児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年08月

今日8月8日は、明治から大正にかけ、女性に教養を授け品性を磨かせ、女性の地位向上・生活改善をはかるために奮闘した教育家・歌人の下田歌子(しもだ うたこ)が、1854年に生まれた日です。

岩村藩(現・岐阜県恵那市)の藩士の家に生まれた歌子(本名・平尾鉐[せき])は、祖母から読み書きを、父から中国古典を学び、5歳で俳句や和歌や漢詩を作ったり、絵にも才能を発揮するなど「神童」と呼ばれました。

明治維新後、父は、新政府に招かれて東京に出たため、鉐もその後を追って上京、1872年には女官に抜てきされて宮中に出仕しました。武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者だった祖父仕込みの学識、和歌の才能を認められて皇太后から「歌子」の名を与えられ、宮廷で和歌を教えるようになりました。

1879年に剣客だった下田猛雄と結婚、宮中出仕を辞します。3年後に夫が病に臥すと看病のかたわら、自宅で『桃夭(とうよう)女塾』を開講しました。当時の政府高官のほとんどは、かつて勤王の志士で、妻たちの多くは芸妓や酌婦でした。正当な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えたわけです。

1884年夫が病死すると、塾での教育が評価され、再び宮内省にもどって創設されたばかりの「華族女学校」(のちの学習院女子部)の教授に迎えられます。翌年には学監に就任。華族の子女のみが学ぶこの学校では、古式ゆたかな儒教的教育をほどこしました。

1893年、女子教育の視察のため2年間、イギリス、フランス、ドイツを旅行したことが、歌子のその後を決定づけます。特にイギリスで、王室の子息らも一般校で学んでいること、貴族階級の女性が運動で身体を鍛えていること、女子と男子とが同じ教育を受けていることなどに大きなショックを受けました。帰国後、歌子は「帝国婦人協会」を設立しました。当時庶民の女性があまりにも男性のいうがままになっている姿に心を痛め、「日本が一流大国と肩を並べるには、女子大衆教育こそが必要」と、これまでの上流階級の女子教育から、一般女子教育の普及をめざすものにしました。そして、付属機関として「実践女学校」と「女子工芸学校」(のちの実践女子学園や順心女子学園)を創立させて、その校長となりました。

1906年、華族女学校は学習院に統合され、陸軍の乃木希典将軍が院長に就任しました。すると、歌子は、軍人である乃木と教育方針をめぐって対立したそうです。そして、1936年に82歳で亡くなるまで、生涯を、広く女子教育の振興にささげたのでした。


「8月8日にあった主なできごと」

1506年 雪舟死去…日本水墨画の大成者として知られる室町時代の画僧 雪舟 が亡くなりました。

1962年 柳田国男死去… 『遠野物語』『雪国の春』『海南小記』などを著し、日本民俗学を樹立した 柳田国男 が亡くなりました。

1973年 金大中事件…韓国の政治家で、後に第15代韓国大統領となる金大中が、宿泊している東京のホテルから拉致される事件がおこりました。5日後、ソウル市内の自宅前で発見されました。

今日8月5日は、マルクスと協力し、科学的社会主義を創始したドイツのエンゲルスが、1895年に亡くなった日です。

1820年、紡績業で成功した裕福な経営者の長男として、ライン州バルメンに生れたエンゲルスは、17歳のとき厳格な父の命令で高校を退学し、ブレーメンで商業の見習いに入りました。そのかたわら、独学で、語学や哲学や政治学の勉強をつづけていました。

1841年、志願兵としてベルリンへ行き、軍務にたずさわりながら、ベルリン大学でヘーゲルの哲学やフランスの社会主義思想などをを聴講しました。そして除隊後にケルンの「ライン新聞社」を訪れたとき、ここで編集者をしていた生涯の友マルクスと出会います。

「労働者がしあわせになれる社会主義の社会をうちたてるためには、金持ちの資本家が会社や工場をにぎり、労働者はその資本家に使われるだけの社会のしくみを、改めなくてはならない」──ふたりは、すべての人間が平等に暮らすことのできる社会主義について、同じような考えでした。1844年、マルクスは26歳、エンゲルスは24歳でした。

まもなく父の経営する会社の、イギリス・マンチェスター工場で働くようになったエンゲルスは、ここでの経験や見聞をもとに『イギリス労働者の実態』を著わし、生産があがれば誰でも幸せになれるというアダム・スミス以来の経済学に疑問を呈しました。そして、国を追われてパリに来ていたマルクスを訪ね、労働者が中心になる社会にかえるために役立つ考え方を、共同で研究していこうと誓いました。

秘密の革命団体に加わって、その団体の基本方針となる『共産党宣言』を、1848年に発表。「万国の労働者よ、団結せよ」とうったえた宣言は、資本家たちをおこらせ、ふたりは、どこの国へ行っても追われるようになってしまいました。

エンゲルスはイギリスへもどって働き、マルクスに生活費を送りつづけながら、研究に協力しました。マルクスは、それからおよそ10年、雨の日も風の日もロンドンの大英博物館にかよいつづけて、研究の成果を『経済学批判』という本にまとめて発表。さらに8年後、『資本論』第1巻を出版しました。しかし、はげしい研究と貧しさのために身体をこわし、1883年、『資本論』第2巻を書きかけたまま、64歳の生涯を終えました。

残された『資本論』は、そののち立派に出版されました。エンゲルスが、マルクスの遺志をひきつぎ、10年の歳月をかけてマルクスの遺稿を整理しながら完成させたのです。『資本論』をまとめた翌年、エンゲルスも力つきて亡くなりました。『資本論』1-3巻はこうして世に残り、社会主義・共産主義の運動や国家建設に、理論的指導の役割を果たしたのです。


「8月5日にあった主なできごと」

1864年 下関戦争…イギリス・フランス・オランダ・アメリカ4か国の連合艦隊が、長州藩(山口県)に戦争をいどみました。3日間の戦いの末に連合艦隊が完勝しました。攘夷の無謀さをはっきりと知った長州は、イギリスに接近し、欧米から新知識や技術を積極的に導入して、軍備を近代化していきました。そして同時期に近代化路線に転換した薩摩藩とともに、倒幕への道を一気に進むことになります。

「おもしろ古典落語」の33回目は、『あくび指南(しなん)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「おぅ、安っさん、すまないがちょっとつきあってくれないか」「つきあえ? なんだよ、熊」「じつはこの先に『あくび指南所』ってのが出来たんだ。で、そこへ行ってみようってんだ」「やだよ、ばかばかしい。あくびなんざ、自然にでるもんだ」「金をとって教えるからにゃあ、どこか違っているにちがいねぇ。だから、ちょっとつきあっておくれよ」「まっぴらごめんだね」「だからさ、おめえは見てるだけでいい、一人じゃ間が悪いや、な、頼むよ」ということで、安っさんは、熊さんといっしょに指南所へやってきます。

応対に出てきたのが品の良さそうな老人。夫婦二人暮らしで、取り次ぎの者もいないらしい。師匠がいうには、普段あなた方がやっているあくびは、あれは駄あくびといって、一文の値打ちもない。あくびという人さまに失礼なものを、風流な芸事にするところに趣があるとの講釈です。熊さんすっかり感心して、「あくびにも、いろんなものがあるんですか?」「そりゃございますよ。春夏秋冬、四季のあくびがございます。早い話、秋ならば月を見ながらあくびが出る。冬ならばコタツの中でのあくびとか、で、どういうあくびがよろしいですかな?」「初めてなんで、なるべくやさしいのをお願いします」

「それではまず季節柄、夏のあくびを指南いたしましょう。夏はまず、日も長く、退屈もしますので、船中のあくびですかな。……その心持ちは、昼過ぎに大川あたりで、客が一人。船頭がぼんやり煙草をこう、吸っている。身体をゆるやにゆすって……船がこう揺れている気分を出します。『おい、船頭さん、船を上手(うわて)のほうへやっておくれ……日が暮れたら、堀へあがっていっぱいやって、吉原にでも行って、遊ぼうか。船もいいが、一日乗ってると、退屈で、退屈で、(あくびをして)ふぁーあ…、ならねえ』とこんな感じです。やってみてください」

熊さん、さっそく真似して、身体をゆらすと、「そんなにゆすっちゃいけません」「波がきたとこで…、ああ、むずかしいね。へえ。はじめに何というんでしたっけ?」「船頭を呼びます…」「ああそうか、やいやい、船頭っ」「それじゃ、まるで喧嘩だ。退屈してるんですからもっと静かに、『おい、船頭さん』と上品にね」「船頭さん、船を上手のほうへやっておくんねぇ」「おくんねぇじゃなくて、『やっておくれ』です」「船を上手のほうへやっておくれ、これから堀ぃあがって、いっぺぇひっかけて、夜は吉原へころがりこんで…」「ころがりこむ? なんでそんな乱暴ないいかたになるんです? 『堀へあがっていっぱいやって、吉原にでも行って、遊ぼうか』ですよ」「これから堀ぃあがって、いっぺぇひっかけて、夜は吉原へつーっと行くと、女が待ってて『あーら、どうしたの? ちかごろごぶさたね』『ここんとこ忙しかったんだ』『うそばっかり、くやしいじゃないか!』って、きゅーっとつねられて」「なにをいってるんですか、わたしのいうとおりに」「……えー、吉原へ……こないだ行ったら勘定が足りなくなって」「そんなことはどうでもよろしい」「船もいいが一日乗っていると、退屈で退屈で……ハークション」「笑ってはいけません…」

これをえんえんと聞かされている相棒の安さん、あまりのアホらしさに、「あきれけえったもんだ。教わる奴も奴だが、教える方もいい年しやがって。さんざ待たされているこちとらの方が、退屈で退屈で、(あくびをして)ふぁーあ…、ならねえ」

「ほら、お連れの方はご器用だ。見ていておぼえた」


「8月4日にあった主なできごと」

1830年 吉田松陰誕生…佐久間象山 らに学び、1857年に私塾「松下村塾」を主宰し、幕末から明治にかけて活躍した 高杉晋作、伊藤博文 らおよそ80人の門下生を育て、1859年に「安政の大獄」で刑死した長州藩士 吉田松陰 が生まれました。

1875年 アンデルセン死去…『マッチうりの少女』『みにくいあひるの子』『人魚姫』など150編以上の童話を生み出し、「童話の王様」と讃えられる アンデルセン がなくなりました。

1944年 アンネ一家逮捕される…『アンネの日記』を書いたドイツ系ユダヤ人アンネ・フランクの一家が、オランダ・アムステルダムの隠れ家に潜行生活中、ナチスの秘密警察ゲシュタボに逮捕されました。

今日8月3日は、戦国から江戸初期の武将で、仙台藩の基礎を築いた伊達正宗(だて まさむね)が、1567年に生まれた日です。

伊達輝宗の長男として、米沢城(山形県米沢市)で生まれた正宗(幼名・梵天丸)は、幼い頃から聡明でしたが、5歳のときに天然痘にかかって右目を失明してしまいました。のちに、片眼の大名としての正宗の威厳が、超人のように映って「独眼竜」と畏れ敬われました。

1577年に元服して「正宗」を名乗り、1584年に家督をつぐや父を殺した二本松義継を滅ぼし、1589年には会津の葦名氏を滅ぼし、わずか23歳で東北地方の南一帯を勢力下におさめました。

当時、豊臣秀吉が関白となって全国に勢力をのばし、正宗は、秀吉から小田原の北条攻めに参加するように求められました。ところが家中はどちらにつくかで激論がつづき、なかなか結論が出ません。北条攻めを決断した政宗は、死装束で秀吉のもとに参上しました。ところが秀吉の怒りをかって、会津を取り上げられてしまいます。そこからが正宗の真骨頂で、型破りの機智を発揮して、秀吉、家康の間をうまく立ち回りながら、米沢から岩出山(宮城県)に本拠を移しました。

1598年に秀吉が亡くなると、家康に急接近。関ヶ原の戦いでは東軍(家康方)につき、西軍(石田光成方)の上杉景勝を攻めて手柄をたて、伊達家を守ったばかりでなく、1602年には、仙台に城を築き、62万石の大名となりました。

「天下をわが手に」という野望はあったものの、仙台・青葉城と城下町の建設、村々に肝煎(きもいり・庄屋・名主のこと)を任じたり検地を行って農民支配を徹底した他、商業、鉱山などの産業の統制など、藩政に力をそそぎました。

1613年には、支倉常長 を遣欧使節に送り、ローマ法王への謁見を果たして、国際人としても積極的に活動しました。やがて大坂冬の陣・夏の陣により豊臣家が滅び、徳川政権が確立した頃は、正宗の心には天下の夢はなくなり、1636年に70歳で亡くなるまで、家康の相談役、家康亡きあとは2代将軍秀忠、3代将軍家光の後見として、太平の世をにらみつづけました。


「8月3日にあった主なできごと」

1792年 アークライト死去…水力紡績機を発明するなど、イギリスにおこった産業革命の担い手となった アークライト が亡くなりました。

1862年 新渡戸稲造誕生…国際連盟事務局次長などを通じ、日本の国際的な発展に寄与した教育者 新渡戸稲造 が生まれました。

今日8月2日は、オペラ『カバレリア・ルスティカーナ』などを作曲したイタリアのマスカーニが、1945年に亡くなった日です。

1863年、イタリア西岸の港町リボルノのパン屋の家に生まれたピエトロ・マスカーニは、父から法律を学ぶようにいわれました。でも、気が進まず、大好きな音楽の道に進みたいと、伯父を味方につけて地元のケルビーニ音楽学校に入学して、本格的に音楽を学びました。

能力はたちまち開花して、17、8歳のころには交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲するようになり、その才能が認められて、ミラノ音楽院に入学しました。ポンキエッリやサラディーノに作曲を師事し、先輩のプッチーニとふれあいましたが、あまりに厳しい勉学に耐えきれず、中途で音楽院を飛び出してしまいました。ミラノの劇場の管弦楽団に加わってチェロ演奏をしたり、旅回りのオペレッタ一座の指揮者として活動しながら、作曲だけは続けていきました。
 
マスカーニの名を世界的にしたのは、何といっても、『カバレリア・ルスティカーナ』を一幕歌劇コンクールに応募し、圧倒的トップで当選させたことです。ローマの楽譜出版社の懸賞のことを耳にし、読んだばかりのジョバンニ・ベルガの短編小説を基に、わずか8日間で仕上げました。1888年のことでした。2年後の5月、コスタンツィ劇場での初演は大好評、第2夜からはチケットは完売となって、劇場は合計14回もの再演を行うほどの成功をおさめました。そして、初演後3年間でイタリア国内66都市、国外の62都市で上演され、世界中で圧倒的な人気を博したのでした。

『カバレリア・ルスティカーナ』は、次のように展開します。
シシリー島にある村が舞台。兵役からもどったトゥリドゥは、恋人ローラを訪ねますが、ローラはすでに荒くれ男の馬車屋アルフィオと結婚していました。トゥリドゥは、ローラを忘れようと、母親ルチアに勧められて村娘サンタと結婚しました。ところが浮気心のあるトゥリドゥは、留守がちなアルフィオの目を盗んでローラとあいびきを重ねるのをサンタに知られ、サンタは怒りのあまりアルフィオに告げてしまいます。アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔します。(ここで名高い「間奏曲」が流れます)
謝肉祭の朝。教会のミサが終わり、男たちはトゥリドゥの母の酒場で乾杯します。アルフィオはトゥリドゥの勧めた杯を断って決闘を申しこみ、アルフィオはいったん去ります。トゥリドゥは酒に酔ったふりをしながら母に「もし自分が死んだらサンタを頼む」と歌います。トゥリドゥが酒場を出て行きしばらくすると「トゥリドゥさんが殺された」という女の悲鳴が2度響き、村人の驚きの声……幕。

三角関係のもつれから起きた決闘と殺人──現実にあった出来ごとをドラマティック描いたこの作品は、イタリアにおけるヴェリズモ(現実主義)・オペラの典型的作品とされ、当時のオペラ界で一斉を風びしました。マスカーニは、このオペラ以外に15曲のオペラといくつかの管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残していますが、ファシスト政権が誕生すると、ムッソリーニに接近しすぎたため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じたということです。


「8月2日にあった主なできごと」

1922年 ベル死去…聾唖(ろうあ)者の発音矯正などの仕事を通じて音声研究を深めているうちに、磁石式の電話機を発明した ベル が亡くなりました。

1970年 歩行者天国…東京銀座・新宿・渋谷などで、歩行者天国が実施され、ふだんの日曜日の2.4倍もの人びとがくりだしました。この日の一酸化炭素濃度が、ふだんの日の5分の1になったことから、車の排気ガス汚染を食い止め、汚染のない環境をとりもどそうと、全国各地に広まるきっかけになりました。

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