秋成誕生…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる 「雨月物語」 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が生まれました。

1956年 宮城道雄死去…琴を主楽器とする日本特有の楽曲(箏曲<そうきょく>)の作曲者、演奏家として世界に名を知られた宮城道雄が亡くなりました。

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