児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年07月

「おもしろ古典落語」の32回目は、『化けもの使い』というお笑いの一席をお楽しみください。

人使いの荒いことで有名な隠居がありました。日本橋にあった桂庵という、私設の職業安定所から、何人も紹介されて来ますが、あんまりきつくて、だれも長く勤まりません。もく兵衛が紹介されて来てみると、仕事はみんな片づいているといいます。「たいした仕事はないが、物置に薪が10ぱばかり手ごろに割ってもらおう。それが終わったら縁の下にある炭を適当な大きさに切っておくれ。ついでに縁の下のクモの巣を払って、天井裏のクモの巣も払ったついでにネズミの死骸や糞もキレイに掃除して、塀のイタズラ書きを消したらその下の どぶを掃除して、隣の家の前を掃除したら反対側の家の掃除をして、ついでに向こう三軒もきれいにしとけ。その間に手紙を書くから、品川まで行ってきな。ついでに浅草まで回ってもらおうか」。今日は骨休めだから、明日からみっちり働いてもらう、という。こんな人使いの荒い隠居にも、もく兵衛はいやな顔一つ見せずに、モクモクと仕事をこなして3年勤め上げました。

来月引っ越しすることになりましたが、引越し先が「化け物屋敷」とのうわさされる屋敷だったので、さすがのもく兵衛、暇(ひま)をもらいたいと申し出て、了承してもらいました。なんとか引越しまで手伝ってあげました。「ご隠居さま。もう主人でもなきゃ、家来でもねぇ。おらぁ、ひとこといいてぇことがあるだよ」「なんだよ、改まって」「おめぇさまは、桂庵にやれば、すぐに代わりがくるなんて思ってやんべぇけど、いやぁとってもこねぇ。おめぇさまの評判が悪すぎるだからな。心を改めて、ほうぼうへ頼んでいい人をさがしてもれぇなせぇ」「そうするよ、おおきにご苦労だった。お前のような男はいままで一人もいなかった。ひまを出すのは惜しいがしかたがねぇ」「もうそろそろ夜になりますんで、おいとまいたします」

その晩、隠居は一人になって読み物をしていると、ゾクゾクとしてどこか様子がおかしい。風邪かと思ったら、「ほーッ 出たね!化け物だ…!」、出てきたのは一つ目小僧です。「せっかく出てきたんだから、ここのお膳を片しな」。流しで洗い物をさせて、はねた水を拭かせて、水瓶の水を足したら、こっちに来て布団を敷け。「いやな顔するな! 涙流して泣くんじゃない!」。終わったら肩をたたかせ、明日からはもう少し早く出ておいでといいます。

翌日の晩、またゾクゾクしたら大入道が出てきました。お膳を片して、洗い物もすませ布団を敷かせ、一つ目小僧と同じ事をさせます。肩をたたかせてみると痛いので、庭の石灯籠を直させ、屋根の上のぺんぺん草を取らせて、部屋にもどると「お前は10日に一ぺんでいいから、普段は一つ目を早い時間に来るようにいいな。来るときは『ゾーっ』とさせるなよ」。そんな小言を言っていると消えてしまいました。

次の晩もゾクゾクとすると、こんどは女が現れました。顔を上げてみるとノッペラボウです。まじまじと見ていると恥ずかしそうにしているので、「もじもじするこたぁない。なまじ目鼻があるために苦労している女はいくらでもいるんだから」。まず、着物のほころびを直させ、戸棚に足袋の汚れたのを洗えの、やはり女の方が華やいでいいと、これからはお前に出てきてくれとリクエスト。墨で顔を書いてあげようかなといってるうちに、いつのまにか消えてしまいました。

次の晩は心待ちに待っていると、障子の向こうに大きな狸がいるではありませんか。「ああ、そうか。お前だな、毎晩いろんなものに化けて出てきたのは」「そーさようでございます」「まぁ、いいや。もっとこっちへ来い…なんだい、涙ぐんでやがるな…どうした、具合でも悪いのか?」「いいえ、ご隠居さまにおねがいがございます」「願いだと? 何だ」「へぇ、いろいろお世話になりましたが、今夜限り、お暇をいただきとうございます」「暇をくれだと?」

「あなたさまのように、こう化け物使いが荒くっちゃあ、とても辛抱できません」


「7月29日にあった主なできごと」

1856年 シューマン死去…「謝肉祭」 「子どもの情景」 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが亡くなりました。なお、有名な「トロイメライ」は、全13曲からなる「子どもの情景」の7曲目に登場する曲です。

1890年 ゴッホ死去…明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家ゴッホが亡くなりました。

今日7月28日は、明治・大正・昭和期の財政家で第20代内閣総理大臣をつとめた高橋是清(たかはし これきよ)が、1854年に生まれた日です。

江戸幕府の御用絵師の私生児として生まれ、まもなく仙台藩の足軽高橋家の養子になった是清は明るく育てられ、11歳の時、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾で英語を学びました。1868年13歳の時、藩命でアメリカに渡りましたが、アメリカ人の貿易商に学費や渡航費をだましとられたうえ、ホームステイ先の親にもだまされて売り飛ばされ、牧童や葡萄園で奴隷のような生活を強いられるなど、苦労を重ねながら勉学にはげみました。

1868年に帰国すると、サンフランシスコで知りあったた森有礼に推薦されて大学予備門の「開成学校」に入り英語の教官になって、俳人の正岡子規や、のちにバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之らたくさんの若者に英語を教えました。1881年には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任して、日本の特許制度を整えましたが、是清が頭角をあらわすのは、1892年に日本銀行に入ってからです。事務主任から、翌年には西部支店長、日清戦争時には戦時資金調達に業績あげ、1899年には副総裁にまで出世しました。

そして、日露戦争が発生した際に、同盟国の英国に乗り込んで公債引受けを要請。投資家たちが兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力不安、軍費提供が建前としての中立違反となるなど懸念を示したのに対し、「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と敢然と言いいきって、戦費調達を成功させました。是清は、この功績により貴族院議員に勅選されたばかりでなく、1911年には日銀総裁となり、1913年第1次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任、1921年には原敬暗殺のあとを受けて、第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となります。

しかし、党内の対立から翌年6月に辞職。その後、政友会総裁を田中義一に譲って政界を引退しました。しかし、1927年の金融恐慌に際し、田中義一に懇請され3度目の蔵相に就任。金融恐慌に対し、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)や日銀の特別融通などで事態を収拾、沈静化の見通しが立つと在職42日で辞職。以後、犬養毅、斎藤実、岡田啓介3内閣の蔵相として、世界的不況下の困難な時期に、日本経済を立て直すために腕をふるいました。そのため、松方正義と並び「財界の守護神」 と讃えられました。

しかし、健全財政主義を掲げて軍部と対決し、1936年度予算編成にあたっては、閣議で、国防のみに専念して悪性インフレを引きおこすことになると批判したことで、軍部の激しい反発をうけました。そして、軍部との対立の中、岡田内閣蔵相在任中の1936年2月26日の朝、陸軍将校数名に自宅を襲われ、暗殺されてしまいました。<2・26事件>


「7月28日にあった主なできごと」

1750年 バッハ死去…宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めたバッハが亡くなりました。

1866年 ポター誕生…世界で一番有名なうさぎ 「ピーターラビット」 シリーズ23点の作者ビアトリクス・ポターが生まれました。

1914年 第1次世界大戦勃発…オーストリアがセルビアに宣戦布告したことから、第1次世界大戦がはじまりました。三国同盟を結んだドイツ、オーストリア、イタリアと、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国が対立して、戦争はヨーロッパ中に広がりました。イギリスと同盟を結んでいた日本や、アメリカも連合国側に加わり、30か国以上が参戦して、4年以上にわたる戦いをつづけ、連合国側の勝利に終わりました。

今日7月27日は、人類史上初めて南極点への到達に成功したのち、飛行船で北極点へ到達、人類史上初めて両極点へ到達したノルウェーの探検家アムンゼンが、1872年に生まれた日です。

ノルウェーで海運業を営む家に生まれたアムンゼンは、少年のころに読んだ大好きな本がありました。それは、イギリスのフランクリンという人が書いた「フランクリン探検記」です。2そうの船と129人ものも人を連れて北極探検に挑みましたが、ひとりも到達できません。イギリス人たちは、何度かフランクリンを探し求めたところ、やっと見つけたのが1冊のノートでした。そのノートには、氷の海に閉じこめられ、空腹と寒さとふるえながら、次々に亡くなっていくようすが、詳しく書かれた苦闘の記録で、このノートが「フランクリン探検記」として出版されたものでした。アムンゼンは、この本をボロボロになるまで、くりかえし読み、将来必ず北極点か南極点へ行くことを、心に誓いました。

やがてアムンゼンは、オスロ大学で医学をまなび、卒業後に船乗りとして南氷洋の学術探検に参加。1888年にノルウェーのナンセンがグリーンランド横断したことに感動し、探検家としての志を確固としたものにし、ベルギーの探検隊に加わって1897年から1899年にかけて極地を体験、1903年から1906年にかけて、北大西洋から北太平洋への北西航路を初めて突破。1910年ナンセンからフラム号を譲り受けて、北極点到達を目標に探検準備中、ピアリーによる北極点到達のしらせを受けて目標を南極点に変更、イギリスのスコットと人類初の南極点到達を競って、1911年12月14日、人類初の南極到達をはたしました。こんなアムンゼンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」16巻目「アムンゼン」をぜひご覧ください。

南極到達一番乗りをはたした後のアムンゼンは、最初の目的だった北極探検を空中から行いました。計画は4度失敗しましたが、1926年飛行船ノルゲ号で、北極点到達と北極横断に成功。2年後にいっしょに乗ったイタリアの探検家ノビレの遭難のニュースを聞き、その捜索におもむく飛行機が墜落して、帰らぬ人となってしまいました。

まさに、子どもの頃の目標を一歩一歩クリアしながら、夢を実現させたアムンゼンには、8世紀から300 年以上にわたって西ヨーロッパ沿海部を支配したバイキングの流れをくむノルウェー人の冒険心と気骨、そして探検家としての崇高な心が流れていたにちがいありません。


「7月27日にあった主なできごと」

1719年 田沼意次誕生…江戸時代の中期、足軽の子に生まれながら、側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった 田沼意次 が生まれました。

1887年 山本有三誕生…小説『路傍の石』『真実一路』や戯曲『米百俵』など、生命の尊厳や人間の生き方についてやさしい文体で書かれた作品を多く残した 山本有三 が生まれました。

1953年 朝鮮戦争休戦…板門店で、国連軍代表と北朝鮮代表が、休戦協定に調印して3年にわたる戦争が終わりました。

今日7月26日は、室町時代中期の武将で、江戸城を築城した太田道灌(おおた どうかん)が、1486年に亡くなった日です。

1432年、関東管領上杉氏の一族である扇谷(おおぎがやつ)上杉家の重臣で、太田資清(すけきよ)の子として鎌倉で生まれた道灌は、幼少から抜群の才能を示し、9歳から11歳まで建長寺で学問を修め、足利学校で学び、22歳で従五位上、24歳で家督を継いで、父に代わって扇谷上杉家の執事となりました。

当時関東は、関東公方(くぼう)・足利成氏(なるしげ)と、関東管領上杉氏の対立がはげしい上、上杉氏もまた山内上杉家、犬懸上杉家、宅間上杉家、扇谷上杉家に分かれて対立するなど争いがたえませんでした。やがて犬懸家が没落した後は山内上杉家が関東管領職を独占、道灌の主君扇谷上杉家は、山内上杉家を支える分家的な存在となっていました。

1455年、足利成氏が、古河城を本拠に上杉氏に反感を抱く関東諸将の支持を集めたことで、関東は利根川を境界線として、関東公方足利成氏の東側と、関東管領上杉氏の西側でにらみあいとなります。

上杉方は、深谷、川越の館を城郭に修築する一方、もうひとつ新城をつくることになりました。こうして太田道灌は、1456年に江戸城を築くことを計画、翌年にかけ完成させました。道灌のこしらえた城は、徳川氏の江戸城の本丸と二の丸のある地で、子城(ねじろ)、中城、外城(とじろ)の3つあり、それぞれの間に堀をめぐらしました。

こうして新城はできましたが、両者の対立はますます激しくなり、道灌は30回以上も出陣しましたがなかなか決着がつきません。そのうち、道灌に補佐されて扇谷上杉の勢力が強まると、山内上杉家の当主定正は、これを恨むようになりました。そして、相模の国糟谷(現・伊勢原市)の屋敷に道灌を招いて、浴室で暗殺しました。

「江戸城」は、関東に進出してきた北条早雲の孫・氏康に、1524年扇谷上杉家は滅ぼされて後北条氏の手にわたり、それからおよそ70年後、豊臣秀吉の命令で後北条氏攻めの先鋒を引き受けた徳川家康に引き継がれたのでした。


「7月26日にあった主なできごと」

1881年 小山内薫誕生…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の 小山内薫 が生まれました。

1945年 ポツダム宣言の発表…アメリカ、イギリス、ソ連(現ロシア)3国首脳の名で、日本に無条件降伏をせまる「ポツダム宣言」を発表しましたが、日本はこれを無視しました。しかし、8月に入って広島と長崎に原爆を投下され、日本と不可侵条約を結んでいたソ連の参戦などの情勢の変化により、8月14日の御前会議で受諾を決めて終戦にむかいました。発表から受諾までの20日間で、およそ38万人もの人が亡くなったといわれています。

1956年 スエズ運河国有化宣言…エジプトにあるスエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ国際的な水路です。開通した1869年から100年近くものあいだ、通行料はフランスやイギリスが株を占める万国スエズ運河会社に入り、エジプトには何の利益も受けられませんでした。エジプトの ナセル 大統領はこの日、スエズ運河国有化を世界に宣言しました。これを不服としたフランスやイギリスは、国際連合に解決を求めましたが、その解決を待たずに両国は、10月にイスラエルと連合してエジプトに戦争をしかけました(スエズ動乱・中東動乱)。これに対して世界中から非難がまきおこり、連合軍は11月に撤退。翌年4月にエジプト国有になって、スエズ運河は再開されました。

今日7月25日は、奈良時代初期の貴族で歌人の大伴旅人(おおともの たびと)が、731年に亡くなった日です。

676年に生まれた旅人が、成人するまでのことはよくわかっていません。大伴氏は、武門で名高い家系だったようで、旅人は714年に、父の安麻呂が亡くなると中納言に任じられ、720年には、南九州の「隼人(はやと)」が、生活の困窮から反乱をおこしたとき、征隼人持節大将軍として、反乱を鎮圧したといわれています。その後、京にもどり、朝廷の重要な地位について働きました。

旅人が、50歳をすぎた727年ころ、九州全体を監督する大宰府の長官として赴任したとき、部下でもあった山上憶良とともに筑紫歌壇で活躍、『万葉集』に収められている78首の大部分を、この地で詠みました。特に有名なのは、次の様な酒を讃える歌です。

験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし [くよくよと、もの思いにふけるより、一杯の濁り酒を飲む方がよいらしい]

古(いにしへ)の七の賢しき人たちも欲りせし物は酒にしあるらし [昔の竹林の七賢も、欲しがったものは酒であったそうな]

賢(さか)しみて物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし [かしこぶって物をいうより、酒を飲んで酔い泣きするようがましのようである]

他10首、計13首があり、酒をこよなく愛した人物として有名です。

なお、旅人の作品は、オンライン短歌図書館というべき「千人万首」で、56首を解説付きで読むことができます。


「7月25日にあった主なできごと」

1814年 蒸気機関車の発明…イギリスの技術者スチーブンソンは1814年、第1号の蒸気機関車ブリュッヘル号の試運転を成功させました。その後改良を重ね、1830年にリバプールとマンチェスター間にロケット号を走らせ、実用化の夢を実現しました。

1894年 日清戦争勃発…以前から朝鮮を属国とみなす清(中国)と、清から朝鮮を奪おうとする日本との間で対立が深まっていましたが、日本軍が豊島(ほうとう)沖で、清艦隊を攻撃して、日清戦争がはじまりました。

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