児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年08月

今日8月17日は、江戸時代の初期、陽明学派の儒者として活躍した 熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)が、1691年に亡くなった日です。

1619年、京都で生まれた蕃山(幼名・左七郎)は、母方の祖父、熊沢家の養子となり熊沢姓を名乗ることとなりました。1634年、知人の紹介で備前国岡山藩主・池田輝政の孫にあたる池田光政に仕えます。1642年には一時池田家を離れ、近江国桐原(現・近江八幡市)の祖父の家へ戻ったとき、中江藤樹の門下に入って陽明学を学びました。

1645年再び岡山藩に出仕すると、陽明学に傾倒していた光政は、蕃山を重用しました。1641年全国に先駆けて開校した藩校「花畠教場」を中心に活動。1647年には側役、知行300石取りとなり、1649年には光政に随行して江戸の藩邸で仕えました。さらに、1650年鉄砲組番頭に抜てきされて、3千石の上士に昇進。1651年庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが1670年日本初の庶民学校として開かれた「閑谷学校」の前身となりました。1654年に備前平野を襲った洪水と大飢饉の際には、蕃山は光政を見事に補佐し、飢民の救済に尽力しました。治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させるなど、光政から「国政をまかせる」といわれるほどの信任をえたのでした。

ところが、大胆な藩政の改革は、守旧派の家老らとの対立をもたらしました。また、蕃山が、「儒学」であっても幕府が官学とする「朱子学」に対立する「陽明学」であるため、幕府の朱子学派・保科正之や林羅山らの批判を受けて、岡山城下を離れ蕃山(しげやま 現・備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされました。(「蕃山」の号はこの地名に由来)

1657年には幕府と藩の反対派の圧力が強く岡山藩を去り、京都に移り私塾を開いたり、吉野山に隠居したりしながらも、幕府の参勤交代や兵農分離を批判し、岡山藩の批判などを送り続けました。

1687年に蕃山は、国政に関する意見書『大学或問(わくもん)』を執筆して、幕府を批判したところ、下総国古河藩に禁固を命じられ、その地で生涯を閉じたのでした。蕃山は、学者でありながら実際に藩政にたずさわった数少ない人物であるとともに、当時の幕政や社会や関する優れた考察を残した人物として、荻生徂徠とともに高く評価されています。


「8月17日にあった主なできごと」

1807年 蒸気船の試運転…アメリカの技術者で発明家の フルトン が、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功した日です。

1945年 インドネシア独立宣言…インドネシア独立運動の指導者 スカルノ は、オランダからの独立を宣言しました。オランダは独立を認めず、その後4年間の戦争に突入しました。

1949年 松川事件…東北本線の福島県松川市付近で、レールの釘がはずされていたため列車が転覆し、機関士ら3人が死亡する「松川事件」がおきました。この事件は、国鉄(JRの前身)の労働組合や共産党が仕組んだものとされ、労働組合員ら20人が逮捕されました。1963年に判決がおり、全員が無罪となりましたが、この事件をきっかけに政府の労働組合への取り締まりが強化され、日本の労働運動は急速に弱まっていきました。当時おきた下山事件、三鷹事件とともに「国鉄3大ミステリー」といわれています。

今日8月12日は、『ブッデンブローク家の人々』『トーニオ・クレーガー』『ベェニスに死す』『魔の山』などの名作を著わしたドイツの小説家トーマス・マンが、1955年に亡くなった日です。

1875年に、中世にハンザ同盟に属していた北ドイツの商業都市リューベックの富裕な商家に生まれたパウル・トーマス・マンは、めぐまれた少年時代を過ごしました。

ところが1891年、マンが16歳のとき父が死去して、100年も続いたマン商会は破産、一家はミュンヘンに移り住むことになりました。高等学校を中退したマンは、1893年から保険会社の見習いとして働きはじめ、そのかたわら小説を書きはじめました。処女作品となる短編小説『転落』がライプツィヒの文芸雑誌に掲載されると、マンは文筆で生計を立てる決意をし、保険会社を辞めてミュンヘン工科大学の聴講をしながら作品の執筆をつづけました。

その頃からにショーペンハウアー、ニーチェの哲学に興味を持ち、その影響を受けた一連の短編作品を発表します。しかし、マンの名を一気に世界的なものにしたのは、11部からなる長編『ブッデンブローク家の人々』でした。一家の歴史を題材にした小説を書くことを思い立ったマンは、多くの親戚を訪れて証言を取り、2年半の執筆期間を経て1901年5月に完成させました。そして、翌年に出版されると広く読者を集め、世界中で大評判となったのです。

経済的にも安定したマンは、市民生活と芸術との相克をテーマにした短編『トーニオ・クレーガー』、親交をもった作曲家マーラーの死に触発されて書いた中編『ベェニスに死す』、教養小説の傑作『魔の山』などを発表し、1929年にはノーベル文学賞を受賞しました。

1933年にヒトラーが政権をとると、ナチスの独裁に反対して亡命、スイスやアメリカで生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』や『ファウスト博士』を発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしましたが、『ドイツとドイツ人』などの一連のエッセイや講演を通じて、ドイツの文化に対する自問を続けました。

マンは、日本の作家にも、大きな影響を与えました。ドナルド・キーンによると、三島由紀夫は、代表作『金閣寺』の文体は「鴎外プラス トーマス・マン」だと述べたといい、『暁の寺』にも『魔の山』からの文体的影響を指摘しています。北杜夫や辻邦生は、学生時代からマンの作品に親しんでおり、北のデビュー作『幽霊』は『トーニオ・クレーガー』から、代表作『楡家の人々』は『ブッデンブローク家の人々』から強い影響を受けているといっています。辻はパリでの留学期に『ブッデンブローク家の人々』を精読して、文章ごとにカードを作って作品の構成や手法を、徹底的に研究したといわれています。


「8月12日にあった主なできごと」

1643年 俵屋宗達死去…江戸時代の日本画の最高けっ作といわれる『風神雷神図』 などを描いた江戸時代初期の画家 俵屋宗達 が亡くなりました。

1893年 「君が代」「日の丸」制定…「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。太平洋戦争後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 太平洋単独横断…堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の太平洋横断に成功しました。

1985年 日航ジャンボ機墜落…日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。「上を向いて歩こう」を歌い世界的ヒットをさせた歌手坂本九もこの犠牲者の一人。

 

今日8月11日は、大正・昭和期の外交官・政治家の幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が、1872年に生まれた日です。

いまの大阪府・門真市の豪農の家に生まれた幣原は、1895年東大を卒業後、外務省に入り、アメリカ大使を経て、1915年に外務次官となりました。1921年から22年にかけての史上初の9か国軍縮会議「ワシントン会議」で、全権委任をつとめました。そして、1924年の加藤高明内閣で外務大臣になり、以降、(1次・2次)若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣と4度、憲政会・民政党内閣の外相を歴任しました。

幣原の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」ともいわれ、軍部の軍拡自主路線をとる「田中義一外交」と対立しました。ワシントン体制に基づき、イギリス、アメリカなど列強との協調、民族運動が高揚する中国へは不必要な干渉はつつしんであくまで条約上の権益擁護のみを追求、日本が中心となって東アジアの安定した秩序を形成していくという基本方針でした。

このような幣原外交は、軍部や右翼、中国に利権をもつ資本家や、政友会などと対立することになり、1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難されました。

1931年、関東軍の独走でひきおこした「満州事変」の収拾に、若槻礼次郎内閣が失敗して総辞職すると、幣原も政界の第一線から退きました。こうして、幣原の文民外交は終焉し、その後は軍部が独走する時代が終戦まで続くのです。

敗戦後の1945年10月、吉田茂の後押しで内閣総理大臣に就任しました。本人は首相を嫌がっていましたが、昭和天皇じきじきの説得などもあって政界に返り咲きました。親英米派としての独自のパイプで活躍、日本国憲法とりわけ第9条の誕生に大きな役割を果たしたといわれています。その後も政界の長老として活動し、1949年には衆議院議長に就任しましたが、在任中の1951年に亡くなりました。


「8月11日にあった主なできごと」

1338年 室町幕府…足利尊氏 は、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。いっぽう、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を建てて、その正当性を主張していました。そのため、政権としての室町幕府はなかなか安定せず、3代将軍 足利義満 の時代になって、ようやく機構的な体裁が整いました。

1892年 吉川英治誕生…『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価されている 吉川英治 が生まれました。

1919年 カーネギー死去…「鋼鉄王」とよばれた大実業家であり、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家 カーネギー が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の34回目は、『夏の医者』というお笑いの一席をお楽しみください。

夏の真っ盛り。辺ぴな山村で病人が出ると、医者のいる隣村まで迎えに行かなくてはなりません。鹿島村の勘太が患って食欲がなく、いつもは飯を茶碗7、8杯も食うのに2、3杯しか食えない。年だし、もうだめかとせがれが思っていると、見舞いに来たおじさんが、隣村の玄伯先生に往診してもらえばよかんべと、いいます。隣村といても山裾をまわっていくと、およそ6里、急いでも4、5時間はかかります。

「やぁ、先生さま」「はい、はい…誰だ? なに、鹿島村から?」「とっつまのあんべぇが悪いで、ちょっくら見舞ってもらてぇがね」「おう、病人か、ちょっと待ちなせぇ。今たんぼの草を取ってるで、あと2坪ぐれぇで草しまうから、そけぇ掛けて一服やってなせぇ」越中ふんどし一つの素っ裸の医者は、田からあがって、おもむろに支度をはじめます。「ああ、えかく待たしたな、それじゃ、行くべぇ。ああ、そこに薬籠(やくろう)があんべ、薬箱だ、それ、おめぇすまねぇが、しょってくれ」と、二人は出かけますが、山裾をまわったんでは、時間がかかりすぎる。山越えの方が近道だと先生がいうので、あえぎあえぎ山道を登りましたが、頂上まで来ると二人とも滝を浴びたように汗びっしょり。休憩して汗が引っこんだところで、さあ出かけようと立ったとたん、何か変です。

「先生、先生」「はいはい、ここだよ」「あんだか…か、えらく暗くなったでねえか」「うーん、はてなぁ、いっぺんに日が暮れたわけじゃあんめぇが、こりゃどうしただべぇ」「あんだか、先生、えかくぬくいでねぇか」両手で手探りして先生、はたと思い当たりました。「あっ、こりゃいかねえ。この山に年古く住むうわばみがいるてぇことは聞いちゃいたが、こりゃ、のまれたな」「どうするだ、先生」「どうするだっちって、こうしていると、じわじわ溶けていくべぇ」刀を忘れてきたため、腹を裂いて出ることもできません。先生しばらく思案して、せがれに預けた薬籠の中から下剤を出させ、それをまいてみると、効果はてきめんです。うわばみは七転八倒。苦しがってあっちへばたり、こっとへばたりと左右に揺れます。

「薬効いてきたなこりゃ。向こうに灯が見えべえ。尻の穴に違えねえから、もちっとだ」ようやく二人は下されて、草の中に放り出され、転がるように山を下って、先生は勘太を診察すると、ただの食あたりとわかりました。「なんぞ、えかく食ったじゃねえけ?」「あ、そうだ。チシャの胡麻よごし食いました。とっつぁま、えかく好物だで」「それはいかねえ。夏のチシャは腹へ障(さわ)ることあるだで」薬を調合しようとすると、薬籠はうわばみの腹の中に忘れてきたことを思い出しました。

困った先生、もう一度うわばみに呑まれて取ってこようと、再び山の上へ行きます。うわばみは、いきなり下剤をかけられたためにすっかり弱って頬の肉がこけ、松の大木に首をだらんとかけてあえいでいます。「あんたに呑まれた医者だがな、腹ん中へ忘れ物をしたで、もういっぺん呑んでもれえてえがな」

「いやぁ、もういやだ。夏の医者は腹へ障る」


「8月10日にあった主なできごと」

1232年 御成敗(貞永)式目制定…鎌倉時代の執権 北条泰時 は、武士の権利、義務、罰則などを51か条に定めた日本で初めての武士の法律『御成敗式目』を制定しました。その後長い間、武家社会に関するとり決めるときのお手本となりました。

1693年 井原西鶴死去…江戸時代に「浮世草子」とよばれる庶民のための小説を数多く著した 井原西鶴 が亡くなりました。

1830年 大久保利通誕生…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた指導者 大久保利通 が生まれました。

今日8月9日は、旧ソ連時代を代表する作曲家ショスタコビッチが、1975年に亡くなった日です。

ペテルブルク(現・サクトペテルブルク)に1906年、鉱山技師の子として生まれたドミートリイ・ショスタコビッチは、9歳のころにピアノ奏者の母からピアノの手ほどきを受け、10歳には作曲をするようになり、1919年ソビエト政権成立の年に、13歳でペテルブルク音楽院に入学をはたします。

専攻は作曲とピアノで、グラズノフらに師事して在学中から俊才ぶりを発揮しました。1925年に卒業作品として作曲した交響曲第1番は、翌年に初演されると世界の注目を集め、大指揮者トスカニーニやバルターらにとりあげられて、[モーツァルトの再来] とまでいわれて、世界中から注目を集めました。1920年代後半から1930年代前半にかけては、西ヨーロッパの革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲し、ジャズ、オペラ、バレエにと大活躍をしました。

ところが共産党機関紙『プラウダ』に、1936年に発表した歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、ブルジョア的形式主義の音楽という批判を受け、ショスタコビッチは自己批判を余儀なくされてしまいます。そのため、オーケストラでリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回。批判以後に改めて作曲された 交響曲第5番 は、これまでの作風から一転させて、政府が求める社会主義的路線に沿ったものでした。プラウダ紙は一転して、「哲学的内容のある、雄大崇高な作品」と絶賛しました。

1930年代後半から1940年代前半にかけては、さらなる制約を受けながらも、スターリン賞を受賞したピアノ五重奏曲、友人の突然の死をいたんだピアノ三重奏曲第2番、交響曲第7番「レニングラード」などの名曲を発表します。

1948年、ソ連の作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党から批判されると、ショスタコビッチは、オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、共産党賛美の作品を多数作って、名誉回復を勝ちとりました。

1953年にスターリンが死ぬと、交響曲(第10番)を、8年ぶりに発表。1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作をたくさん残し、死の直前まで意欲的に作曲を続けました。


「8月9日にあった主なできごと」

1192年 源実朝誕生…鎌倉幕府第3代将軍で、歌人としても著名な 源実朝 が生まれました。

1945年 長崎へ原爆投下…8月6日の広島に続き、長崎に原爆が投下されました。広島の原爆はウラン爆弾だったのに対し、プルトニウム爆弾という広島より強力なものでした。しかし平地の広島に比べて長崎の地形が複雑なため、被害は浦上地区に集中しました。それでもこの原爆で数か月以内に7万人が亡くなり、その後に亡くなった人を入れると、15万人ほどの人が命を落としました。

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