児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年08月

今日8月24日は、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(ひらた あつたね)が、1776年に生まれた日です。篤胤は、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の一人とされています。

出羽国(現・秋田県)藩士の4男として生れた篤胤は、少年時代、おしつけられる勉強がきらいだったため、父親に落ちこぼれとみなされて、出仕することもかなわず雑用をさせられていました。しかし、興味のある本は片っ端から読み、自分が信じることは、はっきり主張して譲ることがなかったといわれています。

1795年篤胤は藩をぬけだし、無一文同然で江戸に出ました。生活のために車引、消防人夫、風呂屋の下働きなどをして働きました。1800年、ある商家で飯炊きをしていたとき、仕事の合間に大きな声を出して本を読んでいると、その声が商家のあたりを警備していた備中松山藩(現・岡山県高梁市)藩主の耳に入り、山鹿流兵学者の平田篤穏(あつやす)に声の主を探させ、これが縁となって篤穏の養子となりました。

1801年26歳の時、亡くなったばかりの 本居宣長 の著書を読んで感銘を受け、国学で身を立てようと決意。1803年には、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだとして「宣長没後門人」と称しました。その集中ぶりは凡人には想像できないほどで、何日間も不眠不休で書きつづけ、疲れが限界になると机にむかったまま寝て、目がさめるとまた書きつづけるというものでした。また、宣長研究の中でも、とくに『古事記』『日本書紀』を中心とした研究に没頭したばかりでなく、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども研究して分析、さらに、西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通するほどのものでした。

そんな研究と分析の末に、篤胤は、日本の復古神道こそ、もっとも素晴らしいものと結論づけました。宣長の考えを引継ぎ、さらに強化して古代日本民俗への復帰を主張するようになったのです。この朝廷を中心とする考えは、幕府の勧める儒教や仏教など外来思想を排撃することにつながり、幕府から危険人物とみなされるようになりました。

しかし篤胤は、これにひるむことなく、一般大衆を味方につけようと、その考えを講談風に口述して弟子たちに筆記させて出版。町人や豪農たちにも広く受け入れられました。特に、関東、中部、東北の有力者たちに信奉され、やがて幕末から明治維新につながる尊皇攘夷運動の原動力となっていったのです。

しかし、晩年の篤胤は、易学に関心が深まり、1841年に『天朝無窮暦』という幕府の暦制批判の本が幕府の目にとまり、故郷である秋田に帰るように命じられ、以後の著述を禁止されてしまいました。秋田に帰った篤胤は2年後の1843年、68歳でその激しい人生を終えました。


「8月24日にあった主なできごと」

79年 ポンペイ最後の日…イタリアのナポリ近郊にあった都市ポンペイが、ベスビオ火山の噴火による火山灰で地中に埋もれました。

1594年 石川五右衛門刑死…豊臣秀吉が愛用する「千鳥の香炉」を盗もうとして、捕えられた盗賊の石川五右衛門とその親族は、京都の三条河原で、当時の極刑である[釜ゆでの刑]に処せられました。これ以降、釜型の風呂のことを「五右衛門風呂」と呼ぶようになりました。

1897年 陸奥宗光死去…イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた 陸奥宗光 が亡くなりました。

今日8月23日は、鎌倉時代中期の僧侶で、「念仏札」を唱えれば成仏できると説く「時宗」を開いた一遍(いっぺん)が、1289年に亡くなった日です。

1239年伊予国(愛媛県)の有力な士族の子として生まれた一遍(幼名・松寿丸)の一家は、1221年の「承久の乱」で倒幕に敗れた後鳥羽上皇方についたために没落、また10歳のとき母が死ぬという不幸が重なって出家し、天台宗の寺で学びました。13歳になったとき九州の大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる僧の下で10年以上にわたり浄土宗を学びました。

1263年25歳の時に父の死をきっかけに故郷にもどり、武士として生活しましたが、一族の所領争いなどがあって1271年に再び出家、信濃の善光寺、摂津の四天王寺、紀伊の高野山など、各地を転々としながら修行に励みました。

やがて、熊野神宮の本宮をお参りしたとき、阿弥陀如来の化身とされる熊野の神が夢にあらわれ、「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」とのお告を受けました。この時が一遍と名乗り、浄土教の一派「時宗」を開いた瞬間でした。

こうして確信を得た一遍は、「南無阿弥陀仏・決定(けつじょう)六十万人」と書いた念仏札を配り、これを唱え続ければ、だれでも救われると、全国をめぐることになります。北は奥州から南は鹿児島まで、ひたすら歩きまわりました。当時はどこでも、戦乱や疫病、飢饉で苦しんでいました。人々はこの単純明快な教えに飛びつき、信者はこれまでの仏教信者とは比較にならないほど増加しました。

そのうち一遍は、浄土教の先駆者とされる空也にならって「踊念仏」を取り入れました。念仏を唱えながら踊るもので、行く先々で人気を得たといわれています。一遍は特定の寺に本山を置くことなく、50歳で亡くなるまで、布教をつづけました。

なお、『一遍上人絵伝』(国宝・国立博物館蔵)は、一遍の生涯を詳細に伝えるとともに、当時の社会や経済の実情がわかる資料としても貴重なものです。


「8月23日にあった主なできごと」

1868年 白虎隊の最期…明治新政府軍と旧幕府との間の戦争を戊辰戦争といいますが、旧幕府軍の拠点である会津藩(福島県)に、白虎隊という16歳~17歳の会津藩士の子弟343人で構成された組織がありました。8月に入ると新政府軍は会津の鶴ヶ城へせまり、落城寸前になった22日、白虎隊の出陣が許され激しい戦いにいどみました。そして翌日、城が煙につつまれているのを見た生き残りの隊員20名は、飯盛山で命を絶ったのでした。

1879年 滝廉太郎誕生…明治時代の洋楽揺籃期に、『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した 滝廉太郎 が生まれました。

1914年 日本対ドイツ戦に参戦…第1次世界大戦がはじまり、日英同盟を結んでいた日本は、ドイツに宣戦を布告しました。ヨーロッパ諸国がアジアから撤退しているすきに、中国に手を伸ばすのが日本のねらいでした。

今日8月22日は、室町幕府第3代将軍で、南北朝の合一を果たし、「金閣寺」を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた足利義満(あしかが よしみつ)が、1358年に生まれた日です。

室町幕府を開いた足利尊氏の孫として生まれた義満は、父の義詮(よしあきら)のあとをついで、わずか10歳で将軍となり、初めは、幕府最高職の管領をつとめる細川頼之の助けをかりて、政治を進めました。とくに、幕府の力を強めることと、財政を豊かにすることに努力しました。誕生して30年しかたっていない室町幕府は、まだ、しっかりしたものになっていなかったからです。
  
将軍になって10年後、自分の力で政治を動かしていくことを決心した義満は、京都の室町に大きな屋敷を建てました。広い庭には四季の花が咲きみだれ、人びとは 「花の御所」 と呼んだということです。
  
義満は、まず、幕府の威力を示して全国を統一するために、諸国をめぐりました。そして、幕府内で義満に不満をもつ関東の足利氏満、山陰で反抗をつづける山名氏清などをおさえ、国じゅうの武士を支配する夢をなしとげていきました。
                 
つぎには、1336年いらい南朝(吉野)と北朝(京都)のふたつになっていた朝廷を、ひとつにまとめることに力をつくしました。祖父の尊氏が室町幕府をおこしたときに始まった朝廷の分裂は、幕府を1日も早く安定させるのに差しさわりがあったからです。義満は、南朝と北朝が交代で天皇をつとめることを提案して、1392年に、南北統一のねがいを果たしました。
       
1394年、36歳の義満は将軍職を息子の義持にゆずり、自分は公家の最高官位の太政大臣の位につきました。天下をおさめるために、武家と公家の両方を支配する権力を自分のものにすることを、のぞんだのです。
   
京都の北山に金色に輝く金閣寺(鹿苑寺)を建てたのは、1397年のことです。1階を公家風の寝殿造、2階を武家風の書院造、3階を禅宗風の仏殿とした金閣には、武家、公家のほか社寺までも支配しようとした義満の気持ちが、よく表われているといわれています。
      
その後の義満は、天皇と同じようなふるまいをして、権力の大きさを誇り、金閣を建ててからおよそ10年のちに、金閣のようにはなやかな生涯を50歳で終えました。もう少し長く生きたら、ほんとうに天皇の位にまであがったかもしれません。
   
義満は、権力をふるういっぽう、明(中国)との貿易をさかんにしました。また、ぜいたくな生活を楽しみながら、猿楽、連歌、茶の湯、絵画などの文化を大切にしました。この時代の文化を、金閣の地名から名づけて北山文化とよびます。


「8月22日にあった主なできごと」

1910年 日韓併合…日本は明治のはじめころから、朝鮮半島を勢力範囲にしようと乗りだしていましたが、日清戦争・日露戦争に勝利してからは徐々に植民地化していきました。やがて軍事、外交、警察権を奪い内政にまで干渉するようになったことに対し、反日運動が強まり、1909年に初代統監となった伊藤博文射殺事件がおきました。日本政府はこれを期に、朝鮮政府に圧力をかけ、日韓併合の条約に調印をさせました。

1943年 島崎藤村死去…詩集『若菜集』『落梅集』で、近代詩に新しい道を開き、のちに『破戒』や『夜明け前』などを著した作家 島崎藤村 が亡くなりました。

1981年 台湾で飛行機事故…台北市に本拠をおいていた遠東航空の旅客機が、台北-高雄間を飛行中に空中分解して墜落、乗員乗客110人が全員死亡しました。この中に直木賞作家の向田邦子が含まれていて、日本社会に衝撃がおこりました。

今日8月19日は、大正・昭和期の国家社会主義者で、「2.26事件」の理論的指導者として死刑となった北一輝(きた いっき)が、1937年に亡くなった日です。

1883年、新潟県佐渡島の海産問屋の長男に生まれた北一輝(本名・輝次郎)は、中学時代から文芸に興味を持ち、「平民新聞」などを読んで、社会主義運動に共鳴するようになりました。1901年ごろから「佐渡新聞」に寄稿するようになり、対ロシアとの緊張関係にある国家はどうあるべきかを、真剣に考えるようになっていきました。

1905年に上京、早稲田大学の聴講生となって社会主義を研究し、翌年『国体論及び純正社会主義』を著し、独自の社会主義論で一躍注目を浴びました。執筆中は、ほとんど外出もせずに原稿用紙に向かってひたすら書き続け、ゆきづまると爪をかみ、指から血が出るほど集中したといわれています。

その後、中国革命同盟会に参加して上海へ行き、中国人革命家と交わるうち「辛亥革命」に参加しようとしましたが、革命運動に見通しを失って、国家社会主義へ近づくようになります。1913年に帰国して『支那革命外史』を書き、1916年にふたたび中国へ渡り、3年後に上海で、『国家改造案原理大綱』を発表しました。40日の断食を経て書かれた本書は、1923年に加筆修正されて『日本改造法案大綱』に改題され、日本ファシズム運動のバイブルとなりました。日本政治を改革するためには、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要である」と、その目的を語っています。

「満州事変」のおこった1931年ころから、北は、陸軍青年将校と親しく交わるようになり、右翼の大物、青年将校運動の黒幕とされるようになりました。三井財閥は、彼らの情報を得ようと、北へ巨額の生活資金を与えはじめていました。そのころの陸軍は、軍内の統制を強化することによって政治力を強めようとする「統制派」と、青年将校たちの「皇道派」と対立していました。やがて、陸軍中枢部が統制派の勢力に握られると、皇道派たちは抑圧され、それが、1936年の「2.26事件」となりました。皇道派の荒木・真崎両陸軍大将をおしたてようと、青年将校たちは、統制派の中心人物の渡辺教育総監をはじめ斉藤内大臣や高橋大蔵大臣ら、政府の要人を暗殺したり重傷を負わせたのです。

北は、事件の数日前に青年将校たちからクーデターの情報を得ていたものの、具体的な計画や、実行にはかかわっていませんでしたが、理論的首謀者とされ、軍法会議にかけられて、処刑されたのでした。皮肉なことにそののちの日本は、皇道派が握ることになり、軍部の力で国を動かし、中国を侵略し、太平洋戦争へとまっしぐらに進んでいったのです。


「8月19日にあった主なできごと」

1662年 パスカル死去…液体の圧力に関する「パスカルの法則」や、随想録「パンセ」の著書で有名な物理学者・哲学者 パスカル が亡くなりました。

1832年 ねずみ小僧の処刑…「ねずみ小僧次郎吉」といわれる大泥棒が、鈴が森刑場でさらし首の刑に処せられました。ねずみ小僧は15年間に、大名などの武家屋敷100か所から1万両もの大金を盗み、貧しい人たちに配ったという逸話が伝えられ、ねずみ小僧を主人公にした小説が、芥川龍之介、菊池寛、吉行淳之介らたくさんの作家に書かれています。

1929年 ツェッペリン号日本着陸…ドイツの飛行船「ツェッペリング伯号」が世界周航の途中、霞ヶ浦飛行場に到着。全長240mもの巨船に、日本中が大騒ぎになりました。飛行船の時代が来るかと思われましたが、可燃性や操縦の困難性を克服できず、次第にすたれていきました。

「おもしろ古典落語」の35回目は、『鹿政談(しかせいだん)』というお笑いの一席をお楽しみください。

奈良・春日大社にいる鹿は、神のお使い・神鹿(しんろく)といわれて、特別に大切にされています。たとえ過失であってもこれを殺した者は死刑にするというのですから、こわい話です。そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入りこんでは食い荒らすので、町人は迷惑していますが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文の罰金が科せられるため、どうすることもできません。

興福寺の門前に「正直・与兵衛」といわれている豆腐屋がありました。あだ名の通り、実直で親孝行、困っている人があれば、着ているものをぬいでもほどこしてやろうという人情家です。その日、いつものようにまだ暗いうちに起きて、石臼で豆をひいていると、戸口で何やら物音がします。外に出てみると、湯気の立ったキラズ(豆腐のしぼりかす=おから)の樽がひっくり返され、大きな犬が頭をつっこんで、ムシャムシャ食べています。おのれ、大事な商売物をと、与兵衛、思わず頭に血がのぼって、そばにあった薪を、思いきり投げつけました。当たりどころが悪かったのか、泥棒犬はそのまま伸びてしまいました。ところが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、犬と思ったのが、まさしく春日の神鹿だったのです。

根が正直者ですから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる介抱をほどこしますが、息を吹き返しません。そのうち近所の人も起き出して大騒動。与兵衛はたちまち、鹿の守役の塚原出雲の屋敷に引っ立てられてしまいます。すぐに守役と興福寺の番僧・了全の連名で、訴状をしたためて奉行に願書を提出、名奉行・根岸肥前守の取り調べとなりました。

肥前守は、与兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろう思い、その方は他国の生まれであろうとか、二、三日前から病気であったであろうなどと助け船を出しますが、六兵衛は「お情けはありがたいが、私は子どものころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」「へえ、確かにこれは犬で…」。ところが守役の出雲「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」「だまれ。さようなことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しうない。「たってとあらば、鹿の餌料の取り調べを先にいたすが、どうじゃ?」といわれ、出雲も了全もグウの音も出ません。

「どうじゃ。これは犬か」「サ、それは」「鹿か」「犬鹿チョウ」「何を申しておる。犬ならば、とがはない。願書はさしもどす」。こうして、与兵衛はお解き放ち。「これ、正直者のそちなれば、この度はキラズ(切らず)にやるぞ。油げ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」

「はい、健在(まめ)で帰ります」


「8月18日にあった主なできごと」

1598年 豊臣秀吉死去…織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将 豊臣秀吉 が亡くなりました。

1850年 バルザック死去…「谷間の百合」や「ゴリオ爺さん」など、「人間喜劇」と名づけた作品群を遺したフランスの作家 バルザック が亡くなりました。

1930年 細君譲渡騒動…作家の 谷崎潤一郎 と、その妻千代子が離婚し、谷崎の友人の作家佐藤春夫が千代子と再婚するという細君譲渡騒動がおきました。このことを書いた挨拶状が関係者に送られたため、一大センセーションがまきおこりました。

1949年 フジヤマの飛び魚…ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会に出場した古橋広之進は、1500mと400m自由形他で世界新記録を連発。アメリカの新聞は「フジヤマの飛び魚」とたたえ、敗戦でうち沈んでいた日本人を勇気づけました。

1966年 中国文化大革命…中国の首都北京で、中学生や大学生を中心とする紅衛兵100万人が文化大革命の勝利を祝う大集会を開きました。この文化大革命運動は、共産党内の反毛沢東分子や親ソ連派を「資本主義の復活をはかる実務派」として打倒、翌年4月の九全大会で、毛沢東、林彪路線を確定することになりました。

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