児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年06月

今日6月9日は、江戸時代後期の読本作者で、『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』を著わした滝沢馬琴(たきざわ ばきん)が、1767年に生まれた日です。

江戸・深川の旗本の家臣の家に生まれた馬琴は、幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で俳句をよんだほどでした。しかし、9歳の時に父が亡くなり、10歳で家督を継ぐも生活は苦しく、14歳で主家を逃げ出しました。下級武士の家に奉公したり、医術や儒学を学んだりしましたが、どれも長続きせず、1年以上も江戸の町を放浪したりもしました。

1790年、24歳の時に戯作者(げさくしゃ)として有名だった山東京伝を訪れ、親しく出入りすることを許され、翌年から京伝の代作を手がけるうち、江戸の本屋にも知られるようになりました。まもなく、本の問屋「蔦屋」に奉公するうちに、見込まれて九段のはきもの商の未亡人のもとに婿入りしました。これがきっかけとなって生活が安定し、著述業に専念できるようになりました。

1796年ころから馬琴の本格的な創作活動がはじまります。読本『高尾船字文(たかおせんじもん)』が馬琴の出世作で、さらに通俗的な黄表紙、草双紙といった物語を書くようになりました。ほぼ同時代に大坂で活躍していた 上田秋成 ら関西の文人とも交流し、関西の名所をめぐりの旅行記を著わしたりもしています。1804年に刊行された読本『月氷奇縁』や、1807年から刊行が開始された源為朝の一代記『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などで馬琴は名声を築き、京伝が読本から手を引いたことから、読本は馬琴の独壇場となります。

そして、1814年から刊行を開始した『南総里見八犬伝』は、1842年まで28年を費やし、馬琴のライフワークとなりました。全98巻、106冊の大作で、上田秋成の『雨月物語』と並び、江戸時代の戯作文芸の代表作の一つといわれています。雄大な構想と流麗な文には定評があり、次のような内容です。

室町時代後期を舞台に、安房(あわ・千葉県南部)の武将里見義実(さとみ よしざね)の娘・伏姫(ふせひめ)の体内から飛びちった、神犬の因縁によって結ばれた8人の若者(八犬士)が主人公。「犬」の字の入った名を持つ八犬士は、それぞれ、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉と、牡丹の形のあざを身体のどこかに持っています。関八州の各地で生まれた八犬士は、それぞれの苦難をのりこえて里見家に結集、助け合いながら、里見家再興をめざします……。

なお馬琴は、ほとんど原稿料だけで生計を営むことのできた日本初の著述家といわれ、創作著作300余点、随筆や日記など多数を遺し、1848年に亡くなりました。


「6月9日にあった主なできごと」

1671年 ピョートル大帝誕生…ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、バルト海交易ルートを確保した ピョートル大帝 が生まれました。

1781年 スチーブンソン誕生…蒸気機関車の実用化に成功したイギリスの技術者 スチーブンソン が生まれました。

1870年 ディッケンズ死去…「オリバー・ツイスト」 「クリスマスキャロル」 「二都物語」 など弱者の視点で社会諷刺した作品群を著しイギリスの国民作家といわれるディケンズが、亡くなりました。

1886年 山田耕筰誕生…『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』などの作曲をはじめ、世界的に著名な交響楽団を指揮するなど、国際的にも活躍した音楽家 山田耕筰 が生まれました。
 
1923年 有島武郎死去… 志賀直哉・武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加し、『一房の葡萄』『カインの末裔』『或る女』などの小説、評論『惜みなく愛は奪ふ』を著した 有島武郎 は、この日軽井沢の別荘で雑誌編集者と心中、センセーションをまきおこしました。

「おもしろ古典落語」の25回目は、『だくだく』というお笑いの一席をお楽しみください。

ある新米の泥棒が、仕事場を物色しながら歩いていると、明かりがぼんやりついていて、戸が半分開きかかった家があります。

「こんばんは…、ごめんくださぁーい、お留守ですか? しめしめ、誰もいないようだな。どうせ、こんな裏長屋のことだから、たいした仕事にはなるめぇが、今夜はおれにとっての開業式だ、縁起もんだから、金だらいのひとつもとりゃいいや。……こんばんは、ほんとにお留守ですか? どっかに隠れてて、いきなり『ばぁー』なんて脅かしちゃいやですよ。へぇー、ばかに道具がいっぱい揃ってるね、こりゃ、すばらしい箪笥だ、こんなたんすの中にゃ、もめんの着物なんてのは一枚も入ってねぇで、やわらかい着物がぎっしり入ってるんだぜ、きっと。…おやおや、何だいこりゃ、のっぺらぼうだよ……あっ、鉄瓶の湯気がプゥプゥあがってやがる、ふたをとらねぇと危ないじゃねぇか……ありゃりゃ、おかしいと思ったら、こりゃみんな絵だ、しかし、うまく描いてあるね。どう見たって本物だよ。おまけに奥のほうにゃ、人が寝てるところまで描いてある。この人間なんざ、息してるみたいだぁ。…いや、感心してちゃいけねぇ、このまま帰ったんじゃ仲間に顔向けできねぇ。この家が、絵に描いた道具があるつもりなら、おれのほうも、泥棒に入って、盗んだつもりでいこう」

のんきな奴があったもんで、泥棒芝居をはじめます。「…ええ、まずは、大風呂敷を広げたつもり。たんすの引き出しをあけて、女ものの着物をどっさり、羽織を5、6枚、風呂敷の上にのっけたつもり。おっと、上の引き出しからダイヤ入りの金の指輪と、むこうに掛かっている六角時計を盗んだつもり。床の間に応挙先生の掛け軸があるから、横にある骨董類といっしょに、みんな風呂敷に入れたつもり…と。この大風呂敷を結んだつもり…、このおっきな包みを、うんとこしょと、しょったつもり…重たくて立てねぇつもり…ようよう立ったつもり…」

と、一人ぐずぐずやっておりますと、奥に寝ていたこの家の主人が目をさましました。「あれぇ、大きな野郎がいらぁ。冗談じゃねぇ、泥棒だよ。ふーん、絵に描いた道具でもこれだから、金持ちは心配なはずだ。ははぁ、こっちが絵だもんだから、泥棒の方も盗んだつもりとおいでなすったか、しゃれた野郎だ。あれっ、包みをしょったつもりで、真っ赤になってうなってやがる。…おれの方も盗まれたつもりにならなくっちゃいけねぇや。…さぁ、ふとんをガバッとはねあげたつもり。敷居の上の槍をとったつもり…、それをきゅっきゅっとしごいたつもり…、泥棒のうしろめがけて、ばらばらっと追いかけたつもり…泥棒の脇腹めがけて、えいっと突いたつもり」とやると、泥棒は、

「うーん、あいたたたた、血が、だくだくと出たつもり」


「6月8日にあった主なできごと」

632年 マホメット死去…キリスト教、仏教とともに世界3大宗教のひとつとされるイスラム教の開祖 マホメット (ムハンマド)が亡くなりました。

1810年 シューマン誕生…「謝肉祭」 「子どもの情景」 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれる シューマン が生まれました。

1947年 日教組結成…奈良県橿原市で日本教職員組合(日教組)の結成大会が開かれました。戦後教育の民主化、教育活動の自由、教育者の社会的・経済的・政治的地位の向上をめざすとし、教師は、これまでの「聖職者」から「教育労働者」へと大きく転換していくキッカケとなりました。

今日6月7日は、明治初期に来日したお雇い外国人の一人で、日本の国内法の整備に大きな貢献をしたフランス人のボアソナードが、1825年に生まれた日です。

明治新政府の最大の課題は日本の近代化でした。そのためには、できるかぎり早く欧米の先進技術や学問、制度を取り入れなくてはなりません。法律もそのひとつで、1858年に江戸幕府が関税自主権のない不平等な条約をアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダ5か国と結んでいたために、この条約撤廃の前提として各国は、日本に近代法典(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)を成立させるように求めていました。そこで日本政府は、ヨーロッパで評価の高いナポレオン法典をモデルにすることを決め、法学に詳しいフランス人専門家を雇い入れたいと人選をしていました。

たまたまボアソナードがパリ大学で法学の教師をしていて、日本人留学生の評判がよかったことから、明治政府はボアソナードに、法律顧問として招き入れたいと申し入れをしました。当初、ボアソナードにはその気がありませんでしたが、当時パリ大学では法学教授になる席が全くありません。こうして一大決意し、1873年43歳のときに来日したのでした。

ボアソナードは、司法省法律学校(現・東大法学部)、明治法律学校(現・明治大学)、東京法学校(現・法政大学)で10年あまりフランス法の講義をするいっぽう、外務・内務両省の顧問となって、内政、外交の指導に当たりました。近代法体系確立の必要性を説き、特に、江戸時代の制度を受け継いできた拷問による自白強要の廃止と、証拠裁判の実施を強く求め、1880年の「刑法」「治罪法」(後の刑事訴訟法) 制定の大きな力になりました。

さらにボアソナードは、「民法」づくりにも力をそそぎ、1890年に正式な提案をしました。その提案が、日本の伝統的な家族主義をうちこわすような自由主義に基づくものだったため、「こんなものでは、[民法出でて忠孝亡ぶ]」と、ドイツ法を学ぶ国家主義学者や議会の反対にあい、実施されるには至りませんでした。

1895年、ボアソナードは失意のうちに帰国し、1910年85歳で亡くなりましたが、国辱的な不平等条約改正の理論的バックボーンとなる「外交意見書」を著わすなど、近代日本に多大な貢献をしてくれた恩人であることを忘れてはなりません。


「6月7日にあった主なできごと」

1848年 ゴーガン誕生…日本の浮世絵やセザンヌの影響をもとに印象派の絵画を描くも、西洋文化に幻滅して南太平洋のタヒチ島へ渡り『かぐわしき大地』『イヤ・オラナ・マリア』などの名画を描いたゴーガンが生まれました。

1863年 奇兵隊の結成…長州(山口県)藩士の高杉晋作は、農民、町民などによる「奇兵隊」という軍隊を結成しました。奇兵隊は後に、長州藩による討幕運動の中心となりました。

今日6月6日は、プロコフィエフ、ショスタコビッチと並び、旧ソ連における作曲家3大巨匠の一人として活躍したハチャトリアンが、1903年に生まれた日です。

現・グルジア共和国の首都トリビシに、アルメニア人製本工の家に生まれたアラム・ハチャトリアンは、コーカサスやアルメニア地方に古くから伝わる民族的色彩の強い音楽に親しみながら育ちました。1921年に音楽家を志してモスクワに向かう途中の演奏会で、音楽の能力が認められ、翌年、グネシン音楽院でチェロと作曲を学んで卒業。1929年からはさらなるレベルアップをめざしてモスクワ音楽院に入学しました。作曲教授をしていたミャスコフスキーらから5年にわたる指導を受けました。この大学の指導方針が、「自分の属している民族のテーマを作品の中に発展させなさい」というものだったため、その教えにしたがって、1936年に『ピアノ協奏曲』、1940年に『バイオリン協奏曲』を発表して、名声を得るに至りました。

ハチャトリアンの名をわずか1、2年で世界的にしたのが1942年に発表した 『剣の舞』 でした。この曲は、アルメニアの国境に近い農場を舞台にしたバレエ音楽『ガイーヌ』の中の1曲です。レニングラード(現サンクトペテルブルク)で初演されて、大好評を博し、スターリン賞を受賞しています。ハチャトリアンは後に、このバレエ音楽の中から「第一組曲」「第一組曲A」「第二組曲」の3つの演奏会用組曲を作りましたが、『剣の舞』ではじまる「第一組曲」がもっとも人気が高く、今でも、その親しみやすいメロディと軽快なリズムは、単独で演奏されるだけでなく、アンコール曲、オーケストラ入門曲、映像BGMなどでも人気を保ちつづけています。

ハチャトリアンのもうひとつの人気曲はバレエ音楽 『仮面舞踏会』 です。仮面舞踏会とは、イタリアのベネチアで始まった仮面を付けることで自分の姿や身分・素性を隠して行われる舞踏会のことで、この作品はロシアの詩人レールモントフの悲劇をバレエ作品にしたものです。ハチャトリアンは、このバレエ音楽のうちから5曲を選んで、管弦楽のための「組曲」に再編成しました。そのうちの1曲 「ワルツ」 は、フィギアスケートの浅田真央が、イタリアのトリノで行われた世界選手権で優勝した時のSPスケーティングミュージックで、世界中の人々をとりこにしました。浅田は、大活躍した2009~10年のたくさんの大会でもこの曲を使用していましたので、私たちには、特に身近に感じられるかと思います。

なお、ハチャトリアンは、1951年から母校のモスクワ音楽院の作曲教授となり、自作の指揮者、映画音楽を手がけるなど、たくさんの曲を遺して1978年に亡くなりました。1963年には来日して、結成したばかりの読売日本交響楽団他と共演をしています。


「6月6日にあった主なできごと」

1281年 弘安の役…モンゴル(中国・元)の皇帝フビライ軍は、文永の役から7年後のこの日、再び大軍を率いて北九州の志賀島に上陸しました。苦戦していた日本軍でしたが、折からの暴風雨により元軍は総崩れとなって7月初めに退散しました。日本を救ったこの暴風雨は「神風」といわれますが、鎌倉幕府は手柄のあった者に恩賞を与えることができず、衰退を速めることになりました。

1599年 ベラスケス誕生…スペイン絵画の黄金時代を築いた17世紀を代表する巨匠 ベラスケス が生まれました。

1944年 ノルマンディ上陸作戦…第2次世界大戦中、ドイツが占領していた北フランスの海岸ノルマンディに、17万6千人の連合国軍が上陸に成功、これがきっかけになってフランス各地のドイツ軍を打ち破り、8月25日にパリ解放に成功しました。

今日6月3日は、明治・大正・昭和にわたり歌人・評論家・教育者として活躍した佐佐木信綱(ささき のぶつな)が、1872年に生まれた日です。

今の三重県鈴鹿市に、歌人の佐佐木弘綱の長男として生まれた信綱は、父から指導を受けながらわずか5歳で、短歌をつくりはじめました。1882年に父と上京、2年後に12歳で東京帝国大学古典科に入学して16歳で卒業後、父といっしょに『日本歌学全書』全12册の刊行を開始しました。いっぽう、短歌を新しい時代にふさわしいものにしたいと考えるようになり、落合直文、正岡子規、与謝野鉄幹らと短歌の革新運動をはじめました。

1898年には、短歌の集まり「竹柏会」を主宰、「歌は心の花であり、美の宗教である」として歌誌『心の花』を創刊。木下利玄、川田順らたくさんの歌人を育成しています。

1903年に歌集『思草(おもいぐさ)』で、歌人としての地位を確立、その後も『豊旗雲』『新月』をはじめたくさんの歌集を刊行、1963年に亡くなるまで、生涯に約1万首の歌を作っています。「ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」「秋さむき 唐招提寺の鴟尾(しび)の上に 夕日は照りぬ 山鳩の鳴く」は、よく知られています。また、文部省唱歌『夏は来ぬ』[卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早もきなきて 忍音もらす 夏は来ぬ] の作詞者でもあります。

1935年から26年間東大の講師として『万葉集』や歌学史などを講義して、その講義録を基にした『日本歌学史』『和歌史の研究』などの優れた著書を遺しています。また古典文学の研究や註釈、復刻にも力を尽くし、菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が平安時代中ごろに書いた回想録『更級日記』(藤原定家写本) の綴じ違えの発見などの業績を残しました。

1937年には文化勲章を受章。学士院会員、芸術院会員を長くつとめた他、歌会始の撰者でもあり、その流れから皇族に和歌を指導したことでも知られています。

なお、「いかに堪へ いかさまに ふるひたつべきと 試の日は 我らにぞこし」は、信綱が1923年9月の関東大震災にあった後に作られた歌です。信綱は12年もかけて、ようやく完成寸前までこぎつけていた『万葉集』関連の原稿やその資料を火災によって失ってしまいました。そんな茫然自失した気持ちと、この試練に負けずに強く生きようという決意があらわれていて、心打つものがあります。そして2年後、多くの人たちの協力をえて、『校本万葉集』(25巻)を完成させました。

この度の東日本大震災に直接の被害にあった人たちはもちろん、日本人大半の絶望感は、どんなに大きいものか量り知れないものがありますが、こんな歌を口ずさみながら、前向きに生きる勇気をもちたいものです。


「6月3日にあった主なできごと」

1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官 ペリー は、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわれる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家 ビゼー が亡くなりました。

1899年 ヨハンシュトラウス(2世)死去…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家 ヨハンシュトラウス(2世) が亡くなりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領ケネディと、ソ連最高指導者フルシチョフは、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。

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