児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年11月

今日11月30日は、『赤毛のアン』シリーズを著わしたカナダの女流作家モンゴメリーが、1874年に生まれた日です。

カナダ東部にあるプリンス・エドワード島で生まれたルーシー・モード・モンゴメリーは、1歳半で母を亡くし、父はカナダ西部へ移住したため、モンゴメリーは同島のキャベンディッシュで郵便局を営む母方の祖父母に引き取られ、厳しく育てられました。 幼いころから読書や書くことが好きで、15歳のときに地方紙に詩を載せたりしました。

本土の東海岸にある都市ハリファックスの大学を卒業後、プリンス・エドワード島のいくつかの学校で教師を務めましたが、祖父が亡くなったことで、後をつぐためにキャベンディッシュに戻ります。郵便局の仕事のかたわら、新聞記事で読んだ「男の子と間違えて女の子を引き取った夫婦の話」に着想を得て、自身の少女時代の体験を孤児アンに反映させた長編小説『赤毛のアン』を30歳の頃に書き上げました。さまざまな出版社に売り込みましたがことわられ続け、3年後の1908年にようやく出版されると、たちまちベストセラーになり、映画化もされて世界的なヒットになりました。

この『赤毛のアン』は、ある農家に、養護施設からから間違ってもらわれてきた、貧弱で赤毛のアンが、11歳からクィーン学院を卒業するまでの少女時代の5年間を描いたものです。明るく空想好きの少女が、何度失敗をしても、そのたびに心の成長をしていく姿に、たくさんの人が感動したのでしょう。『トムソーヤの冒険』で名高いアメリカの作家マーク・トウェーンは「不滅のアリス(『不思議の国のアリス』他)以来、最も可愛らしく、最も感動的で、最も利発な子」と、モンゴメリーへ絶賛の手紙を送りました。このコピーは、アン・シリーズの宣伝用に使用されたようです。

『赤毛のアン』の大成功にモンゴメリーは、アンを主人公とする続編『アンの青春』『アンの愛情』『アンの幸福』など全10冊のアン・シリーズを次々に出版し、アンの物語を読み進めるうちに、学ぶべき生き方を読者に提供していきました。そして、1942年にトロントで亡くなるまでに、22点の小説を遺しています。

『赤毛のアン』シリーズは今も人気作品ですが、1979年1年間にわたってフジテレビ系「世界名作劇場」で放送されたテレビアニメ全50話は特に有名で、輸出されて世界じゅうの子どもたちを感銘させています。また、2010年にはテレビシリーズの第1~6話を再編集した映画『赤毛のアン・グリーンゲーブルズ(緑の切妻屋根)への道』が公開されました。


「11月30日にあった主なできごと」

1667年 スウィフト誕生… 『ガリバー旅行記』 などを著したイギリスの風刺作家 スウィフト が生まれました。

1835年 マーク・トウェーン誕生…少年文学『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』や『王子と乞食』などユーモアのなかにするどい社会風刺をもりこんだ数々の作品を著したアメリカの作家 マーク・トウェーン が生まれました。

1874年 チャーチル誕生…第2次世界大戦の際、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮した チャーチル が生まれました。

今日11月29日は、人気オペラ『トスカ』『蝶々夫人』『ラ・ボエーム』などを作曲したイタリアの歌劇作曲家プッチーニが、1924年に亡くなった日です。

1858年、ピサ近郊のルッカに代々音楽家の家系に生まれたジャコモ・プッチーニは、町の音楽学校を卒業後に教会のオルガニストになります。しかし、19歳のときにべルディのオペラ『アイーダ』を見たことで心打たれ、オペラ作曲家を志すようになりました。1880年から3年間、ミラノ音楽院でポンキェルリに師事し、卒業後に作曲家として生計を立てるようになりました。

1893年、第3作目のオペラ『マノン・レスコー』がトリノで初演されると、その美しいメロディで大成功となったばかりか、プッチーニの名を世界的なものにしました。この作品は、イルリカとジャコーザという優れた台本作家の協力によるもので、その後も二人の協力をえて、プッチーニの代表作となる『ラ・ボエーム』、『トスカ』、『蝶々夫人』などを次々とヒットさせました。これらの作品は、今も世界じゅうで上演され続けています。このうち『ラ・ボエーム』は、4人の貧しい芸術家の友情を描いたロマンティックなオペラです。悲劇『トスカ』は、主役3人が舞台上で死んでしまうというストーリーで、扇情的な音楽が話題となりました。

『蝶々夫人』は、明治初期の長崎を舞台にした作品で、没落藩士の令嬢「蝶々さん」とアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛悲劇を描いたものです。1904年にミラノのスカラ座で初演されましたが、予想に反して失敗に終わりました。当時の観客にとっては、異国長崎を舞台にした奇妙な衣装や聞きなれないメロディ(「宮さん宮さん」「さくらさくら」「お江戸日本橋」「君が代」「越後獅子」「かっぽれ」他)に面くらったのでしょう。プッチーニは、かなりの手直しを加えて再演したところ、改訂版『蝶々夫人』は、最も成功した作品のひとつになりました。アリア「ある晴れた日に」は特に有名です。

プッチーニは、珍しがりやの性格から自動車を手に入れて乗り回していたところ、交通事故を起こして骨折したり、しばらく不幸がつづきましたが、1910年にニューヨークで初演した『西部の娘』、中国を舞台にした『トウランドット』など、今も世界の人々に親しまれているたくさんの作品を遺しています。イタリアの多くの人は「一番素晴らしいオペラ作曲家はベルディ、一番親しめるのはプッチーニ」という評価をするようです。


「11月29日にあった主なできごと」

1529年 王陽明死去…儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った思想家 王陽明 が亡くなりました。

1875年 同志社創立…新島襄 らが京都に、キリスト教精神に基づく「良心」を建学精神に掲げ、漢学以外はすべて英語で教育するという「同志社英学校」(現・同志社大学)を創設しました。

1987年 大韓航空機爆破事件…イランのバクダッドから韓国のソウルに向かう航空機が、ミャンマー沖で爆破され、乗員・乗客115人が死亡・行方不明になりました。北朝鮮の工作員金賢姫(キムヒョンヒ)らが実行犯と判明しましたが、北朝鮮は関与を否定しているため、真相は不明のままです。

今日11月28日は、日本陸軍の原型をこしらえ、3期にわたり総理大臣を務めて日本帝国主義を推し進めた桂太郎(かつら たろう)が、1848年に生まれた日です。

長州(山口県)藩士の子として生まれた桂は、1863年に「下関事件」という下関での外国艦船打ちはらいに軍人としてはじめて出陣、その後の幕府による第2次長州征伐に活躍、新政府軍と旧幕府軍との「戊辰戦争」では、新政府軍の兵を率いて東北地方を転戦しました。

1870年から3年間、軍事学研究のためにドイツ留学後に帰国すると、陸軍軍人として参謀本部に勤務、1884年には陸軍卿大山巌に伴ってヨーロッパ各国の兵制を視察しました。その後、同郷の山県有朋の指示を受けて軍制改革にあたり、兵制をこれまでのフランス式からドイツ式に改めて、日本陸軍の体制を整備しました。

1894年に始まる日清戦争では第3師団長として出征、台湾総督などをつとめた後、1898年から3年間陸軍大臣となって、わが国初の政党内閣である大隈重信内閣を分裂させるなど、官僚政治家としての能力を発揮しました。そして、1901年に首相となると、議会に対し強い姿勢で臨み、日英同盟を締結させ、1904年にはじまった日露戦争に勝利するなど、衆議院の第1党となっていた立憲政友会とかけ引きしながら、難しい政局をのりきりました。

1908年、西園寺内閣を受けついだ第2次桂内閣では、韓国併合をおこなって朝鮮を植民地化し、不平等条約改正を完成させるいっぽう、幸徳秋水らを刑死させた「大逆事件」など、社会主義者による労働運動に厳しい弾圧政策をとりました。

1912年、軍部の圧力によって倒された西園寺内閣のあとを受けて、3度目となる内閣をおこしましたが、「憲政擁護・軍閥打破」を掲げる民間勢力により、わずか3か月足らずで倒れ、新しい政党「立憲同志会」を結成して再起をはかろうとしましたが、1913年に急死しました。


「11月28日にあった主なできごと」

1262年 親鸞死去…『南無阿弥陀仏』と念仏をとなえれば来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然に学び、その教えを発展させて「浄土真宗」を開いた 親鸞 が亡くなりました。

1883年 鹿鳴館開館…日本初の洋式社交場が、東京・内幸町に開業。外国人を歓迎する舞踏会がさかんに行われ、欧化主義風潮の拠点となったため、1887年ころまでの狂熱的な一時期を「鹿鳴館時代」とよんでいます。

「おもしろ古典落語」の50回目は、『火事息子(かじむすこ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸・神田三河町に、伊勢屋という大きな質屋がありました。ある夜、ジャンジャンジャンジャン…。火の見やぐらで、けたたましい半鐘の音がします。近所で出火したようで、火の粉が降りだしました。「番頭さん、かたづけものなんて小僧にでもまかせておきなさい、それより蔵の目ぬりはどうしたね? うちは風上だからって、左官が来てくれないそうじゃないか」「へぇ、旦那」「へぇじゃありませんよ。いいかい、うちは他人さまの大切な品物をおあずかりするのが商売だよ。それが、蔵の目ぬりができてないようじゃ、申しわけないじゃないか。こうなったらお前が上にあがって目ぬりをしなさい」

番頭がはしごをのぼり、旦那と小僧が土をこねて放り投げますが、へっぴり腰で片手でつかもうとしますが、一つもつかめません。その時、屋根から屋根を、まるで猿のようにすばしこく伝ってきたのが一人の火消し人足です。身体中みごとなイレズミで、ざんばら髪を後ろ鉢巻、腰にはっぴという粋な出で立ち。ポンとひさしの間に飛び下りると、「おい、番頭」声をかけられた番頭は、びっくり仰天しました。男は火事好きが高じて、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当になったまま行方知れずだったこの家の一人息子の徳三郎です。「大きな声をだすんじゃねぇ、この火事はすぐに消えちまうよ。目ぬりなんてどうでもいいが、まぁ、家業柄、目ぬりはしといたほうがいいだろう。オレが手伝えば造作もねぇが、それじゃぁおめえの忠義になるめぇ」と、あわてる番頭を折釘へぶら下げて、両手が使えるようにしてやりました。おかげで目ぬりも無事に済み、火も消えて一安心です。

見舞い客でごった返す中、おやじの名代でやってきた近所の若旦那を見て、伊勢屋の主人はつくづくため息をつきます。あれは伜と同い年だが、親孝行なことだ、それに引き換えウチの馬鹿野郎は今ごろどうしていることやら……、父親らしくしんみりしているところへ、番頭がさっきの火消しを連れてきます。顔を見ると、なんと「ウチの馬鹿野郎」です。「徳か」と思わず声を上げそうになりましたが、そこは一徹な旦那。勘当した伜に声などかけては、世間に申しわけが立たないとやせ我慢。わざと素っ気なく礼を言おうとしますが、こらえきれずに涙声で、「こっちぃ来い、この馬鹿め。……親ってえものは馬鹿なもんで、よもやよもやと思っていたが、やっぱりこんな姿に……しばらく見ないうちに、たいそういい絵が書けなすった……親にもらった身体に傷つけるのは、親不孝の極みだ。この大馬鹿野郎」

そこへ知らせを聞いた母親。伜が帰ったので大喜び。鳥が鳴かぬ日はあっても、おまえを思い出さない日はなかった、どうか大火事がありますようにと、ご先祖に毎日手を合わせていたと言い出しましたから、おやじは目をむきます。母親がはっぴ一つじゃ寒いから、着物をやってくれと言うと、旦那は、勘当したヤツに着物をやってどうすると、まだ意地を張っています。そのぐらいなら捨てちまえ。捨てたものなら拾うのは勝手……。

意味を察して母親は大張り切り。「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう、お小遣いは50両も捨てて……」しまいに、この子は小さいころから色白で黒が似合うから、黒羽二重の紋付きを捨てて、小僧をお供に……と言いだすから、「おい、勘当した伜に、そんな身装(なり)ぃさせて、どうするつもりだ」

「だって、火事のおかげで会えたんですから、火元へ礼にやりましょう」


「11月25日にあった主なできごと」

1890年 第一回帝国議会の開催…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれ、衆議院議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限定されていました。
 
1892年 オリンピック復活の提唱…クーベルタン 男爵は、アテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られました。

1970年 三島由紀夫割腹自殺…『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』などちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家 三島由紀夫 が、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげました。

今日11月24日は、フランスの政治家でジャーナリストのクレマンソーが、1929年に亡くなった日です。

1841年、フランス西北部バンデ県で代々医者を家業とする家に生まれたジョルジュ・クレマンソーは、南北戦争中のアメリカに留学した後、パリで医学を学んで家業を引継ぎましたが、まもなくジャーナリストに転身。1865年から4年間アメリカの通信員として働きながら、政治に関心を持ちだしました。

帰国後、29歳でパリのモンマルトル区長となり、1871年に下院議員に当選して、急進派の議員として活躍をはじめました。共和派のブルジョワ的政策を厳しく攻撃して、ガンベッタ内閣やフェリー内閣を辞任に追いやったことから、反対派から「虎」とか「内閣のつぶし屋」とあだ名されるほどでした。

1893年の総選挙で落選してからはしばらく政界を離れ、ジャーナリストに専念。1897年に日刊紙「オーロール」の主幹となると、無実の罪を負わされた軍人ドレフィス(ドレフュス事件)を熱心に擁護する論陣を展開し、同志の作家エミール・ゾラによる大統領あての公開告発文「われ弾劾す」を掲載したことは有名です。

1902年、再び政界に返り咲くや左翼から保守派に転向し、ドイツに対し軍備を強める方針をとると、1906年から1909年には首相となって、軍備拡張、帝国主義政策を推進しました。いっぽう多発していた労働争議に軍隊を投入して厳しく弾圧しました。また、イギリス、ロシアと三国協商を結び、ドイツと対抗したことは、第1次世界大戦勃発の要因となりました。

大戦が長引いた1917年、フランス国内に敗戦の空気が流れるようになると、ポアンカレ大統領に請われて、再度首相に就任。陸軍大臣を兼ねて、断固とした戦争政策を強行します。勝利に導いたことで「勝利おやじ」とよばれ、1919年に連合国と対ドイツとの講和会議「パリ講和会議」を開催します。講和条約を作る中心人物となったクレマンソーは、ドイツに対し1320億マルク(当時のドイツ国民総生産の2.5倍)という莫大な賠償金の支払いを含む「ベルサイユ条約」を調印させることに成功しました。(しかし、これがヒトラーを中心とするナチスが政権を握る一因となり、1935年にナチス・ドイツは、一方的にベルサイユ条約を破棄しています)

1920年、クレマンソーは大統領選挙に立候補しましたが、敗北して政界を引退。パリと故郷を往復しながら執筆に専念し、88歳で亡くなりました。


「11月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した最後の元老政治家といわれる 西園寺公望 が亡くなりました。

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を敢行しました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

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