児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年12月

今日12月12日は、数奇な運命からアメリカに渡り、幕末に通訳で活躍した浜田彦蔵(はまだ ひこぞう)・英語名ジョセフ・ヒコが、1897年に亡くなった日です。日本人として初めて米国籍を得、幕末の木戸孝允、西郷隆盛、伊藤博文らに、アメリカの民主政治を語って、開眼させたことでも知られています。

1837年、播磨国(現・兵庫県播磨町)で生まれた浜田は幼い頃に父を失くし、13歳の時に母を亡くした直後に義父の船に乗って江戸見物をした帰り、遠州灘で暴風雨にあって難破、51日間太平洋を漂流した後に、南鳥島付近でアメリカの商船に救われました。救助してくれた船員たちと共にゴールドラッシュに湧くサンフランシスコに滞在しました。

1852年、アメリカ政府より日本へ帰還させるよう命令が出てサンフランシスコを出発し、香港に到着したところ、そこで出会った日本人の体験談を聞くうち帰還をあきらめ、サンフランシスコにもどりました。下宿屋の下働きなどをしているうち、税関長のサンダースにみこまれて、ボルチモアのミッション・スクールで学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼を受けました。

1858年、日米修好通商条約で日本が開国したことを知った彦は、日本への望郷の念が強まったもののキリシタンでは帰国することはできないことを知り、帰化してアメリカ国籍を得ました。そして1859年、駐日公使・ハリスに通訳として採用され、9年ぶりの帰国を果たし、幕末外交の第一線に登場しました。当時は、英語に通じる日本人や、世界のニュースをよく知る者はほとんどいない時代です。訪ねると、すべて日本語でわかりやすく解説してくれる彦ほど便利で重宝な人物はいませんでした。

わが国最初の新聞である『海外新聞』は、彦がアメリカやイギリスの新聞や雑誌などから、日本人が知りたい情報を口述し、岸田吟香らが執筆したもので、1864年7月に発刊、およそ2年間つづきました。ニュースばかりでなく、旧約聖書の「創世記」を『世界開びゃくのはじめ』として連載したり、日本初の新聞広告も掲載しました。

1868年に18年ぶりに帰郷をはたし、1869年には大阪造幣局の創設に尽力、その後は大蔵省に務めて国立銀行条例の編さんに関わったり、貿易商として茶の輸出、精米所経営などを行ない、1897年、東京の自宅で亡くなりました。60年の激動の生涯でした。


「12月12日にあった主なできごと」

1834年 福沢諭吉誕生…慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される 福沢諭吉 が生れました。

1862年 英国公使館を焼き討ち…1858年の「日米修好条約」に反対する長州藩士 高杉晋作 らは、幕府を窮地に立たせようと江戸・品川に建設中のイギリス公使館を焼き討ちにしました。

「おもしろ古典落語」の52回目は、『豆屋(まめや)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「八百勝さん、2円借りてきました」「おお、元気にやってきたな、そうか、隠居のおじさんが貸してくれたんだな。ところでおまえさんは素人だ。表通りばかりを商いしてたんじゃいけないよ」「へぇ」「このマス一ぱいが一升だが、十三銭のものなら十八銭、十五銭のものは二十銭という、思いきった掛け値をいわなくちゃいけない。値切る客がいるもんだ。へたをすると損をすることがあるから気をつけて商いをするように、いいね」

この前は売り物の名を忘れて失敗したが、こん度は大丈夫そう。「ええ、豆、そら豆でござい、上等なそら豆でございっ」と教えられたとおり、うら通りをがなり歩いていると、「おい、豆屋」「豆屋、豆屋ってぇと…」「豆屋はてめえだろ」「へい、そうでした、なにしろできたての…」「できたてのそら豆か」「いぇ、できたては、このわたしで」「くだらねぇこというな。で、一升いくらだ」と聞くので「二十銭でざいます」と答えると「二十銭? この野郎、大名料理じゃあるまいし、そんな高ぇそら豆食えるか」「ですから、そこは相談で…」「なにが相談だ、足もとをみやがったな。この長屋を見てみろ、自慢じゃねぇが、びんぼう所帯の集まりだ。いのちが惜しかったら、さっさとまけてみろ」「ですから…ですね、二十銭が高いなら、十八銭に…」「なにぃ! そこにある薪ざっぽうが見えねぇか?」「いいえ…二十銭から十八銭をひいて…」「じゃ二銭でいいんだな」おまけに、山盛りにさせられ、こぼれたのまでかっさらわれてさんざんです。

泣く泣く、また「豆、豆っ」とやっていると、「豆屋ァ」の声。「いけねぇ、この長屋じゃ、売り声をあげなけりゃよかったな。いまのお呼びはこちらさまで…」前よりもっとこわそうな顔で「一升いくらだ」と聞かれ、「へい、一升ですと…(もにょもにょ)」「聞こえねぇよ、こっちへ寄って、はっきりいえ」「一升…二銭」「なにぃ、この野郎、もう一度いってみろっ」「高いので?」「だれが高いといった。いいか、そら豆を一升二銭で売っていて、それでも稼業でございなんていえるか。てめぇ、盗んできたわけじゃねぇだろうな。違う? いいか、豆屋、おまえはどうやって飯を食ってる?」「へぇ、箸と茶わんで…」「ふざけたことぬかしやがって…、この薪ざっぽが見えねぇか?」 豆屋がおそるおそる十銭、十五銭、二十銭と値を上げると、「二十銭? それっぱかりのはした銭で豆ぇ買ったといわれちゃ、仲間うちに顔みせできるか」というわけで、とうとう五十銭に。

いい客がついたと喜んで、盛りをサービスしようとすると「やいやいっ、こちとら江戸っ子だ。だれが盛りをよくしろといった。はかるなら、なるたけふんわりと、すきまのあるようにはかってもらいてぇ。商売人は中をふんわり、たくさん詰めたように見せかけるのが当たり前だ。真ん中を少しへこませろ。ぐっと減らせ、ぐっーと。よし、すくいにくくなったら、マスを逆さにして、ポンとたたけ」「そしたら親方、マスはからっぽです」

「そうさぁ、おれんとこじゃ、買わねえんだ」


「12月9日にあった主なできごと」

1860年 嘉納治五郎誕生…講道館柔道の創始者であり、日本のオリンピック初参加に尽力するなどスポーツの海外への道を開いた 嘉納治五郎 が、生まれました。

1916年 夏目漱石死去…『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『草枕』などの小説で、森鴎外と並び近代日本文学界の巨星といわれる 夏目漱石 が亡くなりました。

1945年 農地改革…連合国軍総司令部(GHQ)は、占領政策として経済構造の民主化をはかりましたが、そのひとつが、この日指令された「農地改革に関する覚書」でした。1947年から49年の間に、全国260万町歩の小作地のうち200万町歩が自作農に解放され、地主制はほぼ壊滅することになりました。

今日12月8日は、歌人で国文学者の土屋文明(つちや ぶんめい)が、1990年に亡くなった日です。

1890年、現在の高崎市の農家に生まれた土屋は、幼少期から教師だった伯父の家で育てられ、その影響で文学を志すようになり、旧制高崎中学在学中から俳句や短歌を『ホトトギス』へ投稿するようになりました。中学の国語教師である村上成之が歌人、俳人であることを知って村上に師事し、自然主義文学の目が開かれました。

村上の紹介により伊藤左千夫を頼って上京した文明は、左千夫の家に住み込んで短歌指導を受け『アララギ』に参加、同人になって斉藤茂吉らから詩風を学びます。その後、一高を経て東大に進み、東大在学中から芥川龍之介、久米正雄らと第三次『新思潮』同人に加わり、小説や戯曲を書いたりしました。

1916年に大学を卒業すると、翌年から『アララギ』の選者に加わるようになり、島木赤彦の紹介で諏訪高女の教師として赴任、諏訪高女の教頭、松本高女の校長を歴任しながら作歌活動を続けました。1925年、第一歌集『ふゆくさ』を出版すると、その叙情的な歌の数かずに、歌壇から絶賛をあびました。

1930年、斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引きつぐと、アララギ派の指導的存在となります。以後、文明の作風は、生活に厳しく立ち向かう実感的で現実的な「文明調」とよばれる独自のものに変貌し、『往還集』『山谷集』『六月風』など歌集をつぎつぎに出版、歌人としての名声を確固たるものにしました。いっぽう、万葉集の研究にも打ち込み『万葉集年表』『万葉集私注』『万葉集名歌評釈』などの著作で、万葉学者としての地位を確立し、初心者のために短歌の入門書や解説書も出版しています。

1945年、東京・青山の自宅が空襲により焼失したため、群馬県吾妻郡原町(現在の吾妻町)に終戦をはさんで6年半移り住み、この地の渓谷沿いの静かな自然の中で自給自足の生活を送りながら、万葉集研究や『アララギ』の復興と地方誌の育成などに精力的に活動しました。その後は明治大学教授や宮中歌会の選者をしたり、1984年には文化功労賞、1986年に文化勲章を受章するなど、歌壇の最長老として君臨しつづけ、短歌ひとすじ100年の天寿を全うしました。


「12月8日にあった主なできごと」

BC441年 シャカの悟り…仏教を開いたインドの シャカ が、王宮の妻子の元を離れて6年目のこの日、悟りを開いたといわれます。

1941年 太平洋戦争勃発…日本の連合艦隊がハワイ・オワフ島の真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を奇襲して、この日から3年6か月余にもおよぶ太平洋戦争に突入しました。 

1980年 ジョン・レノン射殺される…世界的なロックバンド、ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノンが、ニューヨークの自宅アパート前で、熱狂的なファンにピストルで撃たれて亡くなりました。

今日12月7日は、明治期の元老院議長で、日本赤十字社の創始者となった佐野常民(さの つねたみ)が、1902年に亡くなった日です。

1823年、佐賀藩士下村家の子として現在の佐賀市に生まれた常民は、のちに藩医佐野家の養子となり、藩校の弘道館などで漢学・儒学・医学を学びました。

当時佐賀藩は、オランダと中国とだけ交易を行う長崎の警備を命じられていました。若き藩主鍋島直正は、佐賀城下に反射炉を築き、日本初の鉄製大砲の鋳造を成功させ、長崎に砲台の築造を行うなど、長崎警備の充実をはかっていました。さらに、教育や産業など諸方面の改革に着手しているところで、常民も、藩主から蘭学修業を命じられ、1848年には大坂の緒方洪庵の適塾で、大村益次郎ら明治維新で活躍する多くの人材と知りあいました。

1855年、幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、佐賀藩から常民ら48名が第1期生として参加し、航海・造船・砲術などの習得に励みました。常民は、この経験をもとに1858年には三重・津海軍所の創設に尽力、幕府から預かった軍艦観光丸の船将として優れた指導力を発揮したばかりでなく、初の国産蒸気船凌風丸も完成させ、この地に日本一の偉容を誇る佐賀藩海軍が誕生したのです。

1867年常民は、パリで開催される万国博覧会に佐賀藩団長として参加しました。このパリ万博には、江戸幕府のほか、佐賀藩と薩摩藩が出展、日本人が初めて参加した万国博覧会でした。欧米の先進性と博覧会の重要性を認識して帰国した常民は、明治維新後は、日本海軍の創設、イギリス式兵制の採用、洋式灯台建設の推進など、欧米諸国に肩を並べる国家づくりに乗り出しました。大蔵卿(大蔵大臣)、元老院(明治政府の立法機関)議長、農商務大臣などを務めました。

1877年に西南戦争が始まると、かつて適塾で学んだ人命尊重の精神、ヨーロッパで出会ったデュナンの赤十字の理念を思いだした常民は、救護組織の必要性を唱え、「博愛社設立請願書」を政府に提出します。しかし「敵の傷者も差別なく救う」という博愛社設立の趣旨は、当時の政府には受け入れられませんでした。常民は、政府軍の総指揮官有栖川宮(ありすがわのみや)親王に熊本まで出向いて直接嘆願、即日許可を受けることができました。まさに日本の赤十字事業の幕開けでした。1887年、博愛社は日本赤十字社に改称され、国際赤十字に加盟、常民は「日本赤十字社」の初代社長に就任しました。こうして日本赤十字社は、日清戦争の戦時救護など、さまざまな場で活躍を展開していくのです。

常民は、「日本美術協会」の設立に力を尽くして美術界の発展にも貢献し、1902年80歳で亡くなりました。


「12月7日にあった主なできごと」

1827年 西郷隆盛誕生…大久保利通、木戸孝允と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人西郷隆盛が生まれました。

1867年 日本初の紡績工場…薩摩藩は、イギリスのプラット社から3600錘もの紡績機械を購入し、技師をつきそわせてこの日その荷が長崎に到着。まもなく薩摩藩は、家内工業的な機織にかわる近代的な鹿児島紡績工場を操業させました。
 
1878年  与謝野晶子誕生…『みだれ髪』など明治から昭和にかけて活躍した歌人であり、詩人・作家・思想家としても大きな足跡を残した与謝野晶子が生まれました。

今日12月6日は、中国の孫文らを支援して、「辛亥革命」を支えた革命家の宮崎滔天(みやざき とうてん)が、1922年に亡くなった日です。

1871年、肥後国(現在の熊本県荒尾市)郷士の11人兄弟の末弟として生まれた滔天(本名・虎蔵)は、西郷に味方して西南戦争に敗死した民権論者だった長兄の志をつぎ、熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教や自由主義思想を学びました。

1886年15歳で上京、東京専門学校(後の早稲田大学)に入るものの、大江義塾との学風の違いからすぐに中退しました。その後自由民権運動を支持しキリスト教の洗礼を受けますが、貧しい人にパンを与える方法を真剣に考えるうちキリスト教とも離れ、当時欧米の列強が半植民地化しようとする中国の革命運動に関心が向くようになりました。1891年に、初めて上海に渡航した折、朝鮮で東学党の変がおこりその処理をめぐって日清戦争が勃発したため、革命実践の意欲は一時とん挫しました。

1897年に「中国革命の父」といわれる 孫文 と知り合った滔天は、それ以後中国大陸における革命運動を支持、池袋で、日本に亡命してきた孫文や蒋介石を援助しました。革命運動がしばらく停滞したことで、自分を見つめ直す意図から桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となったり、自身の半生記『三十三年の夢』や『狂人譚』を著わして、革命の志をあたためました。

1905年、孫文らと東京で秘密結社「中国同盟会」を結成するいっぽう、朝鮮開化党の志士金玉均の亡命も支援し、その金玉均が上海で暗殺されると、遺髪と衣服の一部を持ち込んで日本人有志で葬儀を営むという義理人情にあふれた人物でもありました。1907年頃より『革命評論』を発行し、日本人は、もっと中国や中国人留学生に暖かい目をむけるように訴えました。

1911年に孫文が中心となって「辛亥革命」をおこすと、滔天も孫文の助けになろうとしますが、個人としてなすべきことはほとんどなく、1912年に帰国すると、口述筆記により『支那革命軍談』を出版して、辛亥革命の宣伝につとめました。本人いわく、革命後は「半病人のていたらく」だったそうですが、中国革命の成功を心から祈りつづけた生涯でした。


「12月6日にあった主なできごと」

1700年 徳川光圀死去…徳川家康の孫で、「水戸黄門」の名でしたしまれた第2代水戸藩主の徳川光圀が亡くなりました。

1839年 水野忠邦の老中就任…浜松藩主だった 水野忠邦 が老中筆頭となりました。11代将軍家斉が亡くなると、忠邦は幕政改革「天保の改革」を行ないました。側近たちを退け、商業を独占する「株仲間」の解散、ぜいたくの禁止など、あまりに厳しい改革に民心は離れ、成功とはほど遠いものに終わりました。

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