児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年08月

今日8月31日は、フランスの詩人・批評家のボードレールが、1867年に亡くなった日です。

1821年パリに生まれたシャルル・ボードレールは、6歳のとき父が亡くなり、母はのちに将軍となる軍人と再婚しました。ボードレールは、母を奪われた悲しみから義父とは仲が悪く、孤独な少年時代を送りました。中学時代は、ラテン後の詩作や翻訳に優れ、全国コンクールに入賞するほどの能力を発揮しましたが、卒業後は家を出て、自由気ままな暮しをするようになります。

1842年、成人したボードレールは実父の遺産を相続すると、さらに自由奔放に生きるようになり、混血女性に夢中になったりしながら、心の思うままに、詩作をつづけました。いっぽう、フランス政府主催の美術展「サロン」に関する美術評論を出版すると、美術批評家として文壇にデビューを果たしました。特に、評価が二分されていたロマン主義画家ドラクロワに対する熱心な弁護と評価を行い、美術批評をしながらも、独自の詩学を打ち出すという「詩人による美術批評」の先達となりました。1848年の二月革命の時も、革命擁護の筆をふるいますが、やがてアメリカの詩人で作家のエドガー・アラン・ポーを翻訳し、その名をフランス中に広めました。

ボードレールの名を決定づけたのは、1857年に発表した詩集『悪の華』です。この詩集は、風俗を乱すものとして摘発され、そのうちの6編が裁判にかけられ罰金刑を受けました。ボードレールはこれにもめげず、後に35編をつけ加えて第二版を出版、詩人としての名声や地位を確固たるものにしました。その卑猥的、耽美的、背教的内容は、近代人の孤独と苦悩を鋭い感覚でうたいあげた象徴的作品として、後の世代に絶大な影響を与えています。

しかし、父の遺産も散財の限りを尽くして失い、麻薬にふけるなど健康も損なわれ、借金をかかえた暮しぶりはいっそうすさむようになりました。1864年に、ベルギーのブルッセルで生活の立て直しを試みましたが、教会の中で倒れ、パリにもどったものの慈善病院で亡くなったのでした。

死後、7巻もの全集や、生前は陽の目を見なかった散文詩集『パリの憂鬱』が出版されました。


「8月31日にあった主なできごと」

1957年 マラヤ連邦独立…19世紀後半からイギリスの支配下にあったマラヤは、マラヤ連邦として独立宣言をしました。なお、マラヤ連邦は、1963年にイギリス保護国だった北ボルネオ他と統合し「マレーシア」となりました。

1997年 ダイアナ妃交通事故死…イギリスの元皇太子妃ダイアナが、パリ市内で不慮の交通事故で亡くなりました。

今日8月30日は、電子と同位体を発見し、質量分析器を発明したイギリスの物理学者トムソンが、1940年に亡くなった日です。

1856年、イギリス中部西海岸マンチェスターの本屋の家に生まれたジョセフ・ジョン・トムソンは、小さな私立学校に通ううち、科学への強い興味と才能を示し、ケンブリッジ大学で1880年に数学の学士号、1883年に修士号を取得。1884年に母校の教授になり、のちに物理学のキャベンディッシュ研究所の所長に就任しました。

1897年、クルックスが発見していた陰極線が、帯電した粒子の流れであることを確認しました。そして、この粒子は、すべての物質を形づくる一番もとになる材料「電子」であることを明らかにしました。さらに、粒子の電荷と質量の比を測定しました。1904年には、プラムプディング模型と呼ばれる原子模型を提出、1906年には、「気体の電気伝導に関する理論と実験的研究」が評価され、ノーベル物理学賞を受賞しました。1912年には、カナル線という真空管を工夫してこしらえたものを研究し、質量分析器を制作しています。

トムソンは、キャベンディッシュ研究所を引き継ぎ「原子物理学の父」と評価されているラザフォードをはじめ、息子ら計7人の教え子がノーベル賞を受賞、教育者としても大きな功績を残しました。1918年、トリニティ・カレッジの学長となり、亡くなる直前まで明晰な頭脳を保ち続けたといわれています。


「8月30日にあった主なできごと」

1871年 国木田独歩誕生…『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』 『源叔父』 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した 国木田独歩 が生まれました。

1945年 マッカーサー来日…第2次世界大戦後、日本は連合国軍司令部(GHQ)の統治下におかれました。その最高司令官に任命されたアメリカのマッカーサー元帥が、神奈川県の厚木飛行場におりたちました。

今日8月29日は、イギリスの政治思想家・哲学者で、「アメリカ独立宣言」「フランス人権宣言」にも大きな影響を与えたロックが、1632年に生まれた日です。

ジョン・ロックは、イギリス南西部サマセット州の法律家の息子に生まれました。ロックの少年時代に父は、清教徒(ピュリタン)革命の義勇軍に加わって活躍しました。ロックは、革命に成功したクロムウェルが政権を握っていた1652年、オックスフォード大学に入学し、哲学と宗教を学び、その後医学と自然科学を修めました。

1658年にオックスフォード大学特別研究員となった後、1665年、外交官としてドイツへ行き、ホイッグ党の中心人物であるアシュリー卿と知り合いました。ホイッグ党とは、1660年に清教徒革命後の王政復古を受けて即位したチャールズ2世には子がなく、弟ヨーク公ジェームズが目されていたもののジェームズはカトリックでした。イングランド議会においてジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となり、ジェームズの即位を認めるグループが、認めないグループを指して「ホイッグ党」といいました。

アシュリー卿に支持されたロックは、利子率論争で自由放任を主張したり、王権に対する政治・信教の自由を論じたりしましたが、1683年にアシュリー卿が国王チャールズ2世に反発して反逆罪で追放されると、ロックも、卿とともにオランダに亡命しました。

1689年にオランダ総督ウィリアムが、名誉革命でイギリス国王となると、イギリスに戻ったロックは、代表作となる『統治二論』を、帰国したその年に出版しました。この著でロックは、「人間は、生命と自由と財産の3つの権利を守るために、国家をつくったのだから、それが侵されるときは、主権者である人民は、革命によってその権力を変えることは正しいこと」と主張し、名誉革命を理論的に正当化したのでした。この考え方が、のちの「アメリカ独立宣言」「フランス人権宣言」に大きな影響を与えます。また、『人間悟性論』などでは、「観念は感覚し反省するという、2つの経験により人間の心を形づくる」と説く経験論哲学を唱え、イギリス近代社会を支える役割をはたしました。

ロックは、1704年に亡くなりましたが、その哲学は、18世紀前半のホイッグ長期政権を支えたといわれています。


「8月29日にあった主なできごと」

1708年 シドッチ屋久島へ上陸…イタリア人宣教師シドッチが屋久島に上陸。鎖国中だったため捕えられて江戸に送られ、新井白石 の訊問を受け幽閉されましたが、このときのやりとりは後に『西洋紀聞』にまとめられました。

1862年 メーテルリンク誕生…『青い鳥』など劇作家、エッセイスト、詩人として活躍し、ノーベル文学賞を受賞した メーテルリンク が生まれました。

1929年 ツェッペリング号世界一周…全長236mものドイツの飛行船ツェッペリング号は、約12日間かけて世界一周に成功しました。しかし飛行船は、実用的には飛行機にかなわず、現在では、遅い速度や人目につきやすい特長をいかして、広告宣伝用として使われています。

「おもしろ古典落語」の36回目は、『たが屋(や)』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸名物のひとつに、両国の川開きがありました。両国橋の上は花火の見物人でごったがえします。むかしは、鍵屋(かぎや)と、玉屋(たまや)と2軒の花火屋がありましたが、玉屋が火事を出したために取りつぶしになり、鍵屋だけになりました。ところが、どういうわけか花火をほめる言葉は「たァまァ屋ァ!」というのが相場になって、「玉屋」の声ばかりあちこちで聞こえる夕ぐれのこと。

ごったがえす両国橋を、本所方向から橋に乗りこんできた侍の一行がありました。馬に乗ったどこかの旗本が、槍をもって馬の手綱を引く者、徒歩の侍を連れて、「寄れェ、寄れェいッ」と、橋いっぱいの人々を押しのけながら、橋の真ん中までやってきました。いっぽう、反対側の広小路方向から通りかかったのが、商売物の桶を締める竹のたばをかついだ、たが屋です。「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。もっと早く気がつきゃァよかったな。といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すわけにもいかねぇ。しかたがねえ。通してもらおう。すみません」といいながら、こちらも橋の真ん中に近づきます。

もみ合いへし合う中、たが屋のかついでいたたががはずれて、向こうからやって来る馬に乗った旗本の笠に当たって、笠をはじき飛ばしました。旗本の頭の上は、茶台みたいなものが載っているだけなので、見物人がドッと笑いました。恥をかかされた供侍は、「たわけ者め、屋敷へまいれ」「後ろから押されたもんですから、つい…。どうか、ご勘弁を」「ならぬ、ただちに屋敷へまいれ」「屋敷へ行きゃあ、この首は胴についちゃいねぇんだ」「ならぬ」「家へ帰らにゃ、目の見えねぇおふくろが路頭に迷います。助けてください」たが屋は平謝りにあやまりますが、侍は容赦しません。

すると、開き直ったたが屋「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎の三一(さんぴん)め」「さんぴんとはなんだ」「知らなきゃ教えてやらぁ。三両一人扶持もらって、年じゅうピイピイしてるやつのことを、さんぴんてぇんだ」「無礼なことを申すと、斬り捨てるぞ」「こちとら江戸ッ子だい。侍なんぞをこわがってちゃ江戸の町は歩けねぇ、たが屋を商売にしていても、ガキのじぶんから喧嘩が好きで、少しは腕に覚えがあるんだ。斬るならきってみろ」 すると供侍は差していたいた刀をさっと抜いた……と思いきや、ふだんから貧乏で、内職に追われて刀の手入れまで手がまわらず、すっかり錆ついています。ひどい音を立ててぬいた刀で斬りつけます。たが屋は怖いから、首をひっこめると、刀は空をきって橋の欄干に。そのすきに、たがやは侍の効き腕をピシリと手刀で打ちました。ふだんから桶の底をひっぱだいているから、腕っぷしは強い。供侍は思わず刀をポロリ。刀を拾ったたが屋がうしろから、ヤッと斬りこんだからたまりません。ヤジ馬たちは、「やっ、斬った斬った、えれぇもんだ」と大喝采。

ついに旗本が馬から下りて槍をしごきます。突いてくる槍を、たが屋はグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って旗本の首が宙天に。まわりにいた見物人が

「あっ、上がった上がった。たァがァ屋ァー!」


「8月26日にあった主なできごと」

1743年 ラボアジエ誕生…従来の化学理論を次々と正し、実験で証明して「近代化学の父」と称されるフランスの ラボアジエ が生まれました。

1789年 フランス人権宣言の採択…フランス革命で、バスティーユ牢獄の襲撃をはじめその後の動乱が落ち着いたこの日、国民議会は憲法の前文にあたる「人間と市民の権利宣言」(人間宣言)を採択しました。アメリカの独立宣言を範としたこの宣言は17条からなり、権利の平等、人間が当然の権利として持つ自由、主権在民、思想・言論の自由、所有権、安全、圧政に対する抵抗権の確認などの原則が示されています。この民主主義の考え方は、新しい市民社会の原理となりました。

今日8月25日は、イギリスの産業革命で最大のできごとといわれる蒸気機関を発明したワットが、1819年に亡くなった日です。

蒸気機関の原理は、古くから考えられていました。でも、実用的なものができはじめたのは、17世紀の末ごろからです。セーバリやニューコメンらによって作られた単純な装置で、鉱山の排水などに利用されていました。ワットは、ニューコメンの機械を細かく調べあげ、新しい蒸気機関を発明しました。ワットの20年にもおよぶ血のにじむような努力が、つみ重ねられた結果でした。

ジェームズ・ワットは、1736年、スコットランドのグリノックという港町に生まれました。父が船大工でしたので、ワットは仕事場にある道具でいろいろな模型をつくって遊んだり、父の仕事を手伝ったりしながら育ちました。19歳のときロンドンにでて、機械屋ジョン・モーガンのところに弟子いりしました。手先の器用なワットは、モーガン親方の教える技術を、たちまち自分のものにしてしまい、1年後にグリノックへもどりました。

1757年、グラスゴー大学の教授たちの好意で、ワットは大学のなかに器機修理の店をひらくことになりました。ある時、ニューコメン機関の模型の修理をたのまれて、蒸気機関を手掛けることになりました。

「これでは能率が悪い。石炭もたくさんいるし、蒸気もむだだ」ニューコメンの機械が、あまりにも欠点のおおいことに気づいたワットは、改良しようと思いたちました。それからはもう、蒸気機関に夢中になり、昼も夜も、研究にあけくれました。まず、蒸気を冷やす復水器という装置を研究し、つぎに、大気圧にたよらず蒸気の圧力で、ピストンを往復させるしくみを考えました。でも、なんど実験しても失敗の連続です。研究にうちこめばうちこむほど、生活は苦しくなり、借金がふえるばかりです。店もたたまなければならなくなり、妻にも先だたれ、すっかり希望をなくしてしまいました。

そのときにあらわれたのが、金持ちの工場主マシュー・ボールトンです。ボールトンは、ワットの発明に大きな期待をかけました。ワットは、力強い協力をえて、ついに新型の蒸気機関を完成させました。そして、ピストンの往復運動を回転式にきりかえるなど、いろいろな工場の機械を動かす原動機にしあげたのです。ワットのすぐれた蒸気機関は、産業を手工業から工場生産に発展させただけでなく、世のなかのしくみまでも変えてしまいました。


「8月25日にあった主なできごと」

1543年 鉄砲伝来…ポルトガル人二人をふくむ100人以上も乗せた大きな船が九州の種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えました。

1830年 ベルギー独立革命…ベルギーの中心都市ブリュッセルの劇場で演じられていたナポリの独立闘争のオペラに刺激されて、ベルギーのオランダからの独立革命がおこりました。たちまち各地に運動が飛び火して10月に独立宣言がなされ、年末までにオランダをのぞくヨーロッパの列強は、ベルギーの独立を認めました。

1868年 中江藤樹死去…人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして 「近江聖人」 とその徳望が慕われた江戸時代の儒学者・中江藤樹 が亡くなりました。

1944年 連合軍のパリ解放…北フランスのノルマンディー上陸に成功した連合国は、ドイツ軍と激しくたたかいフランスの首都パリに入るとドイツ軍は降伏、パリは解放されました。解放運動の指導者 ド・ゴール が凱旋門に現われると、パリ市民は熱狂的な歓声で迎え、パリは4年ぶりにパリ市民の手にもどりました。

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