児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年04月

今日4月27日は、世界で初めて高分子から成る化学繊維(ナイロン)を発明したアメリカの有機化学者カロザーズが、1896年に生まれた日です。

アイオア州のバーリントンという町で生まれたウォレス・ヒューム・カロザーズは、商業学校の先生が父でしたが、子ども4人をかかえた一家の暮らしは、あまり豊かではありませんでした。そこで、長男だったカロザーズは、高等学校を卒業すると、早く社会へでて家を助けるため、商科大学の速修科へ進みました。

しかし、子どものころから好きだった理科を忘れられず、やがて、ターキオ大学へ入りなおして、働きながら化学を学びました。さらにイリノイ大学でも学び、触媒の研究により、28歳で理学博士の資格を得てハーバード大学の講師になりました。

その数年ののち、アメリカ一の化学工業会社デュポン社の研究室で、ゴムや繊維の研究にとりくむようになりました。カロザーズがすぐれた化学者であることを知っていた教授から、資金のある大きな会社で、思う存分に研究してみるようにすすめられたのがきっかけでした。

物を形づくっている原子や分子のつながりを研究すれば、炭化水素のアセチレンから、強い人造ゴムができると考えたカロザーズは、まずゴムの研究にとりかかり、会社に入って1年ののちには、早くも、天然ゴムよりも丈夫な、高い熱にもとけない「ネオプレンゴム」を作るのに成功しました。

つぎには、やはり化学の力で、薬品から生糸よりも細い糸を作る研究にとりくみました。なんども実験に失敗して、研究を中止してしまわなければならないこともありました。しかし、自信をもっていたカロザーズはくじけずに研究をつづけ、1935年、ついに、ナイロンを発明したのです。

「石炭と水と空気から、新しい化学繊維が生まれる」というカロザーズの研究が発表されると、世界の人びとは、化学の不思議さに驚きました。そして、世界に名が知られる発明家になった化学者のカロザーズは、学者として最高のアメリカ学士院会員におされ、外国からも招かれるようになりました。

しかし、それから2年のちの1937年、湖にボートでこぎだしたカロザーズは、そのまま帰らぬ人となってしまいました。文学や音楽も愛し、神経がこまやかだったカロザーズは、純粋な研究と会社のための研究のあいだに入って、苦しんだのかもしれません。

ナイロンは、カロザーズが亡くなった翌年から作られるようになり、繊維の世界に大きな灯をともしました。


「4月27日にあった主なできごと」

BC399年 ソクラテス死去…古代ギリシアの哲学者ソクラテスが、若者たちをまどわした罪で死刑の判決を受け、逃亡をうながす友人に『どんな「悪法」でも国の法律でさばかれた以上それにそむくことはできない』と語り、いさぎよく毒を飲んで亡くなった日です。

1917年 世界初の駅伝競走…東京遷都50年を記念して、京都から東京までタスキをつないで走る「駅伝」が世界で初めて行われ、この日から3日間、昼夜休まず続けられました。

1989年 松下幸之助死去…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げ「経営の神様」といわれた松下幸之助が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の67回目は、『そこつの釘(くぎ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「ちょいとおまえさん、今ごろまで何をしてたんだい?」「どこったって、こんな重いもんしょって、どこへいくもんか、ここへこようと思ったんだ」「朝早いうちに家を出て、もうじき夕方じゃないか。この引越しの荷物、長屋のみなさんが、みんなで手伝ってくださったんだよ」「おいおい、おれだって好きでこうなったわけじゃねぇ。これにゃ、深いわけがあるんだ」「どんなわけだい?」

「つまりだ、人力車と自転車が突きあたったんだ」「あぶないね、けがしやしなかったかい」「おれじゃねぇ、はずみってぇのはおそろしいもんだ」「そんな人さまのこと、大きなお世話じゃないか」「それが、悪いことにカステラ屋の前でな、こね鉢に入った200個もある卵が流れ出したんだ。カステラ屋が怒ってな、自転車と人力車とカステラ屋の3人のけんかになった。すると、そこへおまわりが来て、なにしろ交番へこいという騒ぎだ。おれも、どうなるかと思うから、交番へくっついてった」「あきれたね、重いものしょって、交番へついていくやつがあるかね」「こんなおもしれぇもの、めったに出くわせねぇや。ようやく示談でおさまったんで、安心だ」「何が安心だよ」

「それからここへこようと思って大通りへ出て四つ角へ来ると、大家のとこの赤犬とどっか黒犬がけんかをしてるんだ。ところが赤犬の旗色が悪くなって下になっちゃったから、見て見ぬふりはできねぇ。そばへ行って『赤、ウシウシ』と声をかけると、赤のヤツ急に勢いづいて、ぴょいと立ち上がった拍子におれが引っくり返っちまった。ところがツヅラが重いもんで起き上がれねぇ。もがいているのを、通りがかりの人に助けてもらった」「やだねぇ、意気地がないねぇ、それでどうしたの」

「どんどん歩いたさ。ところが、どこを歩いても家が見つからねぇんだ。しかたがねぇから引っ返して、元の家へもどったらガランとして、何もありゃしねぇ。そこへうまいぐあいに大家が来たから、頼んでここへ連れて来てもらったってわけよ」「ほんとにやんなっちゃうね、外も暗くなってきたから、かたづけは明日にすることにしたの。ところがほうきを掛けようと思ったら釘がないんだよ、ちょっと釘を打っておくれよ」「それみろ、そういうことになったら、大工のおれでなきゃ、手に負えねぇだろ、べらぼうめ」

ところが、柱と間違えて、瓦釘という長いやつを壁に打ちこんでしまいます。長屋は棟続きなので、隣に突き抜けて物を壊したかもしれません。かみさんが心配し「おまえさん、落ちついてよくあやまるんだよ。落ちつきゃあんたも一人前なんだから」と、いい含めて聞きに行かせると、亭主は向かいの家に入って、またおおしくじり。

すったもんだでようやく隣に行けば、隣の主人に、「つかぬことをお伺いしますが、お宅のおかみさんとは、ちゃんと仲人があって一緒になりましたか?」「たしか仲人が入ってもらいましたよ。それがどうかしましたか」「実はあっしどもは……」と、ノロケかたがたなれそめ話。「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出し、調べてもらうと、仏壇の阿弥陀様の頭の上に長い釘の先が出ています。「こりゃ大変だ。明日からここへほうきをかけにこなくちゃ」と、トンチンカンなことをいうので、「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家族は何人で?」「へえ、女房と、3年前から中気を患ってる78になる親父と……いけねえ、元の長屋の2階へ忘れてきた」「こりゃ驚いた、親を忘れてくる人がありますか」

「なーに、親を忘れるくれぇ当たりめぇ、酒飲むと、ときどき我を忘れます」


「4月26日にあった主なできごと」

BC479年 孔子死去…古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた孔子が、亡くなったとされる日です。孔子の教えは、弟子たちの手で『論語』としてまとめられ、孔子を始祖とする思想・信仰の体系は「儒教」と呼ばれ、江戸時代には、もっとも大切な学問とされていました。

1863年 牧野富太郎誕生…明治・大正・昭和の3代にわたり、植物採集や植物分類などの研究に打ちこんだ民間の大植物学者となった牧野富太郎が生れました。

1986年 チェルノブイリ原発事故…ソ連(現・ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で、後に決められた国際原子力評価尺度において最悪のレベル7に分類された爆発事故がおこり、世界を震撼させました。ソ連政府は2日後にようやく事故を発表、のちに事故は運転員の規則違反と操作ミスが主な原因で、原子炉の設計にもミスがあったともいわれています。ソ連政府の発表による死者数は33名ですが、事故処理にあたった軍人や炭鉱労働者に多数の死者が確認されています。いまも被爆者は、やけどや白血病などに苦しめられており、長期的な観点から見た場合の死者数は、数十万人にものぼると指摘する専門家もいます。

今日4月25日は、江戸幕末期に「新撰組の局長」として幕府側に立って活躍した近藤勇(こんどう いさみ)が1868年に亡くなった日です。

1834年、武蔵国多摩郡(現・調布市野水)の農民の子として生まれた勇は、15歳のとき近藤周介の剣術道場に入門し、めきめき腕をあげていきました。やがて盗人を退治するなどして認められ、1849年には周介の養子となって農民の子を中心とした試衛館道場を開き、のちに新撰組の副長となる土方(ひじかた)歳三と協力して、多摩から八王子にかけて出稽古にはげみました。

1853年のペリーの黒船による来航以来、尊王攘夷運動が高まるなか、志士の集まる京都を制圧する必要性を感じた幕府は、1863年、14代将軍家茂が京都へ上洛する際の警護する浪士を募集しました。これに応募した勇は、道場一門の土方や沖田総司らを引き連れて、2月に京都へ向けて出発しました。任務を終えた浪士組は江戸帰還するはずでしたが、近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は、京都守護職を務める会津藩主松平容保(かたもり)に嘆願書を提出して京に残留、「壬生浪士組」と名乗って活動を開始しました。結成当初は運営がスムーズに行かず、近藤派と芹沢派の二つの派閥体制となりました。

同年、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放した「八月十八日の政変」が起こると、壬生浪士組は長州藩の残党狩りに出動、働きぶりが認められ「新撰組」を名乗り、近藤らは芹沢一派を暗殺し、近藤局長・土方副長、1番隊長沖田をはじめ数十人の新体制を構築すると、日々、幕府の命ずるままに警察の役割をはたしていきました。

1864年6月の「池田屋の変」では、新撰組は独力で、もっとも過激だった尊王攘夷派の志士たちを壊滅させたことで、朝廷と幕府に高く評価されて、組員は一気に増え250名を越えるほどになりました。1867年には幕府に最も信頼される治安行動隊として「幕臣」に加えられたばかりか、近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うまでになりました。

しかし、時代は急速に流れ、鳥羽・伏見の戦いで薩摩・長州率いる官軍に敗れた新撰組は、幕府軍艦で江戸にもどり、幕府の命を受けて名を変えながら隊を再編して甲府へ出陣。しかし、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走、下総国流山で新政府軍に包囲されて出頭し、近藤は33歳で斬首されたのでした。その後土方は、榎本武揚とともに箱館(函館)の五稜郭にたてこもり、蝦夷共和国をこしらえて新政府軍に抵抗、近藤の死の翌年、最後の抵抗戦で戦死しました。

近藤や土方の生涯は、殺人者集団として反革命の象徴でしたが、幕府譜代の大名や旗本たちが幕府を見捨てるなか、あくまで幕府いちずに戦い続けて斬首、戦死した行動に共感する多くの人たちに支持されています。


「4月25日にあった主なできごと」

1599年 クロンウェル誕生…イギリス清教徒革命で、議会を率いて王党派を破り、国王を処刑して独裁政治を行ったクロンウェルが生れました。

1840年 チャイコフスキー誕生…『白鳥の湖』『くるみわり人形』などのバレー組曲をはじめ、交響曲『悲愴』など数々の名曲を残したチャイコフスキーが生れました。

1953年 DNAの構造…イギリスの科学誌『ネイチャー』に、英米の科学者二人がDNA(デオキシリボ核酸)が、生物の細胞にめずらしい構造をもっていることを発表しました。この発見により、生物学は大きく発展、最近では犯罪捜査の犯人割り出しにDNA鑑定が威力を発揮しています。

今日4月24日は、戦国から安土桃山時代にかけての武将で、信長の後継争いで秀吉に敗れた柴田勝家(しばた かついえ)が、1583年に亡くなった日です。

柴田勝家の子ども時代のことは、生年も出身地もほとんどわかっていません。若いころから尾張の織田家の家臣で、織田信長の父信秀に仕え、信秀の死後に家督をついだ信長の命により、信長の弟信勝の家老として仕えました。しかし1557年ころ、信勝が信長を倒そうとする謀反を計画したとき、勝家は信長に事前に密告したといわれ、信勝は自刃に追いやられ、勝家は信長の家臣となりました。

信長の天下統一をめざす重なる戦いで、常に織田軍の忠臣のひとりとして戦功をあげるうち、信長に重く用いられるようになった勝家は、1575年に朝倉氏平定後の越前国北ノ庄(現・福井市)を与えられ、北陸地区の総司令官となりました。1580年には、数十年も勢力を誇ってきた加賀一向宗を制圧して能登・越中にも進出を果たし、名実ともに織田家の筆頭家老に昇りつめました。

1582年の「本能寺の変」で信長が亡くなったあと、織田氏の後継者問題では、信長の3男・信孝を推した勝家は、信長の孫・三法師(のちの織田秀信)を推す秀吉と対立。信長を倒した明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった秀吉の力が勝り、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなりました。さらに信長の遺領配分においても河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江と長浜城を得るにとどまって、勝家と秀吉の立場は逆転してしまいました。

まもなく勝家は、信長の妹で浅井長政の未亡人だったお市の方と結婚することで、秀吉との跡目争いをエスカレートしていきました。しかし、権謀術策に勝る秀吉に追いつめられ、1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗れて、越前北ノ庄城にたてこもったものの不利を悟って、お市とともに自害したのでした。お市の3人の娘は城を出て、秀吉のもとに身を寄せ、のちに長女・茶々は秀吉の夫人の淀君に、次女・初は京極高次正室、三女の江は徳川第2代将軍秀忠正室・3代家光の母となったことはよく知られています。

なお、勝家は乱世を生き抜く鋭敏さに欠け、運にも見放された人物で、秀吉の人気の陰に隠れて評判はいまひとつですが、人間的な暖かさを持った武将という評価が与えられるようになっています。


「4月24日にあった主なできごと」

1951年 桜木町事故…京浜東北線の電車が、桜木町駅到着寸前に切れた架線にふれて1・2両目が炎上、木製屋根と旧式の3段開き窓のため乗客は逃げ切れず、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。この事故から、電車の鋼鉄化が急速に促進されました。

1955年 アジア・アフリカ会議…インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となって、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議」が開催され、この日反植民地主義・民族主義・平和共存など世界平和と協力の推進に関する宣言・平和十原則を採択、アメリカ(西側諸国)、ソビエト(東側諸国)のどちらの陣営にも属さない、いわゆる第三世界の存在を確立しました。

今日4月23日は、イギリスのエリザベス朝演劇を代表する劇作家シェークスピアが、1616年に亡くなった日です。『ハムレット』『ロミオとジュリエット』などの悲劇をはじめ、『べニスの商人』『ジュリアス・シーザー』など、さまざまな人間の、ゆれ動く心を描いた傑作を数多く残しました。その作品は、時代をこえて、多くの人に感動を与えています。

ウィリアム・シェークスピアは1564年、イギリスのストラトフォード・オン・エーボンという小さな町に生まれました。父は農産物と雑貨をとりあつかう商人で、一時は成功して高い地位につきました。しかし、商売に失敗して家が急におちぶれてしまったため、シェークスピアは学校にはあまり長く通えませんでした。

18歳で結婚したシェークスピアでしたが、2年余り後には妻や3人の子を残して、ひとりロンドンへ出てしまいます。ロンドンでは劇場の雑役から出発して、やがて俳優となり、劇作も手がけるようになりました。劇作家として第一歩をふみだしたシェークスピアは、人間の姿をたくみに描き、一作ごとに世間の評判を高めていきました。

当時イギリスは「エリザベス朝」とよばれる時代でした。強国だったスペインに勝って、大変景気の良い明るい時代になりました。学問や芸術がいっせいに活動を始める躍動する空気を感じて、シェークスピアも生き生きとした作品を発表します。初めのころに書いた作品の多くは『真夏の夜の夢』『ベニスの商人』などの喜劇でしたが、『ロミオとジュリエット』は青春と愛を歌いあげた悲劇的な作品です。他に、歴史劇には『ヘンリー4世』などイギリスの歴史からとったものと、『ジュリアス・シーザー』などプルタークの英雄伝からとったものがあります。

30歳後半のシェークスピアは、人間の暗い部分をえぐりだすような悲劇を書きました。4大悲劇といわれる『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』などです。これらは、『ロミオとジュリエット』のように人間の純粋さ、美しさを描いた作品とはちがい、いずれも人間の心の弱さやみにくさを掘り下げています。

シェークスピアの作品は、読まれるためではなく舞台で演じられるために書いた「戯曲」です。したがって、複雑な舞台装置などはあまりないため、時間の経過や場面の移り変わりは、セリフで工夫しなければなりません。その洗練された言葉の新鮮さは、いまだに失われていないところに偉大さがあります。

シェークスピアは、劇作家として名声の点でも第一人者となっていましたが、50歳ころに突然書くことをやめて、故郷へ帰ってしまいました。なぜ引退したのかは、いまだに良くわかっていません。いなかの自然に囲まれて、静かにくらしたシェークスピアは、1616年、52歳で亡くなりました。

なお、世界文学史上、シェークスピアほど有名な作家はあまりいないのにもかかわらず、伝記的な史料がほとんどないため、詳しい生涯はナゾにつつまれたままです。作品のほとんどはその死後に親しかった人たちによって出版されたためです。シェークスピアの残した戯曲37編の内容については、ネットで公開している「シェイクスピア劇全作品解説」が参考になります。


「4月23日にあった主なできごと」

1863年 寺田屋騒動…薩摩藩主の父で事実上の指導者島津久光の公武合体論に不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七ら6名は伏見の船宿寺田屋に集まり、幕府の要人の襲撃を謀議中、久光の命を受けた藩士らに殺されました。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策を実現させるために江戸へ向かいました。

1949年  1ドル360円…GHQはこの日、日本円とアメリカドルの交換レートを1ドル360円と定めました。このレートは1971年まで22年間にわたって維持されました。ちなみに、明治初期の1ドルは1円と定められていました。

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