児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年03月

今日3月8日は、児童文学の名作として知られる『ひきがえるの冒険』(邦題「たのしい川辺」)を著わしたイギリスの作家グレアムが、1859年に生まれた日です。

スコットランドのエディンバラに生まれたケネス・グレアムは、5歳のときに母を亡くし、ほどなく父親は4人の子を捨てて家を出てしまいました。孤児になったグレアムは祖母に引き取られ、テムズ川に近い田舎で少年時代をすごしました。中学を最優秀の成績で卒業し、オックスフォード大学への入学を希望しましたが、学費をねん出できず、17歳でイングランド銀行に就職、その人柄の良さと実務能力が高く評価され、39歳でイングランド銀行の総務部長にまで出世しました。40歳で結婚、翌年アラステアが生まれました。しかし、夫人との性格があわず結婚生活は不幸なものでした。しかも、生まれた時から片目が見えないという障害を持って生れたアラステアはずっと健康の問題で苦しみ続け、20歳のときに鉄道自殺をしてしまいます。49歳のときに体調を崩して銀行を退職した晩年のグレアムは、その後はペンをとることはなく、1932年73歳の生涯を閉じたのでした。

20世紀前半のイギリス児童文学のうちでも不朽の名作といわれる『ひきがえるの冒険』は、ひょんなことから世に出た作品です。グレアムは、一人息子のアラステアのために、4歳のころから毎晩自作のお話を聞かせていました。アラステアが旅行に出たとき、せがまれて話の続きを手紙に書いて送っていました。たまたまその手紙を見て感銘した知人の女性が、グレアムに物語を本にして出版するようにすすめたのがきっかけでした。

この物語のおもしろさは、何といってもヒキガエルの天衣無縫な生き方でしょう。大きな屋敷に住む大金持ちのヒキガエルは、ほらふきで、めずらしもの好きで、あきっぽく、人が良くて、いつも何か新しものを追いかけては、テムズ川の岸辺に住むネズミやモグラ、アナグマたち住人の話題になっています。モグラが知り合ったときはボードに夢中になっていましたが、すぐに馬車に夢中になり、今は自動車に夢中です。ヒキガエルの乱暴な運転のために、家の庭は自動車のこわれたくずが山となったばかりか、何度も病院にかつぎこまれるしまつ。住人たちはヒキガエルに意見して、自動車の運転ができないように家に閉じこめてしまいました。ところが、窓から逃げ出したヒキガエルは、他人の自動車を運転して事故をおこし、監獄にぶちこまれてしまいます。ヒキガエルが、後悔の涙を流しているのを見た看守の娘は、同情して逃がしてくれたため、やっとのことで家にもどることができました。ところが、大きな屋敷は、森の住人のテンやイタチの軍団が占拠してしまっていたため、中に入れません。泣きさけぶヒキガエルに同情したアナグマら友人たちと、秘密の地下道を通って自分の屋敷にしのびこみ、大乱闘のすえについに敵を追い出し、もとの屋敷におさまることができました……。

この物語のもうひとつの魅力は、柳のあいだをふくそよ風、ごちそうの入ったバスケットを用意した楽しい川遊び、黄色く色づいた麦畑の中の散歩、そして川辺の住人たちのつつましくも豊かな生活ぶりでしょう。日常のささやかな喜び、炉ばたの語らい、心のこもった朝食、それが川辺で何時間も小さな動物を見てすごした幼き日のグレアムの夢だったのでしょう。今も新しい読者を増やし、以前読んだことがある人も、春の大掃除のころになると、必ずまた読みたくなるといわれるふしぎな本です。

なお、いずみ書房のホームページで公開している「オンラインブック」のうち「レディバード100点セット」62巻目『柳にそよぐ風』では、日本語抄訳を通して、ヒキガエルの冒険の詳しい内容にふれることができます。


「3月8日にあった主なできごと」

1917年 ロシア革命…1914年に第1次世界大戦が始まると、経済的な基盤の弱かったロシア帝国は、深刻な食糧危機に陥っていました。この日、首都ペトログラードで窮状に耐えかねた女性労働者たちのデモがストライキを敢行、兵士たちもこれを支持しました。事態を収拾できなくなったニコライ2世が退位して、ロシア帝国は崩壊。この「2月革命」により、新しく生まれた臨時政府と各地に設置されたソビエトが対立することになりました。こうして10月に、ソビエトが臨時政府を倒して政権を樹立し、世界で初めての社会主義国家が誕生します。

1935年 忠犬ハチ公死去…飼い主が亡くなった後も、渋谷駅で主人の帰りを待ち続けたという「忠犬ハチ公」が死亡しました。渋谷駅前にあるハチ公の銅像前は、待ち合わせ場所として有名です。

今日3月7日は、管弦楽曲『ボレロ』『亡き王女のためのパバーヌ』、バレエ曲『ダフニスとクロエ』などを作曲したフランスのラベルが、1875年に生まれた日です。

フランス南西部、スペイン国境に近いピレネー地方のシブールで生まれたモーリス・ラベルは、音楽好きの父の影響で、7歳でピアノをはじめ、12歳で和声学など作曲の基礎を学びました。ラベルが音楽の道へ進むこと願った両親は、14歳のとき「パリ音楽院」へ送り出しました。音楽院に在籍した14年の間に、フォーレやペサールらの指導を受け、多くの若く革新的な芸術家と競いながら『水のたわむれ』『シェエラザード』『亡き王女のためのパバーヌ』などを発表して、世に認められはじめました。

1907年、歌曲集『博物誌』を初演すると、ある評論家からドビュッシーの盗作として非難されました。しかし『スペイン狂詩曲』が高い評価を受けるとそんな批判はおさまり、ロシア・バレエ団に要請されて作曲したバレエ曲『ダフニスとクロエ』(1912年)を発表したころには、ドビュッシーと並び、近代フランス音楽の2本の大黒柱といわれるようになりました。

第一次世界大戦中は、志願兵として参戦し、砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険な体験をしました。大戦中の1917年に母の死を知ったラベルは、創作意欲が極度に衰え、大戦後はパリ郊外に住んで作曲活動をするものの、1920年の『ラ・バルス』以降は創作ペースは年1曲程度と極端に落ちてしまいました。1920年代のフランスでは、サティを中心とする「フランス6人組」の登場や、アメリカのジャズなど、新しい音楽の広まりによって、ラベルの苦悩の時代が長く続きました。

1928年、ラベルは初めてアメリカに渡り、4か月に及ぶ演奏旅行を行いました。ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、黒人霊歌や本場のジャズに大きな感銘を受けました。この演奏旅行の成功により、ラベルの名声は世界じゅうに広まりました。

アメリカからの帰国後、ラベルはスペインの舞曲の名称をつけた管弦楽曲『ボレロ』を作曲しました。この作品は、ラベルのたくさんある曲のうちで、もっともポピュラーな曲といってよいでしょう。一つのリズム型と二つの主題をくりかえしただけでできていることと、最弱からだんだん強くなり、最強になるという珍しい特長をもっていて、一度聴いたら忘れられない印象を持つ人が少なくないようです。

ところがそれから3~4年後、ラベルは脳神経系の異常に苦しみ、『左手のためのピアノ協奏曲』などわずかの曲を作曲しただけで、1937年に生涯を終えてしまいました。


「3月7日にあった主なできごと」

BC322年  アリストテレス死去…古代ギリシアの哲学者・学者・教育者・著述家として、さまざまな学問を集大成した アリストテレス が亡くなりました。

1608年 中江藤樹誕生…人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして 「近江聖人」 とその徳望が慕われた江戸時代の儒学者 中江藤樹 が生まれました。

1778年 ハワイ島の発見…イギリスの探検家 クック がハワイ島を発見しました。翌年に上陸すると、原住民たちは神の化身として厚くもてなしたといわれています。なおハワイは、王国、共和国を経て、1898年にアメリカに合併されています。

今日3月6日は、『大地』でノーベル文学賞を受賞し、基金を設立してボランティア活動に専心したアメリカの女流作家パール・バックが、1973年に亡くなった日です。

パール・バックの両親は熱心なクリスチャンで、父は中国の江蘇省にある教会の宣教師でした。1892年に一時帰国し、母はウェスト・バージニア州ヒルスボロでパールを生むと、生後3か月で一家は中国にもどりました。パールは幼い頃から、父の教会の豊富な蔵書の中からシェークスピアや19世紀の文学に親しみました。9歳で中国人の小学校に入学したため、英語と中国語のバイリンガルとなって成長します。

1910年、女権主義者だった母の考えでパールは、革新的な教育を行っていたランドルフ・マコン女子大学に入学しました。1913年に卒業すると中国にもどり、農業経済学者のジョン・バックと結婚、愛娘キャロルを生みました。しかし、重度の知的障害をもつ子になってしまい、9年間手元で大切に育てた後、ニュージャージー州の手厚い看護の受けられる施設に預けました。このことで、バックのめぐまれない子どもたちを支えたい気持ちは、人一倍めばえたのでしょう。晩年のボランティア活動の原点でもありました。やがて、南京大学などで英文学を講義するかたわら、中国に関する論文、小説を発表し始めました。

そして1931年、親・子・孫と3代にわたる農民一家の姿を、温かい理解と同情をよせて描いた長編小説『大地』を出版すると、爆発的なベストセラーとなって、世界30か国語以上に翻訳され、翌年ピューリッツァー賞を受賞したばかりか、1938年にはノーベル文学賞を受賞して、いちやく世界的な作家となったのです。

代表作『大地』は、『大地』『息子たち』『分裂した家』の3部からなる小説の総称です。

第1部『大地』……貧しい小作農の家に生まれたの王龍(ワンロン)が、地主の館から女奴隷を妻に貰い受け、本人の努力とよく働く妻のおかげでついに大地主になることができ、残された土地を決して手放してはならないと息子たちに託して死んでいくまでが描かれます。

第2部『息子たち』……王龍の3人の息子たちは、父が苦労して得た土地に執着はなく、父の死の床で土地を売り遺産の分配の相談をはじめ、それぞれの人生を歩んでいきます。特に3男の王三(ワンサン)は、家を飛びだし軍人になり、地方の軍閥のひとつにまでのし上がったのでした。

第3部『分裂した家』……祖父王龍の血をうけつだ王三の子・王淵(ワンユアン)の物語です。母国の土地への愛着をもった青年に育ち、アメリカに渡って西洋文化の洗礼をうけて帰国すると、中国では革命がおこり時代は大きく揺れ動き、革命の波に翻ろうされる人々の姿と、訪れる新時代への希望が描かれます。

1940年代に入ってもなお、人間を温かい目でみつめたパールの執筆活動は続きますが、その重点は少しずつボランティア活動へと移り、晩年は西洋と東洋との公平な交流をはたそうと「東西協会」を設立。アメリカ軍人とアジア人の混血児たちを養子・養女として引き取り、立派な国際人に育てるために「ウェルカム・ハウス」を開設し、常時30~50人もの混血児たちを共同生活させました。そして、ノーベル賞で得た賞金や、原稿料や本の印税など、ほとんどのお金をそこにつぎこんだのです。

亡くなるまでにパールは、小説やノンフィクションの他に、児童書や絵本、翻訳など70点以上も執筆しましたが、7人の孤児を養子として自らの手で育てたり、広島における平和活動への支援をおこなったことでも知られています。


「3月6日にあった主なできごと」

1297年 永仁の徳政令…鎌倉幕府は、生活に苦しむ御家人を救うために、借金を帳消しにする「永仁の徳政令」を発布しました。そのため、武士に金を貸さなくなったため、御家人の暮しはさらに悪化、幕府の衰退につながりました。

1475年 ミケランジェロ誕生…レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロと並び、ルネッサンスの3大巨匠のひとりといわれる彫刻家・画家・建築家・詩人として活躍した ミケランジェロ が生れました。

1948年 菊池寛死去…『屋上の狂人』『父帰る』『恩讐の彼方に』などを著した小説家・劇作家で、文藝春秋社をおこし、芥川賞・直木賞を創設した実業家 菊池寛 が亡くなりました。

今日3月5日は、三井・三池炭鉱を経営し、三井財閥の総帥となって、大正・昭和初期の日本実業界のトップに立った団琢磨(だん たくま)が、1932年に暗殺された日です。

1858年、筑前国(現・福岡市)に福岡藩士の4男に生まれた琢磨は、勘定奉行だった団家の養子となって藩校に学び、1871年14歳で、旧藩主に伴って岩倉使節団に同行して渡米、そのままアメリカに留学しました。

1878年、マサチューセッツ工科大学の鉱山学科を卒業して帰国後は、大阪専門学校助教授をへて、東京大学助教授となり、工学・天文学などを教えました。

1884年、工部省鉱山局に入り、三池鉱山技師となって勤務するようになった団は、採炭技術の習得のためにヨーロッパに渡ったのち、政府から三井に売却された三池鉱山に移って、事務長に就任します。その間、三大工事といわれる三池港の築港、鉄道の敷設、大牟田川の川底にある土砂の除去を行い、渡欧の折に習得した大型ポンプ技術で、水没した勝立坑の排水問題を解決するなど、炭鉱の出炭能力を大幅に引き上げました。そうした功績が評価され、1894年には、三井鉱山の専務理事となって、三井の全鉱山の監督をすることになりました。

さらに1909年三井鉱山会長となったころには、団の手腕により「三井の富は石炭から」といわれるほどの会社となり、三井銀行や三井物産と肩を並べる「三井のドル箱」として、三井財閥形成の原動力とさせました。こうして団は、三池をバックに三井財閥の中で発言力を強め、1914年には三井合名会社理事長に就任、三井財閥の経営上の総責任者となりました。そして、工業技術に関する豊かな経験をいかし、鉱業以外にも、製鉄、造船、化学肥料、製紙などの分野にも事業を拡大させました。

また、財界の大合同をめざし、その意向を国家政策に反映させようと、1917年には、日本工業倶楽部を設立して初代理事長に就任したばかりか、1922年には井上準之助と日本経済連盟会(経団連の前身)を設立、翌年に理事長、1928年に会長となって、名実ともに日本経済界・財界のトップに立ちました。

しかし、世界的な大不況にともなって昭和金融恐慌がおきた時、三井がドルを買い占めたことが批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになった団は、東京・日本橋の三越本店入口付近で、右翼団体血盟団の男にピストルで撃たれ、暗殺されてしまいました(血盟団事件)。


「3月5日にあった主なできごと」

1929年 山本宣治の暗殺…大正・昭和初期の政治家で、山宣(やません)の愛称で親しまれていた山本宣治は、1928年に第1回普通選挙が行われた際、共産党系の労働農民党から立候補して当選しました。ところが、田中義一内閣は、全国千数百人もの労働農民党員を捕らえ、党の解散を命じたばかりでなく、共産主義者は死刑・無期刑にするという治安維持法の改正をくわだてました。宣治は敢然と反対を叫びましたが、この日改正案が衆議院を通過。この夜、宣治の宿泊先に右翼を名乗る男が押しかけ、宣治の胸を刺しました。

1953年 スターリン死去…ソ連の独裁者、共産党指導者、首相、大元帥となった スターリン が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の61回目は、『山号寺号(さんごうじごう)』というお笑いの一席をお楽しみください。

一口に芸人といいましても、いろいろな種類があります。昔は幇間(ほうかん)という芸人がいました。俗に「太鼓持ち」という男の芸者で、芸者といっしょにお座敷にあがり、客を相手にいろいろな芸を披露しました。伊勢屋の若旦那が、上野広小路あたりを歩いていますと、ひいきの幇間の一八(いっぱち)に出会いました。

「そこへ行くのは一八じゃないか」「おや、若旦那、どちらへ?」「天気もいいもんで、久しぶりに観音様へ参詣しようと思ってな」「そうですか、浅草寺ですね」「いや、観音様だ」「ですから、浅草寺」「お前は強情だね。あたしは観音様といってるだろ」「若旦那、一口に観音様といいますが、詳しくいいますと、金龍山浅草寺に安置たてまつるところの聖観世音菩薩といいます。これを山号寺号といいまして、金龍山浅草寺です。四十七士の墓のあるのが万松山泉岳寺、成田のお不動さんなら成田山新勝寺というように、山号寺号はどこにもあります」

「こりゃ、おそれいったね。さすが太鼓持ちだ。ここは下谷の黒門町、ここに山号寺号はあるか?」「ここからは見当たりません」「お前は『どこにでもある』といったぞ」「ですから、お寺のあるところならどこにもある、というつもりで申しました」「言い訳は許さない。お前も太鼓持ちだ。しゃれでもいい、山号寺号を探してみろ。できたら一円やろう、できなかったら縁切りだ。金輪ざいお前を座敷に呼ばないよ」「ありゃりゃ、こうなったら命がけで探しますよ。あるある、若旦那ありましたよ」「あった? ほんとうか」「向こうの家をごらんなさい、『おかみさん、ふき掃除』というのはどうです」「巧い。よし、一円やろう」「ありがとうございます。他にあったら、もう一円くれます?」「あたしも男だ、1つにつき一円やるよ」

「それじゃ、いきますよ。乳母車に赤ん坊をのせてお年寄りがきました。『おばあさん、子を大事』、赤ん坊は丸まる太ってますので『お子さん、肥満児』」「続けるところがいいね、はい、二円」「若旦那、あそこの病院をごらんください。『看護婦さん、赤十字』ついでに『お医者さん、いぼ痔』。あちらのお店を見てください『肉屋さん、ソーセージ』、その隣が『果物屋さん、オレンジ』」「ありゃりゃ、こんどは四円か」「ありがとうございます、その隣」「また隣か?」「『時計やさん、今何時?』『おそばやさん、卵とじ』。向こうから学生が煙草吸ってきますね、『学生さん、問題児』。警官がいます『お巡りさん、どろぼう退治』、目の前にもありました『若旦那さん、いい感じ』」「あたしを持ちあげてきたな、さすがだ、はいよ」「ありがとう存じます、お札をたっぷりいただきました」

「一八にずいぶんとられたな。じゃ、あたしもやってみよう、今やった祝儀を全部ここに出してごらん」「へえ、どっさりいただきました、こんなに」「それを残らずあたしの手の上にのせてごらん」「のせました、何のおまじないですか?」「そうしたら、あたしは着物のすそをはしょるよ」「ますますわかりませんね」「そのあと、この札を懐へ入れて…(急にかけだすと)『一目散、随徳寺』」

「ああ、『南無三、仕損じ』」


「3月2日にあった主なできごと」

1894年 オパーリン誕生…生物の起源を科学的に解き明かしたソ連(現ロシア) の生化学者 オパーリン が生まれました。

1943年 野球用語の日本語化…太平洋戦争の激化に伴って「英語」は敵性語であるとされ、この日陸軍情報部は、日本野球連盟に対し、野球用語を日本語化するよう通達を出しました。ちなみに、ストライクは「よし1本・よし2本」。三振は「よし3本、それまで!」、アウトは「よし、退(ひ)け!」、フォアボールは「一塁へ」などとなりました。

1958年 南極大陸横断に成功…イギリスのフックス隊が、ウェデル海から南極大陸に上陸し、南極点を通ってロス海に到達するまで3360kmの行程を、99日間の苦しい旅の末に、この日横断に成功しました。

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