児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年02月

今日2月29日は、『セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』などのオペラ作曲家として知られているイタリアのロッシーニが、1792年に生まれた日です。

イタリアのアドリア海に面したペーザロに生まれたジョアキーノ・ロッシーニは、幼いころから音楽の才能を発揮して、少年の頃には教会の合唱やチェンバロの演奏で収入を得るほどでした。14歳のとき、ボローニャ市立音楽院で4年間チェロと作曲を学ぶかたわら、多くの劇場で歌手として働きながら卒業すると、オペラ作曲家として活動を始めました。10代後半から21歳にかけて、『タンクレーディ』『アルジェのイタリア女』を発表してオペラ作曲家としての評判を確立し、1816年『セビリアの理髪師』でヨーロッパじゅうにその名声をとどろかせました。

イタリアのオペラは、主人公の死で終わる悲劇がほとんどの「オペラ・セリア」と、軽い喜劇的オペラ「オペラ・ブッファ」の二つに分かれています。「オペラ・ブッファ」は大団円で幕となるため、音楽もにぎやかなアンサンブルで閉じるのが特徴です。今もオペラ劇場でドル箱的存在となっている『セビリアの理髪師』はこの「オペラ・ブッファ」の代表的な作品といわれ、つぎのようなストーリーです。

舞台は18世紀スペインの町セビリア(セビージャ)。伯爵のアルマビーバは、町でみかけたロジーナという美しい娘に恋心をいだき、何とか結婚したいものと近づきますが、これまたロジーナと結婚したがっている財産管理人で後見人のバルトロがロジーナの近くにいるため、なかなか会うことができません。そこで昔なじみの理髪師フィガロの知恵を借りて、士官になったり歌の教師に変装したりして、ドタバタをくりかえしながらもロジーナと会うことに成功します。大騒動の末、フィガロの機転でアルマビーラとロジーナは結ばれ、バルトロは財産をもらうことに話がまとまって……。

数多くの作曲家の中でも、ロッシーニほど自由自在な生き方をした人はいないといわれています。音楽家として成功するにはオペラに限ると、そのテクニックを身につけるためにモーツァルトの作品を徹底的に分析して優れている部分を頭にたたきこみ、遅筆はだめだと、この『セビリアの理髪師』は2週間足らずで書きあげたのをはじめ、37歳の時に『ウィリアム・テル』を発表するまでに、約40作ものオペラを書きまくりました。これで充分だとばかり音楽活動をやめて年金生活をしながら、好きな食道楽に没頭する後半生を送って、1868年に亡くなっています。

なお、今ではほとんどが埋もれてしまったロッシーニのオペラのうち、『ウィリアム・テル』は、ドイツの詩人シラーの原作によるスイスの独立運動の英雄ウィリアム・テルが主人公で、テルをはじめ、スイスの義民たちが悪代官ゲスラー一味を滅ぼすまでの痛快なストーリーです。テルがわが子の頭の上にのせたリンゴを弓で見事に射落とす話はよく知られています。このオペラが上演されることはほとんどなくなりましたが、「序曲」は、今も単独で演奏されることが多い名曲です。


「2月29日にあった主なできごと」

1582年 グレゴリオ暦のはじまり…古代エジプトの時代から使われてきた太陽暦は1年が365日でした。そのため、少しずつ季節にずれが生じてきたため、古代ローマの皇帝ユリウス・シーザー は、紀元前46年を445日とさせ、その後は4年に1度、366日にすることにしました。これが、シーザーの名をとった「ユリウス暦」で、今年2月29日があるのは、4年に一度ある閏年(うるうどし)にあたるためです。
ところが、年がたつにつれて、まだ日付と季節がずれてしまいます。正確な1年は365.2422日であることがわかったためで、法王グレゴリウス13世は、1582年を10日間減らして355日とし、その後は各世紀の終わりの年は400で割れる年を除いて、閏年にしないことに決めました。つまり、1700年、1800年、1900年は閏年でなく、2000年は閏年となります。現在ほとんどの国で使われているこの暦は、グレゴリウスの名にちなんで、「グレゴリオ暦」とよばれています。

今日2月28日は、独創的で大胆な作品で後進に大きな影響を与えた画家の今村紫紅(いまむら しこう)が、1916年に亡くなった日です。

1880年、横浜市の提灯屋を営む家に生まれた今村は、15歳ごろ地元の画家に水彩画を学び、1897年に画家だった兄と共に松本楓湖に師事しました。1898年に日本美術協会展で早くも初入選を果たすと、1901年、生涯の友となる 安田靫彦 らと「紅児会」をつくって、主に歴史人物画の研究を進め、意欲的な作品を発表して、新日本画のリーダー的存在となりました。

1907年に安田とともに岡倉天心の指導を受け、菱田春草や横山大観らの制作姿勢に大きな刺激を受けると、1911年の第5回文展(文部省美術展覧会)に華麗な女性群像を描いた『護花鈴』を発表。原三渓の援助を受けて、三渓の収集した日本や中国の古美術鑑賞を行って明清画に親しみました。さらに翌年、第6回文展で『近江八景』が2等賞となって、画壇に大きな刺激をあたえ、名声をかちとりました。この作品で大和絵の伝統を受け継ぎながらも、南画研究による柔らかな筆、フランス印象派の絵画などを融合させた独自の様式を確立するに至りました。

1914年には単身でインドを旅行し、帰国後に第1回「院展」に『熱国の巻』(東京国立博物館蔵)を出品しました。これは穏やかな色彩、のびやかで大胆な構図など、紫紅芸術の頂点を示す作品といわれています。

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同年には、速水御舟ら青年画家らを率いて「赤曜会」を結成。「芸術に理屈はいらない。理屈が入ると窮屈になる。のん気に描け。美術家はいつでも、心にのん気になって描くだけの余裕がなければならぬ。何事にも拘束されず、自由に、快活に自己の絵を描け…」と語り、日本画の因習を壊し、主題、構図、彩色など絵画のすべての面で自由な創意による新しい日本画への改革こそ、紫江の生涯をかけた命題だったようです。

その芸術的革新性と、親分肌の豪放な性格から将来を大いに期待されましたが、酒による肝臓病に加え脳溢血を併発し、35歳の若さで亡くなってしまいました。親友だった安田は「今村君の爛熟期をみなかったことは返す返す痛恨の至り、最も悲しむべき美術界の大損失である」と綴っています。


「2月28日にあった主なできごと」

1533年 モンテーニュ誕生…名著 「随想録」の著者として、今も高く評価されているフランスの思想家 モンテーニュ が生まれました。

1546年 ルター死去…免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたドイツの宗教家 ルター が亡くなりました。

1591年 千利休死去…織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた 千利休 が、秀吉の怒りにふれて切腹させられました。

1638年 天草四郎死去…島原・天草地方のキリシタンの農民たちは、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年 天草四郎 を大将に一揆を起こしました(島原の乱)。島原の原城に籠城して3か月余り抵抗しましたが、幕府の総攻撃を受けて、四郎をはじめ37000人が死亡しました。

1811年 佐久間象山誕生…幕末の志士として有名な吉田松蔭、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の 佐久間象山 が生まれました。

1972年 「浅間山荘」強行突入…連合赤軍のメンバーが19日に軽井沢にある「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもっていましたが、この日機動隊が強行突入、激しい銃撃戦の末に人質を解放、犯人5名を逮捕、隊員2名が殉職しました。突入の様子はテレビで生中継され、視聴率は総世帯の9割近くにも達し、今なおこの記録は破られていません。

今日2月27日は、ロシア国民主義の新音楽運動の発展に力をそそいだ作曲家集団「ロシア五人組」のひとりで化学者のボロディンが、1887年に亡くなった日です。

1833年、グルジア系貴族の私生児としてペテルブルクに生まれたアレクサンドル・ボロディンは、幼いころからピアノやフルート、チェロなどに親しみ、13歳のときには協奏曲を作曲するほどでした。陸軍医科大学に進んで化学を専攻し1856年に卒業しました。その後、陸軍病院に勤務したり、母校の助教授、教授となるいっぽう、女子医学専門学校の創設など、幅広い分野で活動した有機化学者でした。

音楽はいわば趣味でしたが、大学時代は友人たちと室内楽団を作ったり、陸軍病院時代は、ムソルグスキーやバラキレフと知り合って刺激を受け、少しずつ作曲を手がけるようになりました。やがて、キュイ・バラキレフ・ムソルグスキー・リムスキー=コルサコフと作曲家集団「ロシア五人組」を結成して、本格的な作曲をはじめるようになります。

1869年、バラキレフの指揮によって『交響曲第1番』が上演されて好評を博し、『交響曲第2番』に着手しました。1877年に完成したこの新作交響曲は、全体にあふれる力強い気迫と、情熱あふれる大スケールが評価され、ボロディンの名を世界に広めました。

1880年、代表作となる『中央アジアの草原にて』を発表。この曲の楽譜の冒頭には、次のような意味の言葉が添えられています。「見渡す限りはてしない中央アジアの野原は静まりかえり、聞こえてくるのはロシアの歌声。次第に近づく馬やラクダの群れの足音にまじって、耳なれない東洋ふうのメロディが聞こえてくる。ロシアの兵士に護衛された隊商たちがやってくる。そして、護られている安心感を足取りに見せて進み、しだいに遠ざかっていく。ロシアの歌とアジア風のメロディがとけあって、草原をわたる風になごりを止めながら…」──。まさにこの交響詩は、一度聴いたら忘れられないほど、印象的な交響曲による絵画ともいえる小品です。

さらに、歌劇『イーゴリ公』にとりかかり18年の歳月をかけたものの未完に終わりました。没後にリムスキー=コルサコフとグラズノフの手で改訂されて完成しましたが、この中の『だったん人の踊り』は、今も人気が高く、ボロディンの作品として単独で演奏されることがよくあります。


「2月27日にあった主なできごと」

1876年 江華条約の締結…鎖国をつづける朝鮮に国交を求めていた明治政府は、前年に日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で砲撃を受けたのに対し、猛反撃を加えました(江華島事件)。この日更なる圧力をかけて江華条約を締結させ、念願の朝鮮開国を実現させました。この条約は釜山・江華港を貿易港として開港、朝鮮海航行の自由、江華島事件の謝罪など、日本優位の不平等条約で、日本の朝鮮侵略の第1歩となりました。

1933年 ドイツ国会議事堂炎上…この日の夜突然、首都ベルリンの国会議事堂が燃え上がり、ヒトラー はこれを共産党員のしわざだとして、共産党員をすべて逮捕し、間近にせまった選挙に出られなくさせました。このため、ナチス党は選挙を有利に進め、独裁のあしがかりとしました。

1936年 パブロフ死去…消化腺と条件反射の研究でノーベル賞を受賞したロシアの科学者 パブロフ が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の60回目は、『千早振(ちはやふ)る』というお笑いの一席をお楽しみください。

百人の歌人の有名な歌を一首ずつ集めたものを「百人一首」といいます。その中でも有名なのが藤原定家という人が選んだといわれる『小倉百人一首』です。この中に在原業平の「千早ふる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは」という人気のある歌があり、(古代の神さまの時代にも、これほど美しい景色はなかったことだろう、竜田川が紅葉でくくり染めのように鮮やかに朱にそまっている)といったような意味です。長屋の八っつぁん、学校へ通っている娘からその意味を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま、知ったかぶりの隠居のところにかけこみました。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしましたが、八っつぁんは引きさがりません。「なぁ八っつぁん、この竜田川ってのはおまえ、なんだと思う?」「わからねぇから聞いてるんじゃありませんか」「つまり、隅田川とか神田川というように、川の名だと思うだろう?」「川じゃないんですかい?」「そこが素人のあさましさだ。この竜田川ってぇのは、なにを隠そう相撲取りの名だ」「へぇ、お相撲さんですか、でも聞いたことないな」「そりゃそうだ、江戸時代に活躍した力士で、田舎から出てきて大関にまでなったという、たいへんな努力家だ」「へぇ、強かったんですね」「はじめから強かったわけじゃない。どうにかして出世したいと、神信心をして、3年のあいだ酒も女もたばこもやらず、一心不乱にけいこをしたから、安心しなさい」「別に心配なんぞしてない…、でも大関になったんならてぇしたもんだ」

「その竜田川が、ひいきに連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。その時、ちょうど全盛の千早太夫というおいらんに出くわした。竜田川は、千早の美しさに一目ぼれした。ひと晩でもいいから酒の相手をしてもらいたいと申しこんだところ『わちきはいやでありんす』とあっさり振られてしまった。しかたがないので、妹格の神代太夫に口をかけたところ、これまた『姉さんがいやな人は、わちきもいや』とまた振られてしまった」「かわいそうに、それで竜田川はどうなったんですか」「つくづく相撲取りがいやになった竜田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった」

「いきなり豆腐屋ですか。なんで?」「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ。両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後のことだ。竜田川が店で豆をひき終えて一服していると、ボロをまとった女が一人『おとといから何も口にしていません。どうか卯の花(おから)をめぐんでください』という。気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。思わずカッとなり『大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえが原因』おからはやれないといって、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク…。

いいか、よーく聞けよ。千早に振られたから『千早ふる』、神代もいうことを聞かないから『神代も聞かず竜田川』、おからをやらなかったから『からくれないに』」「じゃ、水くぐるってえのは?」「井戸へ落っこってもぐれば、水をくぐるじゃねぇか」「じゃ最後の『とは』ってぇのは?」

「おまえもしつこいね…そいつはな…あとで調べたら、千早の本名だった」


「2月24日にあった主なできごと」

1815年 フルトン死去…1807年、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功したアメリカの技術者で発明家のフルトンが亡くなりました。、

1873年 キリスト教禁制撤廃…1612年以来禁止されてきたキリスト教を、明治政府も国禁にしてきましたが、この日「キリスト教国禁」の高札を撤去。欧米諸国の非難や、条約改正を妨げる一因をなしていることを知った政府は、キリスト教を黙認する決断をしました。

1933年 国際連盟総会で抗議の退場…日本の国際連盟代表の松岡洋佑ら代表団は、スイスのジュネーブで開かれた臨時総会で、議場からいっせいに退場しました。前年に日本が中国東北部に建設した「満州国」を国際連盟が認めず、軍を引き上げるよう求める勧告案を、賛成42、反対1、棄権1で採決したことに抗議したものです。この総会の後日本は、3月27日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立する道を歩みはじめました。

今日2月23日は、大正、昭和前期に活躍した劇作家・評論家の倉田百三(くらた ひゃくぞう)が、1891年に生まれた日です。

1891年、広島県庄原市の呉服商の家に生まれた倉田は、第一高等学校(現・東大教養学部)へ入学し、猛勉強をしてトップの成績をおさめるものの肺結核にかかり、中退せざるをえませんでした。宗教に対する強い関心から、無一物・路頭を原点として懺悔の奉仕をするという西田天香のつくった「一燈園」に入り、療養生活をしながらも、病床で執筆活動を続けました。そして、1916年26歳のとき、浄土真宗の開祖 親鸞 とその弟子唯円(『歎異抄』の著者として有名)を中心に、信仰の苦悩と許しを描いた戯曲『出家とその弟子』を出版、たちまちベストセラーになって「親鸞ブーム」をひきおこしました。その後、武者小路実篤が主唱した「新しき村」とも関わり、雑誌『白樺』に作品を発表、1921年に出版した生命力みなぎる評論集『愛と認識との出発』は、当時の若者に圧倒的な人気を博しました。他に『俊寛』『歌わぬひと』などの戯曲、『絶対的生活』などの評論を遺し、1943年に亡くなりました。

代表作『出家とその弟子』は、次のような6幕からなる戯曲です。その反響は海外にもおよび、英訳を読んだ ロマン・ロラン は「現代世界の宗教作品のなかでも、最も純真なもの」と激賞しています。

第1幕「日野左衛門の屋敷」(地主である左衛門の妻が、息子・松若の正月の晴れ着をぬっているところへ松若が帰宅。小作の子にいじめられたと嘆き、横暴な父への仕返しであることがわかって母は胸を痛めます。夕方、托鉢行脚中の二人の弟子をつれた親鸞は、強引に小作から集金してもどった左衛門に一夜の宿を請いますが、左衛門はかたくなに拒否、やむなく戸外で石を枕に眠りました。夜中に左衛門は恐ろしく不気味な夢にうなされて目覚めると、ひどい仕打ちを恥じて、親鸞一行を家に招き入れます)

第2幕「西の洞院御坊」(15年後、左衛門の息子松若は、唯円と名を改め、親鸞の弟子になっています。唯円が親鸞に、恋とはどんなものかをたずねます。「苦しいものだ」「恋は罪の一つでしょうか」「この世で罪をつくらずに恋をすることはできない。しかし、だれも一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなもの。まじめにこの関所にぶつかれば、人間は運命を知る。愛を知る。すべての智恵の芽が一時に目ざめる…」と。)

第3幕「三条木屋町・松の家の一室」(親鸞の息子・善鸞は、父への反抗から身を崩し、墨染の衣のまま遊郭「松の家」に入りびたっています。唯円は親鸞父子の和解を願って善鸞を慰め、さらに親鸞にあい、善鸞を許してくれるように懇願します)

第4幕「黒谷墓地」(善鸞に会いに遊郭へ行くうち唯円は、遊女・かえでと出会い、恋に落ちてしまいます。1年後の春の午後、二人は墓地で忍び合いをしています)

第5幕「親鸞上人居間」(遊女を相手にするなど僧として浅ましいと、弟子たちが唯円を非難していることを耳にした親鸞は、縁あれば二人を結びつけたいものだと語ります…)

第6幕「親鸞上人病室・15年後の秋」(かえでは、唯円と結婚して入信し、二人の娘をもうけました。親鸞の臨終が近づき、唯円、かえでら弟子たちが周りをかこんでいるところへ、善鸞があらわれます…)

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、倉田の代表作『出家とその弟子』『愛と認識との出発』をはじめ、16点を読むことが出来ます。


「2月23日にあった主なできごと」

1685年 ヘンデル誕生…ドイツ生まれでイギリスに帰化し、バッハと並びバロック音楽の完成者といわれる作曲家 ヘンデル が生まれました。

1784年 漢委奴国王の金印…福岡県の小島・志賀島の農民が、田んぼの用水路で金印を発見し、黒田藩の殿様に差し出しました。そこには「漢委奴国王」と彫ってありました。金印は、1954年から「国宝」に指定されています。

1836年 アラモの戦い…アラモの砦に立てこもるデイビィ・クロケットら182人のアメリカ・フロンティア義勇軍に対し、3000人ものメキシコ正規軍が攻撃を開始し、義勇軍は13日後に全滅。ただし、メキシコ軍も大打撃を蒙り、この地にテキサス共和国ができることになりました。1845年、テキサスはアメリカ合衆国と合併し、テキサス州となりました。

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