児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2012年01月

今日1月31日は、明治の開明期に啓蒙思想家・教育者として活躍した西周(にし あまね)が、1897年に亡くなった日です。

1829年、津和野藩(今の島根県津和野)の藩医の子として生まれた西周は、幼少の頃から漢学の手ほどきを受け、12歳のとき藩校の養老館で朱子学を学びました。1849年には藩から儒学を深く研究することを命じられ、大坂や岡山に留学したのち、藩校の教官となりました。

1853年のペリー来航の際、事情を調べるために江戸に派遣された西は、蘭学にふれると、江戸に残って洋学を学ぶことを選択しました。翌年脱藩すると、困窮のなか必死で英学を学び、中浜万次郎(ジョン万)からも直接英語の発音を学んだといわれています。

1857年に幕府の蕃書調所の教授並手伝となり、同僚の津田真道らと知り合って、哲学や西欧の学問を深く研究しました。西と津田は、海外留学の必要性を幕府に願い出ると、それがかなって1862年幕命によりオランダへ留学、法学、哲学・経済学・国際法などを学びました。特に西は、カント の哲学に傾倒しました。

1866年に帰国すると、開成所教授に就任し15代将軍徳川慶喜の側近として活動しながら、「万国公法」の翻訳を命じられて1868年に出版、明治維新による王政復古をへて、徳川家によって開設された沼津兵学校校長にむかえられ、組織と管理に全力をそそぎました。兵学校付属小学校は後の小学校制度の基となっています。1870年、山県有朋 に乞われて明治政府に出仕、山県のブレーンとして兵部省につとめて西洋の軍事制度関連の翻訳や調査にあたるいっぽう、自宅に私塾「育英社」を開いて、たくさんの弟子を育てました。1873年に、森有礼が「民六社」を創設すると、福沢諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹らと加わり、機関紙『明六雑誌』に、西洋哲学の翻訳・紹介など、哲学の関係の論文を多く寄稿して、「哲学」をわかりやすく紹介しました。

さらに、文部省・宮内省などの官僚を歴任し、「軍人勅諭」の草案を起草するなど、軍政の整備とその精神の確立につとめました。また東京学士会院会長、東京師範学校長、獨逸学協会学校長などをつとめ、教育行政の面でも重要な役割をにないました。元老院(1875年~90年におかれた立法機関)議官や、貴族院議員にも任じられました。

なお西は、西洋語を「哲学」「主観」「客観」「芸術」「理性」「科学」「技術」など、苦心しながら、たくさんの訳語を生みだしたことでも知られています。


「1月31日にあった主なできごと」

1797年 シューベルト誕生…『ぼだい樹』『野ばら』『アベ・マリア』など600曲以上もの歌曲や、『未完成交響曲』などの交響曲や室内楽曲、ピアノ曲などを作曲した シューベルト が生まれました。

1947年 ゼネスト中止命令…激しいインフレを背景に生活を脅かされた労働者たちは、共産党の呼びかけで2月1日にゼネスト決行を計画しましたが、マッカーサーGHQ総司令官は、ゼネストは日本経済を破滅においやると、中止を指令しました。

1958年 アメリカ初の人工衛星…前年にソ連に先を越されたアメリカは、初の人工衛星エクスプローラ1号の打ち上げに成功しました。

「おもしろ古典落語」の57回目は、『二番煎(にばんせん)じ』というお笑いの一席をお楽しみください。

火事と喧嘩は江戸の花とかいって、名物といわれるほど火事がよくありました。特に真冬は乾燥してるために大火事がたえません。そこでどこの町内にも番小屋というのがありまして、町内のだんな方が交代で番小屋を出まして、時間をきめて町内を回って歩きます。寒いので手をぬきたくても、町奉行の役人が見まわってるので、しかたがありません。しんしんと冷えこむ夜更けの町を連れだって、拍子木や鳴子や鉄棒を鳴らしながら『火のぉーよぉーじーん』……、番小屋にもどってくるころには、だれもが冷えきってしまいます。

「行ってまいりました、さぁ、お次の番ですよ。交代、こうたい、あぁ火の側はあったかいね。何よりのごちそうですねぇ。炭をどんどんついであたたまりましょう」「あのーっ、月番さん」「なんです?」「じつは、今晩家を出るときに、娘が『おとっつぁん、寒いから…歳ぃとってんだし、火回りで風邪ひくといけない』って、このひょうたんの中に、お酒を入れて持ってきたんですが、みなさんであがっていただきたい…」「お酒? 近江屋さん、ここは番小屋ですよ、番小屋でお酒を飲んだってことが役人に知れたら、こりゃ大変ですよ。あなた、このなかで一番の年かさなんだから、そんなことしたらいけないって、止める立場じゃないですか」「いゃっ、こりゃ面目ない、じゃぁ、しまいましょう」「なにも、ひっこめることはないでしょ、せっかく出したんだから」「というと、どうしましょう?」「飲むんです」「たった今、番小屋で酒飲んじゃいけないって…」「へへへ、酒だからいけないんです。でも煎じ薬なら、さしつかえないでしょ」「なるほど、こりゃ、おそれいりました」「おそれいることはありません、わたしもふところに、この通り1本隠してあります」「なんだい、あんた、おどかしちゃいけないよ」「えー、月番さん、じつはあたしも…」「なんだ、みんな持ってきてるのかい」

土瓶の茶を捨てて「煎じ薬」を入れると、炭がおこってますからすぐに熱燗になって、酒盛りがはじまります。すると肴が欲しくなります。おあつらえ向きにもう一人が、猪の肉を持ってきたといいます。それも、土鍋を背負ってくるという手回しのよさ。そのうち味噌が出る、ネギが出る。さかずきをやったりとったり、すっかりいい気持になってきました。「あたしゃねぇ、お神酒がまわってくると、どどいつをやりたくなるんです」「冗談でしょ、番小屋でどどいつなんて、ダメですよ」「いいじゃありませんか、ねぇ…つつん、つん、つつ…んとん…」いい調子になってると、しんばり棒をかった表戸を、ドンドンたたくものがあります。

「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ、見回りの者である」「え? おぅ、こりゃいけねぇ、お役人だよ、あぁ、どうしよう」あわてて土瓶と鍋を隠しましたが、全員酔いもさめてビクビクです。「あー、今わしが『番』と申したら『シぃ』と申したな。あれは何だ」「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」「それに、土瓶のようなものを隠したな」「風邪よけに煎じ薬を飲んでましたんで」役人、ニヤリと笑って「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。ところで、さっき鍋のようなものを」「へえ、口直しでして…」「ならば、その口直しを出せ」もう一杯もう一杯と、酒も肉もきれいに片づけられてしまいます。「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」

「ないとあらばいたしかたがない。しからば拙者もう一回りまわってくるから、…二番を煎じておけ」


「1月30日にあった主なできごと」

1649年 チャールズ1世処刑…1628年、イングランド議会から国王チャールズ1世に対して出された「権利の請願」は、大憲章(マグナカルタ)・権利章典とともにイギリス国家における基本法として位置づけられていますが、チャールズ1世はこれを無視して議会と対立。3日前に公敵として死刑の宣告を受けた国王が、この日処刑されました。こうして議会が国政に参加する権利を確立した「清教徒(ピュリタン)革命」が終結しました。

1902年 日英同盟…清(中国)や韓国に進出しようとするロシアに対抗するため、この日ロンドンで「日英同盟」が結ばれました。イギリスの清の権益、日本の清や韓国の権益を相互に認め、一方が戦争になったときは中立を守り、そこに第三国が参入したときは援助しあうというものでした。当時のイギリスは、アフリカでの戦争に消耗しており、ロシアの南下をおさえる「憲兵」の役割を日本に期待したもので、日本は日露戦争への道をたどりはじめました。

今日1月27日は、オペラ『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』などを作曲し、19世紀イタリア・ロマン派音楽の作曲家ベルディが、1901年に亡くなった日です。

1813年、イタリアの中北部ロンコーレ近郊の村で農業を兼ねる宿屋の子として生まれたジュゼッペ・ベルディは、幼いころから音楽の才能をみせはじめ、7歳のころには村の教会のオルガニストに音楽を学びはじめました。12歳のころには先生をしのぐほどの腕前になりましたが、家が貧しいために働きに出なくてはなりません。しかし、ベルディの才能を惜しむ村の有志が学資を出し合って、ベルディに音楽の勉強を続けさせてくれたのです。1832年にミラノに出たベルディは、正式に作曲法を学び、1836年に聖バルトロメオ教会の楽長となりました。

1839年、最初のオペラ『伯爵オベルト』をミラノで初演すると好評を博し、1842年の『ナプッコ』の成功で、オペラ作曲家としての地位を確立すると、1850年までの間に『ロンバルディア人』『ジャンヌダルク』など14作ものオペラを次々に成功させて、ロッシーニの後継者と目されるようになりました。ベルディのオペラの大きな特長は、メロディ中心の伝統的なオペラをベースに、ドラマ性を重視したところに新しさがありました。そして、1851年にフランスの文豪ビクトル・ユゴーの戯曲を脚色した、醜いせむし男の道化師を主人公にした『リゴレット』を発表すると、第4幕の 「女心の歌」 が特に評判になり、たちまち広まって最も親しまれるオペラの歌となったばかりか、ベルディの名を世界的なものにしました。

第1級のオペラ作曲家となったベルディは、1853年に『椿姫』を発表しました。これもデュマの小説を脚色したもので、青年アルマンが娼婦ビオレッタに恋し、真の愛にめざめるものの父親から引き離され、ビオレッタは結核で亡くなるというストーリー。第1幕の 「乾杯の歌」 「ああ、そはかの人か」など、メロディの美しさは有名です。

さらに1871年、同時代のドイツのワーグナーのオペラを研究し、その壮大な管弦楽法を採り入れた 『アイーダ』 を書いて大成功をおさめました。この作品は、スエズ運河の開通を祝ってエジプト国王に依頼され、カイロで初演されたスペクタクルオペラで、捕らわれたエチオピアの王女アイーダとエジプトの士官ラダメスの恋の物語です。第2幕には数百人の合唱団やバレエ団が登場するという豪華さ、「凱旋行進曲」「バレエ音楽」はここに登場するほか、「清きアイーダ」「勝ちて帰れ」「おお、わが故郷」など、優れた曲に満ちあふれています。

ベルディが生涯に発表したオペラは26曲、今も世界じゅうのオペラハウスで演じられ、親しまれています。


「1月27日にあった主なできごと」

1219年 源実朝死去…鎌倉幕府の第3代将軍で、歌人としても著名な 源実朝 が、兄の2代将軍頼家の子公暁に暗殺されました。公暁も殺され、源氏の血が絶えてしまいました。

1756年 モーツァルト誕生…ハイドンやベートーべェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家 モーツァルト が生まれました。

1832年 キャロル誕生…イギリスの数学(幾何学)者でありながら『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したキャロル(本名ドジソン)が生まれました。

1902年 八甲田山遭難事件…日本陸軍の歩兵隊が青森県八甲田山で冬季訓練中に遭難し、訓練への参加者210名中199名が死亡。軍の無謀な訓練が問題になりました。

今日1月26日は、アメリカ陸軍の将軍で、太平洋戦争後に連合国の日本占領軍(GHQ)最高司令官となったマッカーサーが、1880年に生まれた日です。

ダグラス・マッカーサーは、軍人だった父の任地南部アーカンソー州リトルロックの兵営宿舎で生まれました。父と同じ陸軍軍人の道を歩み、1903年に陸軍士官学校をトップの成績で卒業、陸軍少尉となりました。卒業後は、アメリカの植民地だったフィリピンに長く配属されました。父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった1905年には、マッカーサーも副官として東京で勤務する体験もしました。

その後陸軍省にもどって、極東の事情に詳しい軍人として広報班長という要職につきます。1917年4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦した際には、史上最も若い参謀長に就任し、突撃隊を率いて果敢に戦い、負傷しながらもフランス戦線で名をあげました。戦後は、少将となって栄進を果たし、士官学校の校長に就きました。1930年には、50歳で陸軍参謀総長(大将)となって1935年に退役しましたが、独立することを決定したフィリピンに招かれて、フィリピン軍の軍事顧問に就任しました。

ところが、日米関係が悪化して1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、現役にもどって極東連合軍司令官となりましたが、日本軍の激しい攻撃にあい、フィリピンからオーストラリアに一時撤退しました。やがて島伝いに反撃に転じ、ニューギニアをへて1944年10月、フィリピンのレイテ島に上陸し、フィリピンの奪回に成功、沖縄作戦を開始しました。

1945年8月に日本が降伏すると、連合国最高司令官に任命されて厚木基地に進駐し、東京の日比谷に総司令部をおいて、日本の占領政治を担当しました。アメリカ政府の指示にしたがいながら政治犯の釈放後、戦後の日本の民主化をすすめる第1弾として「女性の解放」「労働者の団結」「教育の自由化」「専制政治の廃止」「経済の民主化」という5つの改革を指令しました。また、経済の民主化として「農地解放」「財閥解体」「独占禁止法」を打ち出しました。

さらに、国の象徴としての天皇・戦争放棄・封建制の廃止という「マッカーサー3原則」に基づいて「日本国憲法」の草案を作成しました。これにより、マッカーサーは労働者の味方と思われましたが、1947年2月1日に共産党の呼びかけでゼネスト決行を計画したところ、日本経済を破滅においやると、GHQは中止を指令。のちに、日本共産党員や同調者を公職追放する「レッドパージ」(赤狩り)を指令しています。

1950年6月に朝鮮戦争がおこると、マッカーサーは国連軍最高司令官に任命されて戦いましたが、北朝鮮を支援する中国軍の攻勢により苦戦を強いられものの、戦争継続を強硬に主張したことでトルーマン大統領と対立、1951年4月にいっさいの職務をやめさせられました。こうして、5年半近くGHQ総司令官として日本の占領政治に君臨してきたマッカーサーは、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して、惜しまれながら帰国しました。

1952年、共和党の大統領選にかつがれましたが、大きな支持を得られずに断念。レミントンランド社の会長に就任しましたが体調をくずして1964年、84歳で亡くなりました。


「1月26日にあった主なできごと」

1788年 囚人の移民…イギリスからの初めてオーストラリア移民団が、ポートジャクソン湾(現シドニー湾)から上陸しました。このうち約半数は、犯罪を犯した囚人たちでした。これにちなんで「オーストラリアの建国記念日」となりました。

1823年 ジェンナー死去…牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケを作ったイギリスの外科医 ジェンナー が亡くなりました。

1948年 帝銀事件…帝国銀行(現在の三井住友銀行)の東京豊島区にあった椎名町支店で、「近くの家で赤痢が発生したので予防薬を飲んでもらう」と偽って銀行員12名を毒殺、現金16万円などが強奪される事件がおこりました。8月になって画家平沢貞通が逮捕され、死刑が確定しましたが執行されないまま1987年に獄死。支援者はいまだに冤罪を叫び、再審請求を続けています。

今日1月25日は、明治・大正・昭和の3時代にわたってジャーナリスト・思想家・歴史家として活躍した徳富蘇峰(とくとみ そほう)が、1863年に生まれた日です。

蘇峰は、肥後藩(いまの熊本県)の郷士の長男として水俣で生れました。弟は作家の 徳冨蘆花。漢学を学んだのち、熊本洋学校に入って西洋の学問やキリスト教に興味をよせるようになり、1876年に上京して官立の東京英語学校に入学しました。学校になじめないために京都の同志社英学校へ転入学し、創設者である新島襄に学びました。1877年に「西南戦争」が勃発すると、新聞の報道記事に感動してジャーナリストを志すようになります。1880年、学生騒動に巻きこまれて同志社を中途退学すると、ふたたび上京して新聞記者を志願するもののかなわず、帰郷して、燃えさかりはじめた自由民権運動に参加しました。

やがて自宅に、私塾「大江義塾」を開き、1886年の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて、青年への啓蒙に努めました。蘇峰は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設にわきたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目され、さまざまな講義のテキストを著わすことで、自己の思想の基本を確立していきました。

1886年の夏、『将来之日本』の原稿をたずさえて上京、田口卯吉の「経済雑誌社」から刊行されると、「将来の日本は、生産活動にたずさわる一般市民の世の中になる」と明快に説く華麗な文は、多くの若者を魅了し、論壇デビューを果たしました。そして翌年には言論団体「民友社」を設立して、月刊誌『国民之友』を主宰すると、弟の蘆花をはじめ山路愛山や 国木田独歩らも入社しています。1890年には『国民新聞』を発刊し、その主筆となって平民主義を掲げ、「自由」「平和」「進歩」を主張して、言論界に新風をまきおこしました。ところが、日清戦争後の「三国干渉」(ロシア・ドイツ・フランス3国が、日本領有となった遼東半島を清へ返還するよう勧告してきた事件) からは、国家主義・帝国主義・皇室中心主義をとなえ、日本の海外への侵出を正当化するように変わったため、その変節が非難されるようになりました。

1904年、日露戦争がはじまると、蘇峰は『国民新聞』をあげて桂太郎戦時内閣に協力する報道をつづけたため、一時低迷をつづけた新聞発行部数も急速に伸びていきました。ところが、戦後に講和条約が成ると、これを弱腰として非難した「日比谷焼き討ち事件」、さらに1913年に桂内閣と軍部の横暴に憤慨した「大正の政変」では民衆暴動が高まり、国民新聞社は二度も焼き討ちされて、大きな被害を受けました。

以後は、ペンによる警世の思想家として力をそそぐようになり、特に1918年ころから代表作となる『近世日本国民史』を綴るようになり、この書で1937年に学士院恩賜賞をうけ、1943年には文化勲章を受章しています。1952年まで書き続け、この歴史書は50巻もの大著となっています。

敗戦後は、戦時中に軍部へ協力し大日本言論報国会の会長を務めたことから戦犯(戦争犯罪人)容疑者に指名され、公職追放にあって逗子にひきこもり、1957年、94歳で眠るように亡くなりました。


「1月25日にあった主なできごと」

1212年 法然死去…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、南無阿弥陀仏をとなえれば、人間はだれでも来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然が亡くなりました。

1858年 御木本幸吉誕生…「真珠王」と呼ばれ、真珠の養殖とそのブランド化に成功した御木本幸吉が生まれました。

1885年 北原白秋誕生…『赤い鳥小鳥』『あわて床屋』『からたちの花』など800編もの童謡の作詞を手がけた詩人・歌人の北原白秋が生まれました。

1907年 湯川秀樹誕生…日本で最初にノーベル賞にかがやいた理論物理学者湯川秀樹が生まれました。

1957年 志賀潔死去…赤痢菌を世界で初めて発見したことで知られる細菌学者志賀潔が亡くなりました。

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