児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年05月

「おもしろ古典落語」の70回目は、『がまの油(あぶら)』というお笑いの一席をお楽しみください。

むかしは、寺や神社の境内や縁日、人がにぎわう場所にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てて人を集めていましたが、その中でもハバをきかせていたのが、がまの油売り。黒紋付の着物に袴をはき、白鉢巻きに白だすきといったかっこうで、がま蛙のひからびたのを台の上に乗せ、脇の箱には膏薬(こうやく)が入っていて、なつめという容器とはまぐりの貝殻が積み上げてあって、太刀がおいてあります。「さあさ、お立会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで……」と、通行人に呼びかけます。

さまざまな口上のあと、なつめの蓋をパッと取り、「てまえ持ちいだしたるは、四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六のがま。『そんながまは、オレの家の縁の下や流しの下にもいる』というご仁があったが、それは俗にいうおたま蛙、ひき蛙といって薬力と効能の足しにもならぬ。このがまの棲めるところは、これより、はる~か北にある筑波山の麓にて、オンバコという露草を食らう。このがまの取れるのは、五月に八月に十月、これを名づけて五八十(ごはっそう)は四六のがまだ、お立あい。このがまの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網をしき、その中にがまを追いこむ。がまはおのれの姿が鏡にうつるのをみておのれぇと驚き、たらーりたらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日のあいだとろーり、とろりと煮つめたるがこのがまの油だ。赤いはシンシャやしの実、テレメンテエカにマンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔(でじ)、イボ痔、はしり痔、よこね、がんがさ、その他腫れ物いっさいに効く。いつもはひと貝で百文だが、こんにちははおひろめのため、小貝を添え、二貝で百文だ」と、怪しげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬の効能を実証するため、刀を取りだします。

「さてお立ちあい、がまの油の効能はまだある。刃物の切れ味を止める。手前取りだしたるはこの鈍刀。粗末ではあるがなまくらではない。幸いここに白紙がある。これを目の前で切り刻んでご覧にいれる。一枚の紙が二枚。二枚が四枚。四枚が八枚。八枚が十六枚。十六枚が三十と二枚。かほどに斬れる業物でも、差うら差おもてへがまの油をぬれば、白紙一枚容易に斬れぬ。さ、このとおり、たたいて……斬れない。引いても斬れない。拭き取ったらどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。腕に触ったばかりでこれくらい斬れる。だがお立会い、こんな傷は何の造作もない。がまの油をこうして付ければ、痛みが去って血がピタリと止まる」

たいそう売上げがあがって気をよくしたがまの油売り、売り上げで大酒をくらって表へ出てみると、まだ人通りがあります。もうひともうけしてやろうと、例の口上をやりますが、ロレツが回らなくて支離滅裂。それでもどうにか紙を切るところまではきましたが、「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ?」「こっちが聞きてえや」「驚くことはない、このがまの油をひとつけすれば、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二つつければ、今度はピタリと……かくなる上はもうひとぬり……今度こそ……トホホ、お立あい」「どうした」

「お立あいの中に、どなたか血止めをお持ちの方はござらぬか」


「5月24日にあった主なできごと」

1409年 李成桂死去…高麗末の武官で、李氏朝鮮という王朝を開き、朝鮮の基礎を築いた李成桂が亡くなりました。

1543年 コペルニクス死去…当時主流だった地球中心説(天動説)をくつがえし、太陽中心説(地動説)を唱えたポーランド出身の天文学者コペルニクスが亡くなりました。

1949年 満年齢の採用…「年齢の唱え方に関する法律」が公布され、従来の「数え年」から、「満年齢」に変わりました。数え年は、生まれた年を1歳とし、新年をむかえるたびにひとつ歳をとる数え方に対し、満年齢は、生まれたときは0歳、誕生日がくると1歳を加える数え方です。

今日5月23日は、明治・大正・昭和期に活躍した憲法学者の美濃部達吉(みのべ たつきち)が、1948年に亡くなった日です。

達吉は、明治時代の初めの1873年、兵庫県高砂市に生まれました。父は医者でしたが、医業だけでは生活できず、町の子どもたちに、習字や漢学を教えていました。達吉は、幼いころから神童とよばれるほどの才能にめぐまれ、故郷の小、中学校を終えると東京へでて、第一高等中学校予科に学んだのち東京帝国大学(東京大学)へ入学しました。

大学では、憲法をはじめ国の法律について深く学び、将来は学者の道を志しました。しかし、大学を卒業すると内務省へつとめました。家の暮らしが豊かではなかったためです。学問をすてきれない達吉には、役人の生活はどうしてもなじめません。役人になって1年後に、夢が開けました。恩師に、大学で法政史を教える教授の候補に推せんされ、役人をやめて大学院で学ぶことになったのです。

ふたたび研究生活に入った達吉は、助教授になった26歳の年にヨーロッパへ渡り、ドイツ、フランス、イギリスで憲法や法律を学びました。そして、3年後に帰国すると、29歳で教授にむかえられました。憲法学者の道を歩み始めた達吉は、次つぎに、憲法についての論文を発表し、本を著わしました。そのなかで、社会にもっとも大きな問題をなげかけたのが「天皇機関説」です。

「国の政治は、議会を中心に、政党によっておこなわれることが正しい。国をおさめる権力をもっているのは、天皇ではなく国家でなければならない。天皇は、国家のひとつの機関である」という趣旨で、天皇をないがしろにしたわけではありません。日本における天皇の流れは尊重しながら、自由主義、民主主義を守っていくためには、天皇が自分勝手な権力をふるうようになってはいけないと考えたのです。

この「天皇機関説」は、社会に民主主義の考えがあふれた大正時代には、学者にも政治家にも高く認められました。ところが、昭和に入って、日本が大陸への侵略を始めると、軍部に反対されるようになりました。国民を戦争にかりたてるためには、天皇の絶対的な権力が必要だったためです。

達吉は、国会で「反逆者だ」とののしられても、決して自分の考えを変えませんでした。しかし、軍の力には勝てません。やがて、1935年に不敬罪で起訴されると、3年前からつとめていた貴族院議員も、いくつもの大学の講師も、やめさせられたばかりか、暴漢にピストルで撃たれ重傷を負ってしまいました。また『憲法提要』『日本憲法の基本主義』などの本も、発売禁止にされてしまいました。

その後の日本は戦争へ突っ走り、達吉は敗戦後3年目に75歳で亡くなりました。自由主義のために戦った強い生涯でした。なお、東京都知事を務めた美濃部亮吉は、達吉の長男です。


「5月23日にあった主なできごと」

811年 坂上田村麻呂死去…平安時代初期の武将で、初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂が亡くなりました。

1663年 殉死の禁止…徳川4代将軍家綱は「武家諸法度」を改訂し、古くから武士の美徳とされてきた「殉死」(じゅんし・家来などが主君の後を追って自決すること)を禁止しました。

1707年 リンネ誕生…スウェーデンの博物学者で、動植物の分類を学問的に行って「分類学の父」といわれるリンネが生れました。

1848年 リリエンタール誕生…大型ハングライダーを開発して自ら操縦し、航空工学の発展に貢献したドイツのリリエンタールが生まれました。

今日5月22日は、「西国将軍」といわれた池田輝政の孫で、岡山藩主として数々の政治改革を行った池田光政(いけだ みつまさ)が、1682年に亡くなった日です。

1609年、姫路藩主池田利隆の長男として生れた光政は、幼少のころから学問への志が深く、特に儒学に熱心で、1616年父の死去により8歳で、42万石の姫路藩主となりました。しかし、翌年幼少を理由に鳥取藩32万5000石の藩主に移し替えられましたが、1632年、23歳で岡山藩31万5000石の藩主となりました。

光政は、幕府が推奨し国学としていた朱子学よりも、儒学の一派で自分の行動が大切であると教える陽明学を藩学として実践したところに特徴があります。中江藤樹を尊敬し、その高弟だった熊沢蕃山を招いて、1641年には、全国初の藩校・花畠教場を開校しました。蕃山は1659年ごろに岡山を去りましたが、光政はその後も藩校を整備したばかりか、藩内に庶民のための手習所を123か所設置したり、1670年には日本最古の庶民学校として閑谷学校を開いて、教育の充実と質素倹約を旨とする「備前風」といわれる政治姿勢を確立しました。倹約令も徹底して、神輿(みこし)やだんじり等を用いた派手な祭礼、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じ、食事は一汁一菜を命じたために、庶民は魚や野菜を御飯に混ぜ込んだ対抗策を考えたといわれています。

光政の改革は宗教面でも発揮され、神道を中心とする政策を取って神仏分離を行いました。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入したために、岡山藩内の500もの寺院が廃寺となったといわれています。こうした光政の施政は幕府ににらまれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まりました。しかし、こういった風説にもかかわらず、岡山藩が安泰だったのは、それ以上に光政の数々の改革が高く評価され、一目置かれる存在だったからに他なりません。

さらに光政は、藩の経済発展のための手段として、児島湾干拓による新田開発など、40年にわたる光政の在世中に300町歩5千石を開拓したばかり、新田への用水路の開削、物資運送のための運河や洪水をを守るための排水路を開くなどの治水事業を行ったことも注目されます。

1672年、藩主の座を長男・池田綱政に譲り隠居したものの、亡くなる前年まで実権を握り続け、水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並び、江戸時代初期の三名君の一人と称される74年の生涯を閉じました。


「5月22日にあった主なできごと」

1333年 鎌倉幕府滅亡…新田義貞が鎌倉幕府の執権北条高時を討ち、鎌倉幕府が滅びました。

1775年 蒸気機関の特許…イギリスのエンジニアであるワットは、凝縮機、調速機、変速機の発明など蒸気機関の改良をおこなって、この日特許を取得しました。ワットの蒸気機関は、鉱山や工場で広く用いられ、産業革命の原動力となりました。

今日5月21日は、明治・大正・昭和期に活躍した地球物理学者の田中館愛橘(たなかだて あいきつ)が、1952年に亡くなった日です。

1856年、陸奥国(現・岩手県二戸市)の南部藩士の家に生まれた田中館は、南部藩の藩校で学んだ後に、一家で東京へ移住しました。慶応義塾を中退し、東京外国語学校を経て、1878年に、前年発足したばかりの東大理学部に入学しました。在学中に、イギリスやアメリカから招かれたユーイングやメンデンホールに、磁気の研究の仕方、地震や重力などの地球物理学を学び、富士山頂での重力測定を手伝ったりしました。

1882年に東大を卒業すると、東大準助教授に就任、翌年には助教授となって1885年まで、全国82か所の地磁気を測定しました。1889年公費でイギリス・グラスゴー大学へ留学、ユーイングの師だったケルビンのもとで電磁気学を学び、ベルリン大学での受講を経て、1891年アメリカ経由で帰国、東京帝国大理学部教授に就任しました。

帰国後まもなく、死者7200人、全壊家屋8万戸、マグニチュード8.4という濃尾大地震が発生すると、後輩の長岡半太郎とともに震源地におもむき、岐阜・根尾谷の大断層を発見しました。この調査経験をふまえ、地震研究の必要性を叫び、1892年に設立された日本で初の地震研究組織である文部省震災予防調査会に委員として参加しました。

1895年に、万国測地学会協会総会に参加して、地球上の等緯度(北緯39度8分)地点6か所を選定するという決議を受け、田中館は詳細に調査の上、岩手県水沢に緯度観測所を設立しました。これが1902年に所長となった弟子の 木村栄 による世界的に有名な「Z項」の発見につながることになります。

田中館の実績は数かぎりなくあり、1904年には日露戦争の際、気球の軍事利用研究に参加することがきっかけで、東京帝大航空研究所の設立に尽力したり、1906年には、フランス人海軍士官のグライダー製作に協力、日本で初の近代的航空機としました。1907年にはメートル条約によって設立された国際度量衡委員会の委員となって、メートル法の確立と普及に寄与しました。ローマ字論者でもあり、五十音図に基づき、英語の発音に準拠したヘボン式ローマ字の表記法を改めた日本式ローマ字を考案し、ローマ字の普及にも努めました。

また、外国での学会や委員会によく出席し、「科学界の外交官」とよばれ、その豪放な性格は学生たちにも人気がありました。1916年の還暦祝いの会合で退職を希望し、60歳定年制のできるきっかけをこしらえたことでも知られ、1944年には文化勲章が贈られています。


「5月21日にあった主なできごと」

1575年 長篠の戦い…甲斐の武田勝頼と、織田信長・徳川家康軍との間で、三河の長篠城をめぐる戦いがありました。この「長篠の戦い」で武田軍は、信長・家康の連合軍に完膚なきまでにやられてしまい、多くの勇将を失いました。

1927年 大西洋無着陸横断飛行…アメリカの飛行家リンドバーグは、前日ニューヨークを飛び立ち、この日の夜パリに到着しました。所要時間33時間30分、世界初の大西洋無着陸単独飛行でした。リンドバーグは、1931年には北太平洋を横断して日本にも到達し、大歓迎を受けました。

1928年 野口英世死去…世界的な細菌学者として活躍した野口英世がアフリカで黄熱病の研究中に発病して亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の69回目は、『佐々木政談(ささきせいだん)』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸時代の終わりころ、名奉行で知られた南町奉行・佐々木信濃守(しなのかみ)という方がいらっしゃいました。非番のときはいつも、めだたないかっこうをして、三蔵というお供をつけて町のようすを見てまいります。すると、子どもたちが「お奉行ごっこ」をやってるところに出くわしました。

「両人のもの、頭をあげいっ。そのほうども、往来においてけんかをいたしたるよし、まことにふとどき千万。それがし南町奉行・佐々木信濃守、きびしく取り調べをいたす。けんかのいきさつ、有体にもうしてみよ」「お奉行さまに申し上げます。あたいのことを、みんな物知りだといいます。ここにいる勝ちゃんが、一(ひと)つから十(とお)までに『つ』はいくつあるかって聞きますから、『そんなこと知らない』といったんです。そうしたら、『そんなこともわからないで、物知りがるな』って、勝っちゃんは、あたいの頭をぶったんです。だからあたいもぶちかえして…」「そのようなつまらぬことで、上に手数をわずらすは、不届きしごくである。このたびは、さし許すが、以後は決して許さぬぞ、これ下役の者、両人の縄をといてつかわせ」

こうして両人は、ぶじ許されましたが、勝っちゃんという子が奉行役にたずねました。「お奉行さまは、一つから十までに『つ』はいくつあるかご存知でしょうか」「一つから十までに、『つ』は十そろっておる」「でも、十(とお)には、『つ』はありません」「だまれ、奉行のもうすことに間違いはない。十までの中に『つ』を盗んでる者がおる。ひとつ、ふたつ、みっつ…と数えてみるがよい、どうじゃ五(いつ)つは、『つ』を2つ持っておるであろう」「おそれいりましてございます」こうして、裁判が終わりますと、一人の子どもが「お奉行は、四郎ちゃんがいちばんうまいや、あしたからお奉行は四郎ちゃんに決めよう」「それがいい。また明日もここでお奉行ごっこをしよう」と、子どもたちは四方へ散って行きました。

このトンチに、いたく感心したほんものの信濃守は、「三蔵、ほかの者はともあれ、あの奉行になりし四郎という子ども、親ともども町役同道の上、奉行所に出頭いたすよう申しつけてまいれ」ということになりました。さて、子どもは、桶屋の綱五郎のせがれで十三歳になる四郎吉。奉行ごっこばかりしていてこのごろ帰りが遅いと、親父がしかっているところへ、三蔵がやってきて出頭を告げました。「それみろ、とんでもねえ遊びをするから、とうとうお上のおとがめだ」と、親父はもちろん町役も真っ青になりながら、お白州にやってきました。

ところが、出てきたお奉行はいたって上機嫌。四郎吉に向かって「奉行のこれから尋ねること、何なりと答えることができるか、どうじゃ?」「そんなこと、わけないけど、こんな砂利の上では位負けがして何もいえなくなります。そこに並んで座るなら、どんなことでもしゃべります」 と、許されて遠慮なくずかずか上がってしまったので、親父は、気でも違ったかとブルブル震えているばかり。奉行、少しもかまわず、まず「星の数をいってみろ」と尋ねると、四郎吉少しもあわてず、「それではお奉行さま、お白州の砂利の数をご存じですか?」「そんなもの、なんでわかる」「手に取って見られるものがわからないものを、どうして手のとどかない星の数がわかるのですか」と、これでまず一本。

父と母のいずれが好きかと聞かれると、出されたまんじゅうを二つに割り、どっちがうまいと思うかと、聞き返します。まんじゅうがが三宝に乗っているので、「四角の形をなしたるものに、三宝とはいかに」と聞かれれば、すかさず「ここらの侍は一人でも与力といいます」。衝立に描かれた仙人の絵が何を話しているか聞いてこいといわれると、「佐々木信濃守は馬鹿だといってます」「だまれ、馬鹿で奉行がつとまるか」「そんなにおこったってしょうがありません。あたいがいったんじゃなくて、絵にかいた仙人がいったんです」「しからば、もう一度仙人に聞いてまいれ」「絵に描いてあるものがものをいうはずはない、それをわざわざ聞いてまいれ、という信濃守は馬鹿だと申しました」「こりゃりゃ、あっぱれじゃ…綱五郎、よいせがれを持ってしあわせであるのう。桶屋にしておくには惜しいものじゃ、十五歳になれば、信濃守が引取り近習(きんじゅ)に召し使ってとらせる」

親父は喜んだの喜ばないの、首がはねられるどころか、家柄のよい者でなければ出世のできなかったその頃に、桶屋のせがれが一足飛びに近習になれるというのですから…

もっとも桶屋のせがれだけに、タガがよく締まっていたのでしょう。


「5月18日にあった主なできごと」

945年 紀貫之死去…平安時代の中期に活躍した歌人で、『土佐日記』を著わし、三十六歌仙の1人といわれた紀貫之が亡くなりました。

1265年 ダンテ誕生…イタリアの都市国家フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家であるダンテが誕生した日といわれています。代表作は彼岸の国の旅を描いた壮大な長編叙事詩『神曲』、および9歳の時にであった初恋の美少女ベアトリーチェをモデルにした詩文集『新生』。イタリア文学最大の詩人、ルネサンスの先駆者とされています。

1869年 戊辰戦争終結…明治維新で江戸城無血開城後、旧幕府軍をひきいて箱館(函館)の五稜郭を拠点に、蝦夷(えぞ)共和国を樹立した榎本武揚らが降伏し、戊辰(ぼしん)戦争が終結しました。

1872年 ラッセル誕生…イギリスの哲学者・論理学者・数学者で、原水爆禁止や平和運動に力をつくしたラッセルが生まれました。

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