児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年10月

今日10月17日は、アメリカ合衆国の軍人で、第2次世界大戦中にヨーロッパの連合軍最高司令官として活躍し終結させた功績者と讃えられ、第34代大統領をつとめたアイゼンハワーが、1890年に生まれた日です。

テキサス州デニソンに貧しい鉄道労働者の子として生まれたドワイト・デービッド・アイゼンハワーは、戦争ぎらいの両親の希望に反して、1915年に陸軍士官学校を卒業。戦車隊に配属された後、まもなく戦車隊の教官に抜てきされ、第1次世界大戦の末期のフランスに渡りました。帰国後、陸軍大学校に入学して1926年に優秀な成績で卒業すると、指揮官および参謀学校に着任します。

やがてアイゼンハワーは、陸軍参謀総長マッカーサー大将の補佐官を務めるようになり、フィリピン政府の軍事顧問を務めることになったマッカーサーに同行しました。1939年に帰国、このときはまだ中佐でしたが、アメリカが第2次世界大戦に参戦すると、戦車作戦に対する数々の成果や優れた管理・統率能力が認められ、ヨーロッパ戦線のアメリカ司令官に大抜てきされました。

モロッコとアルジェリアへの連合軍上陸作戦を計画して実行したのち、1943年末に「ノルマンディー上陸作戦」が立案され、ヨーロッパ戦線に450万人の連合軍全軍の最高司令官に指名されます。こうしてアイゼンハワーは、1944年6月、4000隻の艦隊と、300万人の将兵による上陸作戦を成功させ、ドイツ降伏に大きく寄与しました。まもなく、元帥に昇進、アメリカの「国民的英雄」として讃えられたばかりか、その親しみやすい人柄から「アイク」の愛称でよばれるようになりました。

1948年に退役して、コロンビア大学総長となったアイゼンハワーは、1950年に陸軍に復帰して、NATO(北大西洋条約機構)の同盟軍最高司令官になりました。さらに、1952年の大統領選挙には周囲の人たちに推されて共和党から立候補すると、圧倒的な勝利をおさめて、第34代大統領に就任しました。就任早々、公約だった「朝鮮戦争」と「インドシナ戦争」を休戦に導き、国内政策では、積極的に道路建設をするなど高度経済成長政策をとったほか、いきすぎた「赤狩り」(共産主義者追放運動)をたしなめました。また、東西対立の緊張緩和のための「ジュネーブ巨頭会談」にも参加するなど、その誠実な人柄とともに、国民に愛される大統領となりました。

ところが2期目になると、宇宙開発でソ連に遅れをとりはじめたショックや景気の悪化、日米新安保条約を結ぶものの日本訪問の予定が反対デモのために中止となるなど、内政と外交のつまずきがあいついで、1961年に大統領の座を ケネディ に引き渡したのでした。引退後は、ペンシルベニアの農場へ帰り、1969年に亡くなりました。


「10月17日にあった主なできごと」

1849年 ショパン死去…、ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開いた「ピアノの詩人」と呼ばれた作曲家 ショパン が亡くなりました。

1887年 日本初の水道開始…江戸時代末に開港し、急激に人口が増えたために水が不足、コレラなどが流行した横浜に、近代的な水道が日本で初めて使用されるようになりました。

今日10月14日は、江戸時代中期の思想家で、農業エコロジーの先駆者といわれる安藤昌益(あんどう しょうえき)が、1762年に亡くなった日です。

安藤昌益の生涯については、いまなお不明なところが多いのが実情です。というのも、その存在は1899年ごろ、哲学者狩野亨吉が注目するまで、全くといってよいほど世間に知られていませんでした。そして太平洋戦争後、カナダの外交官で日本史研究家E.H.ノーマンの著書「忘れられた思想家 安藤昌益のこと」などの影響で、身分制度を根本から批判した思想家として世界的に注目されるに至りました。

昌益は1703年ころ、出羽国(現在の秋田県大館市)の農家に生まれ、15歳前後に京都に上って仏門に入りました。しかし、仏教の教えに疑問を持ち、医学と本草学を学んだのち、陸奥国(今の青森県)八戸で開業医になり、42歳前後から約15年間、八戸で過ごしたことがわかっています。

当時の八戸では、凶作と飢饉が猛威をふるっていて、大豆生産のために焼き畑を繰り返したことで猪の大発生を招き、多くの餓死者を出しました。にもかかわらず藩は、年貢を増やし凶作に対しても無策でした。民衆の大きな不満を感じとった昌益は、1752年から3年ほどかけて主著となる大作『自然真営道』(101巻93冊)を著わしました。

この本の中で昌益は、「非命にして死せる者のためにこれを記す」と農民の立場に立って、徹底した封建的な階級制度批判を展開しました。「人間は、鍬で地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くべきで、武士が農民の生産物を年貢として収奪する身分制があるのはおかしい。武士の数を減らして農民とし、労働をきらうなまけ者は、やる気がおきるまで牢に入れよ。階級制度を廃し、人が平等に働く社会をめざすべきだ」とし、儒教や仏教をも、統治者の不耕貪食を正当化するための偽善であると非難したのでした。

こうして、昌益の考えに同調する門人がたくさん集まり、弟子たちは一門の全国集会を開催するほどでした。しかし、封建制を真正面から否定する思想は、封建支配者たちにとって迷惑な存在だったのでしょう。昌益の存在や履歴そのものを抹殺したに違いありません。


「10月14日にあった主なできごと」

1867年 大政奉還…江戸幕府の第15代将軍 徳川慶喜 は明治天皇に、統治権を返上することを申し出ました。

1872年 日本初の鉄道開通…東京・新橋と横浜の間29kmに、わが国初の鉄道が開通しました。この日(旧暦9月12日=新暦10月14日)を記念して国鉄(今のJR)は、1922年から「鉄道記念日」として制定しました。1992年、運輸省(今の国土交通省)は「鉄道の日」と改め、私鉄も含め、全国各地で鉄道に関する行事を行っています。

「おもしろ古典落語」の43回目は、『芋俵(いもだわら)』というお笑いの一席をお楽しみください。

落語に出てくる泥棒は、たいていまぬけなやつに決まってますが、なかにはちょっとばかり知恵のあるのもいます。「なぁ、兄弟、このごろはうまい仕事がさっぱりなくなっちまったな。そろそろ商売替えでもしなきゃならねぇ、なにかいい仕事ってねぇかな」「心配するな、三丁目に大きな木綿問屋があるだろ、このあいだから、あの店をねらってるんだ」「ああ、知ってるけど、奉公人は大勢いるし、しまりは厳重だし、むずかしかねぇか」「ちょいと、頭を使うんだ。そこに芋俵があるだろ、中に人間を入れて、上からさんだらぼっち(俵の上下に当てる藁のふた)をかぶせてしまやぁ、だれだって芋俵だと思うだろ。そこで、おれが先棒、おまえが後棒になって、てんびん棒を通してかついでいくんだ」

「『まことにすみませんが、わたしどもは町内の者でございますが、こいつが芋屋で買い物をして、財布を忘れてきちまいました。これから、ちょいと取ってまいりますんで、おじゃまでしょうが、お店の前に置かしてください。中は芋です』って頼みこみゃ、いやだっていわねぇだろ。夜になっても取りにいかねぇ。預かりものを失くしちゃめんどうだっていうんで、俵を店んなかにかつぎこんで、土間にでもころがしといて寝ちまうだろ。夜なかになって、俵ん中に入ってたやつが出てきて、しまりを外して、外で待ってるおれたちを店に入れて、たっぷり仕事をするって筋書きだ」「そいつはうめぇ考えだが、いったい俵ん中に誰が入るんだ、」「おっと、ちょうどいいのが向こうからきた。あいつは、親分のところにやっかいになってる松公だ。少しまぬけなやつだけど、俵ん中へ入れてやろうじゃないか、おーい松、ちょっとこい」

「いゃー、そろったな泥棒!」「ばか野郎、大きな声で泥棒っやつがあるか、それよりてめぇ、銭はあるか?」「からっきしだ。仲間に入れてくれ」「そんなら、おれたちが金もうけをさせてやろうじゃないか。ちょっと耳をかせ」……てなぐあいで、なんとか計画通りにことが進みました。ところが、店の小僧の定吉が、俵を店に入れる時に逆さに立ててしまいました。俵の中の松公、身動きが取れずに四苦八苦。でも声は立てられません。

そのうち定吉と女中のお清が、俵の芋をちょいと失敬して、蒸かして食べよう、どうせ二つや三つならわからないと示し合わせます。「こっちだよ、真っ暗だから、気をつけないと危ないよ。ずいぶん厳重に縄がかかってるな」「縄をとくんじゃなくて、俵の横っ腹に手をつっこんで、引きずり出せばいいのよ」「ああそうか、お清どんは泥棒なれしてるね」「人ぎきの悪いことをいうんじゃないよ、泥棒なれじゃなくて、頭がいいんだよ」

定吉が俵に手を突っこむと、逆さだから、上の方が股ぐらあたり。そこをまさぐられたので、松公、くすぐったくてたまりません。でも笑っては大変と、下腹に力を入れたとたん、思わずプゥーっと一発。これを聞いたお清……

「まぁ、気の早いお芋だこと」


「10月13日にあった主なできごと」

1282年 日蓮死去…鎌倉時代中期の僧侶で、法華経に基づく教えこそが唯一の仏教の真髄と説く日蓮宗(法華宗)を開いた 日蓮 が亡くなりました。

1884年 世界標準時…アメリカのワシントンで「本初子午線ならびに計時法万国公会」が開かれ、イギリスのグリニッジを通る子午線を、経度0度とする世界標準時と決めました。日本では1886年から使われるようになり、日本の標準時は、世界標準時より9時間進んでいます。

1903年 小林多喜二誕生…『蟹工船』などを著し、日本プロレタリア文学の代表作家といわれる 小林多喜二 が生まれました。

今日10月12日は、昭和の社会運動家・政治家で「日本社会党」の委員長だった浅沼稲次郎が、1960年に、演説会の席上で17歳の右翼少年に暗殺された日です。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から「人間機関車」の異名を取り、「ヌマさん」の愛称で親しまれた希有な政治家でした。

1898年に三宅島の名主の庶子として生まれた浅沼は、父が現在の江東区で酪農業をはじめて再婚したのを期に、実子として認知されますが、医者になるよう勧める父の反対を押し切り、1918年に早稲田大学予科に入学しました。

友人と文具商をはじめて自活するいっぽう、大学でマルクス主義の講義を受けて思想的に開眼し、民主主義をめざす学生団体を組織しました。そして同志たちと小作争議や労働争議を応援するようになったほか、大学が軍事教育を採り入れようとすると、先頭にたって反対運動をおこしました。1923年に早大政経学部卒業後も、社会主義運動を続け、1925年に男子普通選挙法が定められると、農民や労働者の利益をはかる農民労働党の書記長に就任しました。しかし、この党はわずか3時間で政府の命令で解散させられましたが、以後労働農民党、日本労農党、社会大衆党などに参加し、全国の農民運動を支援しました。

やがて政治家として生きる決意を固めた浅沼は、1933年に東京市会議員に、1936年には衆議院選挙に初当選。以後9回も当選をはたしましたが、精神の変調をきたすようになって、1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)の立候補を辞退したため、戦後の公職追放をまぬがれたのは幸運でした。

1945年の敗戦後、日本社会党の結成に際し組織部長に就任、しだいに党の中心人物となっていき、1948年には書記長になりました。1951年、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約ともに反対の「左派」と、賛成の「右派」が対立すると、浅沼は講和条約賛成・安保条約反対の折衷案で、党内の対立をまとめようとしました。しかし、左右の分裂を食い止めることができず、その後、「右派社会党」書記長となった浅沼は、寝る間を惜しんで全国の同志たちの応援に駆け回り、そのバイタリティから「人間機関車」の異名がつけられました。

1955年に、社会党再統一が実現すると、再び書記長に就任。党内で対立があると、調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれました。

1960年、西尾末広らが社会党を離党して「民主社会党」(民社党)を結成すると、浅沼が後任の委員長に選ばれました。浅沼は安保闘争を前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追いこみ、条約廃案を勝ち取ることはできなかったものの、安保闘争最高の立役者としての名声をほしいままにしました。そして、総選挙の前哨戦として、この日、日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼は、演説中に突然壇上に上がって来た17歳の右翼少年に腹部を刺され、61年の波乱の生涯を終えたのでした。


「10月12日にあった主なできごと」

1492年 コロンブスのアメリカ発見…スペイン女王イサベラの援助により、西回りでインドをめざした コロンブス 隊が、71日目のこの日、中央アメリカのバハマ諸島にある島(今のサンサルバトル島)に到着しました。

1694年 芭蕉死去…各地を旅しながら紀行文『野ざらし紀行』『笈(おい)の小文』『おくのほそ道』などを遺し、「俳句」を文学の域に高めた 松尾芭蕉 が亡くなりました。

1769年 青木昆陽死去…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者 青木昆陽 が亡くなりました。

今日10月11日は、フランスの生物学者で、昆虫の行動研究の先駆者といわれるファーブルが、1915年に亡くなった日です。

1823年、南フランスにあるサン・レオン村に生まれたジャン・アンリ・ファーブルは、3歳のとき山村にすむ祖父母のもとに預けられ、大自然にかこまれて育ちました。父が事業に失敗し、家族といっしょに各地を転々としましたが、山村ですごした日々は、ファーブルに自然への興味を育てたようです。

14歳のとき中学を中退し、一家が離ればなれになっても勉強をつづけ、アビニョンの師範学校を優秀な成績で卒業しました。まもなく小学校の先生となり、独学で物理と数学の教師の免状をとり、コルシカ島の中学の教師となりました。向学心の旺盛なファーブルは、教師をしながらも、植物学や自然史研究の専門家から、研究方法や、発表の仕方といった専門的な手ほどきを受けて、物理学、化学の普及書を著しています。コルシカ島から、アビニョン、セリニアンと住居や勤務先は変わっても、子どものころから興味を持っていた昆虫の観察だけはずっと続けていました。

31歳の頃、当時「昆虫学」の大家デュフールの発表した「タマムシツチスガリの研究」という論文の中で、「このハチは、自分の幼虫に食べさせるために、タマムシの幼虫を防腐しておく。このハチの針の毒には腐るのを防ぐ働きがあるようだ」というところに興味をもったファーブルは、実際にこのハチの観察をつづけてみました。すると、「タマムシは防腐されているのではなく、生きたまま麻酔されているため動くことができず、ふ化したハチの幼虫は生きたエサを食べて育つ」と、学会誌に発表したところ、デュフールから、「あなたの意見の方が正しいようです」というはげましの手紙がとどいたばかりか、ダーウィン からも「すぐれた観察者」と讃えられました。さらに、イギリスの哲学者のミルは、金銭的な援助を申し出て、これがきっかけとなって、ファーブルは教師をやめて昆虫の研究に専念するようになりました。

こうして、1879年に『昆虫記』の第1巻を出版、それから2、3年おきに1巻ずつ刊行し、1909年84歳のときに全10巻を完成させました。

なお、ファーブルの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開している「オンラインブックス」『せかい伝記図書館』第12巻「ファーブル」をぜひご覧ください。


「10月11日にあった主なできごと」

1841年 渡辺崋山死去…江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』で幕政批判をしたとして「蛮社の獄」に倒れた 渡辺崋山 が亡くなりました。

1945年 GHQが5大改革を指令…連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーは、「女性の解放」「労働者の団結」「教育の自由化」「専制政治の廃止」「経済の民主化」という5つの改革を指令。戦後の民主化をすすめる第1弾となりました。

1947年 栄養失調で判事死亡…戦後の食糧不足のなか、国民の多くは配給で足りない分を、違法な「闇米(やみごめ)」や闇市でまかなっていましたが、東京地方裁判所の山口良忠判事は、食糧管理法違反という闇米を取り締まる役目をおっていた責任感から、闇米など違法な買い出しをいっさい拒否したため栄養失調で死亡しました。

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