児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年03月

「おもしろ古典落語」の65 回目は、『武助馬(ぶすけうま)』というお笑いの一席をお楽しみください。

武助が元の主人のところに久しぶりに帰ってきました。「あれからどうしてた?」「へぇ、こちらをおいとまいただきましてから、何をやってもうまくいかないもんで、上方へ行って役者の修行をいたしました」「ほう、舞台に出たのかい?」「へぇ、出ました。はじめにやったのは忠臣蔵の五段目で」「ありゃ、いい芝居だ。で、おまえの役は?」「猪(いのしし)をやりました」「いのしし? 最初からいい役は無理だな、そのあとは?」「先代萩のねずみ、それから和藤内の虎、慶安太平記の犬をやりました」「十二支ばかりだね、人間の役にはありつけなかったのかい」「上方じゃ無理だと思いまして、また、こっちへもどってきて、新しい親方のもとではじめたもんで、ごあいさつに伺ったようなわけで」「そうか、まぁ、なんにしても家にいた者が役者になったんだ、これからひいきにしてやろう、芸名はなんとつけた?」「まだ、芸名はございませんで、本名の武助でやっております」「武助のままか。それで、どこの座にでるんだ?」「新富座へ出ます。どうかひとつ見物をねがいたいもんで」

「演目はなんだ?」「一ノ谷嫩(ふたば)軍記」「おぅ、熊谷直実が若武者の平敦盛を討つあれだな。おまえの役は?」「へい、組み討ちのところにでますんで」「えっ! あそこは二人だけの芝居だが、まさかおまえが熊谷や敦盛をやるはずはないな…」「馬でございます」「おや、こんどは馬か」「そうおっしゃいますが旦那、馬の足ってのはなかなかむずかしいものですよ。人間が二人で一ぴきの馬になるんですから、前足と後足の息があわなけりゃ、とても歩けません」「おまえはどっちの足だ、前足か?」「いえ、前足は熊右衛門てぇのがやりまして、わたしは後をやります」「うーむ、馬の足の見物っていうのもパッとしねぇが、祝儀がわりだ、みんなを連れていくよ」

元の主人は約束したとおり、店の者や出入りの者を引き連れまして、早くから乗り込み、楽屋へもごちそうを届けたりしましたから、ほかの役者も大喜びです。武助も本番前の練習に余念がありません。そうこうしているうちに出番が近づきますが、前足をやる熊右衛門がいません。探してやっと見つけると、一杯飲んで、いいごきげん。「武助、さっき茶屋のほうへ顔を出したら、おめぇのお客さんにね、酒をしたたかごちそうになっちゃったんだよ。おまけに楽屋に帰ってくりゃ、うなぎのごちそうだ。おなじ馬の友だちにごひいきがついたんじゃ、いっしょに喜ばなきゃならねぇと、ありがたく二人前食っちゃった。おかげで、腹いっぱいだ」しっかりしろと、馬をかぶって準備すると、熊右衛門は大きなおならを一発。鼻が曲がるほどの匂いに、後ろ足の武助はたまりません。

出番が来て、舞台に馬が登場します。主人に連れてこられた客は、ほめなきゃならないと、「馬の後足!、日本一」「うめぇぞ、武助馬!」と変な掛け声をかけます。武助は声をかけられて調子に乗り、馬の後足を熱演。前足は酔っ払い、後足は張り切った武助。馬に乗っている役者は、乗っているのが精一杯。張り切った武助は、後足なのにヒヒーンと鳴き、客は笑いの渦と化しました。

幕が下りた後、武助は親方の元に呼ばれます。「親方、ありがとうございました。おかげさまで、見物の人が、たいそう後足をほめてくださいました」「ばか野郎っ、武助、てめぇ鳴きやがったな」「へぇ、声はどうでござんしたか」「ばかっ、まだわからねぇのか。おまえは後足だろ、後足が鳴いたんじゃしょうがねぇだろ」

「でも親方、熊右衛門は前足なのに、おならをしました」


「3月30日にあった主なできごと」

1746年 ゴヤ誕生…ベラスケスと並びスペイン最大の画家のひとりである ゴヤ が誕生しました。

1853年 ゴッホ誕生…明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家 ゴッホ が生まれました。

1867年 アメリカがアラスカを購入…デンマーク生まれでロシア帝国の探検家であるベーリングは、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを18世紀半ばに確認して以来、ロシアは毛皮の貿易に力をそそぎ、1821年に領有を宣言していました。その後財政難に陥ったロシアは、この日アメリカに720万ドルで売り渡す条約に調印しました。1959年、アラスカはアメリカ合衆国の49番目の州になりました。

1987年 ゴッホ『ひまわり』落札…在命中には、わずか1枚しか売れなかったゴッホの作品でしたが、この日に行なわれたロンドンのオークションで『ひまわり』(7点あるうちの1点)が史上最高価格53億円で落札されました。落札したのは安田火災海上保険(いまの損保ジャパン) で、現在は「東郷青児美術館」で公開されています。

今日3月29日は、中国(前漢)の第7代皇帝で、始皇帝がなしえなかった古代帝国を築き上げ、前漢の全盛期をつくった武帝(ぶてい)が、紀元前87年に亡くなった日です。

中国に、紀元前202年からおよそ200年つづいた、「前漢」とよばれた時代がありました。武帝は、この前漢のはじめのころの皇帝です。紀元前141年にわずか16歳で帝位について54年のあいだ国をおさめ、中国を、かつてない大帝国に育てあげました。

武帝は、まず、地方の政治を監視させる役人をふやし、さらに、厳しい制度や罰をもうけて,国内で勢力をふるおうとしている武将たちをおさえつけてしまいました。また、孔子のはじめた儒教を国の学問に定め、これを学んだものだけを役人にとりたてる制度もつくり、国の政治が秩序正しく行なわれるようにしました。

「敵をほろぼし、国を守らなければならない」と考えた武帝は、長いあいだ貢物を取られて頭をさげてきた匈奴と、およそ10年にわたって戦い、うらみのこもったこの強敵を、ゴビ砂漠の北のほうへ追いはらってしまいました。

武帝は、匈奴をほろぼした威力で西方の国ぐにと交わりを結び、のちにシルク・ロード(絹の道)とよばれるようになった、ヨーロッパとアジアとの交易の道をひらきました。そして、勢いのった武帝は、さらに東や南にも遠征し、朝鮮半島に楽浪(らくろう)・玄菟(げんと)・真蕃(しんばん)・臨屯(りんとん)の4郡をおいて支配し、ベトナム北部までも従えるようになりました。

ところが、国を広げることと外交に力を入れすぎたため、やがて財政が乱れてしまい、武帝は,国の金をふやすために塩や鉄の生産を商人の手から取りあげてしまいました。また、国民の税金を重くし、その取りたてを厳しくしました。しかし、その結果は、国の財政は豊かになったかわりに、貧しさに苦しむ商人や農民が国じゅうにあふれ、武帝の政治はしだいにおとろえてしまいました。

武帝がおこなったのは、皇帝の権力をふりまわした専制政治とよばれるものでした。国民一人ひとりの幸せを大切にする、民主主義の政治ではありません。でも、武帝が、いつ襲いかかってくるかもしれない匈奴をうちやぶって国を守ったことは、いまも中国の人びとにたたえられています。武帝が東のほうまで勢力を広めたことは、日本にとっても幸いなことでした。日本と中国は近くなり、やがて中国の文化が日本に伝わってくるようになったのです。


「3月29日にあった主なできごと」

1683年 八百屋お七の刑死…江戸本郷の 八百屋太郎兵衛の娘お七 (八百屋お七) が、放火の罪で、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられました。

1912年 スコット死去…南極点に到達するものの、アムンゼンに先をこされたイギリスの探検家 スコット が遭難死しました。

1925年 普通選挙法成立…従来までは一定の税金を納めた者しか選挙権がなかったのに対し、25歳以上の男子に選挙権を与えるという「普通選挙法案」が議会を通りました。

今日3月28日は、交響詩『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ 』などを作曲した「ロシア五人組」の一人ムソルグスキーが、1881年に亡くなった日です。

1839年、ペテルブルク(現・サンクトペテルブルク)に近いプスコフ州の大地主の子に生まれたモデスト・ムソルグスキーは、6歳から母にピアノを習い、10歳のときペテルブルクのエリート学校に入学して武官になる教育を受け、13歳で士官候補生になりましたが、音楽の勉強は続けました。

1856年、のちに作曲家集団「ロシア五人組」の一員となるボロディン、バラキレフ、キュイ(のちにリムスキー・コルサコフが加わります)と出会い、バラキレフの指導のもとに、歌曲とピアノ曲などの習作を手がけるようになりました。1858年に軍務を退役すると、本格的に作曲家になる決意をかためましたが、1861年、皇帝アレクサンドル2世の詔勅により「農奴制」が廃止されると、地主だった実家は大打撃を受け、下級官吏として生計を立てながら作曲を続けました。ところが、1865年に母がが亡くなると、ムソルグスキーはたび重なる不幸を嘆き、その悲しみを酒でまぎらすようになり、丈夫でなかった身体を害しはじめました。兄や妹の手助けにより、なんとか健康をとりもどしますが、代表作のひとつ交響詩『禿山の一夜』(ディズニーの『ファンタジア』に登場することでも有名) は、この頃1867年の作品です。

さらに1868年、プーシキンの戯曲や歴史物語を集め、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ 』を書きはじめ、1872年に完成させましたが、歌劇場から上演拒否にあってしまいました。ムソルグスキーは、より大掛かりな第2稿を完成させて、マリインスキー劇場でその一部の上演が行われました。聴衆には大好評だったにもかかわらず、批評家たちが酷評したため、上演回数は10回程度でしかありませんでしたが、これによってムソルグスキーの人気は一気に高まりました。

しかし、アルコール依存症はさらに悪化し、それ以降は『陽の光もなく』『モスクワ河の夜明け』などを作曲しますが、1874年に発表された『展覧会の絵』が特に有名です。この作品は、友人の建築家で画家だったハルトマンの展覧会にヒントを得て書かれたピアノ組曲で、よく知られている「プロムナード」をはさんだ10曲の小品で構成されています。

やがて著名人のサークルと交際を始めましたが、酒量が抑えられず、1880年には公務員の地位を追われ、4度の心臓発作に見舞われて42歳で死去しました。なお、『展覧会の絵』は、のちにラベルによって編曲され、今も人気のある名曲です。


「3月28日にあった主なできごと」

1868年 ゴーリキー…「どん底」 「母」 などの作品を通し、貧しい人々の生活の中にある不安や、社会や政治の不正をあばくなど 「社会主義リアリズム」 という新しい道を切り開いたロシアの作家 ゴーリキー が生まれました。

1876年 廃刀令…軍人・警察官・大礼服着用者以外、刀を身につけることを禁止する「廃刀令」が公布されました。これを特権としていた士族の不満が高まり、士族反乱につながっていきました。

1930年 内村鑑三死去…足尾鉱毒事件を非難したり日露戦争に反対するなど、キリスト教精神に基づき正義と平和のために生きた思想家 内村鑑三 が亡くなりました。

1979年 スリーマイル島原発事故…アメリカ東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で、重大な原子力事故が発生しました。国際原子力事象評価尺度 (INES) ではレベル5となっています。

今日3月27日は、江戸時代後期に大坂町奉行所の与力だった陽明学者の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)が、1837年に亡くなった日です。

江戸時代も終わりに近い1833年から1839年にかけて「天保の飢饉」とよばれる大飢饉がつづき、日本じゅうで数えきれないほどの人が死んでいきました。このとき、貧しい人びとを助けるために命をかけて戦ったのが、大塩平八郎です。

1837年、大坂(大阪)町奉行所の役人(町の犯罪をとりしまる「与力」)の子として天満に生まれた平八郎は、幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられました。25歳のころ、平八郎も与力になりました。与力は、あまり身分の高い役人ではありません。でも、平八郎は、社会の悪を正していく与力の仕事に、誇りをもっていました。武芸といっしょに学問を深く学び、とくに「正しい心のはたらきを、どこまでもつらぬきとおせ」と説く陽明学(儒学のひとつ)の教えを、心から信じていたからです。

平八郎は、むずかしい事件を次つぎに解決して、名与力と讃えられるようになりました。ところが、信頼していた町奉行の矢部駿河守がしりぞくと後任とは意見が合わず、自分も、職を子どもにゆずって、与力をやめてしまいました。まだ37歳の若さでした。

学問の道を歩み始めた平八郎は、私塾「洗心洞」を開いて人びとに陽明学を教え、自分も勉強をつづけました。そして、わずか4、5年のあいだに、『洗心洞箚(さつ)記』など陽明学をのちの世に伝えるための本を、何冊も著わしました。また自分では「心を大きくもって、うそいつわりなく生きていく」ことを守りながら、いっぽうでは幕府の政治にも目を向け、ゆがんでいる政治には、きびしい批判をつづけました。

天保の飢饉が起こりはじめたのは、平八郎が、学者の道へ入って、3年目の頃でした。平八郎は、飢え死にしていく人びとを救うように、町奉行所へ、なん度もたのみました。でも、奉行所は、なにひとつ聞き入れようとはせず、こっそり集めた米を幕府へおさめるのに、懸命になるばかりでした。くわえて商人たちは、米を買い占め、値段をつりあげるいっぽうでした。

「幕府は悪い。商人が悪い。よし、こうなれば米倉をおそえ」1837年2月、平八郎は、自分の本を全部売ってお金にかえ、そのお金を苦しんでいる人びとにすべて分けあたえると、門弟や農民たちといっしょに、ついに、反乱ののろしをあげたのです。しかし、同志の裏切りによって町奉行にもれたこともあって、わずか半日で鎮圧されてしまいました。平八郎は、養子の格之助と逃げて再起をはかるものの1か月後に見つけられて、自害してしまいました。この反乱を「大塩平八郎の乱」といいます。反乱は成功しませんでしたが、悪政を暴露して幕府の政治に大打撃をあたえるとともに、大塩の乱に勇気を得た百姓一揆や打ちこわしが、全国でおきました。


「3月27日にあった主なできごと」

1689年 芭蕉「おくの細道」へ出発… 松尾芭蕉 は弟子の河井曽良(そら)を伴ない、この日江戸・深川の庵を出て「おくの細道」の旅に出発しました。東北・北陸をめぐ旅の日数はおよそ150日間、「おくの細道」は、わが国紀行文学の代表的存在です。

1845年 レントゲン誕生…ドイツの物理学者で陰極線の研究中、物質を通りぬける放射線エックス線を発見した レントゲン が生まれました。

1933年 日本「国際連盟」脱退…国際連盟は2月24日の総会で、日本軍による満州建国を否認しました。日本はこの日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立し、戦争への道を歩みはじめるのです。

今日3月26日は、江戸時代初期の武将で、将軍家のご流儀としての「柳生新陰流」をきわめた柳生宗矩(やぎゅう むねのり)が、1646年に亡くなった日です。

1571年、大和国(今の奈良県)柳生郷の領主で剣術家である柳生宗厳(むねよし)の5男として生まれた宗矩は、少年のころから父に「新陰流」を教えこまれました。ところが、太閤検地の際に隠田が露見したため父は失領してしまいました。

1594年、徳川家康に招かれて無刀取りを披露した父の推挙により、家康に仕えることとなった宗矩は、1600年の関ヶ原の戦いでは家康の命を受け、伊賀上野領主や大和の豪族と協力し、西軍の後方をかく乱することによって功をたて、先祖以来の旧領2000石を取りもどすことに成功しました。

翌年、後の2代将軍徳川秀忠の兵法師範役となり、1000石加増され合わせて3000石の旗本となりました。いっぽう、家康の命で、大坂豊臣方の動静を探りました。そして、1614~5年の「大坂の陣」では、将軍秀忠のもとで従軍し軍功をたてると、翌1616年、千姫事件で反乱をおこした坂崎出羽守を鎮圧し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられました。

3代将軍 家光 の代になった1621年、将軍家剣法指南役として家光に「新陰流」を伝授したほか、江戸城修復の奉行をつとめたり、家光の側近として信任を深めて加増を受け、1629年、但馬守に任官しました。また1632年、3000石を加増された後、同年12月には、老中・諸大名の監察を任とする初代「大目付」となるまで大出世をとげました。その後も功績をあげ、1636年4000石加増で計1万石を受けて大名に列せられただけでなく、大和国柳生藩を立ちあげました。さらに晩年には2500石の加増を受け、所領は1万2500石に達しました。

一介の剣豪から大名にまで立身したのは、柳生宗矩だけだといわれています。また、家光に「なぜ剣の腕が上がらないのか?」と問われ、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要」と沢庵和尚を推し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけをつくったというエピソードはよく知られています。なお、有名な柳生三厳(みつよし・十兵衛)は、宗矩の長男。


「3月26日にあった主なできごと」

1205年 新古今和歌集完成…後鳥羽上皇の命によって編まれた和歌集『新古今和歌集』がまとめられました。

1827年 ベートーベン死去…『交響曲第5番』(運命)『交響曲第9番』(合唱)などの交響曲、『月光』『悲愴』などのピアノ曲のほか、管弦楽曲、歌劇、声楽曲など各方面にわたるかずかずの作品を遺した、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人であるドイツの作曲家 ベートーベン が亡くなりました。

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