児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年05月

今日5月17日は、フランス革命期からナポレオンによる第一帝政期の政治家として、ナポレオンの失脚後の「ウィーン会議」では、敗戦国が戦勝国に要求をのませた外交家として評価されているタレーランが、1838年に亡くなった日です。

1754年、名門貴族の長男として生まれたタレーランは片足に障害があったため後を継げず、神学校に学んで聖職者となりました。1779年に司祭となりますが、若さと才智にめぐまれたタレーランは、パリ貴族社交界の花形になり、賭けごとや恋愛にふけるなど、その行動は自由奔放なものでした。

1788年には父の意向でブルゴーニュのオータン司教となり、翌年には三部会の聖職者議員に選ばれました。「フランス革命」がおきると、自由主義議員として教会財産の国有化政策を推進するなど活躍、1890年には国民議会議長に選出され、革命記念日には大群衆を前にミサをあげましたが、その帰りにはとばく場へ立ち寄るなど、奔放な性格は変わりませんでした。その後司教職を辞しましたが、ローマ教皇から、反カトリック教会的行為をとがめられて破門されています。

革命が急進化すると、1792年に外交使節としてイギリスに派遣されますが、フランスでロベスピエールの指導下、ジャコバン派による反対派を断頭台に送るいわゆる「恐怖政治」が吹き荒れたためにそのまま亡命し、アメリカへ渡りました。

1796年にフランスへ帰国、ナポレオンが勢力をのばしたのをみると接近してクーデターに参加、成立した統領政府で外務大臣となり、適切な外交によって、ナポレオンから高い信頼を得ました。ナポレオン皇帝就任後は侍従長も兼ねましたが、他の国ぐにと協調すべきという自論は、ヨーロッパ支配拡大をねらうナポレオンの考えに同調できず、1807年に外相を辞任。フーシェらとともに、ロシアに接近してナポレオン失脚を計画しました。

1814年にナポレオンが失脚・退位すると、イギリス・ロシア・オーストリアら連合国に請われてフランス臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後は再び外務大臣となって、90王国、53公国が参加する「ウィーン会議」にフランス代表として出席しました。この会議は、オーストリアのメッテルニヒが議長を務めるものの、各国の領土的な野心が表に出たため、紛糾を重ね「会議は踊る、されど進まず」といわれました。タレーランは敗戦国でありながら、「ヨーロッパをフランス革命以前の政治体制と国際秩序にもどすべき」という正統主義を唱えて列強の利害対立を利用、巧みな外交手腕でフランスの国益を守ることに成功しました。

その後、1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となりましたが、王党派にフランス革命期の政治活動を非難されて失脚、1830年の7月革命ではルイ・フィリップ即位に貢献し、1834年までイギリス大使を勤めるなど、40年近くもフランスの外交に力をそそぎました。

タレーランは、個性的で奔放な性格のため、嫌われることも多い反面、名外交官として高く評価する人もいます。少なくとも、長年対立関係にあったイギリスとフランスの関係を深め、両国の協調と同盟の基礎を作ったことはまちがいありません。


「5月17日にあった主なできごと」

1510年 ボッティチェリ死去…「春」「ビーナスの誕生」などの名画で有名なルネサンス期の画家 ボッティチェリ が亡くなりました。

1749年 ジェンナー死去…種痘を発明し、天然痘という伝染病を根絶させたイギリスの外科医 ジェンナー が亡くなりました。

1890年 府県制の公布…現在の都道府県のもととなる府県制が公布され、地方自治のもとができあがりました。しかし当時は、府県の知事は政府によって決められていて、公選となったのは1947年に「地方自治法」ができてからです。

今日5月16日は、青森県と秋田県にまたがる十和田八幡平国立公園にある湖「十和田湖」の開発に生涯をかけた和井内貞行(わいない さだゆき)が、1922年に亡くなった日です。

現在の秋田県鹿角市の旧南部藩士の長男として1858年に生まれた和井内が、はじめて十和田湖を訪れたのは1881年、十和田湖に近い小坂鉱山寮の役人として赴任した時でした。当時の十和田湖は、魚がまったく生息しないため、湖のぬしのせいだと信じられていました。そのため、小坂鉱山の労働者2500人のおかずの魚は、干物か塩漬けばかりです。みんなに新鮮な魚を提供できないものかと考えた和井内は、人々の反対を押し切って、湖での養殖を決意しました。そして1884年にコイの稚魚600ぴきを手に入れ、湖水に放流しました。その後12年間に放流したコイの数は3万びきを越えましたが、うまく育ってはくれても、群れる習性のないコイをつかまえるのが困難なため、結果的には失敗でした。しかし、魚が育つことを確信した和井内は、1897年鉱山を退職し、本格的に養魚事業に取り組みます。

次は、カワマスの養殖でした。日本各地のふ化場を見学したり、長男を東京の水産講習所に送って勉強させるなどして、十和田湖にマスのふ化場をこしらえ、カワマスの稚魚を放流して勝負をかけたのでした。ところが、2年がたち3年が過ぎても、網にかかったのはわずか数ひきだけです。カワマスもまた失敗でした。和井内は失敗の原因をつきとめました。マスは海の魚ですが、夏になると川をさかのぼって卵を生みます。この卵を人の手でかえして、幼魚を放流するわけですが、十和田湖の水は、奥入瀬川となって北東に流れて太平洋にそそぎます。ところが、その途中に高さ10mもの滝(銚子大滝)があって、カワマスは、その高い滝を昇ってもどることができないことに気がついたのでした。それが十和田湖に魚が住まなかった理由でもありました。そこで和井内は、魚がさかのぼれるように、滝をさけた別の川を掘ることにしました。

ちょうどその頃、北海道の支笏湖で養殖されているカバチェッボと呼ばれているヒメマスのことを知った和井内は、周囲の人たちに気ちがい扱いされながらも、全財産をはたいてヒメマスの卵を購入、ふ化させて成長した稚魚5万びきを十和田湖に放すことにしたのです。これに失敗したら、破産するしかありません。1903年の春のことでした。それから2年半後の1905年秋、十和田湖の湖面はさざなみでゆれていました。ついにヒメマスが群れをなして押し寄せてきたのです。養殖を志して22年、和井内の必死の努力が実った瞬間でした。

その後和井内は1917年に東洋一の人工ふ化場をこしらえ、近くに旅館を建てて観光客の誘致をはかりました。1921年には十和田湖の国立公園編入運動を進めましたが、翌年に亡くなってしまいました。まさに十和田湖開発にささげた人生でした。


「5月16日にあった主なできごと」

1703年 ペロー死去…『がちょうおばさんの話』(「長靴をはいた猫」「眠れる森の美女」「小さな赤ずきん」「シンデレラ」など名高い民話を語り直した話を収録)を著わしたフランスの童話作家ペローが亡くなりました。

1975年 女性初のエベレスト登頂…日本女子エベレスト登山隊の田部井淳子が、世界で初となる女子世界最高峰登頂に成功しました。さらに田部井は、1992年に女子世界初の7大陸最高峰登頂をなしとげています。

「おもしろ古典落語」の21回目は、『火焔太鼓(かえんだいこ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

道具屋の甚兵衛は、おかみさんと甥の定吉の3人暮らし。「ちょいと、おまえさん」「何だよ」「何だよじゃないよ。おまえさんほど、商売のへたな人はないね。よくも道具屋になんてなったね」「どうしてだ」「だってそうじゃないか、うちは売るのが商売だよ。今だってそうだよ、お客さんが『道具屋さん、このたんすはいい箪笥だな』っていったら、おまえさん何ていった?『いい箪笥ですとも、うちの店に6年もあるんですから』って。これじゃ、6年たってもまだ売れ残ってるのを白状するようなもんじゃないか。『この箪笥の引き出し、開けてみてくれないか』っていわれたら、『それがすぐ開くくらいなら、とっくに売れてる』…何ていういいぐさだい。お客さんびっくりしてたよ。『じゃ、開かないのかい?』『開かないことはありませんが、こないだ無理に開けようとして腕をくじいた人があります』これじゃ、買う人なんてないよ」

「正直にいってるんだ」「正直にもほどがあるっていうんだよ。おまえさん、きょうは市にいってきたんだろ?」「ああ、いったよ」「何か買ってきたのかい?」「うん、ちょいともうかりそうなものを買ってきた、この太鼓だ」「およしよ太鼓なんか。そんなきたない太鼓、売れるはずないじゃないか」「おまえは、ものを見る目がないんだよ。きたないんじゃなくて、古いんだ。古いものは、もうかることがあるんだ」「ないね、おまえさんは、古いんでもうけたためしはないよ。このあいだだってそうだろ、清盛のしびんに、岩見重太郎のわらじってのを買ってきた」「よく覚えてるな、あれじゃ損したな」「あきれたよ。で、この太鼓、いくらで買ったんだい」「一分だよ」「おやおや、それじゃ一分まる損だ」「そりゃ、わからねぇよ。……おい、定吉、表でこの太鼓のほこりを払ってこい」

定吉がはたきをかけると、ほこりが出るわ出るわ、出つくしたら太鼓がなくなってしまいそうなほどです。調子に乗った定吉がドンドコドンドコやると、やたらと大きな音がします。そこへ身なりのりっぱな侍が、店へ入ってきました。「今、太鼓を打ったのは、そのほうの店か」「へぇ、さようで。いえ、打ったわけじゃありません。ほこりをはたいたんでございます。あそこにいるばかがやりましたんで。親類から預かっている子でございますが、身体だけは大きくても、まだ11でございまして、どうぞごかんべんを」「いやいや、とがめているのではない。じつは、殿が、おかごでお通りになったところ、太鼓の音が耳に入った。どういう太鼓か見たいとおおせられる。屋敷へもってまいれ、お買い上げになるかもしれんから」

最初はどんなおとがめがあるかと思っていた甚兵衛、買ってもらえるかもしれないとわかって、にわかに得意満面です。ところがおかみさんに「殿様はかごの中で音を聞いただけだよ。こんなすすのかたまりのような汚い太鼓を持ってってごらん。お大名は気が短いから、『かようなむさいものを持って参った道具屋、当分帰すな』てんで、庭の松の木へでもしばられられちゃうよ」とおどかされ、どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で押しつけてこいと家を追い出されました。

「今帰ったぞ、ハァハァー」「まぁ、あんな顔して帰ってきやがった。追っかけられてきたんだろ、早く、天井裏へでも隠れておしまい」「ばかやろ、天井裏なんか入れるか」「どうしたの?」「おれぁ、向こうへ行ったんだ」「行ったから、帰って来たんだろ」「…あの太鼓を見せたら、向こうで、いくらだって聞くんだ」「一分でございますっていったんだろ?」「うん、そういおうと思ったんだだけど、舌がつっちゃってしゃべれねぇんだ」「肝心なところで舌がつるんだね、だらしがない」「何いってやんでぇ、それからおれは、向こうが、手いっぱいにいえっていうから、手をいっぱい広げて…十万両」「ばかがこんがらがっちゃったね、この人は」「そうしたら、向こうは高いってんだ」「あたりまえだ」「三百両でどうだっていうんで、三百両……三百両で売ってきた。あの太鼓、おめえ『火焔太鼓』とかいって、たいへんな太鼓だとよ」「ふぅーん」「それでもって、小判で三百両、もらってきたんだ、どうでぇ」「えっ、じゃ、三百両もってんの? あらぁ、ちょいと、あたしゃ、そんな大金見たことないよ」「おれだってねぇやな」「早くお見せよ」「見せるから待てよ、これを見て、ぼんやりして座り小便なんかするな。いいか、ほら五十両…見とけ、小判が50枚重なって五十両、こん畜生…これで百両だ」「あ・ら・まぁ…ちょいと」「どうだ百五十両だ」「ほう・ほほ…とほほ」「おい、柱へつかまんな、ひっくりかえるからつかまれってんだよ」「そうよ、ほれ二百両」「み、水を一杯おくれ」「ほうれみやがれ、おれもそこで水を飲んだ」「まぁ、ほんとにおまえさん、商売上手だね」「何をいってやがんでぇ、どうだ、三百両」「まぁ儲かるね、もうこれからは音の出るのに限るねぇ」「こんどは半鐘にして、ジャンジャンたたくか」

「半鐘? いけないよ。おジャンになるから」


「5月13日にあった主なできごと」

1401年 日明貿易…室町幕府の第3代将軍 足利義満 は、民(中国)に使節を派遣し、民との貿易要請をしました。民は、遣唐使以来長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、民の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易」とも呼ばれています。

1717年 マリア・テレジア誕生…ハプスブルク家の女帝として40年間君臨し、現在のオーストリアの基盤を築いた マリア・テレジア が、生まれました。

1894年 松平定信死去…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」とよばれる幕政改革おこなった 松平定信 が亡くなりました。

1930年 ナンセン死去…ノルウェーの科学者でありながら北極探検で多くの業績を残し、政治家として国際連盟の結成にも力をつくした ナンセン が亡くなりました。

今日5月12日は、有機化学の確立に大きく貢献し、19世紀最大の化学者と称されるドイツのリービッヒが、1803年に生まれた日です。

ユスツス・リービッヒは、ドイツ中央部のダルムシュタットに生まれました。父が薬物の製造・販売を営んでいたため、幼い頃から化学の実験を目にする機会に恵まれ、次第に父の実験の手伝いをするようになりました。当時のダルムシュタットは、ヘッセン大公国の首都で、その宮廷図書館には化学関連の書籍がそろっていて、リービッヒは学校よりもこの図書館へ通って勉強したため、少年時代からおとな顔負けの化学知識を身につけていきました。そのうち、化学の研究に生涯をかけようと決意したリービッヒは、15歳のとき薬剤師のもとへ徒弟として住み込むことになります。ところが、薬剤師の仕事は化学の研究とは無縁のものだったのがわかり、そのため居室として与えられた屋根裏部屋で化学実験をくりかえすのでした。

やがて、リービッヒの化学知識が評価され、1820年にヘッセン政府から奨学金を受け、新設されたばかりのボン大学に入学することができました。でも当時のドイツの化学のレベルは低く、学生のための実験室もないありさまです。他の大学を見ても大差がありません。ドイツにいてはりっぱな化学者になれないことに気がついたリービッヒは、ヘッセン大公から留学の許可をもらって、当時の化学の最先端を走っていたパリ大学に入学することができました。

ここで、大化学者ゲイ・リュサックの弟子となったリービッヒは、水を得た魚のように実力を発揮し、1824年には爆薬の雷酸塩という物質の分析を行い、その組成を明らかにしたことを、パリ学士院に報告しました。ちょうどその頃、パリに来ていたドイツの地理学者のフンボルトは、リービッヒの優れた報告に感心し、帰国後ドイツのギーセン大学に推薦、ヘッセン大公は、大学にはかることなくわずか21歳のリービッヒをギーセン大学の助教授に任命しました。リービッヒの能力は同僚たちにも高く評価され、翌年には教授に昇進しました。その後25年間、リービッヒはこの小さな町にとどまり、たくさんの業績の大部分の研究と教育に身を捧げました。最大の功績は、政府を説きふせて学生の実習用の化学研究室をこしらえたことでした。この実験室は、たちまち世界中に知れわたり、あらゆる国々から集まった優秀な学生たちは、朝から夜中まで休みなく実験と討論を続けたことで、19世紀の代表的な化学者のほとんどはこの小さな大学の門をくぐったことがあるというほど、世界一の化学学校にのしあがったのでした。

そのほか、リービッヒの残した主な業績は、次のとおりです。
(1) 親友のベーラーとともに、有機化合物の定量分析法を考案し、有機物を研究する学問(有機化学)が初めて科学的にスタートを切るきっかけをこしらえたこと。
(2) 基(き・化学反応のとき、分解しないで他の化合物にそのまま移ることのできる原子の集団:水素基OH、メチル基CH3など)を発見して有機化学を体系化したこと。
(3) 動物には脂肪、たんぱく質、でんぷんの3つが欠かすことができない栄養素であることを明らかにしたこと。
(4) 植物の生育には、窒素、リン酸、カリウムがもっとも重要な要素であることを明らかにし、リービッヒの最小律などを提唱して、これに基づいて化学肥料を作ったこと。
(5) 科学を一般の人たちに理解してもらうことが大切であると、日刊新聞にわかりやすい言葉で綴り続けたこと。

リービッヒは、1845年には男爵の位をさずけられ、1852年にはバイエルン政府の招きでミュンヘン大学化学教授となってたくさんの後継者を育て、1873年に亡くなるまでこの地位にとどまって化学の発展に寄与したのでした。


「5月12日にあった主なできごと」

1534年 織田信長誕生…群雄割拠といわれる戦国時代を走りぬけ、全国統一を目の前にして家臣明智光秀の謀反に倒れた武将・織田信長 が生まれました。

1698年 青木昆陽誕生…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者として有名な 青木昆陽 が生まれました。

1820年 ナイチンゲール誕生…「クリミヤの天使」「愛の天使」と讃えられ、近代看護学の普及に尽力した ナイチンゲール が生まれました。5月12日は国際的にも「ナイチンゲール・デー」 と制定され、1991年から日本でも「看護の日」とされています。

1939年 ノモンハン事件…日本軍が実質的に支配する満州国とモンゴルの国境線にあるノモンハン付近では、両国の主張する国境線の違いから、ときおり小規模な紛争をくりかえしてきました。しかし、この日の紛争は大規模なもので、日本とモンゴル、モンゴルと軍事同盟をむすんでいるソ連軍がからんで長期戦となりました。戦闘は9月まで続き、日本軍は優秀な機械化部隊によるソ連軍の援軍に苦戦し、戦没者数を1万8000人ともいわれる敗北をきっしました。ソ連側も2万人を越える死傷者があったようで、同年9月15日に休戦協定がむすばれました。

今日5月11日は、大正・昭和前期に活躍した詩人・萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)が、1942年に亡くなった日です。

1886年、群馬県前橋市の開業医の長男として生まれた朔太郎は、幼少のころから文学に興味を持ち、読書に熱中しました。しかし、短歌づくりなどあまりに文学に熱中しすぎて前橋中学を落第、熊本の第五高校では2年に進級できず、岡山の第六高校に入り直すも2年になれないまま退学して上京、慶応大学でも中途退学するなど、学業での挫折がきっかけになって本格的に文学に進む決心ができましたが、もうすでに27歳になっていました。

まもなく雑誌「ザムボア」に投稿した5編の詩が北原白秋に認められ、名が知られるようになりました。そして、同じ号に掲載された室生犀星に手紙を書いたことで、二人は終生の友となりました。1916年には犀星と詩の同人誌 「感情」を創刊し、翌1917年に初めての詩集『月に吠える』を刊行しました。下に掲げる「竹」など人間の不安や孤独感などを口語体で綴った50数編からなるこの詩集は、森鴎外与謝野晶子らにその新しい感覚を賞賛され、たちまち詩壇に注目される存在となりました。

 「竹」
光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より纖毛が生え、
かすかにけぶる纖毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

さらに1923年には、第2詩集『青猫』を発表、約50編の口語自由詩は、叙情の美しいリズムにのせて、哀傷・憂鬱・倦怠感を繊細に表現したことで、「日本口語詩の確立者」として詩壇に確固とした地位を築き上げました。翌年には『純情小曲集』を著わし、「旅上」など若い時代にこしらえたという詩を発表しています。

「旅上」
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

このほか朔太郎は、詩集『氷島』、当時の詩のあり方を批判する詩論集『詩の原理』、評論集『日本への回帰』などを遺しています。いっぽう、実生活の上では、医師の長男でありながら生涯定職につかなかった負い目を意識したり、2度離婚するなど家庭的にも恵まれない人生だったようです。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、詩集『月に吠える』『青猫』ほか朔太郎の作品39編を読むことができます。


「5月11日にあった主なできごと」

1891年 大津事件…日本訪問中のロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が琵琶湖見物の帰りに大津市を通ったとき、警備の巡査に突然斬りかかられました。この「大津事件」でロシアとの関係悪化を恐れた政府は、犯人の死刑判決を求めましたが、大審院(現在の最高裁判所)は政府の圧力をはねつけ「無期懲役」の判決を下しました。これにより日本の司法権への信頼が、国際的に高まりました。

1970年 日本人エベレスト初登頂…松浦輝夫と植村直己が日本人初となる世界最高峰エベレストの登頂に成功しました。

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