児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年12月

今日12月5日は、大正・昭和期の小説家、文芸評論家の広津和郎(ひろつ かずお)が、1891年に生まれた日です。

作家の広津柳浪(りゅうろう)の次男として東京に生まれた和郎は、早稲田大学英文科に在学中から短編小説や翻訳を同人誌などに投稿したりしていましたが、卒業後に文芸評論家として活躍するようになります。

1917年、雑誌『中央公論』に『神経病時代』を発表して文壇デビューをはたすと、芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫、久米正雄らと交わりながら研さんを続け、自身の結婚に取材した『やもり』、知識人の生き方を模索した長編『風雨強かるべし』などの小説を発表。いっぽう、散文芸術は従来の美学では律し得ないものであることを主張した『散文芸術の位置』、暗黒な社会状況にめげず生きとおしていく精神が散文精神であると主張して、『怒れるトルストイ』や『徳田秋声論』など優れた評論をさかんに著わし、戦前を代表する評論家と高く評価されました。

太平洋戦争後の1949年に「松川事件」がおきました。この事件は、下山事件、三鷹事件、と並び同時期におきた国鉄三大ミステリー事件のひとつといわれるものです。東北本線の松川・金谷間でおこった脱線転覆事故で、乗務員3人が死亡、国鉄や民間の労働者が逮捕された事件でした。1950年の第1審で、被告人20人全員が有罪(うち死刑5人)という判決がでました。この事件の裁判の様子に深い関心をもつようになった広津は、1953年には宇野浩二らとともに松川事件の第二審公判を傍聴するために仙台へ行き、事件現場を視察しました。被告の無罪を確信した広津和郎は、「真実は訴える」を雑誌『中央公論』に発表して無実を訴えましたが、二審では3人が無罪になったものの17人が有罪(うち死刑4人)という判決が出たのでした。

広津は、その後も裁判批判の文章を、『中央公論』に長期にわたって書き続けたことで、吉川英治、川端康成、志賀直哉、松本清張、佐多稲子らたくさんの作家・知識人の支援運動が起こり、1959年松川事件の最高裁判決で、第二審判決は破棄され仙台高裁に差し戻しとなりました。そして1961年、仙台高裁差し戻し公判で、被告全員に無罪判決が出たばかりか、1963年に最終判決がくだって被告全員の無罪が確定したのです。まさに、1968年77歳で亡くなった広津の「悲観も楽観もせずに忍耐強く生きる」(散文精神) の到達点でした。


「12月5日にあった主なできごと」

1791年 モーツァルト死去…ハイドンやベートーべンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家 モーツァルト が亡くなりました。

1901年 ディズニー誕生…「ミッキー・マウス」を生みだし、いまや世界的なウォルト・ディズニー・カンパニーを創業した ディズニー が生まれました。

1904年 日本軍が旅順203高地占領…日露戦争で日本軍は、ロシア軍の要塞があった旅順の203高地を3度目の総攻撃で占領に成功、戦局はいっきに日本軍が有利なものになりました。

今日12月2日は、フランスの韻文の劇作家で『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者として知られるロスタンが、1918年に亡くなった日です。

1864年にマルセイユの豊かな商人の家に生まれたエドモン・ロスタンは、パリ大学に学び、弁護士・外交官など将来どんな道に進むか迷ったようです。やがて、ド・リールやルナールらの文人と交わるうちに、詩劇作家を志すようになりました。

1894年、恋の幻滅と再生を描いた韻文喜劇『ロマネスク』が上演されるとその叙情性が好評を呼び、1897年三幕の聖書劇『サマリアの女』を成功させたあと、同年、いちやくロスタンの名を世界的なものにした『シラノ・ド・ベルジュラック』が大当たりしました。シラノ(17世紀に実在した人物)は、学者で詩人で軍人で、おまけに天下無双の剣客ですが、美男とはほど遠い大鼻の持主です。この豪傑が、同僚の色男クリスチャンから、シラノが秘かに想いをかける従妹ロクサーヌとの仲をとりもって欲しいと頼まれ、シラノは恋の取り持ちを引受けて、ラブレターの代筆をすることになります……。

美が伴わなければ、愛を向けられないのか、醜男シラノの恋と冒険に生きるさまが、ロマン主義の英雄として大衆の共感をえたのでしょう。1897年年末の幕開けから500日間、パリじゅうを興奮のうずに巻きこみました。こうしてシラノは、ロスタンの劇化で人情味あふれる詩人として描かれ、フランス一の人気者となったのでした。この5幕からなる作品は、現在に至るまで各国でひんぱんに上演されています。

その後ロスタンは、1900年にナポレオン2世を描いた悲劇『鷲の子』、1910年に鳥ばかりが登場する『東天紅』などを上演しますが、世評はシラノに遠くおよびませんでした。


「12月2日にあった主なできごと」

1804年 ナポレオンの戴冠式…パリのノートルダム寺院において、ナポレオン が皇帝となる戴冠式が行なわれました。ナポレオンは、自らの手で王冠を頭上に置き、王妃の頭上にも置きました。王冠は、法王から授かれるものではなく、自分の手で獲得したものであることを強調したものでした。この華やかな模様は、ルーブル美術館とベルサイユ宮殿にあるダビッドの名画に描かれています。

1823年 モンロー宣言…アメリカ合衆国の第5代大統領ジェームズ・モンローが議会で、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱した日です。この提唱は「モンロー宣言」とよばれ、アメリカ外交の基本方針となりました。

1929年 北京原人の頭骨発見…北京郊外の周口店にある洞窟の中で、人類の頭蓋骨の化石が見つかり、北京原人と名づけられました。北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人のひとつですが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したようです。この北京原人遺跡は1987年にユネスコの世界遺産として登録されました。

「おもしろ古典落語」の51回目は、『素人(しろうと)うなぎ』というお笑いの一席をお楽しみください。

徳川幕府が終わって、明治の新しい政府ができたころのお話です。「おや、中村のお殿さまじゃございませんか、どちらへ」「おう、神田川の金か、もうわしは武士じゃないから、殿さまなんていっちゃいかん。実は、家を探しておるのじゃ」「すると、もとのお屋敷はいかがなさいました?」「屋敷のほうはそのままになっておる。世の中が変わってしまって、家じゅうの者が遊んでるわけにはいかぬから、商売でもやろうと思ってな。なれぬことをして大損してはつまらぬから、しるこ屋でもはじめようとな。しることいえば、奥も嬢も好きだし、わしも好んで食するからの」「あの、旦那さま、しるこ屋ってのは一日100杯売っても、もうけはたかがしれています。そこへいくと、料理屋はもうかります。料理でもうかって、お酒でもうかる。どうです、うなぎ屋なんぞおやりになっては」

「うーむ、うなぎ屋か、しかし、わしはうなぎどころか、魚にさわったこともない」「なにも、旦那がおやりになることはありません。職人を使えばいいんです。そうだ、わたしがひとつお手伝いいたしましょう」「いゃ、ことわろう。おまえは腕は確かだか、酒を飲むと人の見境いがなくなっていかん」「そいつをいわれると面目ねぇ、しかし旦那、あっしゃ先代の殿さまからごひいきをいただいて、お屋敷にはご恩があります。ようがす、あっしも男だ、酒を絶って住み込みで、一生懸命やろうじゃございませんか」──ということになって、それならと万事金に任せることにして開店にこぎつけました。

火を落とし、後始末をした金が「ごめんくださいまし、旦那さま、本日はおめでとうございます。おや、これは麻布の旦那さま、いらっしゃいまし。さきほど、お見えになったのことは知っていましたが、洗いものなどをしておりましたので、ごあいさつもせず、失礼いたしました」「金、いま、中村氏(うじ)からおまえの話をすっかり聞いたが、あれほど好きな酒を断ってやってくれるおまえに、ほとほと感心いたしたぞ」「へぇ、今朝ほど金毘羅(こんぴら)さまに、3年のあいだ酒を断ちました」「ほんとうに断ったのだな、それは残念であった。いや、本日は開業でもあるから、中村氏に願って、祝いのことゆえ、そのほうに一杯でもちそういたそうと思ったが…」「あのー、断つには断ちましたが、讃岐の金毘羅さまに断ちましたんで、まだ使いの天狗がまだ、門まで行ってねぇと思うんで…天狗が門をくぐったと同時に酒はやめます」「わかった、しかしたくさんは飲まさんぞ、この湯のみ3杯だけだ…」

ところが案の定、だんだん金の目が座ってきて、気がついた時はもう手遅れ。止めさせようとすると「なんでえ、一杯二杯の酒ぇ飲んだがどうしたってんでぇ。こんな職人がどこにいるってんだ。料理から、持ち運び、出前までするんだ、しみったれ」「これ、よさんか、ばか者め」「ばかたぁなんでぇ。大きなツラぁするねぇ。旦那旦那と持ち上げてりゃあいい気に……」「出ていけっ」「こんな家、誰がいるか」

しかし、金に出ていかれると営業はできないので、夫婦で心配していると、翌朝、金が面目なさそうに帰ってきます。酒は金輪際飲まないことを約束させて、また元の鞘(さや)にもどりました。それからしばらくは、金も懸命に働き、腕がいいので店も少しずつ繁盛していきます。ところが、旦那がある夜、金に遠慮しいしい寝酒をやっていると「ガラガラガラ」とすごい音。金の声がするので、さてはと駆けつけると、もうご機嫌。この前のことがあるから思わず旦那もかっとして「出ていけっ」。翌朝戻ってきましたが、またその翌日も同じことの繰り返し。仏の顔も三度で、もう金ももどってはこられません。

そうなると、困るのが店の方です。金ほどの腕の職人はすぐには雇えませんから、しかたなく、旦那が自分で料理しようと奥さんと二人で大奮闘。ぬるぬるしてつかめずに、糠(ぬか)を滑り止めにしてやっと一匹捕まえて、キリで往生させたと思ったら、今度は隣の奴がニョロニョロ逃げだしたのをつかまえて、「あっ、うなぎがわしの手からすべりでる。おのれ、逃がすものか」「あなた、うなぎといっしょに、なぜお歩きになるんですか」「ばか、歩かぬと、うなぎが手から離れてしまう、奥、はきものを出せ」「あなた、どこへいらっしゃいます?」

「どこへまいるか? 前にまわって、うなぎに聞いてくれ」


「12月1日にあった主なできごと」

1789年 ギロチンの採用…フランス革命のころ、死刑執行のために使われた首切り器械のギロチン。ギロチンは、医師のギヨタンが提案してこの日の国民議会で採用されました。ルイ16世やその妃 マリー・アントアネットをはじめ何万人もの人が首を切られましたが、ギヨタンもまたギロチンで処刑されました。

1997年 京都議定書…「地球温暖化防止会議」が、この日から10日間京都で行なわれ、地球温暖化の原因となる温室効果ガスをだす量を、先進国が国別に目標値を定めてへらしていくことを決めました。この取り決めは「京都議定書」と呼ばれています。

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