児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年01月

「おもしろ古典落語」の56回目は、『らくだ』というお笑いの一席をお楽しみください。

「くずーぃ、ぐずやぁ、おはらい…」「ぐず屋、おい、くず屋」「いけねぇ、らくださん家(ち)の前だ、向こうの道をまわりゃよかったな。…へ、へい、らくださんのお宅ですね」「そうだ、おめぇらくだを知ってんのか?」「へぇ、いつもくずをいただいております」「そいつは都合がいい、まぁ、入れ」「…らくださんはお留守で?」「留守じゃねぇ、死んじまった」「えっ、死んだ? そいつぁ、ありがた…いえ、お気の毒なことで…、死ぬような人じゃなかったんですが、あなたが殺したんですか?」「ばかなこというな、フグを食って当たったらしい」「ふーん、こわいもんですな」「それでだ、オレはらくだの兄貴分の半次って者だが、今おれのふところには百文もねぇ。この家のものをあらいざらい売って、葬式の金をこさえようと思うんだ。うんと奮発して買ってくんねぇ」「この家には、いただくものなんか何にもありません」「そこに土瓶や七輪があるだろ」「土瓶は底が抜けてます。七輪もこっちから見るとちゃんとしてますが、向こう側に大きな穴がありまして、3厘の値打もありません」

長屋の連中に香典を出させようと思い立った半次は、くず屋をおどして、月番のところへ行かせました。「えっ、らくだが死んだ? そいつはよかったな」「で、今兄貴分という人がきていまして、なるべく早く香典を集めて届けてくれって、こう申します」「冗談じゃねぇ、らくだなんて長屋のつきあいなんぞしたことはねぇ、月掛けだって出したことあるか、月掛けを集金にいくと、月番という月番がなぐられて帰ってくるんだ。あんなやつに香典だすやつはいねぇよ」「ここはひとつ、お出しになったほうがいいですよ。なんたって、らくださんより、もう一段も上の、ものすごい奴なんですから、何をされるかわかりません」ということで、長屋の者たちはしぶしぶいくらか包んで月番に渡し、月番は集めたものを半次に届けます。

味をしめた半次、いやがるくず屋を、今度は大家のところに行かせ、今夜通夜をするから、酒三升と肴を大皿2枚、暖かいご飯をおひつに2杯届けるようにといいわたしました。「ばかをいうんじゃない。らくだは引っ越して1年半、店賃を一度も払ってねぇんで、先月店賃を払わないうちは、ここを動かないって座り込んだんだ。すると『きっと動かねぇな』っといったかと思うと、なにか長いものを振り上げて、これでもかぁって…わしは、きもをつぶして土間へ転がり落ちたよ。命からがら表へとびだすうち、下駄をおいてきちまった。らくだのやつはあくる日、その下駄をはいて鼻歌うたって歩いてやがる。あんなずうずうしい奴が死んだって、そんなものは出せるわけねぇ」と突っぱねました。「いやだといったら、らくださんの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」といっても「おもしれぇ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てぇもんだ」と、大家は一向に動じません。

くず屋の報告を聞いて怒った半次、それじゃぁといって、くず屋にむりやり死骸を背負わせ、大家の家に運びこみました。さすがの大家もついに降参し、酒と肴と飯を届けました。横町の豆腐屋も同じ手口で脅迫し、棺桶がわりに四斗樽をぶんどってくると、くず屋は、もうご用済みと帰ろうとしますが、酒を飲んでいけといいます。仕事があるから帰してくれと頼んでも、オレの酒が飲めねえかと、すごまれて、もう一杯、もう一杯と飲まされるうち、だんだんくず屋の目がすわってきました。「おい、おめぇ、大丈夫か? 家へ帰ると68のおふくろと女房と子どもがいて、一日商売を休むと、困るんだろ?」「ばかにするねぇ、1日くらい休んだって、女房っ子をひぼしにするようなオレさまじゃねぇや。もう一杯注げ!」「おや、あべこべになっちまった、だいぶ酔っちまったじゃねぇか」「何いってやがんだ。てめぇの酒じゃねぇ。オレが死骸をかついでもらってきた酒だ、オットットトト…あぁ、うめぇ、まったく苦労させた酒だよ。もう一杯!」

完全に酒が回ったくず屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、オレの知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽりこんでくればいい」と相談がまとまり、らくだを樽に押しこんで、二人でかついで高田馬場を通り、落合の火葬場へ行きます。お近づきのしるしということで安公と三人で飲み始めましたが、いざ焼く段になると、死骸がありません。どこかへ落としてきたのかと、二人はもと来た道をよろよろと引き返すと、一人の坊主が酔っぱらって寝こんでいます。「こんなとこに落ちてた」と桶に入れ、焼き場にもどります。火をつけると、坊主が目を覚ましました。「アチチチチ…」「やや、死人のくせに跳ねおきやがった」「やい、なんだったってこんなところへ人を入れやがった、ここはどこだ」「ここは火屋(ひや)だ」

「ふふ、冷酒(ひや)でもいいから、もう一杯くれ」


「1月17日にあった主なできごと」

1706年 フランクリン誕生…たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたばかりでなく、アメリカ独立に多大な貢献をした政治家・著述家・物理学者・気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが生まれました。

1991年 湾岸戦争勃発…アメリカ軍を主力とする多国籍軍は、クウェートに侵攻したイラク軍がこの日に設定されていた撤退期限が過ぎてもクウェートから撤退しなかったため、イラク軍拠点に攻撃を開始し、1か月あまりにおよぶ湾岸戦争が勃発しました。

1995年 阪神・淡路大震災…午前5時46分、淡路島北部を震源とする巨大地震が発生しました。神戸市・芦屋市・西宮市などで震度7の激震を記録、神戸市を中心に阪神間の人口密集地を直撃して、鉄道・高速道路・港湾等の交通機関や電気・水道・ガスのライフラインが壊滅状態となりました。自宅を失なって避難した人は30万人以上、死者6400人以上、負傷者43000人余、倒壊・損壊家屋は40万棟を越える大惨事となりました。

今日1月16日は、第16代天皇にあたる仁徳天皇(にんとくてんのう)が、399年に亡くなったとされる日です。

大阪府堺市に、前の方は四角でうしろの方は円く、全体の長さが486メートル、前方の幅が306メートル、そのまわりに堀をめぐらした、「前方後円墳」とよばれる日本最大の墓があります。1日に1000人ずつ働いたとしても、完成までには、4年以上かかったといわれる、仁徳天皇陵です。しかし、この陵が、まちがいなく仁徳天皇の墓であるかどうかは、まだわかっていません。それは、陵の中心部のことが明らかにされていないうえに、仁徳天皇の生まれた年や亡くなった時代が、はっきりしていないためです。

のちの天皇の命によって書かれた『古事記』や『日本書紀』によると、仁徳天皇は第16代目の天皇にあたるといわれています。父は応神天皇、母は仲姫命(なかつひめのみこと)です。仁徳天皇は、たいへん慈悲ぶかい人だったといわれ、つぎのような話が伝わっています。

あるとき天皇は、難波(大阪)に建てた宮殿の高いところから、人びとの暮らしをながめました。ところが、食事のしたくをする時刻だというのに、人びとの家からは煙がたちのぼっていません。これを見た天皇は、人びとは貧しくて煮たきしたものを食べることもできないのだろうと考え、それからのちの3年間、けらいに命じて人民から税をとることをやめさせたというのです。でもこれは、天皇の徳をたたえるために、のちに作られた話だといわれています。

しかし、農業を盛んにするためには力をつくし、淀川に茨田堤(まんだのつつみ)とよばれる堤防をきずいて、河川の氾らんをふせぎ、河内(大阪)平野を広げました。また、大陸の文化を進んでとり入れることを心がけた天皇は、中国の東晋や宋の国に、何度も使者をおくったようです。そのころの中国の歴史書に、倭王がみつぎ物を持たせた使者を送ってきたことが記され、その倭王のひとりが仁徳天皇ではないかと考えられています。天皇という呼び名は6世紀ごろ生まれたもので、仁徳天皇のころは、天皇ではなく倭(日本)の国の王でした。

堺市の陵は、天皇が亡くなってからではなく、生きているうちから作られたものですが、これは、王だった天皇が、豪族をおさえた支配者の威力を示すためのものでした。しかし、慈悲ぶかいはずの天皇が、自分の墓を作るのにどうしておおくの人民を苦しめたのか、この点は疑問のままです。


「1月16日にあった主なできごと」

754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡海失敗で失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。

1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官も買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。

1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表して国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。

1986年 梅原龍三郎死去…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する画家・梅原龍三郎が亡くなりました。

今日1月13日は、はなやかな元禄期の江戸を中心に活動した多芸な画家・英一蝶(はなぶさ いっちょう)が、1724年に亡くなった日です。

1652年、医者の子として京都に生まれた一蝶(本名・多賀香信)は、絵の好きな父の影響を受けて育ちました。15歳のとき、父が伊勢亀山藩・侍医となって藩主に付いて江戸詰めとなったため、一家で江戸へ転居しました。

絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命令で狩野安信に入門して、狩野派の絵を学ぶや、たちまち町絵師として活躍をはじめます。しかし一蝶は、絵ばかりでなく俳諧にも親しみ、松尾芭蕉に高く評価されるほどでした。さらに、書道にも秀でるほど多芸で、絵も、幕府おかかえの狩野流にあきたらず、浮世絵や土佐派の絵も研究して、町の風俗を積極的に絵に取り入れました。そのため、師から破門されてしまいましたが、町人たちからは大かっさいを浴びたばかりか、当時の豪商・紀伊国屋文左衛門 らからもひきたてられ、旗本、諸大名、豪商まで、広く親交を持つようになりました。

吉原遊廓通いも好きで、客として楽しむいっぽう、幇間(たいこもち)としても活動しました。みごとな話術と愉快な芸に、豪商や大名の殿さまさえもいつのまにか散財してしまうほどだったと伝えられています。しかし、そんな風俗画家として名声をほしいままにしながら、自由人としてくらす一蝶をにがにがしく思っている人たちもいました。

そのため、1698年47歳の時に、幕府に逮捕されて、三宅島へ11年間も流罪となってしまいました。5代将軍徳川綱吉の打ちだした悪名高い「生類あわれみの令」に対する違反だといわれていますが、大名や旗本たちをそそのかして遊郭通いに金銀を浪費させたからとか、一蝶の絵の中に綱吉を侮辱する部分があったとか、明確な理由はわかっていません。当時の三宅島は、飲料水にも不自由するほど厳しいものでしたが、持ち前のねばりで生き抜きました。配流中の罪人には、年に何度か物品を送ることを許されてはいましたが、一蝶は仕送りにはいつも絵の具を要求し、江戸の風俗を見てきたように生き生きと描き続け、のちに、この時期に描かれた作品は「島一蝶」と呼ばれ、評判になっています。

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1709年、綱吉の死去により、将軍代がわりの大赦によって江戸へもどった一蝶は、ふたたび、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけ、ふたたび遊郭の人気者になりました。晩年は風俗画から離れ、枯れた味わいのある山水画や花鳥画を多く描き、江戸絵画史に大きな足跡を残しました。


「1月13日にあった主なできごと」

1199年 源頼朝死去…武士による初めての政権となった鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が亡くなりました。

1653年 玉川上水…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで50km余に水を通す出す大規模な難工事で、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜びました。江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1864年 フォスター死去…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家フォスターが亡くなりました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

今日1月12日は、大正・昭和期に活躍した作家の吉屋信子(よしや のぶこ)が、1896年に生まれた日です。

公務員家庭の8人兄弟の紅一点として新潟県に生まれた吉屋信子は、父の転勤のために栃木県で少女時代をすごしました。当時の家の多くがそうだったように、家長である父親が男尊女卑の考えを持っていたために、信子は父に反発を感じながら育ちました。8歳のころから子ども向けの雑誌や、文学作品をむさぼり読んだ信子は、小学校の担任から作文をほめられて自信を得、少女雑誌に投稿するようになります。そのころからキリスト教会に通い続けたことが、のちの作品に大きな影響をあたえることになりました。

栃木高等女学校に入学した際、新渡戸稲造 から「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければいけない。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです」という話に励まされ、14歳の時、雑誌 『少女界』 の懸賞小説に入選し、1916年には東京の兄を頼って上京、少女雑誌 『少女画報』に 『花物語』 を連載して人気作家となりました。この連載は10年以上もつづき、ベストセラーとなっています。

いっぽう、年下の宮本百合子が新人作家として活躍しているのに刺激されて、1920年に、牧師や神学生の生活ぶりを描いた長編『地の果まで』を『大阪朝日新聞』の懸賞小説に応募しました。これが1等となったことで小説家としてデビュー。さらに、同新聞から依頼されて『海の極みまで』を連載し、小説家としての地位を固めました。

以後、『女の階級』『女の友情』『良人(おっと)の貞操』など、キリスト教的倫理観に裏づけられた理想主義的作品を次々と著わし、たくさんの女性読者に感銘を与えつづけました。戦後には、知的な障害を持つ男性に「理想の男性像」を見出すという『安宅(あたか)家の人々』を発表して大きな話題となり、『鬼火』とあわせ1952年に女流文学賞を受賞しています。 その他 『徳川の夫人たち』 『女人平家』など、 歴史上の女性にスポットを当てた長編時代小説や、交遊のあった人々を回想した『自伝的女流文壇史』『私の見た人々』などの随筆も遺し、1973年に亡くなりました。

映画化された作品も多く、1936年に公開された『あの道この道』は、『乳姉妹』というタイトルでテレビドラマ化され、2005年の『冬の輪舞』は、この作品が原作となっています。


「1月12日にあった主なできごと」

1628年 ペロー誕生…「長靴をはいたねこ」「眠り姫」「サンドリヨン(シンデレラ)」など、ヨーロッパに伝わっている民話を題材に11のお話を「ガチョウおばさんの物語」という本に著したフランスの詩人、童話作家のペローが生まれました。

1746年 ペスタロッチ誕生…スイスの片田舎で孤児や貧民の子らへの教育に従事するなど、子どもたちへの愛の教育を貫いた ペスタロッチ が生まれました。

1866年 河口慧海誕生…中国や日本に伝承された漢訳の仏典に疑問をおぼえ、仏教の原典を求めて単身ネパールや鎖国中のチベットに入った、仏教学者で探検家の 河口慧海 が生まれました。

1914年 桜島が大噴火…鹿児島の桜島が大爆発をおこし、流失した30億トンという大量の溶岩で、これまで島だった桜島は対岸の大隈半島と陸続きになりました。

「おもしろ古典落語」の55回目は、『浮世寝問(うきよねどい)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「ご隠居さん、いるかい?」「八っつぁんか、相変わらず壮健で何よりだ」「あの、おもて通りの伊勢屋ですけどね」「何だ、唐突に?」「今晩、婚礼があります。『嫁入り』だって騒いでますけど、女が来るんだから、女入りとか、娘入りとかいえばいいのに、何だって、嫁入りなんです?」「男にも女にも目が二つずつある。合わせると4つの目、四目(嫁)入りだ」

「嫁に行くと、『奥さん』なんていわれますね。あれはどういうわけで」「そのうちに子どもが生れると、店先でお産をせずに、奥でするだろ、だから奥産(奥さん)だ」「あっしんとこは、『かかぁ』といいますが」「女は家から出て、家におさまる。だから家家と書いて、かかぁ、だ」「婚礼の席にはいろんなものが飾ってありますね。じいさんとばぁさんが箒を持ったり、熊手を持ったりした人形がありますが…」「あれは、蓬莱の島台といって、能で翁と老女の面をかぶっておる。お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで という都々逸(どどいつ)があるのを知ってるか」

「なるほど。それに、松とか竹とか、梅とかがかざってありますね」「松竹梅(しょうちくばい)といいなさい」「なんで、あんなものを飾るんです?」「梅は女をあらわしている。煮ても焼いても酸っぱい味は変わらない。夫を酸いて(好いて)心変わりはいたしませんということだ。皺のよるまで あの梅の実は 味も変わらず 酸いのまま」「それも都々逸ですか? 梅干ばばぁなんてのは、ほめ言葉なんだ。で、竹は?」「竹は男の気性だ。真っすぐで、腹の中はさっぱりしてて、締まるところにはちゃんと節があって、しっかり締まってますてぇとこだ」「松は?」「松の双葉は枯れて落ちても離れない。夫婦もそうありたいということだ。松の双葉はあやかりものよ 枯れて落ちても 夫婦連れ。どうだ、情愛にあふれてるだろ」

「ご隠居さんは、何でも知ってますね」「おまえさんが、ものを知らな過ぎるんだ。都々逸から、いろいろ割り出してますね。鶴や亀が千年も万年も長生きして、そのあとはどうなります?」「めでたいから、極楽へ行くだろう」「極楽てぇのはどこにあります?」「遠い、西方弥陀の浄土、十万億土だ」「その、さいほう、なんとかっというのは?」「西の方だ」「西てぇのは、小田原から箱根あたり?」「もっとずーっと先」「ずうっと、先ってぇのは、どのあたり?」「いい加減におしっ、あるから心配するな」「てすから、どこにあるんです?」「だから、もうお帰り」「そうはいきませんよ、、出る物が出るまでは居続けます」「いやなやつだな。お前さんのようにしつこいやつは、とても極楽へは行けないな」「じゃ、あっしはどこへ行くんで」「地獄だな」「地獄はどこにあるんで」「極楽の隣だ」「じゃぁ極楽は?」「うるさいな、少しは相手の身にもなれ」「あはぁ、まいったか」「じゃ、見せてあげるから、こっちへおいで」と、隠居が連れていったのが仏壇です。

「へぇ、極楽ってぇと、仏さまが大勢いるといいますが」「ああ、ご位牌が仏さまだ」「じゃ、音楽が聞こえて、紫の雲がたなびいて、蓮の花が咲いて、きれいなとこだっていいますがねぇ」「ごらんよ、こしらえもんだが、ちゃんと蓮の花があがっている。それに紫の雲だが、これは線香を焚けば、紫の雲のかわりになる。音楽は、鐘もあるし木魚もあるじゃろ」「…すると、何ですか、みんな死ぬとここへ来る?」「ああ、みんな死ねばここへきて、仏になれる」「じゃ、鶴や亀もここへ来て仏になりますか?」「いゃ、ああいうものは畜生だからなれない」「じゃ、何になります?」

「ごらん。この通り蝋燭(ろうそく)立てになっている」


「1月11日はこんな日」

鏡開き…歳神様へおそなえしておいた鏡餅を、神棚からおろして雑煮や汁粉にして食べる「鏡開き」の日です。餅は、刃物で切らずに、手で割り開いたり木槌でわったり砕いたりします。武家社会の風習が一般化した行事です。


「1月11日にあった主なできごと」

1569年 謙信が信玄に塩を贈る…5度にわたる「川中島の戦い」を、甲斐(山梨)の 武田信玄 と戦った越後(新潟)の 上杉謙信は、敵である信玄に塩を贈りました。陰謀で塩を絶たれて困っていた武田方を救うためで、このいい伝えから「敵に塩を贈る」ということわざが生まれました。

1845年 伊能忠敬誕生…江戸時代後期の測量家で、日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(えんかいよち)全図」を完成させた 伊能忠敬 が生まれました。

1851年 太平天国の乱…清(中国)のキリスト教徒である 洪秀全 が「太平天国」を組織して反乱をおこしました。4、5年後には数十万人もの兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至りましたが、1864年に鎮圧されました。

1974年 山本有三死去…小説『路傍の石』『真実一路』や戯曲『米百俵』など、生命の尊厳や人間の生き方についてやさしい文体で書かれた作品を多く残した 山本有三 が亡くなりました。

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