児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年07月

今日7月7日は、名探偵シャーロック・ホームズが活躍する推理小説シリーズや、チャレンジャー教授が活躍するSF小説シリーズ、歴史小説、戯曲など広い分野の作品を著わしたイギリスの作家ドイルが、1930年に亡くなった日です。

スコットランドの首都エディンバラで、1859年に生まれたアーサー・コナン・ドイルは、カトリック系のカレッジで学びましたがやがてキリスト教を拒否、17歳で外科医師の助手として働きながらエディンバラ大学で医学を学びました。在学中に父親がアルコール依存症により入院したため、およそ8か月間北氷洋行きの捕鯨船に船医として乗りこみ、一家の家計を支えました。

1881年に大学を卒業したドイルは、アフリカ航路の船医として働いたあと、ポーツマス市で町医者を開業しますが、あまり振るいません。患者がやって来るのを待つ間に一般的な小説を書いては出版社へ送りましたが、その度に返却されてしまいました。ある時、学生時代に親しんだエドガー・アラン・ポーの探偵小説を思い出し、これをヒントに『緋色(ひいろ)の研究』を書きました。これがシャーロック・ホームズと友人のワトソン博士が登場する初めての作品でした。1887年のクリスマスの日に発表された記念すべき第1作です。

ところが、発表後しばらくはあまり売れませんでした。1890年にアメリカの雑誌からの注文を受けて書いた第2作目『四つの署名』がリピンコット・マガジンに掲載されると、シャーロックホームズの人気は広がりをみせはじめ、1891年までに書きためた作品をまとめた『シャーロック・ホームズの冒険』が発売されるや爆発的な成功をおさめ、ドイルは世界の人気作家となったのです。

ドイルは亡くなるまでに、60編のホームズ作品を書いていますが、自身としては『失われた世界』や『毒ガス帯』など、チャレンジャー教授の活躍するSF物や、『白衣の騎士団』『勇将ジェラールの回想』など歴史小説のほうに価値を感じていたようです。

現実社会でもドイルは、いくつかの事件で、被疑者の無実を主張し、冤罪を晴らすために力を尽くしたばかりでなく、冤罪を防ぐために、刑事事件の控訴院を設立することにも尽力しました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、25点のドイル作品を翻訳で読むことができます。また、いずみ書房のホームページに公開されている「オンラインブック」の「レディバード100点セット」には、シャーロックホームズシリーズの1編『バスカビル家の犬』、チャレンジャー教授シリーズの『失われた世界』を抄訳版・参考訳で読むことができます。


「7月7日の行事」

今日7月7日は、「七夕」です。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。

天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて織女星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしたのです。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。

いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。


「7月7日にあった主なできごと」

1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。

1622年 支倉常長死去…江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した支倉常長が亡くなりました。

1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。

今日7月6日は、イギリス・ルネサンス期の法律家、思想家で、『ユートピア』を著わしたトーマス・モアが、1535年に斬首刑により亡くなった日です。

1478年、ロンドンの裁判官の家に生まれたトーマス・モアは、大司教・大法官のジョン・モートンの家で教育を受け、オクスフォード大学で古典学を学びました。その後、リンカーン法学院で5年間法学の研究をしているときエラスムスと知り合い、ルネサンスの思想にふれました。

1501年に弁護士となりましたが、1504年に市民の支持により下院議員となります。1510年にロンドン市の法律顧問、1515年から国王ヘンリー8世に仕えるようになり、フランドルに派遣され、通商問題の使節などを務めました。

代表作となる文明批判書『ユートピア』は、フランドルにいたとき、エラスムスの著作『痴愚神礼讃』やアメリゴ・ベスピッチの旅行記『新世界』を読んで触発されて執筆したもので、1516年に出版されました。「ユートピア」とは、「理想郷」などと訳されていますが、「どこにもない」という意味のギリシア語で、モアは「私有財産を持たない、貨幣もなく、平等で平和な島」をユートピアと名づけました。その島に漂流して帰ってきた男の話を聞くという設定で物語を展開させたこの書は、じっさいのイギリス社会を批判し、社会主義的考え方を初めて明確にした名著と評価されています。

フランドルでの仕事ぶりにより、ヘンリー8世から信頼を受けたモアは、国王顧問官として宮廷に入り、財務次官、下院議長をへて、1529年には、官僚では最高位となる大法官に就任しました。ところが、ヘンリー8世がカサリン王妃と離婚し、アン・ブーリンと再婚しようとしたことからローマ教皇クレメンス7世と対立すると、熱心なカトリック教徒のモアは、大法官を辞任してしまいました。ヘンリー8世は離婚を強行した上、1534年に首長令を定めて、イングランド国教会をスタートさせ、その長となったのです。これに反対したモアは、査問委員会にかけられ、反逆罪とされてロンドン塔に幽閉され、翌年のこの日に処刑されたのでした。


「7月6日にあった主なできごと」

1783年 浅間山の大噴火…長野と群馬の県境にある浅間山がこの日に煙を吐き出し、2日後に大爆発をおこし、火砕流が村々を襲って、2万人の命を奪いました。火山灰が広い地域をおおったため作物が出来ず、天明の飢饉の要因となりました。

1885年 狂犬病ワクチン…フランスの細菌学者・化学者の パスツール が、1885年に狂犬病ワクチンを初めて人体に接種しました。

1893年 モーパッサン死去…『脂肪の塊』『首飾り』などの短編をおよそ260編も遺したフランスの作家モーパッサンが亡くなりました。

1912年 初のオリンピック参加…ストックホルムで開催された第5回オリンピックに、日本選手2名が出場しました。

1917年 アラビアのロレンス…トルコに抵抗するアラブ人の反乱を支援していたイギリス軍人トマス・エドワード・ロレンスは、ヨルダン南部の都市アカバにあるトルコ軍基地を奇襲して陥落させました。これら一連のオスマントルコからのアラブ独立闘争をえがいた映画「アラビアのロレンス」は1962年に公開(日本公開は1963年)され、世界中で大ヒットしました。

今日7月5日は、フランスの詩人コクトーが、1889年に生まれた日です。20世紀初めから2度の大戦を経て1963年に亡くなるまで、約半世紀にわたって第一線で活動を続けた詩人であり、小説、評論、演劇、絵画、映画、音楽などあらゆる文学・芸術分野で活躍したマルチ芸術家でした。

パリ近郊の豊かな家庭に生まれ育ったジャン・コクトーは、中学時代から詩を書くようになりました。1909年に、処女詩集『アラジンのランプ』を出版して文壇にデビューするや、翌年、1912年と立て続けに詩集を連発して、一躍パリの有名人となりました。作家のアンドレ・ジードやプルースト、モジリアニやアンリ・ルソーらモンパルナスの画家、ピカソやブラックら前衛画家、音楽家など、さまざまなジャンルの芸術家たちと親しく交わり、鋭い感受性を発揮して、新しい試みによる表現に挑戦するようになります。

第1次世界大戦がはじまった1914年には、志願して北部戦線で負傷した人たちの救出する部隊に加わったり、アルジェリア歩兵部隊、海軍陸戦隊に所属するなど、危険とヒロイズムを体験しました。まもなく前線を去ったコクトーは、1917年には、ピカソや作曲家サティと組んで書き下ろしの新作バレエ『パラード』を初演して劇壇にデビュー、翌年には、後に六人組と呼ばれる作曲家を集めたコンサートや、ジャズ演奏会なども開いています。

1919年に発表した、小説『ポトマック』で脚光を浴び、早熟の天才といわれた作家ラディゲを見出して仕事を共にするようになりますが、ラディゲが1923年に病死すると、その悲しみをまぎらすために、10年近くもアヘンを常用するようになりました。そして、アヘン中毒治療中の1929年に、代表作となる小説『恐るべき子どもたち』を著しました。この小説は、戯曲にもなり、連続450回という長期興業の記録を打ち立てました。劇作家としても大活躍をし、『オルフェ』他たくさんの戯曲を発表。最大の成功は『人間の声』だといわれています。登場人物は、男に捨てられようとしているひとりの女性だけ、全て電話によって相手の男に語られる内容ですが、その新鮮な舞台効果は大好評でした。

1936年には、初めての世界一周旅行の途中に日本へ立ち寄り、歌舞伎と大相撲を観戦、その印象や日本観を、NHKラジオで語りました。相撲を「バランスの芸術」と呼び、この時観た歌舞伎の『鏡獅子』のメイクは、のちの映画監督作品『美女と野獣』に活かされているそうです。

コクトーは、『喜望峰』(1919年)『平調曲』(1923年)など20冊以上の詩集を遺していますが、その特徴は、刊行するごとに大きな変貌をとげていることです。「一作ごとに私は、わざと前の作に背をむけて、反対方向に新しい歩みをする」という創作態度を実行したためで、コクトーほどさまざまな姿を読者に示した詩人はいません。堀口大学の訳詩による「わたしの耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ」は、日本人に特に親しまれています。

なお、コクトーは晩年には映画監督作品に意欲をみせ、先の『美女と野獣』のほか『双頭の鷲』や、コクトー最後の自作映画『オルフェの遺言』では、ピカソが友情出演をしています。


「7月5日にあった主なできごと」

1215年 栄西死去…鎌倉時代の初期、禅宗の日本臨済宗をひらいた僧・栄西が亡くなりました。栄西は、茶の習慣を日本に伝え、茶の湯のもとをきずいたことでも知られています。

1590年 秀吉天下統一…豊臣秀吉は、小田原城を包囲して北条氏政・氏直父子を降伏させ、最後まで抵抗していた戦国大名をしたがわせて、応仁の乱から120年近く続いた「戦国時代」を終わらせました。

1949年 下山事件…日本国有鉄道(JRの前身─国鉄)の下山総裁が出勤途中に失踪。翌日の未明に、常磐線の北千住駅と綾瀬駅間の線路上で、死体となって発見されました。真相不明のため捜査が打ち切られたため、「戦後史最大の謎」とされています。

今日7月4日は、平安時代後期の武将で、八幡太郎(はちまんたろう)の通称で知られる源義家(みなもとのよしいえ)が、1106年に亡くなった日です。

はじめての武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏らの祖先に当たることから、後世に英雄視され、さまざまなエピソードが残されています。

(源義家が、東北へ兵をだしたときのこと。兵をしたがえて馬を進めていた義家は、さっと矢をつがえて、弓をきりきりっとしぼりました。草原の上を並んで飛んでいたガンの群れが、とつぜん列を乱すのを見て、敵が草むらに待ちぶせているのをさとったからです。大将義家のようすに、家来たちもいっせいに弓をひき、またたくまに敵を追いちらしました)──これも、義家が兵法にすぐれていたことを伝えるエピソードのひとつです。

源頼義の長男として1039年に生まれ、元服して「八幡太郎」と名のった義家は、1051年に、東北の豪族安倍頼良と貞任、宗任の親子が朝廷にそむいて「前九年の役」をおこすと、わずか12歳で早くも戦にでました。

戦いは12年にもおよび、苦戦がつづきました。父の頼義とともに敵の大軍に囲まれたこともありました。しかし、義家はどんなときもひるまず、とくいの弓で敵をたおし、出羽国(山形・秋田県)の清原氏の力ぞえをえて、1062年に安倍氏を滅ぼしてしまいます。義家は、この戦いのてがらで出羽守に任じられ、1075年に父が死ぬと源氏の頭となって、朝廷につかえました。

1083年、義家はふたたび東北へ兵をむけました。安倍氏のあと勢力をのばしていた清原氏が、一族どうしで争いをおこし、義家は、これをしずめるために立ちあがったのです。 

あるときは深い雪に道をとざされ、あるときは食べものがなくなり「前九年の役」のときよりも、もっと苦しい戦いがつづきました。義家は、「剛臆の座」というのを考え、その日の戦いで勇気をふるったものは剛の座に、臆病だったものは臆の座にすわらせて、兵をふるいたたせました。でも、寒さにこごえ死にそうな兵がいれば、一人ひとり声をかけて、いたわってやったということです。戦いは4年後に、義家の勝利で終わりました。

義家は、家来のことをいつも思いやりました。のちに「後三年の役」とよばれるようになったこの戦いのあと、朝廷は「義家は、ほんとうは清原氏の争いをしずめるよりも、自分の勢力をのばしたかったのだ」と考え、義家に、なんの恩賞もあたえませんでした。すると義家は、自分の財産をなげだして、家来たちにほうびを分けあたえたということです。義家のやさしさに、家来たちは感激の涙を流しました。そのうち、義家を慕う武士たちが、ますますふえ、源氏の力は関東一を誇るようになりました。

ひ孫にあたる源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、義家が亡くなって、およそ85年後のことです。


「7月4日にあった主なできごと」

1776年 アメリカ独立宣言…イギリスからの独立めざし前年から戦争のさなか、アメリカ東部13州はこの日に独立を宣言、7年後の1783年の「パリ条約」で正式に認められました。アメリカ合衆国では、以来この日を「独立記念日」としてお祝いをしています。

1807年 ガリバルディ誕生…たくさんの都市国家があり、フランスやオーストリアなどに支配されていたイタリアを、イタリア王国として統一させた ガリバルディ が生まれました。

1820年 フォスター誕生…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家 フォスター が生まれました。

1826年 ジェファソン死去…第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いた ジェファソン が亡くなりました。

1934年 キュリー夫人死去…ラジュームを発見して夫ピエールといっしょにノーベル物理学賞をもらい、夫の死後ラジュームの分離に成功してノーベル化学賞をえた女性科学者 キュリー夫人 が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の28回目は、『青菜(あおな)』というお笑いの一席をお楽しみください。

そろそろ暑くなったころ、ある隠居の家で、植木屋の八五郎が植木の手入れをしながら、一服していました。「植木屋さん、たいそうご精がでますな」「あっ旦那、おいでなすってたんですか。植木屋は、なまけ者が多いのか、いつも座りこんじゃ、たばこふかしてるって。ボンヤリしてるんじゃなくて、庭ながめながら、『こっちの枝はもう少し短めにしたほうがいいんじゃないか、石灯はこっちに移そうか』なんて、いちいち段取りぃつけてますんで」「そうでしょうな。人間ただ動いていりゃいいってもんじゃない。…今、きれいになった庭をみながら一杯やってましたが、植木屋さんは、ご酒をめしあがりかな?」

もとより酒なら浴びるほうの口です。そこでごちそうになったのが、上方の柳影(やなぎかげ)という酒で、「直し」という安酒の加工品ですが、何も知らない八五郎、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉のあらいまでごちそうになって、大喜びです。

「時におまえさん、菜をおあがりかな?」「へい、大好物で」ところが、次の間から奥さまが出てきて「旦那さま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名は九郎」と妙な返事。旦那もだんなで「義経にしておけ」。これが、実はしゃれで、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」「それならよしとけ=義経」。客に失礼がないための、隠し言葉だといいいます。

八五郎、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房にいきさつを説明します。「やい、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃいえめぇ」「いってやるから、鯉のあらいを買ってみな」なんてやってるところへ、大工の熊がたずねてきます。こいつぁいいカモがきたとばかり、女房を無理やり押入れにおしこみ、熊を相手に「たいそうご精がでるねえ~」から始まって、ご隠居との会話をそっくりくりかえそうとします……

「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」「ただの酒じゃねえか」「さほど冷えてはおらんが」「燗ざましだろ」「鯉のあらいをおあがり」「てめえ、職人のくせに鯉のあらい? 何だイワシの塩焼きじゃねえか。おれにゃこっちの方がいいけどな」「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」「植木屋は、てめえだ」「菜はお好きかな」「でぇ嫌ぇだよ」「おい、酒飲んじまって、イワシ食らって、いまさら菜が嫌ぇってのはひどいじゃないか。食うといっておくれ」「なんだ、泣いてやがる…おかしな野郎だな。じゃいいよ、食うよ」「食う? しめた…ではしばらくお待ちを…」「手ぇたたいて、何を拝んでやがんだ」「拝んでるんじゃない、人を呼ぶときに手をたたくだろ…奥や」「奥にも台所にも、一間しかねぇじゃねぇか」「黙ってろぃ…奥や」「旦那さまっ」「わぁ、びっくりした…かみさん、押入れから飛び出したりして…、この暑いのに汗びっしょりじゃないか、どうしたぃ?」「旦那さま…鞍馬山から、牛若丸がいでまして、九郎義経」と、全部いっちゃいます。困った八五郎……

「えーっ、義経? うーん、弁慶にしておけ」


「7月1日にあった主なできごと」

770年 阿倍仲麻呂死去…奈良時代に遣唐留学生として中国(唐)にわたり、唐朝の高官に登るも日本への帰国が果たせなかった歌人・阿倍仲麻呂が唐で亡くなったといわれています。

1787年 寛政の改革…江戸幕府の老中松平定信は、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」にならい、この日から「寛政の改革」を行い、武芸や学問の奨励、緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化をめざしました。一連の改革は、田沼意次が推進した商業重視政策を否定したものでした。

1997年 香港返還…アヘン戦争を終結させるため、清とイギリス間で結ばれた南京条約(1842年)により、イギリスに割譲された香港でしたが、イギリスから中国へ返還され、特別行政区となりました。

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