児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年09月

「おもしろ古典落語」の40回目は、『目黒(めぐろ)のさんま』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸時代は、士農工商といって、身分制度がはっきりしていました。一番位の高い武士の中でも、お大名といえば、ご先祖が命がけで弓や鉄砲の下をかけまわって、ようやくはい上がって何万石という出世をするという英雄であり、豪傑でもありました。ところが平和な時代が長く続き、三代目、四代目ともなると、ただ大名の家に生れたというだけで、ニューっと育った、もやしみたいなのが殿さまになります。

「これ、三太夫はおらぬか、三太夫!」「ははぁ、金弥めにござりますが、なにか?」「おう、そちでよい。どうじゃ、今日はよい天気であるな」「御意にございます」「されば、武芸鍛錬のために、遠乗りをいたそうと思う」「遠乗りなれば、下屋敷から遠からぬ目黒のあたりがよろしいかと…」「そうか、では、支度をいたせ。馬を引け! 後につづけ」ハイヨーッ、パカパカ…と、殿さまが飛び出しました。驚いたのは家来たち、あわてて、めいめいの厩へ飛んでいって馬を引き出すと、殿さまのあとを追いかけました。

殿さまのほうは、最初にパーッと乗り出しましたが、ふだんはあまり馬にのりつけてないため、木製の鞍(くら)でゴツンゴツンとやられて、目黒についたころはもう乗っていられなくなり、だらしなく馬からおりて、尻をさすっているところへ……「ああっ、遅くなりまして…どうぞ、ご乗馬を…」「もし戦場において、馬をやられたる場合、そのほうどもはいかがいたす?」「はっ、馬を射られたる場合は徒歩(かち)にて、戦います」「ううむ、よう申した。しからば、足を鍛えておかねばならぬのぅ。向こうを見よ、小高き丘のいただきに松の木がはえておる。あの松まで、そのほうどもとかけ比べじゃ、余に遅れをとるのでないぞ、参れっ!」

殿さまがたったと走り出したので、家来どもあわてて後を追いかけます。少し前に行こうとすると、「主人より前へ出るやつがあるか」といいますから、追い抜くこともできません。ようやく丘へたどりつくと「そのほうどもは、やはり余にはかなわんな」と勝手なことをいってます。そのうち、「余は空腹をおぼえたぞ、弁当をもて! なに? 弁当は持っておらぬか」主従一同、がっかりした顔で松の根かたに腰をおろしていると、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきました。

「これ金弥、この異なる匂いはなんであるか?」「これは、サンマと申す下司魚(げすうお)でございまして、下民(げみん)の食すもの、高貴なおかたのお口に合いませぬが」「黙れ、武士がいったん戦場へまいって腹がへっておっては戦ができぬ、苦しゅうない、そのサンマとやらに目通り許す、これへもて」

家来たちはしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、一軒の農家で、サンマをジュウジュウ、プウプウ焼いています。さっそく、焼きあがったばかりのサンマを10本も買い上げてきて、殿さまの前に出されます。たっぷりあぶらののりきったサンマが、ジュウジュウ音をたてています。「おう、美味である。かわりをもて!」と、あらかた一人で食べてしまいました。「金弥、かような美味なるものがあるとは、余は少しも存ぜぬであった。これから館に帰り、三度三度サンマを食すぞ」「それは困ります。サンマを食したなどは内聞でございます。これが重役がたにわかりますれば、われら一同、大いに迷惑をいたします」「さようか、しかたがない。内聞にいたしておこう」

それからというもの、殿さまの頭の中は、あのおいしかったサンマのことでいっぱいになります。でも、約束した以上、三太夫にもいえません。そんなある日のこと、親戚のお屋敷によばれた殿さま、「なんなりと、お好きなお料理を」といわれ、「サンマ」と答えました。驚いたのは料理人です。早馬をとばして、日本橋の魚河岸へとんでいき、極上のサンマを仕入れてまいりました。しかし、こんなあぶらの強いものをさしあげて、お腹をこわすようなことがあってはならないからとあぶらを全部ぬき、骨があってはのどにひっかかってあぶないと小骨を毛抜きでぬいて、これを吸い物にして、殿さまの前に運んできました。

殿さまは、ジュージュープスプスが出てくるかと待ちかねていたところに、お椀がでてきました。「なんだ、これがサンマ? ふしぎなサンマであるな」お椀のふたをとってみると、わずかにサンマの匂いがします。「おう、これである。いやぁ、久しかった。まちかねておったぞ」とひとつ口に入れたところ、まずい。「このサンマは、いずれより仕入れたのだ?」「はい、日本橋の魚河岸でございます」

「いや、それはいかん。サンマは目黒にかぎる」


「9月22日にあった主なできごと」

1791年 ファラディ誕生…電気分解の法則や電磁誘導の法則の発見などの業績により「電気学の父」いわれるイギリスの科学者 ファラデー が生まれました。

1852年 明治天皇誕生…父孝明天皇の死後、1867年に即位した 明治天皇 がうまれました。

1862年 リンカーン奴隷解放宣言…第16代アメリカ合衆国大統領 リンカーン は、2年前に合衆国から脱退したアメリカ南部連邦11州との戦い(南北戦争)の最中、「翌年1月1日から奴隷解放を実施する」という歴史に残る宣言を布告しました。

1868年 会津若松城落城…4月の江戸城無血開城のあと、会津藩は、仙台・盛岡・米沢・庄内などの諸藩と同盟して、薩摩・長州などを中心とした官軍とたたかいましたが、この日降伏して開城、半年近くに及ぶ会津戦争は終わりました。

1878年 吉田茂誕生…太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した 吉田茂 が生まれました。

今日9月21日は、『チゴイネルワイゼン』 などフラメンコを採り入れた曲で名高いスペインの作曲家・バイオリン奏者のサラサーテが、1908年に亡くなった日です。

「チゴイネルワイゼン」とは、ドイツ語で「ジプシーの歌」という意味で、その名前のように、ハンガリーのジプシー音楽や民謡をもとにチャルディッシュという、舞曲形式でかかれたものです。3楽章からなり、いかにもジプシーふうの哀愁に満ちたメロディではじまる1楽章、弱・強・弱とテンポを変えて甘美なメロディで続ける2楽章、そして、バイオリニストの腕のみせどころというベきピチカート奏法という両指を使った急速・超難技巧の連続のうちにクライマックスをむかえる3楽章と、技巧に自信のある演奏者にとって、格好の曲といわれています。(2000年代以降、日本では「ジプシー」を差別用語、放送禁止用語とし、『ロマ』といいかえているようですが、こういう傾向に疑問をもつのは私だけではなさそうです)

1844年スペイン北部バスク地方のパンプローナに生まれたパブロ・デ・サラサーテは、8歳のときに初めての公演をし、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露したといわれる早熟の天才です。(この時、女王から贈られた名器ストラディバリを、生涯手放すことはありませんでした) 12歳でフランスに渡り、パリ音楽院に入学、バイオリン科を主席で卒業しました。

17歳のとき、ロンドンでの初公演に成功してからは、バイオリンの独奏家としてヨーロッパを中心に世界各地で演奏旅行を行い、魅惑的な演奏法と、優れた記憶力で聴衆を魅了させました。1865年には、知り合ったサン=サーンス(組曲『動物の謝肉祭』の1曲『白鳥』が特に有名)と演奏旅行をしました。サン=サーンスは『序奏とロンド・カプリチオーソ』など数曲をサラサーテに献呈しているほか、チャイコフスキーやブラームスらにも大きな影響を与えました。

作曲家としてのサラサーテの作品のほとんどは、バイオリンと管弦楽のための作品で、とくにアンダルシアのフラメンコを採り入れた『アンダルシアのロマンス』『サパテアード』など、『チゴイネルワイゼン』以外にもスペインの民謡や舞曲の要素を盛りこんだ曲を多く遺しています。

なお、私が小学生のころ、初めて『チゴイネルワイゼン』を聞いた時、「なんと素晴しい音楽なのだろう」と強烈な感銘をおぼえたことを思い出します。以来、クラシック音楽の奥深い世界に興味を持つきっかけになりました。おそらく、セミクラシックといえば、多くの人が私と同様、この曲をベスト5の一曲に挙げるにちがいありません。


「9月21日にあった主なできごと」

1933年 宮沢賢治死去…「雨にも負けず」 などの詩や 「風の又三郎」 「銀河鉄道の夜」 「セロ弾きのゴーシュ」 などの童話を著した 宮沢賢治 が亡くなりました。

1954年 御木本幸吉死去…真珠養殖の成功とそのブランド化などで財をなした 御木本幸吉 が亡くなりました。

今日9月20日は、江戸時代に活躍した浮世絵師・喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)が、1806年に亡くなった日です。

江戸時代に日本画のひとつとして興った浮世絵は、江戸時代のなかばをすぎたころから、あざやかな色を使った版画によって印刷した「錦絵」とよばれるものが、喜ばれるようになってきました。歌麿は、その錦絵に美人を描いて名をとどろかせた浮世絵師です。

歌麿は、江戸幕府ができてちょうど150年目の1753年に生まれました。生れは、武州(埼玉県)とも江戸ともいわれています。幼いころのことは不明ですが、少年時代は虫と遊ぶことと絵をかくことが、大好きでした。そして、おそらく少年時代の終わりころから、狩野派の日本画家鳥山石燕(せきえん)の弟子になって、花や鳥など自然に関する絵の勉強を始めました。

志をつらぬいて画家になった歌麿は、初めは、本の表紙絵や、物語のなかのさし絵を多く描きましたが、30歳のころからは、美人画を描くようになりました。やがて、それまでの美人画にはみられなかった大胆な絵を発表して、江戸じゅうの人びとの目を見はらせました。それは「美人大首絵」とよばれた絵です。ほかの絵師の美人画は、生活のなかの女性のすがた全体を描いたものがほとんどでしたが、歌麿は、顔や上半身だけを大きく描きました。からだの美しい形よりも、からだのなかからにじみでている女性の真の美しさや、顔に表われている心を表現しようとしたのです。人まねが嫌いだったという歌麿は、自分だけにしかできない理想の美人画を完成させようとしたのでしょう。歌麿によって、美人画に生きた血を通わせた浮世絵は、すぐれた芸術へと高められました。

Utamaro1.jpg

ところが、51歳になったときのことです。太閤豊臣秀吉が京都の東山へでかけて遊んだときのようすを、錦絵に描いたことが、幕府にとがめられて3日のあいだ牢につながれ、50日のあいだ手鎖の刑に処せられてしまいました。当時、北の政所や淀君、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が、将軍・徳川家斉をからかったものとされたようです。出所後の歌麿は、浮世絵がすっかり描けなくなったまま、2年後、53歳の生涯をさみしく終えてしまいました。

歌麿と同じころ活躍した浮世絵師に、東洲斎写楽という人がいました。この写楽も、大首絵をえがいて有名になった画家です。でも、美人画ではなく、多くは、歌舞伎役者の顔をえがいたものでした。歌麿の大首絵と写楽の大首絵は、人物画の傑作として、ゴッホら西ヨーロッパのたくさんの画家たちに愛されました。


「9月20日にあった主なできごと」

1943年 鈴木梅太郎死去…ビタミンB1が脚気の治療に効果があることをつきとめ、糠から「オリザニン」を取りだすことに成功し、脚気の不安から人びとを救った農芸化学者 鈴木梅太郎 が亡くなりました。

1945年 墨ぬり教科書…敗戦後のこの日、文部省は新しい教科書の印刷が間に合わないため、戦時中につくられた教科書で、軍国主義的内容を削除するように通達しました。そのため先生は、生徒に削除する部分を墨でぬりつぶさせました。

「おもしろ古典落語」の39回目は、『お血脈(けちみゃく)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「牛にひかれて善光寺まいり」なんてことをいいます。むかしから、信心深い人がおまいりをする信州信濃(長野県)の善光寺で、[お血脈のご印] というのを売り出しました。これは、額(ひたい)のところにペタリと「南無阿弥陀仏」の印を押してもらえば、どんな罪を犯しても極楽往生間違いなしという、ありがたい代物です。なにしろ、わずか一文をお寺に納めれば、どんなに悪いことをしている者も、仏さまのお助けによって極楽浄土へ行けるというのですから、われもわれもと人が押しかけ、死んだ者はみんな極楽へ行ってしまいます。

おかげで弱ったのが地獄です。すっかりさびれてしまって、本格的な不景気となりました。えんま大王も、この世でした行いのすべてをうつすという家宝の浄玻璃(じょうはり)の鏡を床屋に売りはらい、赤鬼・青鬼たちから金棒を供出させてくず屋に売りはらい、制服である虎の皮のフンドシはぜいたく品だといって、これもシャバの骨董屋に売りはらう。といって、はだかではみっともないから、全員もめんのフンドシでまにあわせるという、みじめなありさまです。えんま大王、このままでは失脚必至とあって、幹部一同を奥の院に集めて対策会議を開きました。

するとこのとき、[見る目かぐ鼻]という鬼が進み出て「えー、おそれながら、大王に申し上げます。ご存じの通り、わたしは地獄耳、地獄鼻、世間のあらゆることを探り出す才能を持っています。近頃、シャバの善光寺という寺におきまして、[血脈の印] というものを信者のひたいに押しまくっております。すると罪が消えて、極楽往生するものがどんどん増えておるのです。つきましては、その[血脈の印] なるものを、腕のいい大泥棒を雇って、盗み出させてはいかがでしょうか」「そいつは名案だ。地獄に住んでおる盗人たちの戸籍をしらべてみよ」

こうして泥棒の人選がはじまり、ついに適任者は、石川五右衛門と決まりました。五右衛門といえばご存じ『浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種はつきまじ』と辞世の句を残して、釜ゆでの刑で地獄に送られてきた大泥棒です。さて五右衛門、地獄の釜の中で浪花節をうなっていたところ、大王からのお召しとあって、シャバにいたころそのままに、黒の三枚小袖、どんすの巾ひろの帯、朱ざやの刀をかんぬきざしにして、素網の肌着を着こみ、重ね草鞋(わらじ) 、髪をぼうぼうと森のようにはやしたまま、六方を踏みながらノソリノソリとえんま大王の前へやってきました。

「……これこれしかじかだが、血脈の印を盗み出せるのはその方以外にない。やってのけたら重役にしてやる」「何かと思えば、そのようなこたぁ、赤子の手をひねるようなもの、いとたやすきことにござりまする」というわけで、久しぶりにシャバに舞戻った五右衛門、さすがに手慣れたもので、昼間は善光寺へ参詣するように見せかけて入り込み、ようすを探った上で、夜中に奥殿に忍び入って血脈を探しましたが、なかなか見当たりません。そのうち立派な箱が見つかったので、中を改めるとまさしくお血脈の印。「おう、あった、ありがてぇ、かたじけねえ。奪い取ったる血脈の印、これせぇあれば大願成就」と押しいただくと、ペタリと印がひたいに……

そのままスーッと、極楽へ行ってしまいました。


「9月16日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワー号出帆…アメリカ建国のきっかけをつくった102人のピュリタン(清教徒)が、イギリスのプリマス港を出港しました。

1793年 渡辺崋山誕生…江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』で幕政批判をしたとして「蛮社の獄」に倒れた 渡辺崋山 が生れました。

1865年 小村寿太郎誕生…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官 小村寿太郎 が生まれました。

1877年 大森貝塚発掘開始…アメリカの動物学者 モース は、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘を開始しました。この発掘がきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。

今日9月15日は、アメリカ開拓時代を描いた冒険小説を著わしたアメリカの作家・評論家のクーパーが、1789年に生まれた日です。

ニュージャージー州バーリングトンの大地主の家に生まれたジェイムズ・フェニモア・クーパーは、少年時代は父親のこしらえた荒地に近い町クーパーズタウンで育ちました。1806年エール大学に入学しましたが2年後に放校されてしまいます。まもなく商船の水夫となって海に親しみ、海賊に追われる体験もしました。その後は海軍に入って各地を巡歴し、海軍士官にまでなって1812年に退役、子どもの頃からのたくさんの冒険を題材に、小説を書きはじめました。やがて、アメリカ独立戦争を扱った『スパイ』で有名になり、『パイロット』など歴史物を多く発表しました。

その後は、開拓時代のアメリカを舞台にした作品を次々に著わし、『レザーストッキング物語』を書きだしたころは、クーパー自身がいちばん能力を発揮できる分野と確信したようです。この物語は、『シカごろし』『モヒカン族の最後』『開拓者』『パスファインダー』『大草原』からなる5部作で、2作目の『モヒカン族の最後』が特に有名です。

アメリカインディアンの一部族であるモヒカン族の生き残りの二人が、高貴な精神を貫いて戦い続けたのちに死んで、ついに部族が絶えてしまう悲愴な冒険物語ですが、白人に追われ、自分たちのものだった土地を失っていくインディアンのすがた全体が、生き生きと描かれているためでしょう。

なお、いずみ書房のホームページで公開している「オンラインブック」の「レディバード100点セット」では、『モヒカン族の最後』(63巻目)の抄訳版・日本語参考訳を読むことができます。


「9月15日にあった主なできごと」

1140年 鳥羽僧正死去…平安時代後期の天台宗の高僧でありながら絵画にも精通して、「鳥獣戯画」の作者といわれる 鳥羽僧正 が亡くなりました。

1600年 関が原の合戦…天下分け目の戦いといわれる合戦が、岐阜県南西部の地「関が原」でおこりました。徳川家康 ひきいる東軍と、石田光成 ひきいる西軍との戦いです。一進一退をくりかえしていたのが、西軍として参戦していた小早川軍が東軍に寝返ったことことで西軍は総崩れし、東軍の圧勝に終わりました。これにより、全国支配の実権は、家康がにぎることになりました。

1825年 岩倉具視誕生…公家出身で、幕末から明治前期に活躍した政治家 岩倉具視 が生まれました。

1881年 魯迅誕生…20世紀初頭の旧中国のみにくさを鋭く批判した「狂人日記」「阿Q正伝」を著した 魯迅 が生まれました。

↑このページのトップヘ