児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年06月

「おもしろ古典落語」の26回目は、『片棒(かたぼう)』というお笑いの一席をお楽しみください。

あかにしやケチ兵衛という男がいます。その名前のように他人から何といわれようとケチに徹して、食うものも食わずに金をためこみ、一代で分限者になりましたが、70歳を越えてそろそろ先が見えてきました。3人の息子のうち、見どころのあるせがれに身代を譲ろうと、「おれが死んだら、その葬式(とむらい)はどうする」と聞きました。

まず長男の松太郎。「亡くなった晩は、通夜をやります。そして、あくる日、仮葬を出しておきます。本葬の日が決まりましたら、その時も二晩ばかり通夜をしまして…」というので嫌な予感がしましたが、さらに、慈善事業に一万両ほど寄付するというので、おやじはど肝を抜かれました。葬式はすべて特別あつらえの豪華版。料理も黒塗り金蒔絵の重箱に、うまいものをぎっしり詰め、酒も極上の灘の生一本。さらに、車代に十両ずつ三千人分……。「ばか、あっちへ行け。とんでもねえ野郎だ、葬式で身代がつぶされてたまるか」

次は次男の竹次郎。「本葬には、家に紅白の幕を張ります」……、おやじはまたまた嫌な予感。案のじょう、盛大な行列を仕立てて町内を練り歩き、とびの木遣りに、有名どころの芸者の手古舞、山車(だし)や神輿(みこし)をくり出してワッショイワッショイ。親戚の総代が弔辞で「あかにしやケチ兵衛君、平素から粗食に甘んじ、ただ金が増えるのを唯一の楽しみにしておられしが、栄養失調のためおっ死んじまった。ざまぁ……もとい、人生面白きかな、また愉快なり」「ばか、何が愉快なりだ。あっちへ行け。弔いだか祭りだかわからねぇ」 

続いて三男の梅三郎。「おい、もうおまえだけが頼りだ。兄貴たちとは違うだろうな」「兄さんがたは、正気の沙汰とは思えません」…やっと、まともなのが出てきたと安心しましたが、「死ぬってのは自然に帰るんですから、立派な葬式なんぞは要りません。ものの本によりますと、外国(とつくに)には、鳥葬などという習わしがありまして、亡骸を鳥につつかせる……」「おいおい、まさかそれをやるんじゃ…」「いや、ここは大和の国、野原にうっちゃるわけにはいきませんから、墓地へ埋めるくらいの手間はかけます。本来ならば、お葬式は省きたいところですが、たいへん質素にいたします。まあ通夜を出しますが、あくる朝、葬式は午前十一時ということで触れをだします」「お昼にかかりゃしないかい?」「ですから、そういっといて八時に出してしまうんです」「みんな無駄足するだろう」「ええ、みんな間に合いません。たとえ何人か会葬者があれば、菓子などを出さなくてはなりません。早く出てしまえば、お互いによろしゅうございます」「なるほど、えらいな。お前を生んどいてよかった」

「それから棺桶でございますが、ああいうものを葬儀屋へ頼みますと、大変お金がかかりますし、だいいち新しい木を焼いたり埋めたりしてしまうのも、まことにもったいない話です。で、私は物置にある菜漬けの樽で間に合わせようと思います」「菜漬けの樽?……いいとも、死んだあとだから匂いだってわかりゃしねぇや。抹香は高いから、かんな屑でいいよ。なにごとも家のためだ、それから?」「蓋をして、樽に荒縄を十字にかけて、天秤棒を通して差し荷いにしますが、人足を頼むと金がかかりますから、あたしが前の片棒を担ぎます。ただ、後の片棒が困ります」

「なぁに心配するな。片棒はおれが担ぐ」


「6月16日にあった主なできごと」

756年 楊貴妃死去…中国・唐の時代、玄宗皇帝の妃となりましたが、安禄山の反乱(安史の乱)を引き起こしたため「傾国の美女」と呼ばれる 楊貴妃 が亡くなりました。

1699年 河村瑞賢死去…江戸の大火事の際、木曾の材木を買い占めて巨富を得、事業家として成功した 河村瑞賢 が亡くなりました。

1924年 三民主義…現代中国の生みの親ともいわれる 孫文 は、民族・民権・民生主義を総合する「三民主義」の革命理論の講演をし、孫文指導下の国民運動は最高潮に盛り上がりました。

1963年 女性初の宇宙旅行…ソ連(ロシア)の宇宙飛行士テレシコワは、ボストーク6号で地球を48周、70時間以上の宇宙飛行に成功しました。

今日6月15日は、ノルウェーの国民主義音楽家を代表するグリーグが、1843年に生まれた日です。

スウェーデン統治下にあったノルウェーのベルゲン市に、スコットランド系商人の父とピアニストの母のもとに生まれたエドバルド・グリーグは、6歳ころから母にピアノを学びはじめ、12歳で作曲をはじめました。才能が認められ、15歳からドイツのライプチヒ音楽院に3年半留学し、一流の教師からピアノ、音楽理論、作曲を学びました。また、留学中にショパン、メンデルスゾーン、ワーグナー、シューマンら、当時のもっとも新しいといわれた音楽とふれることができたのは幸いでした。

それからの3年間、デンマークのコペンハーゲンに居住しているうち、この国の国民主義音楽に魅せられて、グリーグもまた母国ノルウェーの音楽から着想した独自の創作をしたいと考えるようになりました。1864年に帰国、同年代の作曲家ノルドラークと知り合って共鳴し、二人は競うように自国の民謡のメロディやリズムを積極的に採り入れた、民族的音楽を次々に生み出していきました。

やがて、1867年に現在のオスロ・フィルハーモニー協会の指揮者に就任するなど、ノルウェーの第一級作曲家となったグリーグは、1874年、同国の文豪イプセンと知り合い、自作の戯曲『ペール・ギュント』に付属する音楽の依頼を受けました。こうして出来上がったのが組曲『ペール・ギュント』でした。戯曲は、ノルウェーに古くから伝わる伝説がもとになったもので、こんなあらすじです。

知恵も力もありながら、意志が弱く空想にふけってばかりいる若者ペール・ギュント。ソルベーグという美しい恋人がいるのに、イングリッドという娘を結婚式場から略奪して山の中に逃げこみました。二人の生活に飽きたペールは、娘を捨てて森をさまよううち、山の魔王の娘に結婚を申し込まれました。これを断ると、魔王の怒りを買って殺されかけます。命からがら逃げぬいて、山小屋に住むソルベーグのもとへたどり着きました。ところがそこへ、魔王の娘が気味の悪い奇形児を連れて訪れ、二人の間にできた子だと呪いの言葉を投げつけます。ペールはソルベーグとの愛の巣を去り、母オーゼのもとへ逃れるものの、喜びもつかの間、母は死んでいきます。行方知らずの旅に出たペールは、モロッコやアラビアなど世界中をめぐるうち、カリフォルニアの金鉱をさぐりあて、意気揚々と帰国の途につきました。ところが嵐にあって船は難破し、身ひとつで故郷に帰ります。そこには、すでに白髪となったソルベーグが、昔の恋人ペールの帰りを待っていたのでした……。

グリーグの23曲の音楽からなる組曲は、1876年オスロの国民劇場で初演され、大好評を博しました。のちにグリーグは、第一組曲「朝」「オーゼの死」「アニトラの踊り」「山の魔王の宮殿にて」、第二組曲「イングリッドの嘆き」「アラビアの踊り」「ペール・ギュントの帰郷」「ソルベーグの歌」の各4曲計8曲を演奏会用組曲として残しました。どの曲も、叙情的な美しいメロディーにあふれていますが、特に1曲目の「朝」と、最後の「ソルベーグの歌」は名曲中の名曲として、最も広く知られています。


「6月15日にあった主なできごと」

774年 空海誕生…平安時代に中国から真言密教をもたらして真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を建てた 空海 が、生まれました。空海は弘法大師の名で親しまれています。

1215年 マグナカルタ成立…イギリス憲法の聖書ともいわれる「マグナカルタ」(大憲章)に、横暴だったジョン王が署名し、王も法に従うという原則が定められ、イギリス立憲政治の出発点となりました。

1242年 北条泰時死去…鎌倉時代の3代目の執権となり、、武士の初めての法律『御成敗式目』(貞永式目)をこしらえ、16代続いた執権政治の基礎をきずいた 北条泰時 が亡くなりました。

1769年 佐藤信淵誕生…明治維新の100年近くも前に生まれながら、国学、儒学、蘭学、動・植物、天文、地理、測量など広い学問に通じ、明治以降の日本のすがたを明確に予想した学者 佐藤信淵 が生まれました。

今日6月14日は、体系的な社会学を構築したことで評価の高いドイツの社会学者・経済学者のウェーバーが、1920年に亡くなった日です。

マックス・ウェーバーは、1864年、中部ドイツ(当時はプロイセン王国)エルフルト市の役人だった父と、敬虔なプロテスタント(ピュリタン)の母との間の長男として生まれました。生後まもなくベルリンに移り、父は「国民自由党」の政治家となったため、両親の影響からウェーバーは、政治と宗教に深い関心をいだきながら、1871年に成立したばかりの「ドイツ帝国」の首都ベルリンで成長します。父にならって政治家をめざしましたが体が弱く、ハイデルベルク大学、ベルリン大学、ゲッチンゲン大学で歴史、法学、哲学、経済史などを学びました。裁判所に勤務後、まもなく学究生活に入ります。

1894年ベルリン大学で商法の助教授、その翌年には30歳の若さでフライブルク大学の経済学教授に抜てきされました。1896年には、ハイデルベルク大学に招かれるなど、教壇に立ちながらさまざまな研究にはげみますが、1903年、うつ病のために教職を離れ、およそ15年間は、自由な研究者となって、社会科学の基本的な方法に関する研究、特に法・経済・歴史学にわたる実証的な成果を、次々に著しました。

まず、1904年に発表した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がそのひとつで、プロテスタントの世俗内禁欲が、資本主義の精神にあっていたことで、近代資本主義が成立したと論じたものでした。この考えは、当時のマルクス主義の考え方の基本にある唯物論への反証でもありました。つぎに、1910年ころから『経済と社会』に含まれるさまざまな論文をつづりはじめ、体系的な社会学を構築しました。また、1911年からは『世界宗教の経済倫理』の執筆を開始し、未完に終わるものの、古代ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教から、カトリック、イスラム、プロテスタンティズムまでを俯瞰する壮大な研究でした。

いっぽう、ウェーバーは、1914年に第一次世界大戦が始まると、「ドイツ政治」の遅れを批判したり、連合国と早く講和条約を結べといった政治的発言を活発に行うとともに、ハイデルベルクの陸軍野戦病院に勤務するなど、行動力も伴う人物でした。

1918年には、ウィーン大学に招かれて再び教壇に立ち、『職業としての政治』を講演しました。国家・権力・リーダーシップ・権威(カリスマ的権威、伝統的権威、合理的合法的権威)、組織はどうあるべきかなどを説く内容は、大きな反響を呼んで、翌年出版されました。日本でも、丸山眞男、大塚久雄らたくさんの社会学者に強い影響を与えています。


「6月14日にあった主なできごと」

1571年 毛利元就死去…戦国時代に全中国地方と四国の一部を支配し、毛利家の最盛期をつくった毛利元就がなくなりました。

1811年 ストー夫人誕生…キリスト教人道主義の立場から、黒人奴隷の悲惨な境遇に心を痛め『アンクル・トムの部屋』を著したアメリカの女流小説家 ストー夫人 が生まれました。同書刊行から9年後に南北戦争がおきたため[戦争を巻きおこした小説]といわれるほど人々の支持を受けました。

1910年 『遠野物語』発刊…古くから庶民のあいだに伝え受けつがれてきた民話、生活のすがたや文化などを研究する学問「民俗学」を日本に樹立した学者 柳田国男 が代表著作『遠野物語』を刊行しました。この本で、岩手県遠野地方に伝わる民話が全国的に広まりました。

今日6月13日は、明治時代の探検家で、千島探検、北極探検などをへて、南極を探検したことで知られる 白瀬矗(しらせ のぶ)が、1861年に生まれた日です。

秋田県の現・にかほ市にある寺の住職の長男として生まれた白瀬は、幼い頃から冒険心にとみ、野ぎつねと戦ってきつねののシッポをもぎとったほど腕白でした。11歳の頃に寺子屋の教師から北極の話を聞き、探検家を志すようになります。教師は白瀬に、酒・煙草・茶・湯を絶ち、寒くても火にあたらないという5つの戒めを教えました。白瀬はやがて、この教えを守るようになり生涯守り続けたといいます。

16歳で上京、この時も秋田から東京まで歩き続けました。僧侶をめざすも生活が思うようにならず、軍人になろうと日比谷の陸軍学校に入校して1881年に卒業、伍長として仙台に赴任、予備役から中尉にまで出世しました。

1890年、幸田露伴の兄の郡司成忠大尉が率いる千島探検隊に加わりました。探検隊は千島に到着するまでの間に暴風雨による遭難で19名の死者を出しながらも千島列島に到着、無人島のシュムシュ島で8人の仲間と3年間の越冬生活をしました。しかし、2年目の越冬は過酷なもので、壊血病で3人が死亡、食糧不足により、やむなく愛犬を射殺してその肉を食べることで飢えをしのぐほどでした。

アラスカで半年間も北緯70度で過ごした探検後、日露戦争では遼東半島に派遣されて軍人としての仕事にはげんだ後に退職、北極探検をめざすようになりました。ところが1909年、アメリカの探検家ピアリーが北極点踏破したというニュースを聞いて方向転換、目標を南極点へ変更しました。

1910年白瀬は、南極探検費用の負担を議会に求めました。衆議院は満場一致で可決したものの、政府は援助金を出ししぶり、渡航費用は熱狂的に応援してくれた国民の義援金でまかなわれました。積載量わずか204トンという木造の漁船・隊員26名の開南丸は、この年の11月、芝浦埠頭を出港、この探検は、南緯74度16分の地点までで、結氷のためシドニーに引き返さざるをえませんでした。

白瀬隊は、内紛をおこしながらもシドニーにとどまって資金を捻出し、1912年にロス湾から南極大陸に上陸、南緯80度5分の氷原に到達しました。装備不十分なため、これ以上は進めませんでしたが、その付近一帯を「大和(やまと)雪原」と命名して日章旗を立てました。南極点到達をめざすも、アムンゼンやスコットに先を越されてかないませんでしたが、南極の気象や動植物の記録、ペンギンの胃から出てきた140個あまりの石の分類などの成果を残しています。当初、国中から「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと嘲笑をあびせられましたが、白瀬ら全員が帰国したときは、日本中を歓喜のうずに沸きあがらせました。

しかし、晩年の白瀬は不遇でした。南極探検で負った借金の返済に追われるなど苦労が続き、1946年に栄養失調で亡くなりました。


「6月13日にあった主なできごと」

1582年 明智光秀死去…羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、主君 織田信長 を討った明智光秀を「山崎の合戦」で破り、敗走中の光秀は農民に刺殺されたといわれています。

1931年 北里柴三郎死去…ドイツのコッホに学び、ジフテリアや破傷風の血清療法の完成やペスト菌の発見など、日本細菌学の開拓者 北里柴三郎 亡くなりました。

1948年 太宰治死去…「人間失格」 「走れメロス」 「斜陽」 「晩年」「ヴィヨンの妻」などを著した作家 太宰治 が、玉川上水で心中しました。(遺体発見は19日)

今日6月10日は、古代マケドニア王で、ギリシア、エジプトを従え、ペルシア帝国を滅ぼして、3大陸にまたがる世界帝国を築き上げたアレクサンドロス(英語読み・アレクサンダー)3世が、紀元前323年33歳の若さで急死した日です。その偉大な生涯により「大王」と尊称されています。

古代マケドニアは、東に大帝国ペルシア、南西に古代ギリシアの2大勢力にはさまれた小国でした。

マケドニア王フィリッポス2世は、紀元前356年に生まれたわが子アレクサンドロスに優れた教育をさせたいと、アテネの哲学者・教育者として著名だった アリストテレス を教師として招きいれました。都ベラから離れたところにつくられた学園で、アリストテレスはおよそ8年間、アレクサンドロスとその学友たちに、ギリシアの基礎的な教養を身につけさせました。「学友」たちはのちにアレクサンドロスを支える将軍となり、師弟はアレクサンドロスが亡くなるまで深い交流をつづけたといわれます。

紀元前338年フィリッポス2世は、18歳で初陣のアレクサンドロスを一軍の将として引き連れてギリシアに出兵。カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を打ち破り、全ギリシアを制圧しました。この勢いでペルシア東征を計画しましたが、謀反にあって暗殺されてしまいます。

20歳の若さでマケドニア王となったアレクサンドロスは、敵対者を排除して、父の遺志をひきついで紀元前334年、ペルシア東征に出発しました。カリスマ性のあるアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍(歩兵3万2千・騎兵5100)は、小アジアを東進し、イッソスの戦いで、10万を誇るペルシア軍を敗走させました。シリア、フェニキアを屈服させるとさらに南下してエジプトに入り、傘下におさめました。

そして紀元前331年、メソポタミア地方に向かったアレクサンドロス軍は、ガウガメラの平原で、20~30万といわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を激戦の末に打ち破り、繁栄を誇ったペルシア帝国を滅ぼすことに成功。アレクサンドロスは、休む間もなくインド遠征を目ざしましたが、部下たちはみな疲れきったため、やむなく兵をひき返すことにしました。こうして10年も続いた大遠征が終わりました。

アレクサンドロスは、優れた兵法と、あふれる勇気の持ち主でしたが、アリストテレスの指導を取り入れて、学術も重要視したため、遠征には科学者も同行させていました。ナイル川の水源やペルシア航路などの調査、自分の名をつけたアレキサンドリア市をあちこちに建設し、ギリシアの没落市民をここに移住させました。帝国内に共通貨幣を流通させることにもつとめ、征服地の文化も積極的に取り入れました。このギリシアとオリエントの東西融合文化は、のちに「ヘレニズム文化」とよばれ、アレクサンドロス帝国とその後継王朝へ根づかせ、古代史を大きく変えていくのです。

なお、アレクサンドロスの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」2巻目「アレクサンドロス」をぜひご覧ください。


「6月10日にあった主なできごと」

1017年 源信死去…平安時代中ごろの天台宗の僧で、『往生要集』を著して浄土教を広め「恵心僧都(えしんそうず)」と讃えられた源信が亡くなりました。

1628年 徳川光圀誕生…水戸黄門の名でしたしまれ、徳川家康の孫にあたる第2代水戸藩主の 徳川光圀 が生まれました。

1863年 緒方洪庵死去…大阪に適々斎塾(適塾)を開き、福沢諭吉や大村益次郎らを育てた教育者として、また蘭医として種痘を広め天然痘の予防に尽力した 緒方洪庵 が亡くなりました。

1920年 時の記念日…「日本書紀」によると 天智天皇(中大兄皇子) が「漏刻」という水時計を作り鐘を打った日と記されています。東京天文台と生活改善同盟会はこれを記念して「時間を大切にすることを、改めて考え直そう」と呼びかけ、6月10日を「時の記念日」に制定しました。

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