児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年09月

「おもしろ古典落語」の41回目は、『堀の内(ほりのうち)』というお笑いの一席をお楽しみください。

世の中には、ずいぶんとそそっかしい人がいるもんで。「ちょいとあんた、起きなさいよ」「こりゃ、どうも、おはようございます」「おはようじゃないわよ、あんた」「あんたって、あんたはどたたです?」「何いってんの、おまえさんの女房、おかみさんじゃないの」「そうか、どっかで見たことがあると思った」「きょうは、そそっかしいのを治してもらいに、堀の内のお祖師(そし)さまに、願をかけに行くっていったじゃないの」「あっ、そうだった、行ってきます」「あんたっ! 寝巻で飛び出しちゃだめでしょ、お尻に大きなつぎがあたってんだから。ほら、さるまたはいて、着物を着て、顔を洗いなさいよ…」

こんな調子で、子どもの着物を着ようとしたり、おなべで顔を洗ったり、手ぬぐいと間違えて猫で顔を拭いてひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出ます。ところが途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり「あたしは、どこへ行くんで?」 なんとかたどり着いたものの、さい銭をあげるときに、財布ごと投げこんでしまいます。「ドロボウっ!」と叫んでも、もう手遅れ。しかたなく弁当を食べようと背負った包みを開けてみると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。「ちきしょうめ、腹はへるし、金はねぇ、家へ帰ぇったら、どうするか見てやがれ、ほんとに、めちゃくちゃにしやるからな」

帰って戸を開けるなり、「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。何を笑ってやんでぇ」とどなると「おまえさんの家は隣だよ」「こりゃいけねえ」と家にもどり、「どうも相すみません」。かみさん、あきれて「お弁当はこっちにあるっていったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」「あ、お祖師さまにおいてきちまった」どうも、なんともたいへんな騒ぎで。

「おれ、ほこりになっちゃったから、ちょいと湯へ行ってくる」「じゃ、金坊連れてってちょうだい」「やだよ、おとうちゃんは、お湯の中へさかさまにいれるんだもの、死んだ方がいいよ」「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だな」「そりゃあたしだよ」

湯屋に着くと、「もしもし、なんだってうちの娘をはだかにしちゃうの?」「おたくの?」「今、湯から出して、着物を着せたばかりじゃないか」「どうもすいません。うちの坊主にしちゃ、ついてるもんが違うと思った。ほれ、金坊、裸になれ」「もうなってるよ」「なったらへぇるんだ」「おとうちゃん、まださるまたはいてる」「さるまたなんざ、どこだってぬげるんだ。丸めて、こう、ほうればいいんだ…ありゃ、よその人にぶつけちゃった、すんません、そのカゴへ入れといてください」

「さぁ、背中を流してやるからな。いい身体だ。ありゃ、いつの間にこんな彫物なんぞしやがった。『ご意見無用』だと、…こんちくしょう、この親不孝め」「いてて、なんだって人の尻をつねるんだ。おめぇの子どもは向こうにいらぁ」「……おい、だめだよ、そばにいなくっちゃ。さぁ、洗ってやろう、そっち向け…おやおや、どこまで巾があるんだ、大きな背中になりゃがったな、手がとどかねぇ…」

「あーあ、おとうちゃん、羽目板洗ってらぁ」


「9月30日にあった主なできごと」

1472年 王陽明誕生…中国が明とよばれていたころ、儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った思想家 王陽明 が生まれました。

1913年 ディーゼル死去…空気を強く圧縮すると高い温度になります。この原理を応用して、空気を圧縮した筒のなかに液体の燃料を噴射して自然発火させ、爆発力でピストンを動かすエンジンを発明した ディーゼル が亡くなりました。

1999年 東海村で臨界事故…茨城県東海村の核燃料施設で臨界事故が発生、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名のうち、2名が死亡、1名が重症となったほか、667名の被曝者を出しました。

今日9月29日は、明治・大正・昭和初期の陸軍軍人・政治家の田中義一(たなか ぎいち)が、1929年に亡くなった日です。

1864年長州藩士の子として萩にうまれた田中は、12歳のとき、明治政府に対する士族の反乱「萩の乱」に加わりました。しかし、未成年だったために許され、村役場の職員や小学校の教員を務めた後、1883年に陸軍へ入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業して、日清戦争に従軍しました。このとき、軍政家としての手腕を発揮し、第1師団の参謀になります。

日清戦争後は、すこしずつ敵対してきたロシアの軍状調査のため、1898年にロシア留学を命じられました。留学中の田中は、ロシア正教に入信して、日曜ごとに知り合ったロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念、同時期にロシア留学をしていた海軍の広瀬武夫とも親しくして、陸軍屈指のロシア通となりました。

1902年に帰国、対ロシア開戦を積極的に主張。2年後に勃発した日露戦争では、満州軍参謀として各地を転戦して中佐になりました。この間、ロシア軍に協力していた張作霖を銃殺寸前に助け、張を手先に満州侵出する道を開きます。さらに、戦後に提出した『随感雑録』が山県有朋に評価されて、帝国国防方針の草案を作成するほど重要視されました。1910年には、国民を軍事的に組織化することをねらった「帝国在郷軍人会」を設立したり、陸軍を2個団に増設させることで政府と対立し、西園寺公望内閣を倒す原因をこしらえるなど、陸軍の中枢をになうようになります。参謀次長となった1915年には、原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣をつとめ、陸軍省内に新聞班を創設して、マスコミを陸軍に有利な報道をするようにしむけました。

やがて政界への転身を図った田中は、1925年に政友会総裁に就任し、1927年に首相になりました。1928年2月に第1回普通選挙が行われましたが、この選挙で社会主義的な活動がめだったことで、同年3月に全国の社会主義者、共産主義者を一斉に検挙するという大弾圧をおこないました(三・一五事件)。さらに、露骨ともいえる中国侵略政策を推し進め、山東出兵を強行しました。その頃に起きた「張作霖爆殺事件」に際して、明らかに日本軍による暗殺であったにもかかわらず、犯人不明としてその責任者を単に行政処分で終わらせました。

しかし1929年になって、「満州某重大事件」として野党から張作霖爆殺事件を厳しく追及され、昭和天皇が田中を強く叱責したこともあって、7月に内閣は総辞職。まもなく既往のあった狭心症で亡くなりました。

なお、『昭和天皇独白録』で天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながっただけでなく、死に追いやる結果にもなったかもしれないことに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても、いっさい口をはさまないことを決意した、と記しています。


「9月29日にあった主なできごと」

1801年 本居宣長死去…35年かけて完成させた『古事記』注釈の集大成『古事記伝』44巻など、数多くの古代日本を探る研究書を著した江戸時代中期の国学者・本居宣長 が亡くなりました。

1805年 ネルソン死去…トラファルガル沖海戦で、フランス・スペイン連合艦隊をうちくだいたイギリス海軍の提督 ネルソン が戦死しました。

今日9月28日は、明治時代に沖縄自由民権運動を指導するものの、失意のうちに亡くなった謝花昇(じゃはな のぼる)が、1865年に生まれた日です。

沖縄本島の東風平(こちんだ)村に、農家の長男として生まれた謝花は、小学時代から俊才といわれるほど優秀でした。師範学校に入学した翌年の1882年、第1回県費留学生5人の一人に抜てきされて上京。学習院漢学科をへて、東京山林大学(現・東大農学部)に入学、在学中から中江兆民のもとを出入りし、また木下尚江や幸徳秋水らとも知りあって、自由民権運動に触れました。その時期は、帝国憲法の発布、国会開設、教育勅語の公布など、日本が近代国家へ歩む時代でもありました。

1890年に卒業後、新しい時代の息吹を胸にふるさと沖縄に帰った謝花は、農業の改善をめざして県庁の技師となりました。2年後には沖縄県人として初の高等官となって農業の近代化に奔走しました。ところが、県知事に赴任した奈良原繁と杣山(そまやま)問題などで対立して退職しました。知事が杣山といわれる山林を貧窮士族たちに払い下げて開墾させようということでしたが、それは大義名分にすぎず、農民から土地を奪って私腹を肥やすことを見抜いたためでした。

野にくだった謝花は、同志をつのって遊説にまわり、知事の失政をみんなで追及しようとさけび、上京して知事の更迭を訴えました。さらに、私財を投じて高陽社を結成、農家に農機具や肥料を売って資金をねん出し、機関誌『沖縄時論』を発行して、知事一派の排撃運動をおこしました。当時はまだ、県会も郡会も開設されていないときだったため、県政を革新するためには、中央政界に持ち出さなくてはなりません。そこで謝花は、沖縄倶楽部という政治結社をつくり、県民の参政権運動を展開して、沖縄における自由民権運動を主導していったのです。しかし、奈良原県政やそれに癒着する旧支配者層の抵抗は大きく、さまざまな妨害にあいました。それでもなんとか努力が実って、1899年に沖縄県民に参政権を付与する選挙法改正案が議会に提出されました。

ところが、時期尚早を主張する政府の反対にあい、権利は与えるが、実施は勅令によって定めることとなり、いわば有名無実に終わってしまったのです。謝花にとって、これは敗北に等しいものでした。同志は、またたく間に去っていき、運動は急速にしぼんでいきました。全財産を失い、もはや沖縄が住める場所ではなくなってしまった謝花は、1901年、生活の苦しさから職を求めて山口県へ赴く途中、精神に異常をきたし、不遇のうちに1908年、44歳の若さで病死したのでした。


「9月28日にあった主なできごと」

1895年 パスツール死去…狂犬病ワクチンを初めて人体に接種するなど、近代細菌学の開祖といわれるフランスの細菌学者・化学者 パスツール が亡くなりました。

1970年 ナセル死去…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトの ナセル が亡くなりました。

今日9月27日は、日本を代表する唯物論哲学者として、軍部独裁政治を批判しつづけて獄死した、戸坂潤(とさか じゅん)が、1900年に生まれた日です。

戸坂が、東京・神田に生まれたとき、父は死去して母も病弱だったため、祖父母に育てられました。子どものころから機械工作が好きだった戸坂は、開成中学時代には、自然や科学に関心をしめし、第一高校(現東大)の理科を経て、1921年に京都大学哲学科に入学しました。京大では、西田幾多郎や田辺元に師事し、哲学を科学の基礎理論とする「数理哲学」を学びました。

京大大学院を卒業後、現・京都工芸繊維大や現・同志社女子大の講師をしたのち、志願兵として陸軍に1年間入隊、1929年に大谷大教授に就任しました。その頃から、軍部のイデオロギーに観念論的に影響を与えたとして、恩師の西田や田辺らを批判するようになり、マルクス主義に近づいていったことから1930年に検挙され、職を失いました。

東京にもどった戸坂は、1931年から法政大講師となりますが、特筆されるのは、1932年に岡邦雄、三枝博音とともに「唯物論研究会」を組織して機関誌「唯物論研究」を創刊したことです。この研究会の会員には自然科学者が多く、初めのうちは、政治的色彩のない大衆団体として活動していました。しかし、しだいに社会科学・芸術論・文化問題に研究内容が拡がっていきました。さらに、マルクス主義の理論的研究とその普及をおこなうようになり、戸坂は会の事務局長として、軍国主義に抵抗し、科学的精神を守り発展させる運動に取り組むようになりました。

軍部ににらまれた戸坂は、1934年思想不穏を理由に法政大を免職になってしまいます。それでも信念を曲げずに研究会活動に専念し、『イデオロギー概論』『現代のための哲学』などを著わしたり、多方面の評論を行って抵抗しますが、軍部独裁政治の台頭を止めることはできませんでした。1937年に執筆禁止処分をうけ、その翌年の1938年に、治安維持法により検挙されてしまいます。

そして1944年、大審院による懲役3年の最終判決を受け、翌1945年太平洋戦争敗戦を目前に、長野刑務所で栄養失調のため獄死してしまいました。45歳での死は、観念論哲学者からも惜しまれたということです。「今、みづから絶望することなどを覚えこんだ学生は、どの途、はじめから絶望すべき学生にきまっている」といった言葉にもあらわれているように、自分の思想に最後まで忠実に生きぬいた、信念の人でした。


「9月27日にあった主なできごと」

1825年 蒸気機関車初の開業…イギリスの発明家 スチーブンソン が蒸気機関車を実用化してから11年後、ストックトン~ダーリントン間19kmを走る世界初の鉄道が開通しました。蒸気機関車はその後数十年で世界中に広まり、産業革命に大きな貢献をしました。

1917年 ドガ死去…「舞台の踊り子」(エトワール)などたくさんの踊り子の絵を描いた画家 ドガ が亡くなりました。

1925年 日本初の地下鉄…地下鉄銀座線(浅草─渋谷)の起工式が行なわれました。世界で14番目、アジア・オセアニア地域では初めての地下鉄路線でした。

1940年 日独伊三国同盟…日本・ドイツ・イタリア3国間で、軍事同盟が締結されました。この同盟により、結果的にアメリカ、イギリス、オランダとの利害対立を深めることになり、対日石油輸出禁止などの措置をとったアメリカとの交渉がいきづまって、太平洋戦争を引き起こしていくのです。

今日9月26日は、江戸時代前期に活躍した儒学者で、官学の「朱子学」に対抗し「古学派」をおこした山鹿素行(やまが そこう)が、1685年に亡くなった日です。素行は、山鹿流兵法を始めたことでも知られています。

1622年、伊勢亀山藩出身の父が、陸奥国会津に仕えていたときに生まれた素行は、6歳で江戸に出ました。9歳のとき幕府の大学頭を務めていた林羅山の門下に入って朱子学を学び、15歳からは当時最高の兵法家といわれた小幡景憲・北条氏長に入門して軍学を学び、さらに神道、歌学、老荘、諸子百家、仏教学などの教養を身につけました。

1644年頃から兵法家として有名になった素行は、松平定綱ら10人以上の大名をはじめ、たくさんの弟子をかかえるほどとなり、1652年には、播州(兵庫県)赤穂藩に禄高一千石で仕えました。1665年に江戸にもどってからは、兵法や儒学の師匠となり、その門下はのべ2000人を超えたといわれています。

素行の説く儒学は、幕府の勧める「朱子学」に批判的でした。(朱子学はあくまで中国のもので、金や蒙古に攻められて「宋王朝」が滅びようとするときにおこった学問であるため、異民族にも通用する知識偏重の学問でなくてはならなかった。江戸時代の武士はどうあるべきかといった、もっと実践的なものでなくてはならない)と、「古学派儒学」を提唱したのです。(素行の説く「古学派」は、伊藤仁斎や荻生徂徠に受け継がれ、仁斎は京都の町衆の商行為はどうあるべきか、徂徠は幕府政治をどうすべきかといった、より具体的で、実践的な問題に取り組んでいます)

ところが1665年、独自の考えを『聖教要録』3巻に著わしたところ、官学である朱子学を批判したものとされて捕えられ、赤穂藩お預けの身とされてしまいました。幽閉されていた9年間に、素行は、赤穂藩士の教育を行い、のちに「忠臣蔵討ち入り事件」で有名になった赤穂藩家老 大石良雄(内蔵助) も門弟の一人でした。

1675年に許されて江戸へもどってからは、自宅を道場として、武家主義の立場をとり、兵学など武士階級を擁護する教育を行いました。たくさんの著書を遺して、独特の日本主義思想を展開しました。「学校は、学問を教え、ものを読み習わすところでなく、道徳を教えるところであり、人間をつくるところだ」といった教えは、幕末に松下村塾を開いた吉田松陰らに、大きな影響を与えています。

なお、忠臣蔵討ち入りで、内蔵助がたたいたのは「山鹿流陣太鼓」で、山鹿流が「実戦的な軍学」と評判になったのは事件以後のことでした。


「9月26日にあった主なできごと」

1904年 小泉八雲死去…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと 小泉八雲 が亡くなりました。

1943年 木村栄死去…日本の天文観察技術の高さを世界に知らせた天文学者・木村栄 が亡くなりました。

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