児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年11月

今日11月22日は、毒舌の社会評論家として活躍した大宅壮一(おおや そういち)が、1970年に亡くなった日です。

1900年、現在の大阪・高槻市にある醤油屋の子として生まれた大宅は、少年時代から、さまざまな雑誌に作文や俳句を投稿してジャーナリズムにふれたり、渋沢栄一やカーネギーのような実業家になりたい夢を持ったり、賀川豊彦を知って社会問題に関心を持つなど、多感な小・中学時代をすごしました。いっぽう、家業をてつだいながら文学に親しむうち、ドイツ語やフランス語を独習したりもしました。

1918年、米の値上がりによる全国的な暴動(米騒動)がおきると、大宅は民衆蜂起を支持する演説をおこなったため、茨木中学を放校されてしまいます。しかし、資格検定試験に合格し、第三高等学校をへて1922年に東大に入学。「新人会」に入り、社会運動家として活躍するいっぽう、生活費を稼ぎだすために夜学の英語教師をしながら、時流を鋭くとらえた評論を雑誌『新潮』に発表してジャーナリストデビューを果たしました。のちに「ほとんど学校に出ず、授業料も納めなかったらいつのまにか除籍されてしまった」と東大を中退したことを語っています。

その後大宅は、昭和初期に刊行された新潮社の『世界文学全集』の編集を手伝ううち、翻訳を下訳、リライトなどの仕事を分担し、「翻訳工場」を組織して、流れ作業によるシステムを考えだしました。『千夜一夜物語』(中央公論社版)など、たくさんの翻訳書を円本で刊行したため、文壇では「大宅翻訳製造会社」と呼んだようです。1933年にはゴシップ・スキャンダル雑誌『人物評論』を自ら編集・刊行し、風俗や人物、時流などを軽妙な語り口でつづって評判をよびました。

太平洋戦争後は、やじうま精神を大いに発揮して、大衆の実感に即した社会・風俗時評を展開し、ラジオ、テレビ、雑誌などマスコミの世界で大活躍をしました。新語や造語づくりの名人で、テレビに熱狂する国民を皮肉って「一億総白痴化」といったり、家庭のいざこざと労働争議をひっかけて「家庭争議」、一流とは言えない地方国立大学の乱立を「駅弁大学」、「男の顔は履歴書」「恐妻」「口コミ」「太陽族」などの造語は特に有名です。

1967年には「大宅壮一東京マスコミ塾」を開塾して、死去によって幕を閉じるまで500名近い塾生を送り出しました。死後、大宅の膨大な蔵書は「大宅壮一文庫」として公開され、雑誌ジャーナリズムの総合図書資料館として多くの人に利用されています。なお、大宅の3女映子は、ジャーナリストとして活躍中です。


「11月22日にあった主なできごと」

1263年 北条時頼死去…鎌倉時代の第5代執権で、北条氏本家による独裁政治の基礎を確立した 北条時頼 が亡くなりました。

1869年 アンドレ・ジッド誕生…『狭き門』『田園交響曲』『贋金つかい』などを著し、ノーベル賞を受賞したフランスの作家 アンドレ・ジッド が生まれました。

1890年 ド・ゴール誕生…フランス建国史上最も偉大な指導者のひとりと評価されている政治家 ド・ゴールが 生まれました。

今日11月21日は、ルソーと並び、フランス啓蒙主義を代表する思想家で文学者のボルテールが、1694年に生まれた日です。

パリの裕福な公証人の子として生まれたボルテール(本名フランソワ・マリー・アルーエ)は、10歳の時からイエズス会の学校に7年間学びますが、この時すでに詩才を発揮して、文学に熱中しました。いっぽう、自由主義貴族の集まるサロンに出入りして、政府や教会など絶対的なものに反発し、皮肉るようになっていました。

1717年、幼いルイ15世の摂政をしていたオルレアン公を風刺した詩を書いたところ、バスティーユ監獄に11か月も投獄されました。獄中で書いた悲劇『エディポス王』(男の子が父親を殺害して母と性的関係を持つという古代ギリシアの話)をボルテールのペンネームで発表、パリで初演されると大評判となり、ボルテールの名は一躍有名になりました。1726年、貴族との口論がもとで再び投獄され、イギリスへ行くことを条件に釈放されました。

イギリスで3年間をすごしたボルテールは、ベーコンやロックらの思想を知って哲学に目ざめ、帰国後の1734年に『哲学書簡(イギリス便り)』を著しましたが、厳しい政府批判も含まれていたため、再びお尋ね者になってしまいます。しかしおよそ10年間、愛人のシャトレ侯爵夫人にかくまってもらいながら、文学、哲学、歴史学など多様な分野にわたって啓蒙活動を開始し、1750年には、プロイセンのフリードリヒ大王に招かれて、3年間ポツダムに住んで大王の文学上の教師待遇を受けています。

帰国後「百科全書」にも協力しましたが、パリに入ることを禁じられていたため、1760年にスイス国境に近い街フェルネーに居を定め、徹底した専制政治や教会批判、不利な裁判で苦しむひとたちを擁護するなど、自由主義的な政治的発言を活発に行い、ヨーロッパじゅうの尊敬を集めました。

ボルテールは、同時代に活躍した ルソー とはあまり仲良くはありませんでしたが、1778年に亡くなるまで、生涯に刊行した著作は70巻にものぼり、フランス革命の精神的なバックボーンとなったばかりでなく、いまだに多くの人に大きな影響力を与えています。


「11月21日にあった主なできごと」

1481年 一休死去…形式化した禅宗と僧侶たちを厳しく批判し、世間的な常識に真っ向から対立する奇行と人間味あふれる狂詩で世を風刺した室町時代の名僧・一休 が亡くなりました。

1724年 近松門左衛門死去…江戸時代中期に人形浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎の作者として活躍した 近松門左衛門 が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の49回目は、『小言幸兵衛(こごとこうべえ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

麻布にある大家の幸兵衛、のべつまくなし長屋を回っては小言をいい歩いているために「小言幸兵衛」とあだ名がつけられています。「おい魚屋、魚をこさえるのはいいが、はらわたをむやみにまき散らして、蠅がたかっていけねぇよ」「糊屋のばぁさん、そんなとこで赤ん坊に小便させちゃ困るね、あとが臭ぇじゃねぇか」「どこの家だい? 焦げくさいな、また熊んとこだな、のべつ飯を焦がしてるから熊公は色が黒ぇんだ」しまいにはネコにまで「寝てばかりいねぇで、ネズミでもとれ」と説教している始末です。長屋の住人はもう慣れっこになって苦にしませんが、新しい借り手が来ても、いうことが気に入らないとすぐに小言をいって帰してしまいます。そんなことですから、「貸家」と貼った札がはがれたことがありません。

「おい、ばぁさんや、玄関に誰かいるよ…、家主はあたしだが、何かご用かな」「この先の貸間を借りたいと思うが、店賃はいくらかな?」「誰が貸すといった? お前さんは口の聞き方を知らないね。いいかい、『あそこに貸家有りとありますが、いかがでございましょうか』ぐらいいってみな。それで貸すといわれたら『それでは店賃はおいくらでございましょう』というのが順序じゃねぇか」「さようでございました。で、貸していただけますか?」商売は、豆腐屋。子どもはいるかと聞かれ、「幸せなことにそんなのはいないと、大いばりでいわれて幸兵衛は気に入りません。子どもといったら国の宝、夫婦の宝。授かりたくても授からず、神や仏に願かけする人だっている。何が幸せなことにだ、と追い返してしまいます。

次に来たのは仕立屋。物腰も低く、堅そうで申し分ないと見えましたが、22歳になる六三郎というせがれがいて、トンビがタカを生んだといわれるほどの役者みたいないい男、仕立ての腕前は親父以上と聞くと、幸兵衛は「店は貸さないほうがいいな。なぜ? この筋向こうに古着屋があって、そこの一人娘のおそのは今年19、麻布小町と評判の器量良しだ。おまえのせがれはずうずうしい野郎だから、すぐ目をつけて、古着屋夫婦の留守に上がりこんで、いつしかいい仲になる。すると女は受け身だから、たちまち腹がポコランポコランポンポコランとせり出してくる。『いったい誰とこんなことに…』『お父さんお母さんごめんなさい。じつはお向こうの仕立て屋の六三郎さんと…』と白状するな。結構な話じゃないかと、古着屋からお前のせがれを婿にという話になる」「ちょっと待って下さいよ。何しろせがれは一人息子ですから、婿にはやれません。嫁にもらうのならまだいいですけど」「そうでしょ、必ずそうなるんだ。店は貸せないから帰っとくれっ」

入れ替わって飛びこんできたのは、えらく威勢のいい男。「やい、家主の幸兵衛ってのはてめぇか」「手前ですが」「あの先のうすぎたねえ家を借りるからそう思えっ。店賃なんぞ高えこと抜かすと、ただじゃおかねえぞ」「おっ、何とも乱暴な人が来たな。ばぁさん、恐がらなくてもいいよ、そんなところで震えてちゃしょうがねぇな。ところでご家内はおいくたりで?」「おれに山の神に道陸神に河童野郎だ」「ほう、化け物屋敷ですな、で、なんです? 山の神とか河童野郎とかっていうのは」「山の神はかかぁで、道陸神はおふくろ、河童野郎はガキのこったぁ」「いやー、どうもすごい話だ…で、おまえさんのご商売は?」「鉄砲鍛冶よ」

「なるほど、だからかポンポン言いどおしだ」


「11月18日にあった主なできごと」

1901年 八幡製鉄所操業…福岡県北九州市に建設された八幡製鉄所が操業を開始しました。近代化を推し進めていた明治政府が、殖産振興・富国強兵をもとにしたわが国初の本格的な製鉄所で、日露戦争、第1次世界大戦での鉄鋼需要の急増で、急速に発展しました。

1903年 パナマ運河条約…太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河は、スエズ運河をひらいたレセップスが開発に着手しましたが、難工事のため断念。アメリカ合衆国はパナマとの間でパナマ運河条約を結び、10年以上もかけて建設を進めて、1914年に開通させました。そのため長いあいだアメリカによる支配が続いてきましたが、1999年末、パナマに完全返還され、現在はパナマ運河庁が管理しています。

1904年 古賀政男誕生…『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家 古賀政男 が生まれました。

今日11月17日は、本田技研工業(通称・ホンダ)を創業し、世界的な企業にした実業家・技術者の本田宗一郎(ほんだ そういちろう)が、1906年に生まれた日です。

現在の浜松市に鍛冶屋の長男として生まれた宗一郎は、15歳で高等小学校を卒業すると、東京・湯島の自動車修理工場「アート商会」へ丁稚奉公に入りました。最初は子守りと掃除ばかりでしたが、毎日自動車をながめ、兄弟子たちの仕事を必死に観察、1年後にスパナを握らせてもらえるようになると、朝早くから夜遅くまで無我夢中になって技術を吸収しました。

そんな仕事ぶりが実って6年後、1928年に浜松市に「アート商会」からノレン分けを受けて独立。当時の自動車は輸入車ばかりで、一度故障すると海外から部品を取り寄せねばならないという状況下に、自分で部品を設計して器用に作り上げ、どんな故障でもすばやく直す会社は、大繁盛しました。

しかし、修理の限界を知った宗一郎は、何かオリジナルのものをつくりたいと、自動車の重要部品のひとつであるピストンリング製造へ転換したところ、大苦戦を強いられました。技術だけでは通用しないことを知り、1937年浜松高等工業学校(現の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間金属工学の研究に没頭しました。さらに大学、研究所を数年間渡り歩いて研究を続け、その間に特許を28件もとって、ピストンリングの大量生産をはたしました。

1945年に太平洋戦争が終わると、自身が経営していた会社の全株をトヨタ自動織機に売却して、「人間休業」と称して1年間の休養後、技術研究所をおこし、1948年9月、本田技研工業を従業員20人でスタートさせました。自転車にとりつける補助エンジンを製造する小さな町工場でしたが、物資のない時代に一種のモーターバイクとなる「バタバタ」は、とてもよく売れました。

まもなく、のちに副社長となる藤沢武夫と出会って会社の財務をまかせると、宗一郎はオートバイ製造に専念し、1949年に本格的オートバイ「ドリーム号」の生産・販売を開始するや、オートバイの一大ブームを引きおこして急成長しました。特に1958年に発売したスーパーカブは、生産台数2000万台以上というロングセラー商品となっています。1959年からはオートバイの国際レースにも参加、1961年のマン島TTレースでは125cc、250ccとも1位から5位まで独占という完全優勝をはたしました。

1963年には4輪車製造に進出、1964年からはF1レースに参加するなど、「ホンダ」を世界の大企業にのしあげました。そして1973年、「会社は一族のものではない」と社長を引退、片腕となっていた藤沢も退いて、そのさわやかな引退ぶりは世間の脚光を浴びました。その後も1991年に亡くなるまで、あくまで技術者に徹し、1989年には日本人としてはじめて、アメリカの「自動車殿堂」入りを果たしています。


「11月17日にあった主なできごと」

1869年 スエズ運河開通…フランスの建設者 レセップス は、さまざまな苦難の末に、地中海と紅海を結びインド洋へとつながる海の交通の要・スエズ運河を10年がかりで建設し、開通させました。運輸労力と費用の軽減は驚くほどで、政治的・軍事的重要性のために各国の争奪戦となり、当初フランスが中心だった同運河は、1875年からイギリスが支配し、1956年にエジプトが国有化しました。

1922年 アインシュタイン来日…相対性理論で名高いドイツの物理学者 アインシュタイン が来日し、約1か月間の滞在中、東京、大阪、仙台、福岡などで講演を行いました。ノーベル賞を受賞したばかりの時で、会場はどこも学者や学生を中心に満席でした。

今日11月16日は、明治中期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた評論家で詩人の北村透谷(きたむら とうこく)が、1868年に生まれた日です。

神奈川県小田原市近くに生まれた透谷は、12歳まで祖父母に育てられたのち、上京していた両親のもとで小学校へ転入しました。当時、最高潮に高まっていた自由民権運動に刺激されて、1883年に東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に入学し、政治家をめざします。

三多摩地方の民権運動に参加するものの、運動は急速に閉塞していき、ある同志から活動資金を得るため強盗をするという計画を打ち明けられて絶望、運動から離れていきました。やがて、文学によって理想を実現しようと、英文科に移りました。そして、民権運動家石坂正孝の娘で後に結婚することになる美那との出会いによってキリスト教への感化と恋愛により、人間の内部生命を尊重する考えを深めていきました。

まもなく、わが国最初といわれる革命的ロマン主義の自由詩『楚囚の詩』や神の世界と魔の世界をさぐる『蓬莱曲』という2つの長詩、「恋愛は人世の秘やく(鍵)なり」と歌いあげた評論『厭世詩家と女性』を発表し、近代的な恋愛至上主義を表明しました。

1893年には、島崎藤村らと『文学界』を創刊し、誌上にたくさんの評論を発表して、初期ロマン主義運動の先頭になって活躍しました。しかし、日清戦争に反対する雑誌『平和』を編集するなかで、国粋主義に流れる時勢や、現実と理想の板ばさみに悩んで、次第に精神に変調をきたし、評論『エマーソン』を最後に1894年、25歳の若さで自殺してしまいました。

透谷から強烈な感化を受けた 島崎藤村 は、のちに『桜の実の熟する時』や『春』に、透谷の姿を描いています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、透谷の詩や評論49編 が公開されています。


「11月16日にあった主なできごと」

1523年 インカ帝国皇帝捕えられる…15世紀から16世紀にかけてペルー南部に栄えたインカ帝国は、クスコを中心に石造建築や織物、金銀細工など優れた文明を築きましたが、この日スペインの ピサロ は、帝国のアタワルバ皇帝をだまして捕えました。翌年インカ帝国は滅亡、スペインは南アメリカ大陸のほとんどを長い年月支配することになりました。

1653年 玉川上水完成…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、治水技術にすぐれていると評判の玉川兄弟(庄右衛門、清右衛門)に建設を命じ、玉川上水を完成させました。

1946年 「現代かなづかい」と「当用漢字表」…内閣は、これまでの「歴史的かなづかい」を現代の発音に近い「現代かなづかい」とする方針を発表しました(1986年に改正)。また「当用漢字表」1850字を告示し、日常生活に使う漢字を定めました。「当用漢字」は、1981年に範囲をよりゆるやかにした「常用漢字」1945字に改められ、2010年に「改定常用漢字表」2136字を答申し、現在に至っています。

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