児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年09月

今日9月7日は、江戸時代後期を代表する戯作(げさく)者の山東京伝(さんとう きょうでん)が、1816年に亡くなった日です。

「戯作」とは、18世紀後半から江戸でおこった洒落(しゃれ)や風刺を織りまぜながらユーモラスに語る読物の総称で、洒落本、滑稽本、談義本、人情本、読本、草双紙(赤本、黒本、青本、黄表紙、合巻)などがあります。京伝は、浮世絵師・北尾政演(きたおまさのぶ)としても活躍しました。

1761年、江戸深川の質屋の子に生まれた山東京伝(通称・伝蔵)は、裕福な家庭の中で、子どものころから長唄や、三絃に親しみ、浮世絵を本格的に学びました。小説類も耽読し、黄表紙の画工として活躍するいっぽう、18歳で処女作となる黄表紙を著わしました。1782年に発表した黄表紙『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』は激賞され、1790年に、黄表紙『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』を刊行するころには、黄表紙、洒落本作家の第一人者になりました。

ところが1791年、若い頃からの遊蕩生活の経験を生かした洒落本3作が、松平定信の「寛政改革」による幕府の出版禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖50日の刑を受けました。これは、京伝の人気がそれほど高いものだったからに他なりません。出版元の蔦屋から、原稿料で充分生活できる金銭をもらっていて、京伝以降、滝沢馬琴、十返舎一九ら、職業作家が次々にあらわれました。

1799年、1801年に刊行した読本『水滸伝』シリーズは、中国の小説とわが国の演劇を織り交ぜた意欲作と世評も高く、1806年の読本『昔話稲妻表紙(むかしがたりいなづまひょうし)』は、大阪歌舞伎で上演されて、大評判となりました。

晩年の京伝は、戯作ばかりでなく、近世風俗の学問的な著述も多く残し、そんな研究に疲れて脚気を患い、56歳で亡くなりました。


「9月7日にあった主なできごと」

1533年 エリザベス一世誕生…1558年、25歳のときから45年間イギリスをおさめ、おとろえかけていたイギリスを、世界にほこる大帝国にたてなおした エリザベス一世 が生まれました。

1962年 吉川英治死去…「宮本武蔵」「新・平家物語」「新書太閤記」など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価されている 吉川英治 が亡くなりました。

今日9月6日は、「ショート・ショート(掌編小説)1001編」などを著わしたSF作家の星新一(ほし しんいち)が、1926年に生れた日です。

現・東京文京区に、星薬科大学の創立者で星製薬創業者の長男として生まれ、めぐまれた家庭に育った星は、中学在学中に太平洋戦争が開戦しました。敵性語になることをみこして英語をまったく勉強せず、他教科に力を入れて、要領よく飛び級で東大に入学しました。このため秀才と呼ばれましたが、戦後になって英語力の不足を補うために、個人授業を受けるなど、さんざん苦しんだと語っています。

東大農学部を満21歳で卒業、同大学院在学中の1951年に父が急死、大学院を中退して、会社を継ぎました。当時の星製薬は経営が悪化していて、まもなく破綻。会社を他人に譲るまでその処理に追われました。この過程で数限りない辛酸をなめた星は、厳しい現実に嫌気がさし、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになり、たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加しました。

1957年、同研究会で知り合った人たちと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊。翌年同誌に発表した『セキストラ』が、江戸川乱歩編集による雑誌「宝石」に転載されて作家デビューを果たしました。当時の宇宙開発ブームと重なって、日本SF文学の旗手として脚光を浴びました。

以来、400字詰め原稿用紙10数枚程度の「ショートショート」と呼ばれる短編小説を次々に発表。むずかしい漢字をいっさい使わず、わかりやすい文章を心がけ、余計な心理・情景描写や形容をすべて削ぎ落とした、まるで民話のような作品は、大人から小中学生の子どもたちにまで支持されました。『ボッコちゃん』『ようこそ地球さん』『きまぐれロボット』など1000編を超えるショートショートのほか、インターネット社会を予見した『声の網』などの長編、大正時代に栄華を極めた父・星一の壮年期を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、『祖父・小金井良精の記』などのノンフィクションも遺しています。

1997年に71歳で亡くなるまで、「ショートショート」の細かな表現を推敲し続け、その翌年、それらの功績が称えられ、日本SF大賞特別賞が贈らました。刊行部数は、「新潮文庫」だけでも3000万部に及び、今なお「角川文庫」などで復刊・増刷が行われているのも、時代の古さを感じさせない「現代の民話」だからに違いありません。


「9月6日にあった主なできごと」

1522年 初の世界周航…スペイン王と西回りでアジアの香辛料を入手する契約を結んだ マゼラン 隊の一せきが、人類初の世界一周をはたしました。

1858年 広重死去…「東海道五十三次」などの風景版画の傑作を描き、フランス印象派の画家やゴッホ、ホイッスラーらに大きな影響を与えた、浮世絵師・安藤(歌川)広重 が亡くなりました。

1998年 黒沢明死去…『羅生門』『生きる』『七人の侍』『赤ひげ』 など、数多くの名作映画を生み出し「世界のクロサワ」と讃えられた映画監督 黒沢明 が亡くなりました。

今日9月5日は、フランスの社会学者、哲学者で、「社会学」を提唱したコントが、1857年に亡くなった日です。

1798年、南フランスのモンペリエに生まれたオーギュスト・コントは、幼い頃からすばらしい能力を発揮し、ラテン語と数学は特に優れていたといわれています。理工科大学に進学したコントでしたが、大学騒動の首謀者とみなされて退学。19歳のとき、社会主義思想家サン・シモンの弟子になって、その思想から大きな影響を受けました。

シモンは、フランス革命後の混乱と動乱に満ちた初期近代フランスを「産業主義」ととらえていましたが、コントはさらに、どうしたら秩序を再建できるかを考え、何よりも人間の精神的秩序を回復することが大切だと考えるようになりました。そして、人間の社会的な関係を研究する学問として「社会学」を提示、歴史学、心理学、経済学を統合する実証主義的な科学的研究でなければならないとしました。コントの発想は、やがてミルやスペンサーらに受けつがれ、実証主義的体系化がはかられていきます。

晩年は、「愛を原理に、秩序を基礎に、進歩を目的に」をスローガンに掲げた人類教を唱え、自ら教祖となって普及につとめました。また、知的要素に重点をおき、主観的要素が社会を動かすことに着目、実証主義的教育を重視して「工芸協会」を設立、一般労働者向けの天文学の講義を18年間継続したことも、よく知られています。

コントは、社会学の創始者のみならず、広い意味の哲学者として実践的な活動をおこなった業績は、のちのマルクスにも大きな影響を与え、思想家としての巨匠と評価されています。


「9月5日にあった主なできごと」

1566年 スレイマン死去…オスマン帝国第10代スルタンとして13回にもおよぶ遠征の末、地中海の制海権をにぎって「世界の帝王」と呼ばれた スレイマン が亡くなりました。

1638年 ルイ14世誕生…フランスブルボン王朝の第3代国王で、「朕は国家なり」と絶対専制君主として勢力を誇った ルイ14世 が生れました。

1903年 棟方志功誕生…仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家 棟方志功 が生れました。

「おもしろ古典落語」の37回目は、『子別(こわか)れ』というお笑いの一席をお楽しみください。

「大変だね、棟梁。ちょっと出かけるのにも、隣に頼まなくちゃならないってのは」「へぇー、どうもね、ひとりじゃしょうがありませんで。女やもめに花が咲き、男やもめにウジがわくっていいますが、どうもいくじがございません」「そういっちゃなんだが、あの二番目のおかみさんてぇのは、よほどひどかったらしいな」「へぇ、どうしてあんなばかな女に迷ったかと思うようですが…、なにしろ朝寝して昼寝して宵寝をしやがんですから」「じゃ、一日寝てるんじゃないか」「酒ぇくらって鼻歌ばかり唄ってやがんで、忌々しいから、たたきだそうと思ったら、なぁに、向こうからさっさとおん出てくれました。こいつはいけねぇと思ったんで、好きな酒も絶ちまして、一生懸命稼ぐようになったんで」「結構なことだ。まじめに仕事をしてくれりゃ、腕はいいんだ、店の評判はいいし、わたしも喜んでるんだが…、で、先のおかみさんはどうしたんだい?」「…へぇ、貧乏なれがしてるっていうか、世帯のくりまわしがうまい女でした」「棟梁、たまには、おかみさんのことを思い出すことがあるんだろ」

「かかぁのことより、思い出すのは息子のことでございます」「そうだ、男の子があったね。ええっと、亀ちゃんてんだったな。うん、覚えてる、かわいい子だったね、いくつだ」「あれから3年ですから、十…一でございます」「かわいいさかりだね、どこにいるんだい?」「野郎の音沙汰ァ、まるっきり知りませんが、表へ出て、おんなじ年頃の子を見ると、うちのやっこじゃねぇかと思って…こねぇだも、菓子屋の前を通りますと、饅頭をふかしてる。せいろのフタをとると、ポワッと湯気が出てるんで、あぁっうまそうだな、野郎が饅頭が好きだったが、買って食わしてやったらどんな面ぁするだろう、と…思わずあっしは饅頭見て、涙こぼしちゃいましてね…へへへへ、親なんていうものぁ、ばかなもんでございますよ」「それが、ほんとうの情というもんだよ…おい、棟梁、噂をすれば影というが、いま、しゃがんでなにかしてる、絣の着物を着ているあの子、亀ちゃんじゃないか」「へぇ…そうです。動いてやがる」「ひとこと言葉かけておやりよ、あたしは一足先へ行ってるから」

こうして、大工の熊五郎は、亀坊に声をかけ、3年ぶりの再会を果たします。夫婦別れした後のかみさんは、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てているという。熊はせがれに五十銭の小遣いをやって、かみさんのくわしいようすを聞くと、かみさんは熊のことを思い切っていないらしいとわかる。内心喜ぶものの、まだ面目なくて会えません。その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊と約束します。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、熊から、おっかさんにはいうなと口止めされているため、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかします。賢い母親は聞き入れません。「貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない。人さまのお金をとるなんて、何てさもしい料簡を起こしてくれた。金槌で頭をぶつよ」と泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまいます。

それを聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれません。でもやはり、まだよりを戻すのははばかられます。その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやりますが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。こうして、子どものおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まって「子どもは夫婦の鎹(かすがい)ですね」というと、

「やぁ、あたいが鎹だって? どうりできのう、金槌で頭をぶつといった」


「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 アクチュームの海戦…シーザーの暗殺後、ローマはオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。

1937年 クーベルタン死去…古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシアのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」 クーベルタン 男爵が亡くなりました。

1945年 日本の降伏…東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符がうたれました。

1949年 アジア象はな子…タイから寄贈された象が日本に到着、戦争中に餓死させられた象「花子」の名前を継いで「はな子」と命名されました。はな子は、1950年に始まった上野動物園の「移動動物園」企画で全国や東京都下を巡回しましたが、武蔵野市や三鷹市ではな子の誘致運動が起こり、1954年に上野動物園から井の頭自然文化園に引っ越しました。64歳の今も健在です。

今日9月1日は、幕末の長州藩士、政治家、実業家として活躍した井上馨(いのうえ かおる)が、1915年に亡くなった日です。

長州藩士の子として、1835年に生まれた馨(幼名勇吉のちに聞多)は、藩校明倫館に入学した後、1857年江戸へ出て蘭学と砲術を学びました。次第に尊皇攘夷運動に共鳴し、1862年には高杉晋作や久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践します。

1863年、藩の命により 伊藤博文 ら5人の一人としてイギリスへ留学、国力の違いを目の当たりにして開国論に転じました。下関での外国船砲撃事件のことを知って伊藤とともに急ぎ帰国、和平交渉に尽力しました。このため反対派に襲われて瀕死の重傷を負い、母親によってかろうじて命を落とさずにすみました。別府に逃れ、療養して回復すると、高杉晋作らと協調して決起し、再び藩論を開国攘夷に統一します。1865年、坂本龍馬の仲介で薩摩藩と同盟し(薩長同盟)、第2次長州征伐で幕府軍に勝利したことは歴史の示す通りです。

明治維新後は官界に入って、地租改正や秩禄処分という士族や華族の家禄の配分など財政に力を入れましたが、1873年、予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及されて辞職、三井財閥を背景に実業界に身を転じました。しかし、伊藤博文の強い要請のもとに1875年に政府にもどり、1879年外務卿(のちの大臣)となって、条約改正交渉を担当。鹿鳴館で舞踏会やバザーを開いて(鹿鳴館時代)、日本の開化ぶりを外国人に認めさせようとしたのは有名です。さらにパリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めましたが、1887年にまとめた条約改正案に批判が集中して井上は辞任、計画も頓挫してしまいました。

それ以後も井上は、伊藤博文、山県有朋とともに長州伐の政治家として、農商務大臣、大蔵大臣などを歴任して大きな発言力を維持し、実業界の発展にも力を尽くして、紡績業・鉄道事業など殖産興業にもつとめました。


「9月1日にあった主なできごと」

1923年 関東大震災…午前11時58分、関東地方一帯に震度7.9(激震)という大地震・関東大震災がおこりました。東京では130余か所で火災がおきて半分以上を焼き尽くし、関東全域で死者10万人以上、災害にあった人は400万人にものぼりました。不安が高まる中に「朝鮮人が暴動をおこした」「井戸に毒を流した」などというデマが乱れとび、罪のない朝鮮人や中国人数千人が殺されました。

1939年 第2次世界大戦…ヒトラーの率いるドイツ軍は、突然隣国のポーランドに侵攻しました。この行動に対し、イギリスとフランスは、兵を引き上げるように要求しましたがヒトラーはこれを受け入れず、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が勃発しました。戦争はヨーロッパ全体に広がり、やがて世界のほとんどを巻きこむ大戦争になっていきました。

1960年 防災の日…前年に襲来して、5000人を越える死者・行方不明者、39000人の負傷者という大災害をおこした伊勢湾台風と、関東大震災のおきた日にちなみ、防災意識を高めようと、政府はこの日を「防災の日」と定めました。

1983年 大韓航空機撃墜される…ニューヨーク発、バンクーバー経由ソウル行の大韓航空機が、誘導装置の設定ミスによるソ連領空侵犯のために、ソ連戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人が死亡しました。

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