児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年07月

今日7月22日は、世界初のアドレナリン抽出に成功、発明したタカジアスターゼのアメリカ発売など、日米で活躍した化学者・高峰譲吉(たかみね じょうきち)が、1922年に亡くなった日です。

1854年3月、江戸幕府は、日本へやってきたアメリカ海軍将官ペリーと日米和親条約をむすび、1639年から215年間つづけてきた鎖国をやめて、外国とのまじわりを始めました。譲吉は、日本が国を開いた、この歴史に残る年に、越中(富山県)高岡で生まれました。父は加賀藩の医者でした。

日本の新しい足音を聞きながら育った譲吉は、11歳のときから長崎と大阪で英語や医学を学び、18歳で工部大学校(いまの東大工学部)へ入って6年間、応用化学を勉強しました。また、卒業と同時に国からえらばれてイギリスへ渡り、3年のあいだ、外国の進んだ化学を学びました。

帰国した譲吉は、農商務省に入って、和紙の製造や酒の醸造などの研究を始め、33歳のときには人造肥料会社をおこしました。農商務省の出張でアメリカへ行ったときに過燐酸石灰に目をつけ、それを持ち帰って、日本で初めて燐酸肥料の実験と製造に成功したのです。いっぽう、母の実家が造り酒屋だったため少年時代から酒の造り方に興味をもっていた譲吉は、酒のもとになるこうじの研究をして、36歳のときに新しいこうじの作り方を発明しました。

やがて、アメリカのウイスキー会社にまねかれ、シカゴへ渡りました。そして、麦芽を使わないウイスキーの製造に成功して、高峰式ウイスキー醸造の名を高めました。ところが、麦芽業者のはげしい妨害にあい、譲吉は殺されそうになったうえに工場を焼かれ、会社は、涙をのんで高峰式ウイスキーの製造を中止してしまいました。

譲吉は、アメリカでの仕事を失いました。しかし、みじめな思いのまま日本へ帰ろうとはしませんでした。それどころか、小麦のこうじから取りだしたジアスターゼに、脂肪やたん白質をこなす力のあることを発見して消化剤を発明、自分の名の高をとってタカジアスターゼと名づけて、アメリカの製薬会社から売りだしました。また、ニューヨークに高峰研究所を建ててホルモンの研究をつづけ、動物の体内からホルモン結晶体のアドレナリンを取りだすことに、世界で初めて成功しました。

その後も譲吉は、アメリカに住み、68歳で亡くなりましが、亡くなる10年ほどまえ、日本の政府から学士院賞を受け、いちど日本に帰国しました。そのとき「日本にも、ひとつくらい科学研究所がなければいけない」と訴え、理科学研究所建設のきっかけをつくりました。

なお、ワシントンのポトマック河岸にある美しい桜並木は、1912年に東京市長だった尾崎行雄とともに高峰譲吉によって寄贈されたものです。


「7月22日にあった主なできごと」

1363年 世阿弥誕生…室町時代に現在も演じられる多くの能をつくり、「風姿花伝」(花伝書) を著して能楽を大成した 世阿弥 が生まれました。

1822年 メンデル誕生…オーストリアの司祭で、植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見した メンデル が生まれました。

1888年 ワクスマン誕生…結核菌を死滅させるストレプトマイシンなど、20を超える抗生物質を発見したウクライナ出身のアメリカ生化学者 ワクスマン が生まれました。

「おもしろ古典落語」の31回目は、『狸賽(たぬさい)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「こんばんは、こんばんは」「もう寝ちゃったよ、あしたにしてくれねぇか」「ちょっと開けてください」「だれなんだい?」「た、たぬきです」「たぬき? たぬきになんぞに用はねぇ」「そちらになくても、こっちにあるんで……」「ははぁ、だれか夜遊びして、閉めだし食って、泊めてくれってんだな。待ちなよ、今開けるからな……、さぁお入りよ。ありゃ、だれもいねぇじゃないか。おい、どこへ行ったんだ? そこらへ隠れて『わっ』なんておどかそうってつもりか? よしなよ、子どもじゃねぇんだから」「えっへっへ、もうちゃんと入ってます。こんばんは」「な、なんだ、そこのすみっこにいる黒いやつは」「はいっ、たねきでござんす」「どっから入った?」「親方のまたぐらをくぐって入りました。たいそうフンドシが汚れてますね」「大きなお世話だ…たぬきが、何だって、こんな夜遅くやってくるんだ」

昼間、いたずら坊主たちにいじめられているところを、男に助けられたので、その恩返しにきたといいます。「穴にもどって、親に話したら、おやじが感心して、腹をポンポコたたいて喜びまして……、当分おそばにいて、ご用を足してこいといいますんで」

それにしても、何にでも化けられてとても便利です。爺さんに化けて家のまわりの掃除をしたり、小僧に化けて家事をやってくれたり、お札に化けて、米をかすめ取ってきたり。そこで男が思いついたのが、今夜開かれるさいころバクチのこと。たぬきをさいころに化けさせて持っていけば、自分の好きな目が出て大儲けというわけです。さっそく訓練してみると、あんまり転がすと目が回るなどと頼りなかったものの、何とか仕こんで、勇んで賭場へでかけます。

強引に親を取るや、男が張る目張る目がみんな大当たり。たちまち男の前には札束の山になりました。ところが、やたら「今度は一だ」「三だよッ、三だ三だ三だ」などと、いちいちしつこく指示を出すので、仲間たちは疑いだします。もうけるだけ儲けて退散しようとすると、最後の勝負と、先に張られてしまい、「おまえねぇ、目を読んじゃいけないよ。おまえが目を読むと、その通りに出てくるんだから、気になるじゃねぇか…黙って勝負しろい」と釘をさされてしまいます。

開いた目は五です。もう五とはいえません。「うーん、目をよまなきゃいいんだろ。今度は何だ、そう、梅の花びらだ。えー、まーるくなって、真ん中にひとつポツン。天神さまのもようだ、たのむ天神さま……」

つぼを開けると、たぬきが冠をかぶって、天神さまのかっこうで座ってました。


「7月21日にあった主なできごと」

1588年 無敵艦隊敗れる…イギリス本土をねらうスペインのフェリペ2世は、自慢の無敵艦隊(アルマダ)を率い、イギリス艦隊との海戦を開始しました。しかし10日間ほどの交戦の末、機動力のある小型船を駆使したイギリス艦隊に敗北してしまいました。

1899年 ヘミングウェイ誕生…『日はまた昇る』『武器よさらば』『老人と海』などを著したアメリカの小説家ヘミングウェイが生まれました。

1969年 人類初の月面着陸…アメリカの宇宙船アポロ11号が人類初の月面着陸したようすが、日本の昼食時にテレビ報道された日です。世紀の瞬間を見ようと、街頭テレビなどに人々がむらがって、大都市の交通量が半減しました。

今日7月20日は、江戸時代前期に「古義学」を提唱した儒学者・思想家の伊藤仁斎(いとう じんさい)が、1627年に生れた日です。

京都・堀川の材木商人の家に生まれた仁斎は、11歳のとき、『大学』を読んで感動したといわれるほど聡明でした。『大学』は、中国の古典の一つで、『中庸』『論語』『孟子』と並んで四書といわれるものの一つです。15歳のころには儒学者を志して勉学にはげみ、儒学の一派で宋の時代に完成した朱子学を修めました。

28歳の頃から、家の仕事は弟にまかせて学問に集中するうち、朱子学の考え方に疑問を持つようになりました。やがて、「朱子学は学問体系としては優れているが、その成立過程に禅学や老荘思想といった非儒教的な思想が入っている。儒学はその出発点である孔子や孟子にさかのぼるべきだ」と考え、自宅に「古義堂」と名づけた塾を開くとともに、「同志会」という共同研究会を組織しました。そして、朱子学が「理」と「気」という2つの原理で世界を説明していたのに対し、宇宙は一つ、それを「一元気」と呼びました。さらに、学問とは「仁」、つまり愛に基づいた道徳を実行することであり、人はそれぞれが持っている素質を伸ばすべきと主張するなど、日本の儒学の歴史の中で、独自の学問体系を作り上げました。

仁斎の高い学問を知って、肥後国(熊本県)細川家や、紀伊国(和歌山県)徳川家などからの招きもありましたが、仁斎はそれらををいっさい断って、3000人ともいわれる弟子たちと共に学問を深めていきました。主著に、『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『古学先生文集』などがあげられていますが、生前は40年以上も続いた講義とその準備にあけくれていて、著書は、1705年に亡くなったあとに、弟子たちの手で刊行されたものです。

仁斎は、すぐれた人格者として讃えられ、まったく仕官もせず、貧乏のうちに生涯を終えましたが、その新しい学問の流れは、「古義学派」とか「堀川学派」と呼ばれ、近世儒学界の一大学派を形成したのでした。


「7月20日にあった主なできごと」

1883年 岩倉具視死去…公家出身で幕末から明治前期に活躍した政治家 岩倉具視 が亡くなりました。

1937年 マルコーニ死去…無線電信の発達に大きな功績をのこした、イタリアの電気技術者 マルコーニ が亡くなりました。

今日7月19日は、ダンテと並び、イタリア・ルネッサンス初期を代表する詩人で、人文学者のペトラルカが、1304年に生まれた日です。

イタリア中部のアレッツォに生まれたペトラルカの父は、『神曲』で名高い ダンテ とともにフィレンツェを追われた法律家でした。そのためペトラルカは5歳の時に、フランス南部の古都アビニョンに一家とともに移り住みます。やがて、ボローニャ大学などで法律学を学びましたが、興味は詩作や、ラテン語を古代ローマ時代の古典的形式に整備したりすることでした。

1326年に父が亡くなったため、教皇庁のあったアビニョンへもどって、カトリックの聖職者をしながら文筆活動を行ううち、詩人として、また学者として名声を博すようになります。1330年には、フランス南西部のガスコーニュ地方の司教となり、各地を旅行しながら古典文学を深く学び、古典の伝統とカトリックの伝統とを総合した人文主義の指導者となって活躍しました。

しかし、ペトラルカのもっともよく知られている作品は、ラウラという女性との熱烈な恋愛から生まれた抒情詩集『カンツォニエーレ』(歌の本)でしょう。1327年に出会い、48年にペストで亡くなったというラウラの生と死、愛の苦悩を歌った詩編の数々は、ラウラの死後に発表されました。全部で207編の14行詩(4+4+3+3行からなるソネット) から成り、最初の1編は、こんな書き出しとなっています。

ひとよここに書き散らした詩句のうち
若気のあやまちの折心をば
はぐくんだため息の音を聞かれよう
今とやや別人として過ごしたころ

恋の道を通い知った者が居れば
むなしい希望と悲しみとのはざまで
泣き口どくわがさまざまな歌いぶりに
赦しのみか憐れみを給えと願う

けれど今は知るもろびとにとり我は
久しい間うわさの種であったと
かくてしきりにわが身を恥じらうばかり

もの狂いの結べる実は恥辱や
後悔 また世の人の気に入ることは
うたかたの夢とはっきり覚ったこと

1327年にアビニョンのある教会で、ペトラルカはラウラの顔を初めて見たといいますが、この女性についてはほとんどわかっていません。おそらく、ダンテが「理想の女性」ベアトリーチェを生涯書き続けたのに対抗して、ペトラルカの「理想の女性」を綴ったに違いありません。ダンテが中世的・神学的な傾向を持っていたのに対し、ペトラルカは、人文主義的・近代的感覚をもっていたのがよくわかります。本人は、「20年ばかりのあいだにたまった暇つぶしの余技」だといっているのも驚きです。後世の作曲家たちも、この抒情詩の数々に創作意欲をそそれられて、リスト らたくさんの作曲家が挑戦し、たくさんの名曲を残しています。

ペトラルカは『カンツォニエーレ』の他に、『凱旋』『アフリカ』といった壮大な叙事詩も書き残し、1341年にはローマで「桂冠詩人」の栄を受け、1374年に亡くなりました。


「7月19日にあった主なできごと」

1834年 ドガ誕生…たくさんの「踊り子」の絵を描いたフランスの画家 ドガ が生まれました。

1864年 蛤御門の変…天皇を中心に外国勢力を追い出そうと「尊王攘夷」を掲げる長州藩の志士たちが京都に攻めのぼり、京都御所の警備にあたっていた会津・薩摩の両藩と激突。わずか1日で長州の敗北に終わり、長州は一時勢いを失いました。

1870年 普仏戦争…フランスがプロイセン王国に宣戦、プロイセンが大勝して、翌年のプロイセン主導によるドイツ帝国が成立します。

「おもしろ古典落語」の30回目は、『おばけ長屋』というお笑いの一席をお楽しみください。

「よう、もくべえ(杢兵衛)さん」「なんだ、現さん、何か用か」「うん、うちの隣の空き家のことだがね」「空き家がどうかしたか」「いえね、この長屋のうちに、一軒くらい空き家がなきゃ、あのいんごうな大家のやつ、店賃の値上げだなんていいかねない。なんとか、だれが来ても、あの家を貸さないですむって工夫はないもんかね」「なるほど、大家にいばられちゃたまらねぇな。よし、それじゃ、借りてぇやつがきたら、おれんとこへよこしな。おれがうまいこといって、おいかえしてやるから」

最初に現れた気の弱そうな男は、もくべえにこんな話を聞かされます。「越してきて、一日二日は何ともない。三日目の晩になりますと、夜が…しだいに…ふけわたると、あたりはしーんと静まりかえります。すると、ひとりでに仏さまの鉦(かね)がチィーン、障子がスルスルっと開いて、髪をふりみだした女が『よく越してきてくれましたね』とケタケタ笑い…。冷たい手で顔をサッ」 と…、雑巾で顔をなでられて、悲鳴をあげて逃げだしました。おまけに六十銭入りのがま口を置き忘れて行きましたから、二人は大喜びです。

次に現れたのは威勢のいい職人。これがどう脅してもさっぱり効果がありません。仏さまの鉦がチーンというと「夜中に余興があるのはにぎやかでいいや」「障子がスルスルっと開いて」「そいつはありがてぇ、あいたときに小便にいきゃ、めんどうがなくていい」「ケタケタと笑います」「あいきょうがあっていいや」最後にぬれ雑巾をなすろうとすると「何しやがんでえ」と反対に杢兵衛の顔に押しつけ、前の男が置いていったがま口を持っていってしまいます。

この男、あくる日早速、ガラガラと荷車を押して引っ越してきてしまいました。男が湯に行っている間に現れたのが5人の職人仲間。ふだんから男が強がりばかりいい、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるか試してやろうとやってきました。一人が仏壇に隠れて、折りを見て鉦をチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。仕上げは金づちで額をゴーンというひどいものです。作戦はまんまと成功して、口ほどにもなく男は親方の家に逃げこみました。

長屋の5人は、そのうち男が友だちでも連れてもどってくるだろうから、もう一つおどかしてやろうと、表を通った、親方がよくもんでもらっている大入道のみたいな按摩(あんま)を連れてきます。「あんまさん、いや、もんでくれってんじゃねぇんだ」「へぇ、なにをしますんで」「なにもしなくていいんだ。ここんとこに寝ててくれりゃいいんだ。人が入ってきたら『モモンガア』と目玉をむいておくれ」と頼み、5人はあるだけの蒲団を引っ張り出して、あんまを大の字にねかせ、それぞれ蒲団の裾に潜って、大入道がいるように見せかけようとします。

ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散します。あとに残されたあんまさん、大あわてで、親方のほうに目をむくと『モモンガア』とやるところを、つい、ふだんの商売のくせで……

「ももうかぁ!」


「7月15日にあった主なできごと」

1099年 第1回十字軍…ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じた第1回十字軍が、聖地エルサレムを占領しました。

1606年 レンブラント誕生…「夜警」 「フローラ」 「自画像」 など数々の名画を描き、オランダ最大の画家といわれる レンブラント が生まれました。

1871年 国木田独歩誕生…「武蔵野」 「牛肉と馬鈴薯」 「源叔父」 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した 国木田独歩 が生まれました。

1924年 黒田清輝死去…『湖畔』、『読書』などの作品を描き、わが国の洋画の発展に大きな功績を残した画家 黒田清輝 が亡くなりました。

1949年 三鷹事件…国鉄(JRの前身)中央線三鷹駅で、無人の電車が暴走して脱線転覆しながら線路脇の商店街に突入。男性6名が電車の下敷となって即死、負傷者20名を出す大惨事となりました。この事件は、同時期に起きた下山事件、松川事件と並ぶ「国鉄三大ミステリー」の一つとされています。

↑このページのトップヘ