児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年07月

今日7月14日は、明治後期から昭和期の洋画家で、『放牧三馬』などの馬シリーズや「能面」の絵などで名高い坂本繁二郎(さかもと はんじろう)が、1969年に87歳で亡くなった日です。

1882年、福岡県久留米市に生まれた坂本は、幼いころから神童といわれるほど絵を描くのが上手で、10歳のころから、地元の画家で高等小学校の図画教師をしていた森三美(さんみ)に師事、同年生れで後に『海の幸』で有名になる青木繁とともに、およそ10年間、腕をきそいあいました。

1902年坂本は、東京の画塾に移ってぐんと腕をあげていた青木を頼って上京、画塾「不同舎」や太平洋画会研究所で修業をつづけ、1907年『北茂安村の一部』が第1回文展に入選しました。10年の第4回文展では『張りもの』が褒状、11年の第5回文展では『海岸』が3等賞、12年第6回文展『うすれ日』は、夏目漱石が朝日新聞で高く評価するなど、画家として順調な歩みをみせはじめます。ところが、坂本の描く絵には、フランスの印象派がめざした光と色彩の手法を取り入れた絵と、それを乗り越えた独自の絵との葛藤がありました。そして1920年、黒々とうずくまる『牛』を二科展に出品し、印象派が追放した暗さと構成に戻る決意を表現します。

坂本は、そんな方向性が正しいかを確かめたいと思い、1921年にフランスに渡りました。坂本が魅せられたのは、巨匠たちが描いた絵ではなく、その自然でした。その柔らかい色彩はより明るく、物の形を単純化させ、見る者の想像力へ訴える画法へと変わっていきました。この画法で肖像画にも挑み、1923年に描いた代表作『帽子を持てる女』は、優しく強く、存在感をしっかり持った女性の絵で、本場の画家たちからもかっさいを浴びました。

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1924年に郷里に帰った坂本は、東洋的な美を追求する方向に間違いがないことをさとり、以後は亡くなるまで地元に落ち着きました。しばしば阿蘇や雲仙におもむいて、『放牧三馬』や『水より上がる馬』など、一連の馬シリーズを描いて、「馬の坂本」といわれたこともありました。また、能面を題材にした「能面」シリーズを描いたこともありましたが、その画風は、初期の頃の暗い色調から、微妙な色合いの幻想的なものになっていったといえそうです。

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こうして経歴を記していくと、終始画壇で活躍してきたように思われますが、その画業が世間に知られるようになるのは、太平洋戦争後のことでした。画家仲間や、玄人筋からは哲人画家として尊敬を集めてはいましたが、一般的な名声ではありませんでした。今や、梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画界の巨匠と見なされるようになったのは、絵を見る大衆のレベルが、一段とあがってきたと見るべきなのでしょう。


「7月14日にあった主なできごと」

1789年 フランス革命…パリ市民が政治犯を収容するバスティーユ牢獄を襲撃し、世界史上に特筆される「フランス革命」のひぶたが落とされました。日本ではこの日を 「パリ祭」 と呼んでいますが、フランス国民は毎年、歌ったり踊ったり、心から喜びあう国民の祝日です。

1810年 緒方洪庵誕生…大阪に適塾を開き、福沢諭吉 や大村益次郎らを育てた蘭医・教育者として大きな功績を残した 緒方洪庵 が生まれました。

今日7月13日は、一橋大学の創設や、近代的な学校体系を創り上げた森有礼(もり ありのり)が、1847年に生まれた日です。

鹿児島城下の薩摩藩士の家に生まれた森は、藩校の造士館で学びました。当時薩摩藩は、生麦事件でイギリス人を殺傷したことから、薩英戦争に発展、イギリスに賠償金を払って終結しました。西洋から多くを学ばなくてならないとさとった藩は、外国を追い出そうという攘夷から倒幕に方向転換する一方、15名の若者をイギリスに留学させることにしました。その一人に選ばれたのが、19歳の森有礼でした。

見るもの聞くもの、驚きの連続です。たくさんの西洋体験をした森は、豊富な西洋知識を身につけて、戊辰戦争の最中の1868年に帰国、すぐに明治新政府の公議所という立法機関に配属されました。森が性急に欧化主義を主張したのは当然でしたが、それは当時の日本の常識に反するものでした。1869年に「廃刀論」を唱えたために刺客につけねらわれることになったり、「国語を廃止して英語を採用せよ」といって世の失笑をかったりして辞職、1870年に外務省に入って外交官としてアメリカへ渡りました。キリスト教に深い関心を示して、宗教の自由についての論文を英語であらわすなど、さらに開明的考えをもって1873年に帰国しました。

帰国するや、福沢諭吉 や西周らに働きかけて「明六社」を結成。翌年には、『明六雑誌』という機関紙を出して、当時の知識人を結集させ、明治初期の啓蒙運動の中心的役割をはたしました。森は、この雑誌に「妻妾論」を発表して、一夫一婦制に基づく契約結婚を主張、1か月後に、実際に婚姻契約をかわして、世間をあっといわせました。

1875年に一橋大学の前身となる私塾「商法講習所」を開設したあと、外交官として中国(清)駐在公使、1878年に外務次官となって外務卿を補助する立場になりました。イギリス公使をつとめていたときに、イギリスをおとずれた 伊藤博文 と親しくなり、これがきっかけとなって、1885年、第1次伊藤博文内閣のもとで初めての文部大臣に就任。翌年に、帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令という4つの「学位令」を発表、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、さまざまな学校制度を整備し、近代的な学校体系を構築するために奔走しました。

ところが、森の主張にはあまりに開明的なものが多く、1889年2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)発布式典の日、伊勢神宮参拝のおり、不敬があったと誤解されて国粋主義者に切りつけられ、翌日、43年の生涯を閉じてしまいました。


「7月13日にあった主なできごと」

BC100年 シーザー誕生…古代ローマ帝国の基礎を築いた軍人政治家で、「ガリア戦記」を著わした シーザー が生まれました。

1930年 サッカー初のW杯で国交断絶…サッカーのワールドカップの第1回大会がこの日はじまり、13か国の選手がウルグアイの首都モンテビデオで熱戦をくりひろげました。勝ち進んだのはウルグアイとアルゼンチンで、ウルグアイが4対2で逆転優勝しました。ところが、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで暴動がおき、ウルグアイの領事館が襲われて国交断絶にまで発展しました。

今日7月12日は、禅の悟りについてなどを英語で著し、日本の禅文化を海外に広めた仏教学者の鈴木大拙(すずき だいせつ)が、1966年に96歳で亡くなった日です。

1870年に旧金沢藩(石川県)の藩医の子として生まれた大拙(本名貞太郎)は、中学校を退学後に小学校の教師をしていましたが、ふたたび学問を志して21歳で上京、東京専門学校(現早稲田大学)をへて、東大哲学科に入り、同郷の西田幾多郎とともに学びました。

在学中に鎌倉円覚寺へ参禅しているうち、禅について勉強していた米外交官の娘ビアトリス・レインと、釈宗演(しゃく そうえん)に師事しました。1897年に師の推せんを受けてアメリカに渡り、哲学者で東洋学者のポール・ケーラスのもとで、中国古代の歴史や仏教に関する研究を深めます。そして、ケーラスの経営する出版社で東洋学関係の雑誌編集を手伝いながら、『大乗起信論』を英訳したり、英文による初の著作『大乗仏教概論』を刊行して、禅文化や仏教文化を海外に広く知らせました。

1908年ヨーロッパに渡り、1909年に帰国すると、円覚寺に住みこみました。学習院と東大で英語を教えながら、雑誌『禅道』を創刊、1911年42歳のとき、「東洋思想や東洋感情を欧米各国の人々へ宣布することを生活目標にする」ことで、ビアトリス・レインと結婚しました。

1921年に京都の大谷大学教授に就任すると、同大学内に東方仏教徒協会を設立、今も刊行され続けている英文雑誌『イースタン・ブディスト』を創刊しました。その後は、大学で講義をするかたわら、数々の英文と邦文による著作、アメリカコロンビア大学など海外での講演旅行をするなど、目標を着々とこなしていきました。

生涯に著わした著作はおよそ100冊で、そのうち23作が英文で書かれています。国内でも、英文の『禅と日本文化』が翻訳されて多くの読者を得るなど、今話題の評論家・梅原猛は「近代日本最大の仏教者」と、大拙を高く評価しています。

晩年は鎌倉にもどり、1941年に文化勲章を受章、その年金で東慶寺に自ら「松ヶ岡文庫」をこしらえて研究生活を行いました。1950年からアメリカに移り、アメリカのさまざまな大学で仏教思想に関する講義を行うなど、亡くなる数年前まで仏教思想を深く考え続けた人生でした。


「7月12日にあった主なできごと」

1192年 鎌倉幕府始まる…源平の戦いで平氏に勝利した 源頼朝 は、征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府は、武士によるはじめての政権で、1333年に執権の北条氏が新田義貞らに滅ぼされるまでおよそ150年間続きました。

1614年 角倉了以死去…豊臣秀吉、徳川家康の朱印状による安南(ベトナム)貿易で巨万の富を得、富士川、高瀬川などの河川開発を行なった 角倉了以 が亡くなりました。

1925年 放送開始…東京放送局(のちのNHK)が、ラジオの本放送を開始しました。

今日7月11日は、明治・大正期に活躍した法学者で、「明治民法の生みの親」のひとりとされる穂積陳重(ほづみ のぶしげ)が、1856年に生まれた日です。

宇和島(現愛媛県)藩士の次男として生まれた穂積は、藩校であった明倫館に学んだあと、16歳で藩の勧める優秀な学生として上京。大学南校(東大の前身)を卒業すると、1876年から5年間、文部省の留学生としてイギリスやドイツへ渡って、法律学を学びました。

1881年に帰国すると、すぐに東大法学部の講師となり、翌年には27歳で、早くも東大教授兼法学部長に就任。およそ30年間にわたって民法・比較法学・法史学・法哲学といった「法律学」のさまざまな分野で、わが国の先駆者として活躍しました。

その間に穂積は、日本ではじめての法学博士となって、日本法学界に、イギリス流の経験主義と実証主義的な法学や、ドイツで学んだ科学主義的法学を取り入れ、東大に法理学の講座を初めて開きました。1890年から2年間ほど貴族院議員をつとめ、明治・大正期の日本の法学史に大きな足跡を残した功績から1912年に退職した3年後には、男爵の栄誉を得ています。

こんなエピソードも残されています。1891年に「大津事件」という事件がおこりました。日本訪問中のロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が、琵琶湖見物の帰りに大津市を通ったとき、警備の巡査に突然斬りかかられました。この「大津事件」でロシアとの関係悪化を恐れた政府は、犯人の死刑判決を求めましたが、大審院長(現・最高裁判所長)の児島惟謙(こじま いけん)は、政府の圧力をはねつけ「無期懲役」の判決を下しました。児島は、この判決に際し、宇和島の後輩である穂積に意見を求めたところ、「外国では敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」と激励したと伝えられています。この判決により、日本の司法権への信頼が、国際的に高まったことはいうまでもありません。

何をおいても、穂積の一番の功績は、フランス法学の立場に立つ梅謙次郎らとともに、議論を重ねながら民法の起草にあたったことでしょう。民法は、1896年に公布、1898年に施行されています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、穂積の代表著書「法窓夜話」を読むことができ、いかに穂積が有能な法学者だったかがうかがえます。


「7月11日にあった主なできごと」

1156年 保元の乱…後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇方の平忠正、源為義らのこもる白河御所に夜討ちをかけて打ち破りました。その結果、上皇は隠岐に流され、為義らは処刑されました。これにより、武士が政治に進出、平氏の政権、源平の合戦を経て、鎌倉幕府の成立につながります。

1864年 佐久間象山死去…幕末の志士として有名な吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の 佐久間象山 が、攘夷派の武士たちに襲われて亡くなりました。

1893年 真珠の養殖成功…御木本幸吉 は、この日アコヤガイを使った貝の中に真珠ができているのを発見、約10年を費やして、真円真珠の養殖に成功させました。

「おもしろ古典落語」の29回目は、『ろくろっ首』というお笑いの一席をお楽しみください。

「だれだい、そこから首を出したりひっこめたりしてるのは? …なんだ、与太郎じゃねぇか、こっちきてあがれ」「おや、おじさんいたな」「なんだ、そのあいさつは」「だって、いたじゃねぇか」「いくらおじさんの家でも、あいさつぐらいはちゃんとしろ」「あいさつ? …じゃ、さようなら」「あれっ、もう帰っちゃうのか?」「帰りゃしないよ、あいさつだ」「そいつは、帰る時のあいさつだ。来たときには、今日は暑いですねとか、寒いですねとかいうのがあいさつだ」「今日はぬるいね」「ばか、風呂に入ってるんじゃねぇ、…いったい何しに来たんだ、おふくろのいいつけか」「そうじゃねぇ、あの、兄貴が…」「兄貴のいいつけか」「そうじゃねぇんだ、ちょっと、おじさんに相談があってきたんだ」「相談ごとなら聞いてやろう」「あのーっ…兄貴は、33だ」「そんなこと知ってら」「で、3年前にかみさんをもらった。そして子どもできて、その子がだんだん大きくなって…」「そんなこと当たり前じゃねぇか」

モジモジしたあげく、与太郎は、突然大声で「かみさんが欲しいっ」といいだしました。25になってもおふくろとふたりきり、ぶらぶら遊んで暮しているだけで面白くも何ともない、兄嫁が差し向かいで兄貴を「あなた」などと色っぽい声で呼ぶので、うらやましくなったらしい。「そりゃいいが、おまえ、どうやって食わせるんだ?」「箸と茶わん」「どうやってかみさんを養ってくかってんだ」「大丈夫だ。お袋とかみさんを働かせて……」「てぇげぇにしろ、そんな相談にゃ、おじさんは乗らねぇ、帰んな帰んな」

すると、うしろで聞いていたおばさんが何か耳打ちします。「え? なに? こいつを? そうよなあ。こういうのは感じねえから、いいかも知れねぇ」そこでおじさん、もしおまえがその気ならと、けっこうづくめの養子の話をします。あるお屋敷のお嬢さんで、年ははたち。両親は亡くなって乳母、女中二人と四人暮らし。資産はあるし美人だし、と聞いて与太郎は早くもデレデレ。ところが、奇病があって、草木も眠る丑三つ時(午前2時ごろ)になると、首がスーッと伸びて、行灯の油をペチャペチャなめはじめるとか。「はっはっは、そりゃおもしれぇや、どくどっ首だな」「ろくろっ首だ」「そんな遠くに首があったんじゃ、いちいちたぐらなくちゃならねぇ」「たこじゃねぇや」「だけど、おじさん、夜しか首は伸びないんだな」「昼間は何ごともねぇ」「そんならいいや、いくら伸びたって、目がさめねぇもん」「そうか…寝ぼすけってのも、何かの役には立つもんなんだな」

おじさんは考えました。あいさつもできなければまとまる話もまとまらないと、与太郎の褌(ふんどし)にひもを結びつけ、乳母が出てきて何かいったとき、一回引っ張れば「さようさよう」二回なら「ごもっともごもっとも」三回なら「なかなか」と、返事するんだと教えこみ、「これでまとまりゃ人間の廃物利用だ」と、与太郎を連れてお屋敷へ行きます。ところが、乳母が「ご両親さまが、草葉の陰でお喜びでございましょう」と、あいさつすると与太郎、「さようさよう、ごもっともごもっとも。あとはなかなか」と、後までいってしまって、おじさんは冷や汗たらたらです。

庭を見ると猫がいたので「柔らかくてうまそうな猫だ」とヒゲを抜く。そのうち、お嬢さんが庭を通る。「お、おじさん、あの首が」「しっ、聞こえるじゃねえか」よく見ると大変にいい女なので、与太郎うれしくなり「あんないい女が『あなたぁ』なんて、おまえさん、さようさようっ」お嬢さん、顔を赤くして逃げてしまいます。おじさんが小言をいっていると、猫が与太郎の褌に取りついて、与太郎、「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっとも…」と、大騒ぎ。

ところが、縁があったのか話がまとまって吉日を選び、婚礼の夜。こんな与太郎でも寝床が変わるとぐっすり眠れません。夜中に目がさめ「ごもっともごもっとも」と寝ぼけていると、隣のお嬢さんの首がスーっ。与太郎「伸びたァー」と肝をつぶしてそのまま飛び出し、おじさんの家の戸をドンドン。「た・た・た、大変だぁぁぁ、伸びたーっ!」「ばか野郎、静かにしろ。伸びるのを承知で行ったんじゃねぇか」「承知だってダメだよ。初日から、あんなのやだよ。あたい、歯抜けばあさんでもいいから、おふくろんとこへ帰る」「この野郎。どの面(つら)下げて帰れるんだ…おふくろはな、大喜びで、明日はいい便りが聞けると、家でもって、首を長ぁーくして待っているじゃねぇか」

「えっ、首を長ぁーくして……そいつはたいへんだぁ。家へも帰れねぇ」


「7月8日にあった主なできごと」

1621年 ラ・フォンテーヌ誕生…人間を動物におきかえた教訓話(寓話)で名高いフランスの文学者・詩人のラ・フォンテーヌが生まれました。

1979年 朝永振一郎死去…量子力学の研究の中から「超多時間理論」をまとめ、それを発展させた「くりこみ理論」を発明した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した 朝永振一郎 が亡くなりました。

1994年 金日成死去…朝鮮半島の抗日運動家・革命家として活動、1948年9月にソ連の支援をえて「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)を建国、同国を朝鮮労働党独裁によって支配し続けた金日成が亡くなりました。

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