児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年02月

「おもしろ古典落語」の58回目は、『寝床(ねどこ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸時代に名人といわれた蜀山人(しょくさんじん)の狂歌に「まだ青い しろうと浄瑠璃 玄人(くろ)がって 赤い顔して 黄な声を出す」なんていうのがあります。浄瑠璃の親戚のような、物語を歌にした義太夫(ぎだいゆう)というのが明治・大正のころに流行しました。ある商家のだんなも、下手な義太夫にこっていて、なんとか人に聞かせたがります。

「定吉、繁蔵は帰ったかい? まだか、帰ったらすぐにここによこしなさい。今夜はわたしの義太夫を聞きにたくさんお見えになるから、座ぶとんを50枚ほど出して、舞台の前にずっと敷きなさい。お湯の用意もな。酒のかんもするし、お酒の飲めない方にはお茶も出すし、わたしも体をふくから。義太夫をうんと語るとたいそう汗をかくのだよ。料理番は? 3人きてる、そろそろ料理にかかってもらっとくれ…お客さんと家の者も食べますから70人前用意するように。えっ、繁蔵が帰った? ああ、ご苦労、ごくろう」「へぇ、長屋をすっかり回ってきました」「ちょうちん屋へは行ってくれただろうね。こないだ会ったら『なぜ、この前の義太夫のときに知らせてくれなかった』なんて、いやみをいわれてな、定吉が忘れたんだ。喜んだだろ」「お喜びではございましたが、どこかの開店があるとかで、ちょうちんを三百五十も今晩じゅうにこしらえなくちゃいけないので、せっかくですがうかがえませんと」「そうかい、いいよ、こんどはさしで、みっちに聞かせてやろう」

さらに、金物屋は今晩寄りあいがある、小間物屋はかみさんが臨月で急に産気づき、とび頭はごたごたの仲裁に明日朝一番で成田へ行くので来れない、隣のばあさんは風邪をこじらせ、ご子息は商用で帰りは終電車、豆腐屋は生揚げとがんもどきを850も請けおって今夜は夜なべ……みんな口実をもうけて誰も来ないとわかると、「しかたない、店の者にだけでも聞かせよう」。ところが、店の一番番頭は二日酔いで二階で寝ているというし、藤蔵は脚気のためあぐらで聞いては申し訳ないからごめん、峰吉は胃けいれん、文吉は神経痛、幸四郎は眼病で出てこれない……。

「耳が悪いなら話がわかるが、目が悪くて聞けないってのはどういうわけだ」「だんなの義太夫は人情ですから涙が出ます、それが目に悪いと眼医者からのおさしとめだそうで…」「ばあやはどうした?」「ぼっちゃんと先に休んでいます」「それじゃ、おまえはどうなんだ?」「へえ、あたしはその、一人で長屋を回ってまいりまして……(しどろもどろで言い訳しようとすると、だんなににらまれて) ええ、あたしは因果と、覚悟いたしました、さぁうかがいましょう。さ、お語りあそばせ、もう、わたし一人でも」と、涙声。だんなは怒り心頭に達し、「ああよござんす、どうせあたしの義太夫はまずいから、そうやってどいつもこいつもありもしない用をこしらえて来ないんだろ。やめます。だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに住んでほしくないから、あした十二時限り長屋を明け渡すように連中にいってきておくれ。店の者もそうですよ、もうみんな家へ帰っとくれ、ひまを出します。定吉、座ぶとんをかたづけちまいな、それから三味線の師匠をお帰しして、湯なんざ捨てちまえ…床敷いとくれ、あたしゃ、寝ますよ」

さぁ、お店の者にひまが出て、長屋の者が全員追い出されてはたまらないと、繁蔵は長屋をずっと回って相談します。「だんなさま、ただ今、長屋のかたがそろってまいりまして、だんなさまの義太夫を、ほんのさわりだけでもいいからうかがいたいって…いかがなものでしょう。みんなが待っておりますようなわけで…」「語らないよ、ばかにしやがって、いいかい、こっちが語りましょう、むこうが聞きましょう、ピタリと意気ってものがあわなきゃ、こういうことはできるもんじゃないよ。なに? みなさんが、一段でも聞かなくちゃ帰らないってぇの? うふふ、どうしてこう、うちの長屋の連中は好きなのかね…そうかい、じゃ、おまえの顔を立てて、きょうのところは一段語るか」

長屋の連中、陰では横町の隠居がだんなの義太夫で「ギダ熱」を患ったとか、隣の婆さんは七十六にもなって気の毒だとかぶつくさいっていますが、だんなは、あわただしく準備をし直し、張り切ってどら声を張り上げます。どう見ても、人間の声とは思えない。動物園の裏を通るとあんな声が聞こえる、カバがうなされてる声だとか、一同閉口しながらも、酒に酔って残らずゴロゴロその場に寝ちまいました。

だんなは、静かになったので、感にたえて聞いているんだろうと、御簾(みす)を持ちあげてのぞくとこのありさま。「おい師匠、三味線やめとくれ! あきれけぇった奴らだ、みんな寝てやがる。家は木賃宿じゃない」とおこっていると、隅で定吉が一人泣いています。だんなは喜んで、子どもでさえ義太夫の情がわかるのに、恥ずかしくないかとみんなに説教。「定吉、ここへきな、おまえが一人でも聞いていてくれたと思うとうれしいよ。どこが悲しかった? やっぱり、子どもが出てくるところだな。『馬方三吉子別れ』か?『宗五郎の子別れ』か? そうじゃない? あ、『先代萩』だな?」「そんなとこじゃない、あすこでござんす」「あすこは、あたしが義太夫を語った床じゃないか」

「あすこが、あたくしの寝床なんでございます」


「2月8日にあった主なできごと」

1725年 ピョートル大帝死去…ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、バルト海交易ルートを確保した ピョートル大帝 が亡くなりました。

1828年 ベルヌ誕生… 『80日間世界一周』 『海底2万マイル』 『地底探検』 『十五少年漂流記』 などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家 ベルヌ が生まれました。

今日2月7日は、清朝第12代・最後の皇帝で、のちに満州国皇帝となった溥儀(ふぎ)が、1906年に生まれた日です。

清朝の第11代皇帝だった光緒帝の弟・醇親王の子として生まれた溥儀は、1908年にわずか3歳で第12代皇帝に即位しました。年号は宣統と改められ、父は溥儀(宣統帝)の摂政となりました。1911年に、孫文 らの指導する「辛亥革命」がおきると、1912年2月に退位を宣言し、267年続いた清朝の滅亡と同時に、始皇帝 以来中国の2000年余り続いた皇帝制度に終止符がうたれました。しかし、退位後も、なんとか皇帝の称号と年金を得、北京の紫禁城にすむことが許され、宮中で儒教の古典・歴史・満州語・英語を学びました。

しかし1924年、北京にクーデターがおき宮殿を追われた溥儀は、日本公使館から天津の日本租界に移って、日本の保護を受けるようになるいっぽう、当時の軍閥の大物だった張作霖にあい、ロシア人による満蒙地域奪取計画にも期待し、資金援助を行いました。

1927年、日本政府は中国に対して権益確保や日本人居留民保護を名目に山東省に出兵、満蒙を支配していた張作霖を利用しようとしました。ところが1928年6月、関東軍が張を爆殺(「張作霖爆殺事件」)したばかりか、1931年9月には、関東軍が奉天郊外で満鉄線路を爆破し、これを中国の行為だと主張し、張作霖の息子・張学良の軍隊を攻撃する事件が起こりました。これが「柳条湖事件」で、半年後には満州の主要部分を占領して「満州国」をおこしました。

1934年、溥儀は「満州国」の初代皇帝「康徳帝」となりましたが、日本軍の意向にそって、その役割を演ずるばかりでした。1941年12月8日に太平洋戦争に突入した日本軍は、1942年5月までに香港・マライ半島・シンガポール・ビルマ・オランダ領東インド諸島・フィリピン諸島などを占領しました。しかし、1942年6月ミッドウェー海戦をきっかけに、アメリカ軍は反攻を開始し、やがて日本本土に空襲をあびせるようになりました。そして1945年8月6日に広島に世界初の原子爆弾を投下、同月8日ソ連が日ソ中立条約をやぶり日本に戦線布告、9日には満州・朝鮮に侵入し関東軍を壊滅させました。長崎にも原子爆弾を投下され、敗戦の決断をのばしていた政府・軍部も8月14日、無条件降伏し翌15日正午、天皇のラジオ放送という異例の手段で敗戦を国民に知らせたことは周知の通りです。

日本の降伏と共に溥儀は、満州国皇帝を退位すると、19日に日本へ逃走する途中でソ連軍に捕えられ、ハバロフスクの収容所に送られ5年間拘留されました。この間の1946年8月には極東国際軍事裁判に出廷、「日本軍の脅迫で満州国皇帝になったもので、結託したことはない」と証言しています。

1950年に溥儀は、ソ連から中国政府に身柄が引き渡され、戦犯収容所で労働のかたわら自伝『私の半生』の執筆を始めました。1959年に特赦となって35年ぶりに北京に帰り、1967年北京の人民病院で波乱に満ちた人生の幕を61歳で下ろしました。

なお、1988年に日本で公開された映画『ラストエンペラー』は、溥儀の自伝を基に作られたイタリア・中国・イギリス合作によるもので、第60回アカデミー賞9部門(作品賞・監督賞・撮影賞・脚色賞・編集賞・録音賞・衣裳デザイン賞・美術賞・作曲賞)すべてに受賞したことで、よく知られています。


「2月7日にあった主なできごと」

1812年 ディケンズ誕生…「オリバー・ツイスト」 「クリスマスキャロル」 「二都物語」 などを著したイギリスのヒューマニズム作家ディケンズが生まれました。

1834年 メンデレーエフ誕生…ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成した メンデレーエフ が生まれました。

1885年 岩崎弥太郎死去…明治の初期に海運業をおこし、船の運送にともない海上保険、造船、鉱山、製鉄、銀行、製紙など、さまざまな産業に進出し、三井財閥と並んで近代日本の産業界に勢力をほこる「三菱財閥」の基礎をつくった実業家 岩崎弥太郎 が亡くなりました。

今日2月6日は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、茶人、建築家、作庭家として活躍した小堀遠州(こぼり えんしゅう)が、1647年に亡くなった日です。

1579年、近江国小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪の長男として生まれた小堀遠州(本名・政一)は、1595年に豊臣秀吉に仕え、1598年に秀吉が亡くなると、親子で徳川家康に仕えました。関が原の戦いでの功により、父は毛利氏にかわって備中松山城(現・岡山県高梁[たかはし]市)をもらいうけ、1604年父の死後は遺領1万2460石をひきついで、西国大名のおさえとなりました。1608年には駿府城普請奉行となり、その功によって遠江守となってから「小堀遠州」と呼ばれるようになります。1617年に河内国奉行兼任となり、1622年には近江国奉行、1624年伏見奉行に任ぜられ、晩年は茶の湯三昧で過ごしながら、69歳で生涯を閉じています。

遠州は武士としても立身出世を遂げましたが、じつに多芸の天才で、秀吉に仕えていた頃に千利休の高弟で武家の茶道を確立した古田織部に「茶の湯」を学び、のちに「遠州流」という流派をつくって茶道の第一人者となりました。そのため、千利休、古田織部と並び「三大茶人」のひとりに挙げられています。利休が深い趣をもったせまくてやや暗い茶室を好んだのにたいし、綾部はより力強いものを求めて薄明るい茶室にかえました。遠州は、さらに明るいものにし、武家の礼法としての茶の道を開いたのでした。

遠州はまた、建築や造園にも優れた腕を発揮して、大坂城、江戸城西の丸、名古屋城天守閣などの建築、桂離宮や京都の仙洞御所、大徳寺などの庭園づくりには、その責任者として超人的な活躍したばかりでなく、二条城二の丸、江戸城の庭園、小堀家の菩提寺となっている京都西北の孤蓬庵(こほうあん)など、今も私たちの目に触れることができる建築や庭園をたくさん遺しました。さらに、和歌、文学、書道、陶芸などにも秀れ、まさに総合芸術家として今に名を残しています。


「2月6日にあった主なできごと」

1537年 豊臣秀吉誕生…戦国時代に足軽百姓の子に生まれながら、織田信長にとりたてられて、全国統一をなしとげた 豊臣秀吉 が生れたとされる日です。(異説あり)

1895年 ベーブルース誕生…1914~35年の間に714本塁打、2209打点、2056四球、1330三振の記録を残して野球殿堂入りをはたし、亡くなる数年前に、遺産をすべて恵まれぬ子どものための財団に寄付したアメリカの人気プロ野球選手ベーブルースが生れました。

1972年 日の丸飛行隊 金・銀・銅独占…札幌冬季オリンピックのスキー70m級ジャンプで、笠谷が金、金野が銀、青地が銅メダルを獲得。過去の冬期オリンピックで金さえとったことのなかった大ニュースに、かれらを「日の丸飛行隊」とよんで話題を独占しました。

今日2月3日は、第28代アメリカ大統領で、「国際連盟」の創立に力をそそいだウィルソンが、1924年に亡くなった日です。

1856年に、バージニア州スタントンに生まれたウッドロー・ウィルソンは、父親が牧師をつとめたジョージア州オーガスタで成長しました。少年時代に南部で目にした南北戦争の悲惨な状態に強いショックを受け、平和を大切にする心が芽生えたといわれています。1879年バージニア大学で1年間法律を学ぶも体調不良のために自宅に戻って法律の勉強を続け、ニュージャージー州のプリンストン大学で法律を学んで卒業したのち弁護士になりました。さらに1883年、ジョン・ホプキンズ大学院に入って「連邦議会制論」の論文で博士号をとり、1888年からプリンストン大学で政治学・経済学を教え、1890年同大学教授、1902年には学長に就任し、大学の民主化に力をそそぎました。

1910年、民主党に推されてニュージャージー州知事となり、進歩的なさまざまな改革で注目され、革新知事としてアメリカ全土にその名が知れわたりました。1912年に民主党の大統領候補となり、「ニューフリーダム(新しい自由)」のスローガンを掲げて当選、1913から1921年まで2期8年間、アメリカ合衆国大統領として第1次世界大戦中の難しい政局を担当しました。大戦初期は中立を守って内政に力をそそぎ、関税の引き下げや、連邦準備銀行制、反トラスト法の制定など、大資本による企業独占に歯どめをかける革新的諸政策を、公約通り推進しました。

世界大戦中の1915年、アメリカ人を乗せたルシタニア号がドイツ潜水艦に撃沈され、その後もドイツの潜水艦攻撃がやまなかったことで、1917年4月、連合国がわに参戦してドイツに宣戦布告しました。そして1918年1月、大戦終結のきっかけとなる「世界平和に関する14か条」の提案を発表しました。ここには、秘密外交の停止、海洋の自由、通商の自由、軍備の縮小、国際連盟設立などが含まれていました。

大戦後の1919年の「パリ平和会議」に出席したウィルソンは、世界の恒久平和を基盤とする「国際連盟」の創設を決めた「ベルサイユ条約」を成立させました。この功績により、ノーベル平和賞を受賞しましたが、自国のアメリカは上院の反対で連盟の参加をこばまれてしまいます。心を痛めたウィルソンは、アメリカ各地をまわって民衆に連盟参加を直接訴えたものの、脳梗塞に倒れてしまいました。

1920年の選挙は反対党の共和党の勝利に終わり、その進歩主義的な政策は後の ルーズベルト に受け継がれます。国内外の政治体制の変革を追求することを使命とするウィルソンの理想主義は「ウィルソン主義」と呼ばれ、その後のアメリカの外交政策の指針となるなど、見事なリーダーシップや功績から、最も偉大な大統領の一人とされています。


「2月3日にあった主なできごと」

1468年 グーテンベルク死去…ドイツの金属加工職人で、活版印刷技術を実用化し、初めて聖書を印刷したことで知られる グーテンベルク が亡くなりました。

1637年 本阿弥光悦死去…豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけ、書、陶芸、蒔絵、茶道、作庭、能面彫などさまざまな芸術に秀で、出版までも手がけた 本阿弥光悦 が亡くなりました。

1809年 メンデルスゾーン誕生…世界3大バイオリン協奏曲の一つと賞賛される「バイオリン協奏曲」をはじめ、「真夏の夜の夢」「フィンガルの洞窟」などを作曲した メンデルスゾーン が生まれました。

1901年 福沢諭吉死去…「学問のすすめ」「西洋事情」などを著し、慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される 福沢諭吉 が亡くなりました。

今日2月2日は、京都の宇治にある「平等院鳳凰堂」を建てた藤原頼道(ふじわら よりみち)が、1074年に亡くなった日です。

992年、藤原氏の勢いを最も盛んにした太政大臣 藤原道長 の長男として生まれた藤原頼道は、父の力のおかげで、20歳前後に権中納言から権大納言へ、さらに25歳のときには内大臣へと、おどろくほどの早さで出世しました。そして、内大臣になった年に、父から摂政の位をゆずり受け、2年のちには、父もならなかった「関白」の地位につきました。

頼道は、こうして27歳の若さで、天皇を助けながら国の政治をおこなう権力をにぎり、その後およそ50年のあいだ摂政と関白の地位をひとりじめして、藤原氏の権威を守りつづけるようになりました。

後一条、後朱雀、後冷泉の3人の天皇につかえた頼道は、国の政治を思いどおりに進めながら、いっぽうでは、荘園とよばれる自分の土地からばく大な収入をえて、贅沢をきわめつくした貴族生活を楽しみました。しかし、国の政治を思いどおりにおこなっても、国を改めるような新しい政治には、ほとんどとりくみませんでした。幸い、頼道が関白をつとめた時代には、安房国(千葉県)で国の役所の国府が関東武士におそわれた「平忠常の乱」を除けば、朝廷をゆるがすほどの大事件も起こりませんでした。

もともと性格がおとなしかった頼道は、父の道長が残してくれた大きな権力を守りぬくことだけで、精一杯だったのでしょう。そのうえ、頼道は、自分のむすめを天皇の妃にして皇子を産ませ、藤原氏と天皇家との強い結びつきをもたなければならないという、藤原一族のための役割をになっていました。ところが、天皇のもとへ、娘を嫁がせても、わざわざ養女を育てて嫁がせても、生まれてくるのは女の子ばかりでした。そして、ついには、藤原氏と血のつながりのうすい後三条天皇が即位して、藤原氏の運命も傾むき始めるようになってしまいました。

60歳になった頼道は、父からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」と改めて鳳凰堂を建て、阿弥陀如来像をまつって自らの心をなぐさめました。鳳凰堂は、これこそ極楽浄土だといわれるほど見事ものでしたが、頼道は、平等院に遊んでも、鳳凰堂で祈り続けても気が晴れないまま、やがて関白をやめると出家して、82歳で世を去りました。藤原氏の勢いはこうして衰えていきましたが、平等院には、藤原氏が栄えた時代の美術がたくさん残されました。


「2月2日にあった主なできごと」

962年 神聖ローマ帝国成立…ドイツ王オットー1世は、教皇ヨハネス12世より帝冠を受け、神聖ローマ帝国が成立しました。現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を含む帝国は、ナポレオンによってその名称が消されるまで、844年も存続しました。ただし大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のハプスブルク家が支配するオーストリア帝国やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していきました。

1848年 アメリカ・メキシコ戦争終結…1846年にテキサスの国境線をめぐる紛糾で始まった米墨両国の戦争は、この日アメリカが勝利して終結しました。その結果、ニューメキシコがアメリカの領土となりました。

1907年 メンデレーエフ死去…ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成した メンデレーエフ が亡くなりました。

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