児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年06月

「おもしろ古典落語」の24回目は、『宿屋(やどや)の富(とみ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「富」というのは今の「宝くじ」のようなもので、江戸時代には、たいそう流行っていました。江戸・馬喰町のあまりはやらない宿屋に、長いこと泊っている男がいます。「ちょいとお前さん。2階のお客さん、もう20日も逗留してるよ」「結構じゃないか」「喜んでちゃ困るよ。何だかおかしくないかい。深みにはまらないうちに、何とかしたほうがいいよ」「そんなら、おまえが催促してこい」「何いってんだい、そんなことは女がやるこっちゃない、男の仕事だよ。お前さんだって男のはしくれだろ、ちょっと様子みておいでよ」「はしくれたぁ、ぬかしやがったな。見つくるよ。…ごめんください、おいででしょうか」

「おう、この家の主人どんだな、おら、泊まったときに顔を見たが、それっきりだ。何か用か?」「実はお願いがございまして、お宿帳を願いたくて…」「おかしいな。おら、泊まったときにつけたでねぇか」「ええ、お処とお名前は伺っておりますが、この節、その筋のお調べが厳しゅうございまして、お身なりからお荷物、ご商売と、ことごとく付けさせて頂くようになっております」「ああ、そうかね。身なりったってこれぇ着たきりだ。荷物ってあそこにあるちっけぇ包み、あれひとつ。商売なんてねぇや」「お調べの筋に、無職ってぇのは困るんで…。それにまだ、お手付金も頂戴してございませんし…」

「ああ、そうか、どうも様子がおかしいと思ったら、おめぇ、勘定とりに来たな。それならそうと、はっきりいうがいいでねぇか。おらね、ちびちび払っては面倒だから、発つときに一度にまとめて払うべぇと思っただ。おめぇら、おらが汚ねぇなりしてるでみくびって、そんなこといってきただな。さぁ、いくらんなるんでぇ、勘定書をだしな」「お腹立ちではどうも恐れいります」「腹も立つでねぇか、おらぁ、金に困ってる男でねぇだよ。金なんかいくらでもあるんだから…」と、どんなに金があるかをしゃべり始めました。

信州上田に家があって、奉公人が500人、身の周りを世話する女中が7~80人、あちこちの大名や旗本に十万両二十万両のはした金を貸している上、漬物に千両箱をのせて沢庵石にしているの、泥棒が入ったので好きなだけやるといったのに、千両箱八十くらいしか持っていかなかったのと、かって放題に吹きまくります。「驚きましたなぁだんな様は、その家のご当主さまでいらっしゃる…」「ああ、そこの主(あるじ)だぁ」「そんなご大家のだんな様が、よりによって手前どものようなきたない宿にお泊まりになったんで…」「いつもは、この先のでっけえ宿に泊まるんだが、そこはね、いつも支配人が金を使ってるから、下へもおかないようにされるんで、かえって窮屈だ、いやでたまらねぇから、わざわざ初めてのこの宿を選んだんだ」

人のいい宿の主人、これは大変な大金持ちだとすっかり感心してしまいます。「実はてまえどもは宿屋だけではやっていけないので、富くじの札を売っていますが、一枚余ったのを買ってくれませんでしょうか」と持ちかけます。値は一分で、当たりは一番札が千両、二番札が五百両。「千両ぽっち当たってもじゃまでしょうがないから」と男がいうのを無理に説得して買ってもらった上に、万一当たったら半分もらうという約束を取りつけました。

男は一人になると、なけなしの一分を取られちゃったと、ぼやきながら「あれだけ大きなことをいったから、当分宿賃の催促はねぇだろう。飲めるだけのんで食うだけくって逃げちまおう」と開き直りました。翌朝、「大名屋敷に、二万両貸した金、返さなくていいからっていってこようと思ってね」と宿を出た男、富くじが行われる湯島天神の方に足が向きます。

「くじが終わったようだ、あそこに当たりくじが書きだしてあるんだな。おいおい、江戸っ子だっていうのに、なさけねぇ顔して見上げてやがる。当たるわけはねぇや、5万枚もあるんだからな。おらの富は、子(ね)の千三百六十五番だな。運のある奴もいるんだろうが、なけなしの一分をふんだくられるような運のねぇ奴に、当たるわけねぇんだ。二番札の五百両か? 辰(たつ)の二千百四十一番だ…かすりもしねぇや。ついでだ、一番札も見るか。子の千三百六十五番…ほうら、やっぱり当たってねぇ、だけどちょっと惜しいな。子の、一千、三百、六十、五……。えっ、もしかして」「どうしましたか? 旦那、顔が真っ青ですよ」「ああ、あ・当たった…」「当たった? 食あたりですな、早く帰って寝るといい」「ああ、そ・そうする」あまりのショックで寒気がし、そのまま宿へ帰ると、2階で蒲団をかぶってブルブル震えています。

宿の主人も、後から湯島天神からかけもどってきました、こっちもブルブル震えながら、2階へすっとんで行きます。「あたあた、あ・あーたの富千両、あ・当たりましたっ」「うるせえなあ、貧乏人。千両ばかりで、そんなにガタガタ……おまえ、座敷ぃ下駄はいて上がってきやがったな。情けねぇ」「えー、お客さま、下で祝いの支度をさせております。一杯おあがりください」「いいよ、千両っぱっかで」「そんなこといわずに」と、ぱっと蒲団をめくると、

客は、ぞうりをはいたまま寝ていました。


「6月2日にあった主なできごと」

1582年 本能寺の変…天下統一を目前にした織田信長が、家臣明智光秀の謀反により自刃した事件「本能寺の変」がおきました。

1716年 尾形光琳死去…江戸時代の中期、町人文化が栄えた元禄期を代表する画家で『紅白梅図屏風』『燕子花図屏風』などを描いた尾形光琳が亡くなりました。

1882年 ガリバルディ死去…フランスやオーストリアなどに支配され、たくさんの国に分れていたイタリアを、イタリア王国として統一させたガリバルディが亡くなりました。

1953年 エリザベス2世戴冠…1952年にイギリス国王に即位したエリザベス2世女王の戴冠式が、ロンドンのウェストミンスター寺院で行なわれました。女王パレードには、100万人以上の人が歓迎したと伝えられています。元首の地位は名義的なものであっても、イギリス連邦の団結や各国との親善の役割には大きなものがあります。

今日6月1日は、歌劇『ルスランとリュドミラ』など、国外で広い名声を勝ちえた最初のロシア人作曲家グリンカが、1804年に生まれた日です。

現ウクライナ・スモレンスク県の貴族で、広大な土地を所有するの家庭に生まれたミハイル・グリンカは、子どもの頃から音楽に興味を持っていました。民謡の好きな乳母に育てられたこと、雇い人である農奴たちが演奏する民謡を聞く機会に恵まれたことが、グリンカに音楽の素地を与えたのでしょう。経済的に恵まれていたグリンカは、若いうちからピアノ、バイオリン、声楽、指揮、作曲を手がけるようになりますが、正式な音楽教育はほとんど受けていませんでした。

ペテルブルクの貴族寄宿学校に学び、1822年に故郷へもどって役人となって働きながら、地元の小楽団に入り、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの交響曲を演奏しているうち、音楽を本格的に学びたいと考えるようになりました。ところが父親の大反対にあい、あきらめかけましたが、原因不明の病気を患い1828年に役人をやめ、転地療養を理由にイタリアへ渡りました。そのうち病も癒えて、イタリア音楽に刺激されて、オペラ、声楽、ピアノをこころゆくまで学びました。やがて諸外国で勉強する機会がうまれて、芸術的に進んだ西ヨーロッパの文化を吸収することができました。

しかし外国をめぐるうち、グリンカの心にロシア人としての誇りが芽生えてきました。モスクワに攻め入ろうとするナポレオン軍との5年にわたる祖国戦争で、いち早く国民軍を結成したスモレンスク軍がナポレオン軍を追いやった少年時代の思い出、懐かしい民謡がよみがえり、ロシア的な作品を書きたいという強い思いがわきあがったのです。

1836年に作曲された『皇帝に捧げた命』は、最初のロシア語オペラで、部分的にはロシア民謡に基づいているものの、伝統的なイタリア様式で構成されているものではありましたが、大成功の上演でした。そして、6年後の1842年にオペラの第2作『ルスランとリュドミラ』を発表、民謡の自由な活用によるしっかりした作曲様式は高く評価され賞賛されました。特に『ルスランとリュドミラ・序曲』は、軽快で歯切れのよいリズムが好評で、今も演奏会の人気曲の一つになっています。この2つのオペラは、共にロシア最大の詩人プーシキン原作の台本によるものでした。

こうしてグリンカの祖国愛に満ちた音楽は、名高い「ロシア5人組」(バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、ボロディン) ら次世代のロシア人作曲家らに引き継がれ、はっきりとしたロシア的特質のあるクラシック音楽の一派を創造していくのです。


「6月1日にあった主なできごと」

1864年 洪秀全死去…アヘン戦争でイギリスに敗北して威信を失った清(中国)南部に、平等な世界を理想とする「太平天国」の建設をめざし、14年間にわたり革命運動をおこした洪秀全が亡くなりました。

1947年 初の社会党内閣…片山哲単独一人内閣として1週間前にスタートした内閣でしたが、この日民主党など3党連立による閣僚人事が決まり、初の社会主義首相による内閣が本格的に発足しました。片山はクリスチャンで、キリスト教的人権思想と社会民主主義の融合を実践した代表的な人物の一人ですが、内閣は翌年3月までの短命に終わりました。

1968年 ヘレンケラー死去…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍した ヘレンケラー が亡くなりました。

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