児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年11月

今日11月15日は、薩長同盟を成立させ、徳川慶喜による大政奉還を実行させ、明治維新への道を切り拓いた土佐藩出身の志士・坂本龍馬(さかもと りょうま)が、1867年、33歳の誕生日に暗殺された日です。

1835年、土佐藩(高知県)の町人郷士の家に生まれた龍馬は、19歳で、剣術修行のために江戸へのぼり、北辰一刀流千葉定吉の道場に入門しました。修行をはじめて間もなく、ペリー率いる米艦隊が浦賀沖へ来航したことで、品川の土佐藩下屋敷護衛の任務に就き、黒船の脅威をまのあたりにしました。

1年間の厳しい修行で剣の腕をみがいて帰国した龍馬は、尊王攘夷を主張する土佐勤王党に入り、武市瑞山(半平太)と交遊をもちながら藩の改革をめざしました。しかし、厳しい身分制度にはねかえされてうまくいかず、脱藩して再度江戸にでて、幕府の軍艦奉行の 勝海舟 を訪ねます。勝から世界情勢を説ききかされた龍馬は、目がさまされる思いで即座に弟子入りし、神戸に出来た海軍操練所で航海術を学び、塾頭をまかされるまでになりました。

しかし、わずか1年で操練所は幕府にとりつぶされたため、龍馬は勝の紹介で薩摩藩にたよることになりました。1865年、薩摩藩の援助で長崎に「亀山社中」(のちの海援隊)という団体を作り、汽船をつかって商売をする海運業にのり出します。

ちょうどそのころ、長州藩は幕府から2度目の長州征伐をうけようとしており、龍馬は長州側にたって働きました。世の中の流れは薩摩藩と長州藩が手を結ぶべきだと考えていたためでしたが、両藩の仲は悪く、そっぽを向き合っていました。そこで龍馬は、同志の中岡慎太郎と力をあわせ、いがみあっていた薩摩と長州を説得し、1866年1月、「薩長同盟」を結ばせることに成功しました。いっぽう、土佐藩の後藤象二郎を説得して、土佐藩主の山内豊信(とよしげ・容堂)を使わせて、幕府から朝廷へ政権を平和的に返還させる「大政奉還」運動をおしすすめ、1867年10月、徳川慶喜に実行させました。

さらに龍馬は、「船中八策」といわれる新政府の構想まで練り上げている先見の明には驚きです。新しい国家は、議会を開設し、憲法を持ち、天下の人材を用い、外国と対等に広く交際することなどが記されていました。

死後の龍馬は、しばらくは注目されませんでしたが、1883年に、高知の新聞が『汗血千里の駒』として龍馬の生涯を連載すると評判となって名前が知られるようになります。しかし、その存在が決定的になったのは、1962年に司馬遼太郎が代表作となる小説『竜馬がゆく』の主人公として描いてからで、以来、飛躍的に知名度があがり、幕末の志士として国民的人気を得るようになりました。

なお、龍馬の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」31巻目「坂本龍馬」をぜひご覧ください。


「11月15日にあった主なできごと」

1630年 ケプラー誕生…惑星運動に関する3つの法則を発見し、近代天文学におおくの業績をのこしたドイツの天文学者で ケプラー が生れました。

1835年 カーネギー誕生…鋼鉄で利益をあげた大実業家で、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家 カーネギー が生まれました。

今日11月14日は、ドイツ観念論哲学の完成者とされるヘーゲルが、1831年に亡くなった日です。

1770年、ドイツ南西部にあるシュツットガルトの公務員の家に生まれゲオルク・ウィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、進歩的な教育者だった母の影響もあって、子どもの頃から語学、文学、哲学などを教わりました。わずか8歳のときに「シェイクスピア全集」の感想文を記すほどの読書家でもありました。

ルター派のチュービンゲン神学大学で学び、哲学者シェリングや詩人ヘルダーリンと交友を結び、ギリシャ語、ラテン語、博物学などを学びました。天文学、物理学にも親しみながら大学を卒業後、家庭教師をしながら生計を立てていましたが、父親の遺産を相続することで1801年にイエナ大学の講師になったのを皮切りに、生涯を通して学者の道に専念しました。ハイデルベルク大学教授を経て、1816年にベルリン大学教授となり総長までつとめますが、その講義は魅力的で、いつも聴講者であふれていたといわれています。

ヘーゲルの哲学や「論理学」は「弁証法」とよばれ、ある問題提起に対し、意見をだしあいながら対話をすすめ、双方が合意するやり方が基本になります。ものごとはすべて弁証法的なしくみで展開していくという考えを唱え、『精神現象論』『論理学』『法哲学綱要』などたくさんの著作を通し、ぼう大で壮大な哲学体系をこしらえあげました。とくに、1821年に刊行された『法哲学』は、現実の社会と国家を真正面からとりあげて、近代人は社会的な存在であることを分析し解明しています。

ヘーゲルの哲学体系は、当時のドイツ思想に大きな影響力をあたえたばかりでなく、死後もヘーゲルの考えに対し、保守的な「ヘーゲル右派」、「中間派」、革新的な「ヘーゲル左派」(マルクスやキルケゴールら)に分かれて深化させ、のちの哲学や思想の発展に大きな影響を与えました。


「11月14日にあった主なできごと」

1630年 貝原益軒誕生…独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著わした 貝原益軒 が生まれました。

1889年 ネルー誕生…イギリスの植民地だったインドを独立に導き、インド発展に全力を注いだ ネルー が生まれました。インドでは、ネルーの誕生を祝う日であるとともに「子どもの日」 になっています。

1930年 浜口首相狙撃される…東京駅で狙撃されて重傷を負った浜口雄幸首相は、「男子の本懐」と語って話題になりました。軍部の反対を押しきって行った金輸出解禁などが右翼の反感を買ったのが原因でした。

「おもしろ古典落語」の48回目は、『甲府(こうふ)ぃ』というお笑いの一席をお楽しみください。

ある豆腐屋の店先で、オカラを盗みぐいしている男がいます。店の若い衆が袋だたきにしようとするのを、主人がみとがめて、事情を聞いてみますと…

「わたしは、甲府育ちの善吉と申します。小さい時に両親をなくして、伯父夫婦に育てられましたが、今年20歳になりましたので、江戸に出てひとかどの人間になって、育ての親に恩を返したいと思いました。身延山をお参りをして、お祖師さまへ5年の間禁酒を誓いまして、かねて聞いていました浅草の観音さまへお参りをしようと存じまして、仲見世まで参りますと、わたしに突きあたったものがございます。お堂へあがって寺でお賽銭をあげようと、ふところへ手を入れてみますと懐中物がございません。ああ、それでは今のが巾着(きんちゃく)切りというものであったかと思いましたが、どうしようもありません。無一文になって宿屋へも泊れませんので、昨夜は観音様のお堂で夜をあかしまして、今朝ほど、お参りにいらした方に『この江戸で、奉公口を探してくれるところはありませんか』と聞きますと、葭町(よしちょう)の千束屋(ちづかや)という口入屋(くちいれや)があると親切に教えてくださいましたゆえ、そこをめざしての途中、お宅の前を通りますと、オカラの樽からポッポとと湯気が出ているのがいかにもおいしそうで、空腹のあまり、思わず口にしてしまいました。ご商売ものを無断でいただきまして、なんとも申しわけございません」

涙ながらに語る善吉を、気の毒に思った店主は、ちょうど家も代々法華宗、これもお祖師さまの引き合わせだと、善吉を家に奉公させることにしました。仕事は、豆腐の売り子です。給金は出ませんが、売上に応じて歩合が取れるので励みになります。こうして足掛け3年、休みなく「豆腐、ゴマ入り、がんもどき」と、売って歩きました。お世辞が上手で、愛想がよい上に、売り声も生まれつきの美声、なれるにしたがって「豆腐ぃ、ゴマぁ入り、がんもぉどき」売り声の節もうまくなりまして、善吉からしか買わないという女性客もたくさんついて、主人夫婦はどんなに喜んだかしれません。

ある日、娘のおなつも年ごろになったので、一人娘のこと、放っておくと虫がつくから、早く婿を取らさなければならないと夫婦で相談して、宗旨も合うし、真面目な働き者ということで、善吉に白羽の矢がたちました。幸い、おなつも善吉に気があるようす。問題は本人だとおかみさんがいうと、気の短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し「なにっ、あいつが嫌だなんていえる義理か。はじめてきやがったときに、オカラを食ったこと忘れたか? 拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな、薪ざっぽ持ってこい」と、大騒ぎ。目を白黒させた善吉でしたが、自分風情がと遠慮しながらも結局承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまりました。それからの善吉夫婦は、朝は暗いうちに起き、夜遅くまで身体を休めるひまもなく家業に励んだために店は大繁盛。近所に土地を買って家を建て、年寄り夫婦を隠居させました。

ある日、善吉が隠居のところへやって来て、「もう江戸へ出て足かけ6年になりますが、まだ甲府へは一度も帰ってませんので、伯父にも願がかなったと安心させたいし、両親の墓参りと身延山へのお礼を兼ねて、里帰りさせてもらえませんでしょうか」と申し出ます。おなつもついて行くというので、喜んで旅支度してやり、翌朝出発しました。

「ちょいと、ごらんよ。縁日へも行ったことがない豆腐屋の若夫婦が、今日はおそろいで、もし若旦那、どちらへお出かけで?」と聞かれた善吉…

「甲府ぃ、おまぁいり、願ほぉどき」


「11月11日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワーの誓い…2か月前にイギリスのプリマス港を出航したメイフラワー号は、この日北メリカのケープコッドに到着。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる移民たちは船上で、自治の精神に基づき自由で平等な理想的な社会を建設することをめざす誓いをかわしました。こうして、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地のさきがけとなるとともに、その精神はアメリカ民主主義の基となりました。

1840年 渋沢栄一誕生…幕末には幕臣、明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した 渋沢栄一 が、生まれました。

1881年 ドストエフスキー死去…「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪 ドストエフスキー が、1881年に亡くなりました。

1918年 第1次世界大戦終結…前年アメリカ合衆国の参戦により、決定的に不利となったドイツは、この日休戦条約に調印。第1次世界大戦が終結しました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジア探検にそそいだスウェーデンの探検家 ヘディン が、亡くなりました。

今日11月10日は、トルコ革命の指導者でトルコ共和国の初代大統領となったケマル・アタチュルクが、1938年に亡くなった日です。アタチュルクは、「トルコの父」という敬称です。

オスマン帝国の領土だったギリシア北部にある「マケドニア」のサロニカに、1881年税関吏の子として生まれたムスタファ・ケマルは、12歳で地元の陸軍幼年学校に学びました。とても優秀だったために、1899年にはイスタンブールにある陸軍大学校へ進学しました。当時はトルコ皇帝による専制政治が行われており、ケマルはこれに反対する革新運動に加わっていたことが卒業まぎわになって発覚し、逮捕されてしまいました。なんとか1905年に卒業し、シリアの第5軍団に勤務しながら、「祖国自由協会」という秘密団体を作って政治活動をはじめました。1908年に「青年トルコ党」が革命をおこして議会政治が始まりますが、ケマルはこれには参加せずに軍務に専念します。1914年に第1次世界大戦がはじまると、軍司令官となって連合軍とたたかい、ダーダネルス海峡を死守する活躍をします。

しかしトルコは敗北し、1819年に政府がトルコに不利となる休戦条約を結ぶと、ケマルはこれに反対して民族解放軍を組織、1920年に、イスタンブール政府とは別にアンカラ大国民会議という革命政権を樹立し、イスタンブール政府が連合軍とのあいだで交わした「セーブル条約」という不平等条約を認めず、まもなくはじまったギリシア・トルコ戦争で、ケマル率いる国民軍がギリシアを撃破しました。

1922年、専制政治の現況となっていたスルタン(皇帝)制をやめさせ、翌年には連合国との間に「ローザンヌ条約」を結んで、大戦で奪われた土地と独立国としての主権をとりもどし、アンカラを首都とする「トルコ共和国」の建国を宣言しました。

初代大統領に選出されたケマルは、亡くなるまでの15年間その地位につき、1924年には共和国憲法を発布して、国教だったイスラム教を非国教として、政教分離政策を実施しました。さらに、女性の参政権を認め、文字革命をおこしてアラビア文字をやめてローマ字を国字とすることを提唱、太陽暦の採用など、近代国家となるための改革を次々に打ちだしていきました。大国民会議は、そんなケマルをたたえて1934年に「アタチュルク」という称号をおくったのでした。4年後に57歳の激動の生涯を終えますが、その功績は、いまも讃えられています。


「11月10日にあった主なできごと」

1619年 デカルトの決意…近代西洋哲学のもとを築き、哲学の父とよばれて歴史に名をのこした デカルト が、「コギト・エルゴ・スム」(われ思う、ゆえにわれあり)という独自の哲学の基本を決意した日です。

1871年 スタンリーがリビングストンを発見…アメリカの新聞記者スタンリーは、行方不明になっていた探検家 リビングストン を追い、アフリカ奥地で236日ぶりに発見しました。

1873年 内務省の設置…明治政府の実質上の中枢である内務省が設置され、大久保利通 が初代内務卿に就任。警察、地方行政など対民衆行政のすべてを掌握することになりました。

1928年 昭和天皇即位…京都御所で、昭和天皇の即位式が行なわれました。27歳で即位した天皇は、60年以上の在位期間に、太平洋戦争敗戦、玉音放送、人間宣言など、激動の時代を歩むことになりました。

今日11月9日は、一代で「浅野財閥」を築きあげた実業家の浅野総一郎(あさの そういちろう)が、1930年に亡くなった日です。

1848年、越中国氷見郡(現・富山県氷見市)に、医師の子として生まれた浅野総一郎でしたが、1867年、北陸一帯の物産を手広く扱う産物会社をおこしました。しかし、成功しかけるものの拡大路線が裏目に出て失敗、1871年、300両もの借財の返済にこまって夜逃げ同然に上京しました。

お茶の水の名水に砂糖を入れただけの「水売り」から出発した浅野は、竹の皮商から薪炭・石炭商へ転じました。1872年、近所にある貸し布団屋の女中の佐久がとてもよく働くのに目をつけた浅野は、佐久に求婚、以来、佐久との共働きで成功していくきっかけをつくります。

やがて、コークスやコールタールの廃物に着目して、廃物をセメント製造の燃料として用いる方法を開発。ただ同様のコークスをセメント工場に納めて大きな利益を得るようになりました。この仕事ぶりが 渋沢栄一 に認められて、1884年には官営の深川セメント工場の払い下げを受け、「浅野セメント会社」(後の「日本セメント」 小野田セメントと合併により現「太平洋セメント」) の基礎とします。以来、浅野は渋沢の助言をもとに、水力発電所や鉄道建設など急増する需要を受けて、積極的な経営戦略を展開、肥料・ビール・東洋汽船会社などの実業活動を展開しました。

いっぽう、1896年には欧米視察にでかけ、英国、ドイツ、米国などの港湾開発の発展ぶりを目の当たりにして横浜港にもどると、その旧態依然とした港の様子に衝撃を受け、港湾を近代化しなくては諸外国に太刀打ちできないことを知りました。まもなく浅野は、工場を一体化した日本初の臨海工業地帯を東京市から横浜市にかけての海岸部に、独力で建設することを計画しました。

浅野の、この大規模計画の価値を認めた同郷の「安田銀行」(後の「富士銀行」・現「みずほ銀行」)を開業していた安田善次郎の支援を受け、今の川崎市の工業地帯を形成する150万坪の埋め立て工事に着手し、大正から昭和の初めにかけて約15年間に及ぶ年月をかけて完成させました。そのため浅野は「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼ばれています。さらに浅野は、「浅野造船所」(後の「日本鋼管」現「JFEエンジニアリング」)を設立するなど、第一次世界大戦の特需もあって、一代で浅野財閥を築いたのでした。


「11月9日にあった主なできごと」

1872年 太陽暦の採用…明治政府は、西欧の国ぐにならって太陽暦を採用しました。具体的には、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることで、太陽暦(新暦)に切りかわりました。これまでの日本の暦は、月の満ち干の周期をもとにした太陰暦(旧暦)が使われていました。

1876年 野口英世誕生…黄熱病・梅毒・狂犬病・蛇毒などの細菌の研究に、大きな成果をあげた 野口英世 が誕生しました。

1970年 ド・ゴール死去…フランス建国史上最も偉大な指導者のひとりと評価されている政治家 ド・ゴール が亡くなりました。

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