児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年03月

「おもしろ古典落語」の64回目は、『そこつ長屋(ながや)』というお笑いの一席をお楽しみください。

ある長屋に、そそっかしい人間がふたり、隣あって住んでいました。片方はマメでそそっかしい八五郎、もう一方は無精でそそっかしい熊五郎で、兄弟と同じように仲よしの間柄。ある日のこと、八っつぁんが、いつものように浅草の観音様にお参りをして帰り道、雷門を抜けて広小路にさしかかると、黒山の人だかりです。

「少々うかがいますが、大勢さんが立っていますが、なにかありましたか?」「生き倒れだそうです」「生き倒れ? なにかの見世物ですか」「人が倒れてるんです」「そうですか、あっしにも、見せておくんなさい」「あたしも見たいんですが、これだけ大勢の人ですから、なかなか前へ進めません」それじゃ奥の手を使おうと、ハっつぁん、前の人の股ぐらをくぐって、一番前に顔を出しますと、そこに町役人らしい人が立っています。

「さぁ、みんな、ボンヤリいつまでも見てないで、後ろの人にかわりなさい。おや、おかしなところからはい出してきた人、あんたこっちへいらっしゃい」「へぇ、ありがとうござんす」「礼なぞいらない。コモをまくって、この生き倒れの顔をよく見て、もし知ってる人だったら、そういっておくれ」「へぇ、あれ、ずいぶんよく寝てますね」「寝てるんじゃない、死んでるんだ」「死んでる? じゃ、『生き倒れ』じゃなくって、死に倒れじゃないか」「そんなことより、どうだ、おまえさんの知ってる人じゃないか?」「ありぁ、こりゃ、熊のやろうだ!」「お前さんの知ってる人かい?」「おんなじ長屋の隣同士、生れたときは別々でも、死ぬ時も別々ってぇ仲だ」「当たり前じゃないか」「そうさ、当たり前の仲よしなんだ。しっかりしろっ!」「もう、死んでるんだよ」「なんで死んだんだ、わけをいえ」「馬鹿なこといってないで、すまないが、この人のおかみさんにでも、知らせてくれないか?」「こいつは、一人もんだし、親戚もいない」「それじゃ、兄弟みたいにしているあんたが、ひとまず引き取ってくれませんか?」「そりゃ、ダメだ。あとで、あのやろう、うめぇこといって持って行っちゃった……なんて、痛くもねぇ腹をさぐられてもこまる。じゃ、こうしましょう、ここへ当人を連れてきましょう」

「熊っ、開けろ! クマっ(どんどん戸をたたく)」「なんだい、兄貴、ばかにあわてて、どうした?」「どうしたはねぇだろ、落ち着いてる場合じゃねぇだろ」「なんかあったのかい?」「おめぇって男は、なんてなさけねぇヤツなんだ」「いけねぇ、またしくじったか」「いいか、よく聞けよ、おめぇは、雷門の前で行き倒れなんだぞ」「生き倒れって、死んでるんだろ。まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねぇけどな…」「おめぇ、夕べはどうしてた?」「浅草へ飲みに行って、五合くれぇ飲んだかな、ブラブラ歩きながら帰って来た」「どこを通って?」「観音様の脇を通って…」「それから?」「覚えてねぇ…、でも家にはちゃんと帰ってる」「それが何よりの証拠だ。お前は悪い酒を飲んで当たったんだ。観音様の脇まできたんだが、我慢が出来なくなって、それっきりよ。死んだのも気がつかないで、帰ってきたんだ」「へぇ、そうだったのか」

「あらら、また来たよ、さっきの人だ。どうだい、間違っていただろ」「冗談いっちゃいけねぇ、ちゃんと本人を連れてきました。おう、熊っ、まだ死骸はさっきのままだ」「あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。本人という人、死骸をよくごらん」コモをまくると、当人、役人が止めるのも聞かず、死体を抱いて、「トホホ、これがオレか。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかったな。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」「何が」「抱かれてるのは確かにオレだが……、

抱いてるオレは、いってぇ、誰なんだろう」


「3月23日にあった主なできごと」

1910年 黒沢明誕生…映画『羅生門』でベネチア国際映画祭でグランプリを獲得した他、『七人の侍』『生きる』『椿三十郎』など、数多くの映画作品の監督・脚本を手がけ、国際的にも「世界のクロサワ」と評された 黒沢明 が生まれました。

今日3月22日は、『ごんぎつね』『手袋を買いに』などを著わした児童文学作家の新美南吉(にいみ なんきち)が、1943年に亡くなった日です。

1913年、愛知県半田市に生まれた新美は、半田中学時代から俳句や詩、小説、童話、童謡、戯曲に興味をもち、創作をするようになりました。卒業後、半田小学校の代用教員をするかたわら、鈴木三重吉の主宰する雑誌『赤い鳥』に投稿しつづけるうち、1932年に『ごんぎつね』が掲載されたほか、『のら犬』など童話4編と、童謡23編が同誌に掲載されました。

三重吉に高く評価された新美は、まもなく上京して東京外語学校(現・東京外語大学)に入学、結核におかされましたが、卒業後、安城高等女子学校の教師をしながら、童話や童謡、児童劇など、旺盛な執筆活動を続けました。教師としてもユニークな活動をし、学芸会のたびにオリジナル劇を創作したり、日記を書かせては毎日感想を記すなど、その行動は特筆に値するものがあります。

1942年から43年にかけて、『おぢいさんのランプ』『花のき村と盗人たち』『牛をつないだ椿の木』の3つの童話集を完成させましたが、結核の悪化のために、29年の短い生涯を閉じてしまいました。しかし、生前から友人として新美を応援してきた童謡詩人の巽聖歌らの努力もあって、太平洋戦争後にしだいに価値が認められ、『ごんぎつね』や『手袋を買いに』などが教科書に採用されたことで、いまも人気作家となっています。

新美は、地方で教師を務め、若くして亡くなった童話作家という共通点から 宮沢賢治 との比較されることがよくあります。賢治が独特の宗教観・宇宙観で作品を描いたのに対し、南吉はあくまでも一般庶民の視点から、身のまわりの生活の中から題材を見つけだした素朴な作品が多いのが特長です。出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、実家や作品ゆかりの場所をめぐるウォーキングコースも作られています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、新美の代表作『ごんぎつね』『おじいさんのランプ』『手袋を買いに』など、106編を読むことができます。


「3月22日にあった主なできごと」

1832年 ゲーテ死去…、「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた ゲーテ が亡くなりました。

1925年 ラジオ放送…東京放送局が、ラドオの仮放送を開始しました。NHKは、日本の放送のはじまりを記念して、1943年から「放送記念日」と制定しています。

今日3月21日は、平安時代初期の僧で「弘法大師」の名でしたしまれている空海が、835年に亡くなった日です。

774年、讃岐国多度郡(現・香川県善通寺市)の名門佐伯氏の子として生まれ空海は、少年時代から神童とさわがれるほどかしこく、14歳のころから都へでて母方のおじに儒教を学んだのち、17歳で、官吏になるための大学へ入りました。

ところが、自分の出世と利益のために学問をすることが、しだいにつまらなくなり、やがて、大学をやめると四国の山やまをめぐって修行をつみ、19歳で僧になりました。儒教、道教、仏教の3つを学びくらべた空海は、すべての人びとが幸福になれる世の中をつくるためには、仏教に生きる道こそ最高だと信じるようになったのです。

僧になっても大きな寺へは行かずに、ひとりで修行と学問をつづけていた空海は、804年に、最澄 とともに遣唐船で唐の国へ渡りました。
都の長安では、仏教以外にも美術、工芸、当時の科学技術、医学なども学びました。そして「いっしょうけんめいに祈れば、生きたままでも仏になれる」と教える真言密教を深く学んで、およそ2年ののちに、たくさんの経典や仏像を持って日本へ帰ってきました。

唐からもどり、仏の道をやさしく説いた空海は、密教を広めるために真言宗を開きました。809年に即位した嵯峨天皇ともまじわりが深くなり、816年には、許しをえて高野山に金剛峰寺を建てて、真言宗の聖地とさだめ、修行場としました。

空海は、唐から帰っておよそ10年のあいだは、天台宗を開いた7歳年上の最澄としたしくしました。しかし、しだいに仏教に対する考えがくい違うようになり、高野山にのぼったころには、きっぱりと別れてしまいました。

仏教をきわめるだけではなく、はば広い学問を身につけ、さらに民衆を深く愛した空海は、全国を歩いて社会のためにも力をつくしました。47歳のときには郷里の讃岐国へ行って、洪水でこわれた満濃池の堤防を、土地の人びとといっしょになって修理しました。また、54歳のときには、京都に綜芸種智院という学校を建てて、身分の高いものにかぎらず、だれにでも学問を学べるようにしました。

空海は、61歳で亡くなりましたが、死後86年たった921年に、朝廷から弘法大師の号がおくられました。空海は、文芸の道にもすぐれ、とくに書道は、この時代の三筆のひとりとたたえられたほどでした。「弘法にも筆のあやまり」「弘法筆を選ばず」などのことばが残っているのは、そのためです。


「3月21日にあった主なできごと」

1685年 バッハ誕生…宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めた バッハ が生まれたました。

1972年 高松塚古墳の極彩色壁画…奈良県明日香村にある高松塚古墳石室で、千数百年前の彩色壁画が発見され、鮮やかに描かれ白虎や青竜、女子群像など4面は、国宝に指定されています。

今日3月19日は、幕末に前土佐藩主山内容堂を説いて大政奉還につなげ、明治期には「自由民権運動」や「大同団結運動」を指導した政治家・後藤象二郎(ごとう しょうじろう)が、1838年に生まれた日です。

土佐藩士の長男として高知城下に生まれ象二郎は、幼い頃から1歳上の 板垣退助 と竹馬の友として成長。少年期に父を失って親族に預けられ、義理の叔父で、藩の要職にあった吉田東洋の少林塾に学びました。やがて、吉田に推されて、藩の普請奉行として活躍しますが、吉田が暗殺されると失脚。江戸に出て開成所に入り、蘭学や航海術、英学を学びました。

1864年に藩政に復帰すると、前藩主で実権を握っていた山内容堂の信頼を得て要職に就き、公武合体派の急先鋒として武市瑞山ら土佐勤王党を弾圧するいっぽう、殖産興業のための機関として開成館を作って長崎に出向き、イギリス商人から汽船などの買い入れを行いました。そのころ、長崎で 坂本龍馬 と会い、龍馬の意見をとり入れて大政奉還論を容堂に説きました。そして1867年10月、容堂とともに連署して大政奉還建白書を第15代将軍・徳川慶喜 に提出し、慶喜がこれを受けて、歴史に残る大政奉還を実現させました。

土佐藩を代表して板垣退助とともに明治新政府に入った象二郎は、大阪府知事を経て、最高官職である参議に就きましたが、1873年の征韓論争に敗れて 西郷隆盛 や板垣らと共に政府を去りました。翌年、板垣をはじめ江藤新平・副島種臣らと愛国公党を結成すると、「民選議院設立建白書」をさしだして、自由民権運動のきっかけを作りました。まもなく、明治政府の立法機関だった元老院の副議長を務めた象二郎でしたが、1874年には実業界に転身して、高島炭鉱の経営に乗り出すものの2年後に破綻させてしまいました。

1881年、自由党の結成のさいには、板垣に次ぐ副党首として参加しましたが、翌年政府の誘いに乗り、三井の資金で板垣とともに洋行したことが判明し、自由党員からも非難されました。1886年、条約改正問題をきっかけにおこった自由民権各派を統一して反政府運動をくりひろげる「大同団結運動」の中心となって行動しましたが、政府の弾圧が高まると、同志を裏切って1889年黒田清輝内閣の逓信大臣となり、運動から手を引きました。

その後、山県有朋内閣や松方正義内閣で逓信大臣、第2次伊藤博文内閣では農商務大臣などを歴任しましたが、1894年、商品取引所の開設にまつわる収賄事件などで政治家としての信用を失い、1897年に不遇のうちに死去しました。


「3月19日にあった主なできごと」

1813年 リビングストン誕生…文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家の リビングストン が生まれました。

1982年 フォークランド紛争…アルゼンチン軍が、イギリスと領有権を争うフォークランド諸島のジョージア島に上陸。果敢な航空攻撃でイギリス海軍艦に大きな損害を与えましたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、約3か月後に降伏しました。

「おもしろ古典落語」の63回目は、『孝行糖(こうこうとう)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「大家さん、このたびはおめでとうございます」「長屋のみなさん、わざわざすまないね、上がっておくれ」「今年21になるあのウスバカの与太郎が、親孝行のほうびに、お奉行さまからごほうびをちょうだいしたそうで」「そうなんだ、青ざし五貫文いただいたんだ。これをあいつに渡すと、すぐ使ってしまって何にもならない。そこでだ、この銭(ぜに)をもとに、商売をさせようと思ってな、何かいい商売はないかな」

「大家さん、こんなのはどうですかな。死んだ親父から聞いた話ですが、昔、大坂に嵐璃寛(りかん)という役者と、江戸に中村芝翫(しかん)という役者がいましてね、璃寛が江戸に出て、芝翫と初顔合わせの興業をやったところ、連日大入りの大盛況だったそうです」「そいつは大したもんだ」「それにあやかって、璃寛糖と芝翫糖という飴を売り出して、はやらせた人がいたんだそうです」「ほう、そいつはおもしろそうだ。どんなふうに飴を売ったんだい?」「頭巾をかぶりましてね、前へ鉦(かね)と太鼓をつるしまして、『チャンチキチン、スケテンテン』という鳴り物がうけたそうです」「ふーん、どんな調子だい?」「やってもいいですか?」「かまわないよ、遠慮なくやっとくれ」「ありがとうございます。家でやると女房がいやがりますんで。では『璃寛糖と芝翫糖。二つの飴の本来は、粳(うる)の小米に寒晒し、榧(かや)に銀杏(ぎんなん)、肉桂(にっき)に丁字(ちょうじ)。チャンチキチン、スケテンテン』」「うれしそうだな」「で、なりは璃寛糖と芝翫糖と同じようにハデにして、飴の名前を『孝行糖』にかえるんです」「そいつはいい、親孝行でほうびをもらったんだからな。上手くいきそうだな、こりゃ」

「その先の口上をつけさせてくださいな」「おや、吉兵衛さんもなにか?」「唐土(もろこし)の二十四孝の一人、老莱子(ろうらいし)という人がいたそうで、70の歳なのに、わざと踊りながら幼子の真似をして、両親を励ましたんだそうです。与太郎も踊りながら飴を売って歩けば、老莱子のように、親孝行ができるというわけです。で、その売り声をやっていいでしょうか」「また始まったな、かまいませんよ」「家でやりますと、子どもがいやがりますもんで」「お前さんとこに子どもはいねぇはずだけど」「いたら、間違ぇなくいやがります。『昔むかし唐土の、二十四孝のその中で、老莱子といえる人。親を大事にしようとて、こしらえあげたる孝行糖。食べてみな。ホラ、おいしいよ。親孝行をしたくなる! スケテンテン、テンドコドン』」「うまいね、その2つの売り声をつなげて、与太郎に教えてやっておくれ」「おれは、太鼓を買ってくる」「こっちは飴をなんとかしよう」

それからというもの、総出で与太郎に歌を暗記させました。ナントカの一つ覚えとかいいますが、かえって普通の人より早く覚えたので、町内で笛、太鼓、身なりもにそっくり支度してやって、与太郎はいよいよ飴売りに出発します。「孝行糖、孝行糖、孝行糖の本来は、うるのこごめにかんざらし、かやにぎんなん、にっきにちょうじ。チャンチキチン、スケテンテン。昔むかしモロコシの、二十四孝のその中で、老ライシといえる人。親を大事にしようとて、こしらえあげたる孝行糖。食べてみな。おいしいよ。親孝行をしたくなる! スケテンテン、テンドコドン」と流して歩きます。

「妙な奴がきたね。なんだい、ありゃ」「今評判の親孝行の飴やだ」「お奉行さまにほめられたって、あれかい? なんかボーっとしてるね」「だからみんなで手を貸して、飴やをやらせてるんだ」「よし、買ってやろう。おい、飴や」「なんだ」「いばってるね、飴や、歳はいくつだ」「去年はたしか、ハタチだった。ことしは、イタチ」「イタチって歳があるか。飴はいくつあるんだ」「ハタチくらい」「飴がハタチってこたぁねぇだろ、いくらだい?」「ハタチ」「しょうがねぇな、こいつは。四文もやればいいな、手を出せ。おいおい、銭をしまうのはいいが、飴をくれなくちゃいけねぇな」「ほら」「『ほら』はねぇだろ、商人(あきんど)は『ありがとうございます』ぐれぇはいってごらん」「どういたしまして」「こういう飴やもなかなか面白ぇ、オレも買ってやるよ」「おいらも買うよ」

この飴を買って食べさせると、子どもが親孝行になるといううわさも広がって大評判。売れると商売にも張り合いが出るもので、与太郎、雨の日も風の日も休まず、相変わらず声を張り上げ、踊りながら売り歩きます。ある日、水戸さまの屋敷前を通りかかります。江戸市中で一番やかましかったのがここの門前、少しでもぐずぐずしているとたちまち門番に六尺棒で「通れ」と追い払われることで有名でした。ところが与太郎、そんなことは知りませんから、「孝行糖、孝行糖、孝行糖の本来は、うるのこごめにかんざらし……」とやりましから、門番、「とおれっ!」「昔むかしモロコシの、二十四孝のその中で…」「行けっ!」「食べてみな、おいしいよ」「ご門前じゃによって鳴物はあいならん!」「チャンチキチン」「ならんというんだ!」「スケテンテン」「こらっ!」「テンドコドン」……どなり声を鳴物の掛け声に使いましたから、たちまち六尺棒でめった打ち……。

通りかかった人が、「逃げろ逃げろ……どうぞお許しを。ウスバカではございますが、親孝行な者……これこれ、こっちぃこい」「痛ぇや、痛ぇや」「痛いどころじゃねぇ。首斬られてもしょうがねぇんだぞ。……どこをぶたれた」と聞くと与太郎、

頭と尻を押さえて「ココォと(孝行糖)、ココォと(孝行糖)」


「3月16にあった主なできごと」

1600年 リーフデ号漂着…難破したオランダ商船「リーフデ号」が、豊後国(大分県)の臼杵に漂着しました。この船に乗っていたウイリアム・アダムスは「三浦按針」として徳川家康に仕えました。

1934年 国立公園…日本で初めて、瀬戸内海・雲仙・霧島国立公園の3か所が指定されました。現在では、阿寒・大雪山・支笏洞爺・知床・利尻礼文サロベツ・釧路湿原・十和田八幡平・磐梯朝日・陸中海岸・日光・富士箱根伊豆・秩父多摩甲斐・南アルプス・小笠原・尾瀬・中部山岳・伊勢志摩・上信越高原・白山・吉野熊野・山陰海岸・大山隠岐・足摺宇和海・阿蘇くじゅう・西海・西表石垣国立公園が加わり、計29か所になっています。なお国立公園とは、国が指定し保護・管理をする自然公園のことです。

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