児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年06月

今日6月23日は、大正から昭和初期に活躍した洋画家の岸田劉生(きしだ りゅうせい)が、1891年に生まれた日です。

明治の先覚者として名高いジャーナリスト岸田吟香(ぎんこう)の子として東京銀座に生まれた劉生は、絵の好きだった父や乳母の影響を受けて、幼い頃から絵が大好きでした。小学生の時には同級生と作った雑誌にさし絵などを描くほどでした。

1908年に東京高等師範(のちの東京教育大)を中退すると、黒田清輝 の主宰する白馬会美術研究所に入って洋画を学び、1910年には早くも文展(文部省美術展)に2点の作品を入選させています。やがて、『白樺』主催の美術展がきっかけになって、柳宗悦や武者小路実篤らと知り合ううち、ゴッホやルノアール、セザンヌといった後期印象派の絵に共感しました。白馬会を離れると、1912年に同志となった 高村光太郎 や萬鉄五郎らと「フューザン会」を結成します。この会の第1回展に14点を出品したのが、画壇への本格的なデビューとなりました。その後、北欧風の写実的な絵画に感化を受け、細密描写をするようになり、1915年に「草土社」を起こすと、「草土社調」といわれる褐色を基調とした絵に変わっていき、『切通しの写生』など風景画の佳作を残しています。

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しかし、劉生の代表作といえば、1918年頃からから描きだした娘麗子の肖像でしょう。浮世絵や中国の宋や元の時代の絵に関心を抱き、自身の絵にも東洋的な味わいを加えてみたいと、わが子をモデルに表現したのでしょう。たくさんの麗子像を描いたために、劉生を「麗子像の画家」という人さえあるほどです。

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なお劉生は、1920年、30歳になったことを期に日誌をつけはじめました。1929年に38歳の若さで亡くなるまで書き続けたため、劉生が何を見つめ、どんな人たちと交わってきたかがよくわかります。さらに、随筆にも優れ、オンライン図書館「青空文庫」では、「ばけものばなし」など3点が公開されています。


「6月23日にあった主なできごと」

1794年 水野忠邦誕生…江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる政治家 水野忠邦 が生まれました。

1908年 国木田独歩死去…『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『源叔父』 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した 国木田独歩 が亡くなりました。

1967年 壺井栄死去…『二十四の瞳』『坂道』『母のない子と子のない母と』などを著した女流作家 壺井栄 が亡くなりました。

今日6月22日は、イタリア・ルネサンス期の政治思想家で、フィレンツェ共和国の外交官だったマキャベリーが、1527年に亡くなった日です。

ニッコロ・マキャベリーは1469年、フィレンツェの貧しい貴族の家に生まれました。しかし父母の愛情につつまれながら、ラテン語を学び、ローマ・ギリシアの古典に親しむかたわら、法律や政治に関心を持つようになりました。当時のフィレンツェは、メディチ家の全盛期で、大ロレンツォによる独裁が行われ、ルネサンスの学芸が華やかにさかえていました。そのため、マキャベリーは、教会の権威より、人間を大切にする人文主義的な考えをするようになります。一方、フランス軍がフィレンツェに侵入したり、大ロレンツォが亡くなると、メディチ家を追放したサボナローラが独裁政治を行うものの失脚して処刑されるなど、フィレンツェの激動期を体験しました。

1498年マキャベリーは、才能を買われ、わずか29歳でフィレンツェ共和国十人委員会の書記局長に抜てきされます。政府の外交と軍事を担当したことで、内政や軍制の整備に取り組み、外交使節としてフランスや神聖ローマ帝国など、各国の為政者とふれあうことも体験しました。さらに古典から学んだ歴史上の人物たちの行動をさぐるうち、政治は道徳によって動くのではなく、権力的なかけひきによるものだと考えるようになりました。こうして、1512年までの14年間、共和国の外交官としての役割をはたし、市民軍隊の設置など、共和国の独立と安定のために働きました。

ところが1513年、ハプスブルク家スペインの後押しでメディチ家がフィレンツェ共和国を倒して復活すると、マキャベリーは職を解かれて、一時逮捕されますが、その後フィレンツェ郊外の山荘にひきこもりました。読書にあけくれながら、これまでの政治家としての経験を振り返り、フィレンツェを含め、その後のイタリアはどうあるべきかを深く考えるようになりました。

そんな中で著したひとつが、有名な『君主論』です。君主はいかに権力を維持し、政治を安定させるかという政治手法を書き記したもので、この本の中でマキャベリーは、「君主はキツネ(知略)とライオン(武力)の力で、もっともよい手段で政治を行うべきである」と、現実主義的な政治理論を唱えました。そして、理想の君主チェーザレ・ボルジアを例にあげながら、イタリア半島はひとつの国に統一すべきと考えたのでした。ところが、のちに「マキャベリズム」という言葉が「目的のためには、手段を選ばず」といった、ずるがしこい策略と受け取られるようになったのは、マキャベリーの本意ではなかったに違いありません。

1516年、メディチ家のロレンツォが就任すると、マキャベリーはこの『君主論』をロレンツォに献呈しました。こうしてメディチ家政権下で、アドバイザー的役割をするようになったマキャベリーでしたが、1527年に発生した神聖ローマ帝国によるローマ略奪をきっかけに、メディチ家がフィレンツェから再追放されると、マキャベリーもまた追放され、失意のうちに急死したのでした。


「6月22日にあった主なできごと」

1633年 ガリレオ終身刑…イタリアの物理学者 ガリレオ は、宗教裁判で終身刑を言い渡されました。当時、地球は動かず太陽が地球を回っているという「天動説」がローマ教皇庁の考えでした。しかし、ポーランドの天文学者 コペルニクス のとなえた「地動説」を支持、みずからの観測を重ねて本に著したことで、教会の怒りをかい、罰せられたのでした。病身だったガリレオは、厳しい取調べに、天動説を認める書類に署名しましたが「それでも地球は動いている」とつぶやいたといわれます。なお、この判決が359年後の1992年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、教会の誤りを公式に認めました。

1752年 雷は電気を証明…アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍した フランクリン が、たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしました。これがきっかけとなって避雷針を発明します。

1941年 独・ソ戦開始…史上最大の死傷者を出した第2次世界大戦のうちでも「最大の戦い」といわれるドイツとソ連(独・ソ)戦が始まりました。

今日6月21日は、戦後に活躍した考古学者で、「岩宿遺跡」を発見し、日本に旧石器時代があったことを証明した相沢忠洋(あいざわ ただひろ)が、1926年に生まれた日です。

東京の羽田に生まれた相沢は、幼いときに両親が離婚したため、浅草の履物屋で働きながら、近くにある小学校の夜間部で学びました。その頃から、古代の遺物に興味をおぼえ、帝室博物館(今の東京国立博物館)に通いながら、独学で考古学を学びました。小遣いをはたいて、石器の収集をしたりもしました。

1944年に海軍の志願兵として出征し、駆逐艦の乗組員となりました。終戦とともに群馬県桐生へ住むようになると、子どものころからの夢である考古学への思いは増すばかりで、研究の時間が取りやすい納豆の行商をはじめました。赤城山のふもとの村々を行商するかたわら、縄文土器や石器を採集しては、研究にはげんでいました。

1949年、桐生市郊外にある岩宿の村道の赤土の崖から、槍先形石器など細石器だけの遺跡を発見しました。旧石器ではないかと直感した相沢は、その石器を持って自転車で東京へ出向き、生涯の師となる明治大学院生だった芹沢長介(後の東北大学教授)と出会いました。当時の考古学界では、日本人の歴史は新石器の縄文時代からとされていて、激しい噴火の続いた旧石器の時代には人間が住めなかったと、その存在を否定されていたのです。

この石器を相沢から見せられた芹沢は、上司に連絡、これを受けて同年秋に明治大学は、岩宿遺跡の本格的な発掘を実施しました。その結果、石器が発見された赤土層が「ローム層」といって数万年前にふった火山灰が積もってできた地層にあたるため、日本に旧石器時代の存在が証明されることとなりました。しかし当時、この貴重な発見について、相沢の存在はほとんど無視されました。単なる調査のあっせん者として扱われたばかりか、学界の一部や地元住民から「行商人風情」の売名行為と蔑視され、詐欺師という人さえいました。

しかし、相沢の考古学への情熱は、そんな中傷・誹謗によって冷めるばかりか、地道な研究活動を続け、さらに多くの旧石器遺跡を発見していくのです。しだいに相沢への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がなされるようになります。1967年には吉川英治文化賞を受賞したばかりか、1972年には宇都宮大学の講師となりました。そして、1989年に亡くなるまで、新たな旧石器を求めて、遺跡の発掘を追究しつづけたのでした。まさに、考古学に精魂をこめた「日本のシュリーマン」と讃えられる生涯でした。著書に『「岩宿」の発見』他があります。また、赤城山山麓には「相沢忠洋記念館」があり、発掘した石器類の展示はもちろん、「太古への夢、岩宿遺跡」の放映がされているそうです。


「6月21日にあった主なできごと」

1793年 林子平死去…江戸幕府の鎖国政策に対して警告を発した海防学の先駆者 林子平 が亡くなりました。

1852年 フレーベル死去…世界で初めて幼稚園をつくるなど、小学校就学前の子どもたちのための教育に一生を捧げたドイツの教育者 フレーベル が亡くなりました。

1905年 サルトル誕生…「実存主義」を唱えたフランスの哲学者で、小説家、劇作家、評論家としても活躍した サルトル が生まれました。

今日6月20日は、音楽と喜劇を融合した喜歌劇(オペレッタ)の原型をこしらえた作曲家オッフェンバックが、1819年に生まれた日です。

ジャック・オッフェンバックは、ドイツに生れましたが、1833年にチェロを学ぶためにパリ音楽院に入学、卒業後まもなくパリ・オペラコミック座のチェロ奏者となりました。そのかたわらシャンソンの作曲をするうちに有名になり、1843年にテアトロ・フランセの楽長に就任、1855年には「ブック・パリジャン」という劇場を自ら作り、そこの座長になって、たくさんのオペレッタを上演して、人気を博すようになりました。

劇場をはじめてから3年後の1857年に、『天国と地獄』を上演したところ、大評判となって、オッフェンバックの名は世界中に知られるようになります。この作品は、実は18世紀オーストリアの作曲家ブルックが、ギリシア神話をもとにしたオペラ『地獄のオルフェウス』をもとにしたものです。ヨーロッパでは子どもたちでも知っている有名な物語を、面白おかしくオペレッタに作り上げたために、おしゃれでユーモアに富むパリの人々を、爆笑のうずに巻きこんだのでした。パリの華やかな「フレンチカンカンの踊り」といえば誰もが耳にしたことがあると思いますが、この曲も 『天国と地獄』序曲 の一部にあるものです。

オッフェンバックは1880年に亡くなるまでに、たくさんのオペレッタを次々に発表していきました。しかし、大衆の人気の裏で、知識人には眉をひそめる人も多く、作家のゾラは「オペレッタなどは、邪悪な獣のようになくなるべき存在」とまで書いています。

晩年は、あまりに内容が通俗的になったために、一時の人気を失いかけました。オッフェンバックは、オペラ『ホフマン物語』に新生をかけようとしていました。完成寸前、彼は病のためにこの世を去り、死後にギローが補作して1881年に上演。この作品は、オッフェンバック最大の傑作といわれています。劇中もっとも美しい場面で歌われるロマンチックな歌 『ホフマンの舟唄』 など、オッフェンバックを一流のオペラ作曲家として、音楽史にさんぜんと輝く存在に格上げしました。

なお、オッフェンバックのいくつかのオペレッタは、大正時代後期から戦前の浅草オペラで人気を呼び、特に「ジェロルスティン大公妃殿下」は、「ブン大将の唄」としてエノケンの歌で大ヒットしました。


「6月20日にあった主なできごと」

941年 藤原純友死去…瀬戸内海の海賊の首領として、武士による独立国家を関東に築こうとした平将門と通じ、朝廷軍を悩ませた藤原純友が、刑死しました。

1751年 徳川吉宗死去…江戸幕府第8代将軍で、「享保の改革」という幕政改革を断行した 徳川吉宗 が亡くなりました。

1837年 ビクトリア女王即位…イギリス史上65年という最長の王となり「大英帝国」の絶頂期を築いた ビクトリア女王 が即位しました。

今日6月17日は、3大バレー曲『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』など、20世紀音楽最初の巨人作曲家といわれるストラビンスキーが、1882年に生まれた日です。

イーゴル・ストラビンスキーは、帝政ロシアの首都だったペテルブルク(現サンクトペテルブルク)近郊に生まれました。マリンスキー劇場の主役歌手だった父は、幼いころからストラビンスキーにピアノや作曲を教えましたが、音楽家にする気はなく、ペテルブルク大学で法律を学ばせました。しかし、在学中に父が亡くなるとまもなく、ストラビンスキーは、鬼才といわれるリムスキー・コルサコフと知り合う機会にめぐまれました。そしてコルサコフから作曲法や管弦楽法を学ぶうち、作曲家になる決意をしたのでした。

二人の出会いは、ストラビンスキーにとって目覚ましい実りとなりました。まもなく発表した『幻想的スケルツォ』『花火』などの管弦楽曲を聞いたロシア・バレー団の主宰者で興行師のディアギレフは、ストラビンスキーの才能を高く評価し、自身のバレー団のための作曲を依頼しました。こうして完成したのが、1910年にパリのオペラ座で初演されたバレー曲 『火の鳥』 です。激しいリズムと新鮮なオーケストレーション、土俗的なロシア民族音楽色の濃い作品は、センセーショナルな成功をおさめました。

強引で商魂たくましいディアギレスは、さらに2つのバレー曲の注文をし、上げ潮に乗ったストラビンスキーもこれに応え、1911年に『ペトルーシュカ』、1913年に『春の祭典』を立て続けに完成させました。特にパリのシャンゼリゼ座で初演された 『春の祭典』 は、最初の音が出たときから客がざわめきだし、やじを飛ばしたり口笛を吹く人、感動の拍手をする人と、賛否両論のうずに巻きこんだといわれ、革命児ストラビンスキーの名は、たちまちヨーロッパ中に広まっていきました。

1914年に第1次世界大戦が始まるとスイスへ移住、1917年のロシア十月革命により、故郷の土地は革命政府に没収されてしまいました。大戦を境に、ストラビンスキーの作風は、それまでの原始的エネルギーを吹き立たせたような大管弦楽から、バロック風のシンプルな編成の作品へと変わっていきました。1920年頃から1950年頃までは、ストラビンスキー「新古典主義の時代」といわれています。

1939年には、ヨーロッパの戦火を逃れてアメリカに移住、1950年頃からは『3楽章の交響曲』など、宗教的な新しい作風を模索しながら、自分のための革新的な作曲活動を続け、1971年にニューヨークで亡くなりました。


「6月17日にあった主なできごと」

1869年 版籍奉還…明治新政府は、藩の土地(版)と人民(籍)をこれまで治めていた藩から、天皇に返す「版籍奉還」を開始しました。

1877年 モース来日…アメリカの動物学者のモースが来日し、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘したことがきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。

1972年 ウォーターゲート事件…ワシントンのウォーターゲートビルにあるアメリカ民主党本部に、盗聴器をしかけようとしていた5人組が逮捕されました。共和党のニクソン大統領が、次の大統領選に有利にするため、相手方の様子を知ろうとしたためとされ、1975年8月、ニクソンは大統領辞職に追いこまれました。

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