児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年06月

今日6月30日は、幕末から明治初期に活躍したイギリスの外交官で、英国公使館通訳、駐日英国公使など、日英間の融和につとめたアーネスト・サトーが、1843年に生まれた日です。

スウェーデン人貿易商の子としてロンドンに生まれたサトーは、子どもの頃から聡明で、14歳のときにたまたま読んだ本から、東方には、日本や中国といった自分の知らない文明国があることを知りました。大学を飛び級で卒業後、北京で漢字学習をしたあと、日本駐在通訳に応募して1862年、念願の来日を果たします。

イギリス公使館の通訳生として勤務をはじめたサトーは、宣教師らから日本語を徹底的に学び、1865年に通訳官、さらに日本語書記官に昇格、通訳としてばかりでなく、外交官として活躍しました。本国に「徳川の将軍は大名たちの盟主ともいうべき存在であって、幕府と外交交渉を行うことは無意味。イギリスとしては天皇を奉る雄藩連合に手を貸し、日本の政治形態を一新させ、対日交易の円滑化を図るべきである」と提言し、その後のイギリスの対日外交路線となっていったといわれています。

サトーは、1883年にシャム総領事となって日本を離れますが、1895年にイギリス公使として再来日して1900年まで計25年間日本に滞在、日本名を「佐藤(薩道)愛之助」として、日本の歴史、宗教、風俗などの研究論文を残しています。

1900年からサトーは、駐清公使として中国に赴任、義和団の乱の後始末をつけ、日露戦争を見とどけたあと、1905年に帰国。引退後は著述に従事しました。1921年には回想記『一外交官の見た明治維新』を著わし、生麦事件から発生した薩英戦争、四国連合艦隊による下関攻撃、王政復古による新政府誕生、戊辰戦争に至るまで、間近に見た幕末から明治維新という日本の激動期を、外交官の眼でしっかり記述したばかりか、当時の旅籠や食事などの風俗まで記しています。幕府役人の外交交渉力の未熟さや、西郷隆盛が優れた人物であると見抜くなど、サトーが見識のある人物であることがよくわかります。

なおサトーは、正式な結婚はしていませんが、内妻との間の子・2男1女を認知し、次男の武田久吉はロンドン大学などで学び、日本を代表する植物学者として、高山植物に関するすぐれた業績を残しています。最晩年は孤独のさみしさに、日本へ移住したいと熱望しましたが、1929年、病に倒れて亡くなりました。


「6月30日にあった主なできごと」

1898年 日本初の政党内閣…それまでの内閣は、長州藩や薩摩藩などの藩閥が政権を担当していましたが、自由党と進歩党がひとつになった憲政党が、大隈重信を首相に、板垣退助を内務大臣に内閣が組織されたため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板(わいはん)内閣といわれました。しかし憲政党に分裂騒ぎがおき、組閣後4か月余りで総辞職を余儀なくされました。

1905年 相対性理論…20世紀最大の物理学者といわれるアインシュタインが、相対性理論に関する最初の論文「運動物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌に発表しました。

今日6月29日は、ポーランドのピアニスト・作曲家で、第1次世界大戦後に発足したポーランド共和国の第3代首相をつとめたパデレフスキーが、1941年に亡くなった日です。

1860年、ポーランド東南部の村クリロフカ(現・ウクライナ)の貴族の家に生まれたイグナツ・パデレフスキーは、幼年期から音楽に興味を示し、個人教師についてピアノを学びました。1872年、12歳でワルシャワ音楽院に進学し1878年に卒業すると、しばらく母校でピアノを教えていましたが、より技術を向上させようと、1881年にベルリンに留学します。

1884年、まだ満足できないパデレフスキーは、ウィーン音楽院でレシェティツキーに入門、ピアノ演奏は、いっそう高度な域に達しました。そして、1887年にはウィーンでデビューを果たし、ヨーロッパ各地で演奏会を開催すると、大変な人気を集めるようになりました。特に1889年のパリ、1890年のロンドン会場では、観客を大熱狂に巻きこんだといわれ、ヨーロッパ中にその名がひびきわたりました。1891年には、アメリカ合衆国でも同様の人気を博し、パデレフスキーの名は、高水準のピアノ演奏のことを指すまでになりました。

1900年以降は、演奏ばかりか、作曲家としても有名になり、交響曲、協奏曲、ピアノ曲などたくさんの作品を遺しています、1909年にワルシャワ音楽院長に就任。演奏会の収益を、社会事業や寄付活動につぎこみ、貧しい農家の子女のための学校を開いたりしました。

第1次世界大戦がはじまると、ドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国に占領されていたポーランドは、独立を求めて戦っていました。パデレフスキーは、祖国独立のために努力を重ね、1918年に独立を果たしますが、首相がなかなか定着しません。国民に圧倒的な人気のあるパデレフスキーがかつぎだされて、1919年、ポーランド首相と外務大臣を兼務しました。ポーランドを代表して、ベルサイユ講和会議に出席したり、国際連盟ポーランド大使を勤めたりしました。

1922年に政治の道から引退して、演奏活動に復帰したパデレフスキーは、復帰後の最初の演奏会をニューヨークのカーネギー・ホールで催し、大成功を遂げました。やがて、アメリカ、スイスで生活するようになりましたが、第2次世界大戦が勃発すると、老骨に鞭打って国政に復帰、1940年には、ロンドンのポーランド亡命政府の指導者になりました。80歳の芸術家が、再びポーランド回復基金を発足させ、財源確保のために何度も演奏活動を行い、そんな演奏旅行のさなか、ニューヨークで亡くなりました。

代表曲は 『メヌエット』 で、「演奏会用ユーモレスク」(6曲)の第1曲目にあたる作品。本人も好んで弾いたそうで、今も人気のある愛らしい小品です。


「6月29日にあった主なできごと」

1866年 黒田清輝誕生…『湖畔』『読書』などの作品を描き、わが国の洋画の発展に大きな功績を残した画家 黒田清輝 が生まれました。

1903年 滝廉太郎死去…『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した 滝廉太郎 が亡くなりました。

1932年 特高の設置…特別高等警察(特高)は、日本の主要府県警の中に設置された政治警察で、この日に設置されました。警察国家の中枢として、共産主義者はもとより、自由主義者や宗教人にも弾圧の手をのばし、国民の目や耳や口を封じ、たくさんの人々を自殺においこみ、虐殺させた思想弾圧機構ともいえるものでした。

今日6月28日は、20世紀を代表する名人のひとりといわれた落語家の5代目古今亭志ん生(ここんてい しんしょう)が、1890年に生まれた日です。

東京神田に、貧しい警官の5男に生まれた志ん生(本名・美濃部孝蔵)は、11歳の頃から奉公先を転々としながら生活するうち、1907年に橘家円喬に入門、三遊亭盛朝を名乗りました。以後、朝太、園菊、馬太郎、志ん馬、馬生など、1931年に(5代目)古今亭志ん生を名乗るまで、16回も改名しました。それも、貧乏生活を送ってきたことによる借金からの逃亡と、酒による放蕩ぶりがたたったためといわれています。

極貧生活を送りながらも、「天衣無縫」といわれる芸風と、鋭い諧謔(かいぎゃく)精神を磨き上げ、他に追随を許さない独特の語り口をつくりだしました。「描写と格調の」名人・(8代目)桂文楽に対し、「感覚と即妙の」志ん生といわれています。文楽が覚えこんだ落語は、一言半句違えずに語るのに対し、志ん生は、演ずる落語の骨子だけを頭に入れ、ぶっつけ本番、客の反応やその日の自分の気分で自在に展開させるというものでした。その名人芸は、たくさんのファンを魅了しました。

エピソードもたくさん残されていて、酒に酔ったまま高座に上がって、そのまま居眠りを始めてしまったのを見た客は、怒るどころか、「酔っ払った志ん生なんざ滅多に見られない」と、寝たままの志ん生を楽しそうに眺めていたといいます。まさに、「高座の姿そのものが落語」のようでした。

(6代目)三遊亭円生は、絶妙な間や気品といった話芸を磨いて落語を究めた名人として、志ん生と人気を二分しましたが、円生は「あたしとあの人(志ん生)の落語を剣法に例えると、あたしのは道場の剣法。あの人のは野武士の真剣勝負の剣」と語り、芸の差を剣道に例えて脱帽させたほどでした。

1957~63年まで、落語協会の会長をつとめ、1973年に心筋梗塞で亡くなりました。当たり芸は、『火焔太鼓』 『お直し』『らくだ』『妾馬(八五郎出世)』『三枚起請』など。なお、1928年生れの長男(10代目金原亭馬生)、1938年生れの次男(3代目古今亭志ん朝・2001年死去)も、著名な落語家です。


「6月28日にあった主なできごと」

1491年 ヘンリー八世誕生…首長令を発布して「イングランド国教会」を始め、ローマ法王から独立して自ら首長となった ヘンリー8世 が生まれました。

1712年 ルソー誕生…フランス革命の理論的指導者といわれる思想家 ルソー が生まれました。

1840年 アヘン戦争…当時イギリスは、中国(清)との貿易赤字を解消しようと、ケシから取れる麻薬アヘンをインドで栽培させ、大量に中国へ密輸しました。清がこれを本格的に取り締まりはじめたため、イギリスは清に戦争をしかけて、「アヘン戦争」が始まりました。

1914年 サラエボ事件…1908年からオーストリアに併合されていたボスニアの首都サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が過激派に暗殺される事件がおこり、第1次世界大戦の引き金となりました。

1919年 ベルサイユ講和条約…第1次世界大戦の終結としてが結ばれた講和条約でしたが、敗戦国ドイツに対しあまりに厳しい条件を課したことがナチスを台頭させ、第2次世界大戦の遠因となりました。

1951年 林芙美子死去…『放浪記』など、名もなく・貧しく・たくましく生きる庶民の暮らしを、みずからの体験をもとに描いた作品で名高い女流作家 林芙美子 が亡くなりました。

今日6月27日は、歌曲『ローレライ』などたくさんの歌曲を作曲したドイツのジルヒャーが、1789年に生まれた日です。

ドイツ南部のシュナイトという町で生まれたフリードリッヒ・ジルヒャーは、父に音楽の手ほどきを受けながら、オルガニストのアウバーレンに学びました。ジルヒャーの才能を見抜いたアウバーレンは、ジルヒャーを音楽教師にしようと、徹底的な教育をします。やがて、家庭教師や女学校の教師をするようになったジルヒャーは、のちに『魔弾の射手』を発表するウェーバーと出会ってふれあううち、音楽家として生きていくことを決意します。そして、1815年からシュトゥットガルトに移り住み、個人教授をしながらピアノと作曲を学びました。

1817年からテュービンゲン大学の音楽指導者となり、合唱団や小規模なコーラスグループを組織するようになりました。そのうち、大衆への音楽教育をするためには、民謡による演奏が最も適していると考えるようになり、ドイツばかりでなく各国の民謡を収集して編曲するとともに、250曲を越える歌曲を作ったといわれています。

『ローレライ』 は、ジルヒャーが1838年に作曲したもっとも名高い歌曲で、歌詞は、ドイツの著名な詩人ハイネの『歌の本』より「帰郷」の2節目にある詩が用いられました。日本では、1909年の『女声唱歌』に掲載された、次の近藤朔風による訳詞が広く知られています。

1、なじかは知らねど心わびて/昔のつたえはそぞろ身にしむ/さびしく暮れゆくラインのながれ/いりひに山々あかくはゆる

2、うるわしおとめのいわおに立ちて/こがねの櫛とり髪のみだれを/梳きつつくちずさぶ歌の声の/くすしき魔力(ちから)に魂(たま)もまよう

3、こぎゆく舟びと歌に憧れ/岩根もみやらず仰げばやがて/浪間に沈むるひとも舟も/くすしき魔歌(まがうた)うたうローレライ

口語に訳してみると「なぜかはわからないけれど、心わびしくて、昔の伝説が心から離れない。夕暮れにライン川が流れる時、美しい乙女が岩に座って、髪をくしけずる。その歌声は、魔物のように人を惑わせ、舟をこぐ人が歌に魅かれて見上げれば、岩に気づかず、波間に沈む。不可思議で魔のような歌ローレライ」……といったような内容でしょうか。

「ローレライ」というのは、ライン川中流の右岸ザンクト・ゴアルスハウゼン近くにある岩山の名で、水面から130mほど突き出ています。岩のあたりは、川幅が少し狭いために流れが急になるため、昔から遭難する船が多かったいわれ、いくつかの妖精伝説が残されています。そのひとつが、不実な恋人に絶望してライン川に身を投げた乙女が水の精となって、魔力の歌で漁師を誘惑し、岩山を通りかかった舟を次々と遭難させていったというもの。

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私も過去に2度ほどライン下りを体験し、このあたりを通過しましたが、いかにもラインのゆったりとした流れにふさわしい、魅力ある歌だと思いながら口ずさんだものです。


「6月27日にあった主なできごと」

1809年 上田秋成死去…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる 「雨月物語」 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の 上田秋成 が亡くなりました。

1850年 小泉八雲誕生…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと 小泉八雲 が生まれました。

1880年 ヘレンケラー誕生…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍したアメリカの ヘレンケラー が生まれました。

「おもしろ古典落語」の27回目は、『厩(うまや)火事』というお笑いの一席をお楽しみください。

「どうしたい、お崎さん、また夫婦げんかかい?」「そうなんでございますよ、今日も、仕事で朝早くから働きづめ、いつもは5時頃に帰るんですけど、途中であたしの姉弟子にあいましたら、指をケガしちゃって当分髪を結うことができないって、で『おまえさん、あたしのお顧客(とくい)で、どうしても今日行かなくちゃならない、すまないが代わりに行ってくんないか』っていわれまして、あたしが病気にでもなって、お願いすることもありますんで、『よろしゅうございます』って、伊勢屋さんていう家に行ったんです。すぐに、おかみさんの頭ァ結っちまった。この髷(まげ)がちっちゃいから、わけないんで…すると『娘が、明日芝居へ行きたいってぇますから、ぜひひとつ結ってもらいたい』って。商売ですからねぇ、ところがこの娘の毛がくせっ毛で、『ここが出てるの、ここが引っこんでるの』って、頭の悪い人ほど髪型ァやかましいもんで、ごまかして結っちまったんですけど、たしかに少しは遅くなりましたよ、家についたのが7時過ぎでしたから。何が気に入らないのか、真っ青な顔して『どこォ遊び歩いてやがんだ』こういきなり言うんですよ。…仲人のだんなの前ですが、私が、遊び歩いているわけないじゃありませんか」「まてまて、おまえにあたしが叱られているようだな、まるで…」

「あんまりくやしいから、私言ってやったんですよ。『誰のおかげで、そやって、昼間っから家で遊んでいられるんだ』って。向こうも男ですから、負けてはいません。『なにを生意気なことを言いやがる、このおかめッ』ていうんで、あたしも腹が立って『ひょっとこッ』ってやったんですよ。そしたら向こうが『般若(はんにゃ)』っていうから、私が『外道(げどう)』って…」「おいおい、面づくしでけんかしてやがる。で、おまえさん、どういう心持ちであたしんとこへ出てきたんだい?」「今日っていう今日は、もう愛想がつきました。せっかく仲人をしていただきましたが、だんなに別れさせてもらおうと思って……」「ああ、そうかい。いいでしょ、いいでしょ。お別れなさい。お前さんの亭主の八五郎ってのは、あたしのほうから出た人間だ。だからかばわなくちゃならない。だから言わなかったが、あたしにゃ、気に入らないことがあるよ。2、3日前に、お前の家の前まで行ったんだ。すると格子戸が少しばかり開いているだろ…、不用心だからって、声をかけた。まぁ、『お入んなさいまし』って、そばにあった片づけたお膳の上を見ると、刺身を1人前とったとみえる。それはいいとしても、酒が1本乗ってる。よく考えてごらんよ。女房が昼間、油だらけになって稼いでる留守に、家で酒飲んでちゃ困るだろ?」

ところが、お崎はうって変わって、「刺身を百人前あつらえて長屋じゅうに配ったとか、二升も三升もお酒飲んでひっくり返って寝ていたわけでもないのに、そんなに言わなくてもいいじゃありませんか」と、亭主をかばいはじめ、はては、あんな優しくていい人はないと、逆にノロケまで言いだします。あきれただんなは、それじゃ一つ、八五郎の心を試してみろと、参考に二つの話を聞かせました。

そのひとつが、むかし唐土(もろこし・中国)にいた孔子という偉い学者の話。孔子が旅に出ている間に、廐から火が出て、孔子が命の次に大切にしていたという白馬が焼け死にました。使用人たちは、どんなおしかりを受けるかと青くなっていましたが、帰った孔子は、馬のことは一言も聞かずに、「家の者に、けがはなかったか」といいます。使用人たちは、これほど家来を大切に思って下さる主人のためなら命は要らないと、感服したというもの。

二つ目は、麹(こうじ)町に住むさるお屋敷の殿さまの話。「猿の殿さまで?」「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」その殿様が大変瀬戸物にこっていて、それを客に出して見せるとき、奥方が運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。殿さま、真っ青になって、「皿、さらは大丈夫か。皿・皿・さら・さら・さら…」と、息もつかずに三十六回。あとで奥方の実家から、「妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておけない」と離縁され、一生さみしく過ごしたというもの。

「おまえの亭主が、孔子さまか麹町か、なにか大切にしている物をわざと壊してその心を確かめてみな。麹町の方なら望みはねぇから別れておしまい」と。帰ったお崎、たまたま亭主が、「さる殿さま」よりはだいぶ安物だが、同じように瀬戸物の茶わんを大事にしているのを思い出しました。そこで、台所でわざとすべって転びます。「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」「まあうれしい。猿じゃなくてもろこしだよ」「なんでぇ、そのもろこしってぇのは」「おまえさん、やっぱりあたしの身体が大事かい?」

「あったりめぇよ。けがでもしてみねぇ、あしたっから、遊んでて酒飲むこたぁできねぇ」


「6月24日にあった主なできごと」

672年 壬申の乱…古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」が始まりました。大海人皇子(のちの天武天皇)と大友皇子の争いで、およそ1か月続きました。

1611年 加藤清正死去…豊臣秀吉 の家臣として仕え、秀吉没後は 徳川家康 の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって熊本藩主となった 加藤清正 が亡くなりました。1562年に誕生した日でもあります。

1788年 田沼意次死去…江戸時代の中ごろ、足軽の子に生まれながら、側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった 田沼意次 が亡くなりました。

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