児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年09月

今日9月14日は、江戸幕府3代将軍 徳川家光 の乳母で、江戸城大奥の基礎を築いた春日局(かすがのつぼね)が、1643年に亡くなった日です。

春日局(本名・齋藤 福)は1579年、明智光秀の重臣だった斎藤利三のむすめとして、美濃国(いまの岐阜県)生まれました。父は、1582年の「本能寺の変」で光秀とともに信長を討ったあと、秀吉に「山崎の合戦」で敗退した後に処刑されました。

福は女だったために、兄弟たちのように追われることなく、母方のいとこである稲葉重通の養女として養育され、公家たちの素養(書道・歌道・華道など)を身につけることができたのは幸いでした。やがて、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成(まさしげ)の後妻となって、正勝ら3人の子を生みました。

正成が、「関ヶ原の戦」で、主君を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家を勝利に導いた功労者であることで、1604年に2代将軍徳川秀忠の次男竹千代(のちに第3代将軍となる徳川家光)が生れると、福は、その乳母に抜てきされました。

しかし、秀忠と妻である江(ごう)が、竹千代よりも3男の忠長をかわいがって、忠長を将軍にしたいと考えているのを知った福は、駿府(静岡)に移り住んでいた家康を密かにたずね、大御所の力で竹千代を正式に将軍の跡継ぎとしたと伝えられています。

こうして、家光が第3代将軍になると、春日局(朝廷から1629年に賜った称号) は、「大奥」(江戸城内に存在した将軍家の子女・正室・御殿女中たちの居場所) をまかされ、大奥一の実力者として権勢をほしいままにしました。さらに、朝廷との交渉の窓口に立つなど、徳川政権の安定化に寄与しました。その勢力は家族にもおよび、夫の正成は大名に取りたてられ、子の正勝は老中になったばかりか、その縁者も要職に就いています。

松平信綱、柳生宗矩とならび、家光を支えた3人のひとりに数えられる「春日局」の生涯については、ベールにつつまれている部分が多く、さまざまな異説があります。当時の創作物語から、現代に至るまで、小説、映画、テレビドラマ、漫画などで人気を呼びつづけているのは興味深いところです。


「9月14日にあった主なできごと」

1321年 ダンテ死去…イタリアの都市国家フィレンツェに生まれた詩人で、彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』や詩集『新生』などを著し、ルネサンスの先駆者といわれる ダンテ が亡くなりました。

1822年 ロゼッタストーン解読…1799年 ナポレオン がエジプト遠征の際に持ち帰ったロゼッタストーンを、フランスのシャンポリオンが解読に成功。古代エジプト文明の存在を解明するきっかけになりました。

1849年 パブロフ誕生…消化腺と条件反射の研究でノーベル賞を受賞したロシアの科学者 パブロフ が生まれました。

今日9月13日は、中国共産党の軍事指導者だった林彪(りん ぴょう)が、毛沢東 の後継とされながらも、毛との路線の違いからクーデターをおこして失敗、1971年にモンゴル国境付近で墜落死した日です。

1907年に湖北省の工場主の子として生まれた林彪は、広州の軍人を養成する学校を優秀な成績で卒業後、1923年に中国社会主義青年団に参加し、中国共産党に入党しました。1932年には、第一軍団司令となって、井崗山で毛沢東に合流、1万2千kmにおよぶ長征にも参加しました。当時の活躍ぶりは「英雄的な指揮官」として名をはせています。

抗日戦争では、八路軍を率いて山西省で遊撃戦を指揮し、第二次世界大戦後に勃発した中国国民党との内戦では、東北紅軍総司令として若い指揮官をうまく指導し、米軍式軍隊を誇る蒋介石軍を撃破しました。そして、1949年の中華人民共和国成立後は、中南軍政委員会主席となり、朝鮮戦争が勃発すると、林彪の育てた精鋭部隊が「中国人民義勇軍」とし活躍します。

こうして、軍の指導者として頭角をあらわした林彪は、1954年に国防委員会副主席、1955年に政治局委員、1958年には党副主席と、中国共産党の中で序列第6位の地位を確保します。そして、1959年に開催された「政治局拡大会議」において、毛沢東を批判した国防部長が解任されると、林彪が国防部長に就任、党中央軍事委員会第一副主席に任命されて、軍の第一人者となりました。さらに、1965年後半からはじまった文化大革命で重要な役割を演じたことで、1966年には党内序列第2位に昇格、1969年の第9回党大会では、正式に毛沢東の後継者と認定されました。

ところが、空席となっていた国家主席の廃止案を毛沢東が表明すると、林彪はそれに同意せず、野心を疑われることになりました。そのため林彪派たちは、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げるものの、疑心暗鬼となった毛沢東は、林彪派をしめだすようになりました。

こうして、1971年9月、毛沢東暗殺のクーデターを企てたものの失敗し、旅客機で息子の林立果らと逃亡中に、モンゴル国境付近で墜落死したとされています。毛沢東がこれを発表したのは、10か月後のことだったため、さまざまな憶測が流れ、燃料切れ説、仲間割れによる墜落説、中ソ関係悪化を恐れた当時のソ連によるミサイル撃墜説など、真相はいまだにわかっていません。


「9月13日にあった主なできごと」

1592年 モンテーニュ死去…世界的な名著 「随想録」の著者として、400年以上たった今も高く評価されているフランスの思想家 モンテーニュ が亡くなりました。

1733年 杉田玄白誕生…ドイツ人の学者の書いた人体解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』という医学書を、苦労の末に『解体新書』に著した 杉田玄白 が生まれました。

1975年 棟方志功死去…仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家 棟方志功 が亡くなりました。

今日9月12日は、戦前に共産党が非合法の時代に18年も投獄され、戦後に初代日本共産党書記長を務めた徳田球一(とくだ きゅういち)が、1894年に生まれた日です。

徳田は、沖縄県名護市に生まれ、苦学して日本大学の夜間部を卒業し、弁護士になりました。1920年、日本社会主義同盟に加わり、ソ連から帰国後の1922年、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加して中央委員として活躍。逮捕されるものの、堺俊彦や山川均らが党を解党することに反対し、活動をつづけました。1928年の第1回普通選挙には、労働農民党から出馬するものの落選、直後に治安維持法違反で逮捕されました。そして3月15日、社会主義的な政党活動に危機感を抱いた政府(田中義一内閣)は、治安維持法違反容疑により、労働農民党などの関係者約1600人を、一斉検挙したのです(三・一五事件)。こうして、首謀者とされた徳田は、信念をまげず、そのまま獄中で18年を過ごすことになりました。

敗戦後の1945年10月、府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランらの努力によって発見された徳田は、のちに『獄中18年』を共に著す志賀義雄らと出獄。まもなく日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任しました。1946年には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選し、オヤジ・徳球(特急のもじり)の愛称で、党内外の大衆的人気を博しました。

しかし1950年、マッカーサー指令によるレッドパージや、共産党の内部分裂もあって公職追放された徳田は、中国に亡命。やがて亡命先から地下放送を通じて武装闘争方針を指示、野坂参三らとの対立が表面化するころには、徳田の体力も限界となり、1953年に北京で病死しましたが、1955年まで公表されませんでした。

徳田の死を知った 吉田茂 は、徳田のことを次のように回想しています。「首相になってからは、よく本会議場で顔を合わせた。氏が演説するとき、ヒナ壇の前を通りかかると(きょうはやりますよ!)とかなんとかいっておどかす。終わると(どうです、参ったでしょう!)と冷やかしてゆく。その後、自由党が野党になって(1947年5月)からは、ときどき控室へやってくるので、(自由党に入党したのか)とからかうと、頭をかいて逃げ出していった。個人的なつきあいはないが、面白い人物だといつも思っていた」と綴っています。


「9月12日にあった主なできごと」

1571年 延暦寺の焼き討ち…織田信長は、比叡山延暦寺を攻め、堂塔を焼き払い、僧徒らを皆殺しにしました。領地をめぐる確執から、近江の浅井氏、越前の朝倉氏の軍勢を延暦寺が受け入れたこと、延暦寺が広大な寺領を誇り、大勢の僧兵をかかえて信長に反抗的だったのが原因でした。

1821年 塙保己一死去…「群書類従」という、わが国有史以来の文献のうち価値ある研究資料3373点を25部門に分類した叢書を著した、盲目の国学者 塙保己一 が亡くなりました。

1872年 新橋-横浜間に鉄道が開通…新橋と横浜をむすぶ約29kmでわが国初の鉄道が開通、この日明治天皇を乗せた祝賀列車が走りました。翌日から旅客や貨物の輸送がはじまり、これまで1日かかったところを53分に短縮しました。上り下り共毎日8往復、料金は1円42銭5厘、75銭、37銭5厘の3階級でした。

1940年 ラスコーの壁画発見…フランスの子ども4人が遊んでいるうち偶然に発見。洞窟の側面と天井面には、たくさんの馬や山羊、野牛、鹿などの絵があり、旧石器時代後期(1万5000年ほど前)のクロマニョン人によって描かれたものと推定されています。

1960年 浅沼稲次郎暗殺事件…東京・日比谷公会堂で行なわれていた自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会で、演説中の社会党(現社民党)委員長浅沼稲次郎が、17歳の右翼少年に暗殺されました。

「おもしろ古典落語」の38回目は、『夏(なつ)どろ』というお笑いの一席をお楽しみください。

泥棒というのは、季節にかかわりないようですが、「こそ泥」というのは夏に多いようです。夏は暑いので、戸締りをしていない家もけっこうあります。

「おやおや、しょうがねぇな。この家は留守かな。ぶっそうじゃねぇか、開けっぱなしにして。ありゃ、割れたすり鉢に、古木を入れやがって…ああ、蚊いぶしをしたんだな、こんな家だって、板の間にでも燃えつけば火事になっちまうじゃないか。うす汚ねぇ家だな。でもこんな家でも、小金をためてるやつがよくあるんだ…おやおや、あそこの隅に寝てるやつがいるぞ、おい、起きろ、起きろ!」「あーあ…へぇ、なんでぇ」「あれっ、寝ぼけてやがる、こんちくしょう。さあ、金を出せ」「だしぬけに起こして、一体おまえはなんだ」「なんだと? わからねぇ? 夜中に人の家へ案内もなく入ってくりゃ、いわずとしれた泥棒だ」「ああ、そうか。それじゃ安心だ」「なにが安心だ、泥棒だぞ」「大きな声を出すない。おめぇは素人だな、泥棒だって、どなるやつがあるか。おれにゃ一文たりともありゃしねぇ」

「しらばっくれるな。これでも一軒の家を構えていて、何もないはずがねえ。銀貨かなにか、ぼろっきれにでも包んで隠してあるだろ。おれが消してやらなかったら、てめえは今ごろ蚊いぶしが燃え上がって焼け死んじまったんだ。いわば命の恩人だ」「余計なことをしやがる。じつはな、おれは今半分死んでるんだ。けれども、毒を買う銭はなし、刃物だって、切れねぇ菜っ切り包丁があるだけだ。おめえは合口(短刀)を持ってるようだな。ブスリとひとおもいにやってくれ」

「やいやい、てめぇみたいな若ぇもんが、なんで死にてぇんだ」「食えねぇんだ。おれは、大工だが、さっきも棟梁がきて、仕事が忙しいから、早く仕事場へ出てこいって…」「ありがてぇ話じゃねぇか。でかけたらいいじゃねぇか」「うん、おれだっていきてぇよ。けれど、泥ちゃんの前だが、大工道具を持たずにはいけねぇ」「道具箱はどうした?」「預けてあるんだ、や七さんのとこへ」「友達か?」「友達じゃねぇが、ごく懇意にしてる」「懇意だったら、わけを話して返してもらったらいいだろ」「それが、金を持っていかなきゃ、返してくれねぇ。むこうも商売だからな」「商売ってなんだ」「質屋だ」「質屋なら質屋とはっきりいえ。いくらで預けた? なに、十文? いくじのねぇこというなよ、十文なんぞ、どこへいったって融通がつくじゃねぇか」「融通がつくくれぇなら、まごまごしてるもんか。ビタ一文ねぇから、おれは死にてぇといってるんだ、早く殺せ」「おいおい、よせやい、そんな大きな声を出しゃがって…。じゃ、十文ありゃ、道具箱が出せるんだな」「そうだよ」「そうか、それじゃ、おれが十文やろう。しっかり働け」「そりゃ、すまねぇな。泥棒にしとくにゃ、惜しい男だな。ただ、十文じゃ足りねぇんだ。十文は元金で、利息が五文で、十五文」…。おまけに家賃が5か月とあわせ、五十文貸せといいます。

金をせびられた泥棒、そんなに金はもっていないというと、「どうしても貸さねえな。この路地を出れば一本道だ。おれがが泥棒ってどなれば、長屋じゅうの男たちが残らず飛んでくる。相撲取りだっているんだ」と、逆に脅され、しかたなく五十文出すと、今度はおかず代にもう二十文貸せと、いいます。とんでもねえと、断ると「どうしても貸さねえな。路地を出ると一本道だ」とまた始まりましたから、しぶしぶ二十文。泥棒はもうお手上げ、合計七十文ふんだくられました。

「ありがてえ。これは借りたんだ。今度来たときに」「だれが来るもんか」「そういわずにちょいちょいおいで。おれには身内がねえから、親類になってくれ」「ばかぁ、いいかげんにしろ」と、泥棒がげんなりして引き上げると、あわを食って煙草入れを置いていきました。男は煙草を吸わないので、もらってもしかたがないと後を追いかけて「おーい、泥棒ぉ」「こんちくしょう。ま抜けめ。泥棒ってぇやつがあるか」

「でも、おめえの名前ぇが、わからねぇ」


「9月9日にあった主なできごと」

686年 天武天皇死去…645年におこった大化改新の事業を完成させ、革新の気風あふれた白鳳文化を生んだ 天武天皇 が亡くなりました。

1828年 トルストイ誕生…『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの長編小説や随想録『人生読本』で名高いロシアの作家 トルストイ が生まれました。

1948年 「朝鮮民主主義人民共和国」成立…同年8月に成立した「大韓民国」(韓国)に対抗して、「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)が成立し、金日成を首相に選びました。

今日9月8日は、明治・大正・昭和初期に活躍した化学者の池田菊苗(いけだ きくなえ)が、1936年に亡くなった日です。

菊苗は1864年、薩摩藩士の子として京都屋敷で生まれました。明治維新後に父は、滋賀県の役人となって、旧薩摩屋敷を所有するなど裕福でしたが、琵琶湖に汽船を浮かべて観光業をしたり、牧畜業にたずさわったりしましたが、しょせんは武士の商法で、どれも失敗に終わってしまいます。そんな中で菊苗は、東京、京都、大阪などで学ぶうち、大阪衛生試験所長と知り合う機会に恵まれ、化学実験を行ううち、すっかり化学のとりこになってしまいました。

すでに家業は傾きかけていたため、菊苗は寝具を売って旅費を工面して上京、1881年に大学予備門の試験に合格、1885年には東大の化学科の給費学生となりました。卒業後は大学院へ進学し、1891年高等師範学校の教授、1896年には、東大化学科の助教授となりました。1899年には、ドイツ・ライプツィヒ大学に2年間留学し、物理化学界の世界的権威であるオストワルド研究室で学びました。帰国後、東大教授に昇進し、物理化学の新知識の教育、研究に没頭しました。

そして1907年、菊苗の名を決定づける研究にとりかかりました。コンブのうま味の研究で、コンブを煮つめ、これを分離する実験をくりかえし、コンブのうまみの成分がグルタミン酸塩であることを発見しました。翌1908年にグルタミン酸塩を主成分とする調味料の製造方法を発明しました。そのころ、海草からヨードを製造する事業を行っていた鈴木三郎助の協力を得て、特許権を共有し、研究は菊苗が、事業は鈴木が行うことに決めました。こうして1909年5月、うまみ調味料「味の素」が、鈴木製薬所(現・味の素株式会社)から発売されたのです。

1917年には、理化学研究所の創立に参加、1923年には東大を定年1年前に退職して、亡くなるまで自宅の実験室で研究を続けました。


「9月8日にあった主なできごと」

1841年 ドボルザーク誕生…「スラブ舞曲」や「新世界より」などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠 ドボルザーク が生まれました。

1868年 元号「明治」…年号をこれまでの「慶応」(4年)から「明治」(元年)と改めました。同時に、今後は1天皇は1年号とする「一世一元の制」を定めました。

1951年 サンフランシスコ講和条約締結…第2次世界大戦で、無条件降伏をして連合国の占領下におかれていた日本国民は、1日も早い独立を願っていました。1950年に朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を独立させて資本主義の仲間入りをさせようと、対日講和の早期実現を決意しました。そしてこの日、日本の全権大使 吉田茂 首相は、サンフランシスコで戦争に関連した48か国と講和条約に調印し、6年8か月にわたる占領が終わり、独立を回復しました。しかしこの時、アメリカとの間に「安全保障条約」を結んだことで、日本国内に700か所以上もの米軍基地がおかれるなど、本当の意味での独立国にはなりきれず、さまざまな波紋を残すことになります。

1981年 湯川秀樹死去…「中間子」という電子のほぼ300倍もの質量をもつ素粒子のあることを、理論をもって証明したことで、1949年日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した 湯川秀樹が 亡くなりました。

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