児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年10月

今日10月31日は、孫文の後継者として「中華民国」の統一を果たして最高指導者となった蒋介石(しょう かいせき)が、1887年に生まれた日です。

中国の浙江省奉化県の塩商人の家に生まれた蒋介石は、1907年に保定軍官学校を卒業後、日本の陸軍士官学校に留学して軍事教育を受けました。1911年に帰国すると、孫文 が中心となって清を倒して共和国をうちたてた「辛亥(しんがい)革命」に参加。孫文の信任を得て、1924年広東官学校の初代校長に就任しました。

1925年に孫文が亡くなると、国民革命軍総司令官となり、軍閥打倒のための北伐軍を指揮し、1927年に南京政府を打ち立てました。国民政府主席として全権を掌握した蒋介石は、以後、反共政策をとるようになり、中国共産党に対して武力討伐を5回も行いました。ところが1936年末、日本の進出を恐れた張学良らに、内戦の停止を求められて西安に幽閉される(西安事件)と、周恩来の仲介で、国民党と共産党は手を結ぶことになり(国共合作)、以後、国防最高委員会主席として、南京から重慶にしりぞいて、日中戦争を指導しました。

1945年に日中戦争に勝利すると、国共合作を放棄したことで、毛沢東 率いる中国共産党とのあいだに内戦が勃発しました。1948年の国民大会で初代大総統に就任しましたが、アメリカの軍事的財政的援助があったにもかかわらず、1949年、民衆の支持を失って共産党に敗北、台湾へ逃れました。以後は、中華民国(台湾)総統として君臨し、大陸へもどることを叫び続けましたが、1971年に国連で議席を失って以後、国際的にもますます孤立を深めて、1975年に亡くなったのでした。

なお、第2次世界大戦終了時、蒋介石は、戦勝国・中国の総統として、他の連合国と共に、敗戦国である日本に対する処置を決定する権限を持っていました。蒋介石は、祖国である中国を、無惨にふみにじった日本兵の残虐な行為をつぶさに見ていた上、自身も何度か生命の危険にあっています。しかし、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相らを説き伏せ、[戦争賠償金を日本に請求する権利を放棄すること] [日本の分割占領を阻止すること] [中国大陸にいた200余万の日本人の帰国をすみやかに実現すること] など、敵国・日本に対する寛大な処置を実現させた人物であったことを、私たちは忘れてはならないでしょう。


「10月31日の行事」

ハロウィン…カトリックの諸聖人の祝日である「万聖節」の前夜祭で、古くはケルト人の行っていた収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされています。ハロウィンをアメリカに伝えたのは、1840年代のアイルランド移民でした。名物のおばけちょうちんは、カブで作っていましたが、アメリカには大きなカブがなかったためにカボチャを使うようになったようです。おばけちょうちんを持ち、魔女や妖精、お化けなどに仮装した子どもたちが、近くの家を1軒ずつ訪ねては Trick or treat. (お菓子をくれないといたずらをするよ)と大声をたてます。子どもたちがきた家では、用意しておいたお菓子をわたして、仮装をほめてあげるという楽しいお祭りです。最近は、日本でもよく目にするようになりました。


「10月31日にあった主なできごと」

1517年 95か条の論題…ドイツの神学者 ルター は、ローマ教会の免罪符の発行などを批判する「95か条の論題」を、ビッテンベルク城教会の扉にはりだしました。これがきっかけとなって、キリスト教の「宗教改革」がはじまりました。

今日10月28日は、ルネサンス期のオランダの司祭で、神学者として活躍し、ルターの「宗教改革」のきっかけをこしらえたエラスムスが、1466年に生まれた日です。

司祭だった父と、医師の娘だった母との間の私生児としてロッテルダム近郊に生まれたデジデリウス・エラスムス(本名ではなく「愛を願う」というギリシア語) は、1483年に両親がペストによって相次いで亡くなると、修道院に預けられ、20歳をすぎたころデルフトに近いアウグスティヌス派の修道院に移り、26歳で司祭になりました。

ラテン語の古典に親しんだエラスムスは、1495年に神学博士号を取得するためにパリ大学で学びました。その間ギリシア・ローマの古典などから格言を集めるうち、中世の哲学である「スコラ学」や教会の悪習に批判を抱くようになりました。勉学のかたわらイギリス貴族学生の家庭教師をしていたところ、これが縁となって1499年にイギリスに渡り、生涯の友となる作家の トーマス・モア と知り合って、「神学研究」に生涯をかける決意を固めました。パリにもどったエラスムスは、『格言集』(1500年)、『キリスト教兵士提要』(1504年) をあいついで出版することで、学者としての名声を高めていきました。

1506年にイタリアのトリノ大学に学んで神学の博士号を取得した後、ケンブリッジ大学で教壇に立ち、トーマス・モアとの交友の中でアイデアを得て書かれたのが、教会を風刺した『愚神礼讃』(1511年)でした。道化に扮した愚神が自画自賛の演説をし、教会の形式主義や堕落ぶりをユーモラスに描いたもので、エラスムスの名声はいっきにヨーロッパじゅうに広がりました。さらに1516年には『校訂版 新約聖書』と9巻からなる『ヒエロニムス全集』を完成させ、学識者の間で高く評価されるに至りました。

これらの著作は、「宗教改革」で名高い ルター にも大きな影響を与えました。エラスムスはルターが不当に断罪されることがないよう手を尽くしながらも、ルターには党派を作ったり、教会の分裂を引き起こさないよう自重を求めたりしました。しかし、ルターの活発な活動にはついていけず、論争ののちに分かれていきました。

温厚なエラスムスは、あくまでキリスト教徒はひとつであることを望んでいたにもかかわらず、ルター派からも、カトリック側からも冷たい目でみられることになり、1536年に、スイス北端の都市バーゼルで死去しました。『愚神礼賛』はエラスムスの意図から離れ、反カトリック的な書物として各国で利用されたため、のちにカトリック教会の禁書目録に加えられることになってしまいました。


「10月28日にあった主なできごと」

1860年 嘉納治五郎誕生…講道館柔道の創始者であり、日本のオリンピック初参加に尽力するなど、スポーツの海外への道を開いた嘉納治五郎 が生まれました。

1886年 石川啄木誕生…歌集『一握の砂』『悲しき玩具』などを著し、民衆歌人、天才詩人といわれた 石川啄木 が生まれました。

1886年 自由の女神像…アメリカの独立100年を記念して、フランスから贈られた「自由の女神像」の除幕式がおこなわれました。ニューヨーク港ベッドロッド島にたたずむ46mの巨像は、アメリカのシンボルとなっています。

「おもしろ古典落語」の46回目は、『親子酒(おやこざけ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

お酒の好きな親子がありまして、あるとき親父が息子に「どうも酒というのは、いろいろ間違いをおこしやすい。おまえはまだ若いんだから今が大事だ、酒をやめなさい。そのかわり、わしのほうも酒をやめる。どうだ、おたがいに禁酒しようじゃないか」と提案しました。息子も承知しました。しばらくはなんとかがまんしましたが、半月もすると、親父のほうがあやしくなってきました。

「おい、ばぁさんや、わしは昼間、用足しに出て疲れてしまった。今晩はなにかこう、ピリッと目がさめるようなのが飲みたいな」「トンガラシの水なんてどうです?」「金魚が目をまわしたんじゃねぇや、…どうだね、ないしょで、ちょいとこう一ぱい…」「なにをいってるんですよ、あの子と約束なすったでしょ、お酒飲まないって。それもあなたがいいだしたんですよ、あの子だって、ああやって我慢してるのに、だめです」「だいじょうぶだ。あれはねぇ、今夜は2、3軒用足しをしてから、ごひいきの横田さんのとこへ寄って帰るんだから、遅くなるよ。帰る前に寝ちまえば、わかりゃしないよ、なぁ、1本だけ…」「でも、ねぇ…」

根負けしたおかみさんは、「ないしょですよ、1本きりですからね」「あたしゃね、1本といったら1本、男子の一言金鉄のごとしだ」…。ところが、飲んべえのあさはかさ、もう半分、ほんの一口、もうちょっと…、そのうち酔いがまわってくると、「酒持ってこォいッ!」 とうとうヘベレケに酔っぱらってしまいました。

「なにぃ? 酔ってる? ご冗談でしょ。酔ったなんてのはこんなもんじゃないね。これからだよ。なに? あいつが帰ってきた? 早いね。膳をかたづけて、お父っつぁんは奥で調べものをしてますって、玄関で時間をつないどきなさい」 さすがにあわてて、酔いをごまかそうと無理に座りなおし、懸命に鬼のような顔を作って、障子の方をにらみつけています。

いっぽうの息子。こちらもグデングデンでご帰還。なんでも、横田のだんなが一杯やってるところへ行ったため、飲め飲めと勧めるのを、「親と子が、いや男と男がいったん約束したからには、ぜったいに飲みません」と断ると、「強情張ると出入りを差し止める」というので、息子が怒って「飲まないといったら飲まない」と突っぱねると、「えらいッ、その意気が気にいった、その意気で一ぱいッ!」と乗せられて、結局、ふたりで二升五合。

「ばか野郎! なんというなさけない男だ。…いいか、この身代をおまえにそっくりゆずろうと思えばこそ、口うるさく意見するんだ。それをおまえは……おい、ばぁさんや、せがれの顔が7つにも8つにも見えてきたよ、こりゃ化けものだね。こんな化けものみたいなやつにゃ、身代は渡せませんよ」「はははは、冗談いっちゃいけませんよ、お父っつぁん…

こんなグルグル回る家じゃ、もらったってしょうがない」


「10月27日にあった主なできごと」

1728年 クック誕生…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、オーストラリアやニュージーランドの探検・調査などさまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家 クック が生まれました。

1859年 吉田松陰の処刑…「松下村塾」を開き、高杉晋作、木戸孝允ら幕末に活躍した多くの志士を育て、「安政の大獄」で逮捕された長州藩(山口県)の学者 吉田松陰 が処刑されました。

今日10月26日は、「戊辰(ぼしん)戦争」という明治新政府と旧幕府軍との戦いの最後の拠点・函館の五稜郭にたてこもって敗れたことで名高い榎本武揚(えのもと たけあき/ぶよう)が、1908年に亡くなった日です。

1836年、旗本の子として江戸に生まれた榎本武揚は、幼いころから幕府の昌平坂学問所で儒学・漢学を学び、1856年には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入って、軍艦の操縦をはじめ航海術を修めたのちに江戸にもどり、海軍操練所の教授となりました。

1862年から5年間オランダに留学して、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、1867年に帰国すると海軍奉行、翌年には副総裁に任ぜられ、実質的な幕府海軍のトップとなりました。徳川慶喜が大政奉還して幕府が倒れ、新政府軍が江戸城を無血開城すると、徹底抗戦を誓った榎本らは、新政府へ艦隊の引渡しを拒否、8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出して、蝦夷地(北海道)に渡りました。そして、箱館(いまの函館)の五稜郭を拠点に、蝦夷地全域を支配する「蝦夷(えぞ)共和国」を樹立し、選挙によって榎本は総裁に選ばれました。

しかし、アメリカの援助をうけて最新鋭の軍艦を入手した新政府軍は、1869年4月に蝦夷地に上陸。海陸から箱館と五稜郭を総攻撃し、榎本軍を打ち破りました。(新選組の副長だった土方歳三はこの戦いで戦死しています) 榎本は、蝦夷征討軍総参謀になっていた黒田清隆の降伏勧告をことわり、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」を黒田に託して討ち死にを覚悟しました。しかし将兵たちの戦意喪失のため5月に降伏、榎本以下幹部は江戸に送られて投獄されたのでした。

いっぽう榎本の非凡な才に感服していた黒田は、榎本を助命したいと各方面に説得にあたりその熱心な嘆願活動によって、榎本は一命をとりとめました。1872年に罪は許され、北海道開拓使の役人となって、黒田長官のもとで北海道開拓に力をそそぎました。1874年には海軍中将となり、特命全権大使としてロシアとの間に、樺太・千島交換条約を結び、樺太はロシア領、千島は日本領としました。さらに榎本は、1880年に海軍卿(のちの海軍大臣)となったばかりか、逓信・文部・外務・農商務各大臣などをつとめました。

旧幕臣で、新政府に反逆して「国賊」とまで呼ばれた榎本が、明治政府の要職について活躍したことはきわめて異例のことで、その誠実な人柄と豊富な専門知識が評価されたものと思われます。


「10月26日にあった主なできごと」

1909年 伊藤博文死去…尊王攘夷運動をへて維新後明治政府に入り、初代総理大臣として明治憲法の制定に努めた 伊藤博文 が、日韓併合の一歩をふみだすなか、朝鮮の独立をめざす青年に暗殺されました。

1963年 日本初の原子力発電…茨城県東海村の日本原子力研究所が日本で初めて原子力発電を行ないました。これを記念して、政府は1964年から10月26日を「原子力の日」と制定しました。

今日10月25日は、真空の存在を初めて証明したイタリアの物理学者・数学者のトリチェリが、1647年亡くなった日です。

1608年、イタリア中北部のファエンツァに生まれたエバンジェリスタ・トリチェリは、20歳のときローマに出て、数学者カステリのもとで学びました。1638年、ガリレオの著書『新科学対話』を読んで感動したトリチェリは、自身の生きる道は、数学より物理学にあるとさとったトリチェリは、1641年にフィレンツェに移って ガリレオ の弟子となりました。しかし、手助けをしながら共に研究をするものの、翌年ガリレオは亡くなったため、二人の師弟関係はわずか3か月で終わってしまいました。その後トリチェリは、トスカーナ大公に数学者として招かれ、ガリレオの職を継ぎました。

トリチェリを有名にしたの、何といっても「トリチェリの真空」というもので、古代ギリシアのアリストテレスが「この世に真空は存在しない」といわれていた考えを、1643年に真空の存在を証明したことでしょう。およそ10メートルよりも深い井戸から水を直接吸い上げることができないということは古くから知られていましたが、トリチェリはこれを説明するための実験を行ってみました。一方の先端を閉じたガラス管に水銀を満たし、水銀を満たした皿にガラス管を逆さに立てると、水のときの約14分の1の約76cmの高さにしか上がらず、それより上の部分は真空になることを発見したのです。水と水銀の密度の比が約1:14であることから、大気圧によって液体が押されている、と結論づけました。

さらにトリチェリはその翌年、水の入った容器の横に穴をあけて、その穴から流出する水を流す実験を行ってその速さを測り「液体の高さが、4倍、9倍と高くなるにつれて、液体の速さは2倍、3倍となる」という法則(トリチェリの定理)を発見しました。また、初の気圧計を発明したのをはじめ、望遠鏡や顕微鏡の改良、力学的なつりあいの研究など、ガリレオの研究成果をさらに深めていきましたが、残念ながら39歳の若さで亡くなってしまいました。


「10月25日にあった主なできごと」

1637年 島原の乱…島原・天草地方のキリシタンの農民たち37000人が、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年 天草四郎 を大将に一揆を起こしました。3か月余り島原の原城に籠城して抵抗しました。

1825年 ヨハンシュトラウス誕生…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家 ヨハンシュトラウス(2世) が生まれました。

1838年 ビゼー誕生…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家 ビゼー が生まれました。

1881年 ピカソ誕生…画家であり、彫刻家であり、また歴史家、詩人、学者でもあった情熱的芸術家 ピカソ が生まれました。

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