児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年05月

今日5月31日は、アメリカ文学において最も影響力の大きい人物のひとりで「自由詩の父」ともいわれるホイットマンが、1819年に生まれた日です。

ウォルト・ホットマンは、ニューヨーク州ロングアイランドに、貧しい大工の子として生まれました。短期間学校へ通っただけで、12歳ごろから印刷工、学校の見習い教師などさまざまな仕事についたのち、19歳で新聞を創刊、記者、印刷工、販売、配達まですべて自分で行いました。そのうち、政治に対する関心が高まり、1841年ニューヨークに出て新聞記者になり、熱心な民主党員となりましたが、かれの進歩的な考えは受け入れられず、父のもとに帰って大工の仕事を手伝うかたわら、本格的に詩を書きはじめました。教師、公務員として働きながら、アメリカ各地を回ったりもしました。

そして1855年、代表作となる『草の葉』の初版を自費で出版しました。地元の印刷所に商売の合間に印刷してもらった12編の詩を収めた、わずか95ページの小冊子でした。この詩が注目されたのは、人々がふだん使うありふれた言葉でつづられていることでした。それは、従来の詩の形式を全く無視したものだったため、一部の人たちを除くと評判はあまりよくありません。しかし、著名な思想家エマーソンは、ホイットマンに称賛の長い手紙を書いて、友人たちにも絶賛しました。新大陸アメリカの民衆の希望と夢が、平凡で素朴な言葉で語られていること、自然の美しさが素直に語られていること、独自のリズムと感覚で自我と民衆の融合、魂と肉体、民主主義の理想をうたいあげていることへの高い評価でした。自信を得たホイットマンは、1856年に新たに追加した20編の詩を加えて『草の葉』第2版を刊行、さらに1860年、次いで1867年と改訂を重ね、亡くなる直前には第9版を著し、それぞれの版に時代の風潮や自身の考え方を記しています。

南北戦争開戦の頃にホイットマンは、北軍を鼓舞する愛国的な詩「叩け!叩け!太鼓を!」を発表しました。まもなく、南北戦争に志願看護師として従事、傷病兵の介護に当たった体験を基にした詩集『軍鼓のひびき』を1865年に出版。さらに リンカーン 大統領が暗殺されると、その死を悼み『遅咲きのライラックが前庭に咲いたとき』を出版して、人々を感銘させました。

1892年に亡くなった年、夏目漱石 は「文壇における平等主義者の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」という文章を書き、アメリカ国民詩人の偉大な存在を、初めて日本に紹介しています。


「5月31日にあった主なできごと」

1596年 デカルト誕生…西洋の近代思想のもとを築き、「コギト・エルゴ・スム」(われ思う、ゆえにわれあり)という独自の哲学で「哲学の父」とよばれた デカルト が生れました。

1809年 ハイドン死去…ソナタ形式の確立者として、モーツァルトやベートーベンに大きな影響力を与え、104もの交響曲を作ったことで知られる古典派初期の作曲家 ハイドン が亡くなりました。

1902年 南アフリカ(ボーア)戦争終了…ダイヤモンドや金の豊富な、オランダ人の子孫ボーア人が植民地としていた南アフリカをめぐり、10数年も小競り合いをつづけてきたイギリスは、この地を奪い取ることに成功。8年後の1910年「南アフリカ連邦」を成立させました。

今日5月30日は、バロック時代のヨーロッパを代表する画家で、外交官でもあったルーベンスが、1640年に亡くなった日です。

「バロック」とは、16世紀末から17世紀初頭にかけてイタリアに誕生し、ヨーロッパじゅうに急速に広まった美術・文化の様式で、ルネサンス絵画の均整のとれた構図や理想化された人物表現から、動きの多い劇的な構図や豊かな人物表現に変わって行ったところに特色があります。

ペーテル・パウル・ルーベンスは、1577年、現在ベルギー第2の都市アントワープの出身だった両親が、宗教上の迫害をさけるために亡命していたドイツ西北部のジーゲンに生まれました。ルーベンスが10歳の時に父が亡くなったため、母はルーベンスを連れてアントワープへ戻りました。絵の修業を始めたのは14歳頃からで、3人の師の一人だったオットー・ファン・フェーンがギリシア・ローマ時代の古典に造詣の深い教養ある人物で、ルーベンスはこの師から特に大きな影響を受けながら修行、1598年にアントワープ画家組合に親方として登録されました。

1600年にはイタリアへ渡り、マントバ公の宮廷画家となるなど数々の作品を描き、1608年に帰国。長く争っていたオランダと休戦条約が締結され平和が戻ったフランドル地方には絵画の需要が急増、イタリア帰りのルーベンスに注文が殺到しました。まもなく、ネーデルランド(オランダ・ベルギー地区)の統治者となったアルブレヒト大公と公妃イサベルの宮廷画家となったルーベンスは、工房を設置して、バン・ダイクら数人の弟子を動員して大量の注文制作をこなしました。宗教画・歴史画・神話・肖像・風景画などあらゆるテーマの絵を残しています。ルーベンスが2000点を超えるほど多作なのは、この工房での作品が多いためですが、大きな作品の場合は、自分で下絵を描き、弟子たちに絵の具をぬらせ、最後に自身で仕上げて署名するということをしたためです。もちろん、肖像や家族の絵は、一人で描きました。

ルーベンスは1622年、パリに赴き、当時のフランス皇太后マリーの注文による、生涯を題材とした連作の制作にとりかかりました。マリーはフィレンツェのメディチ家の出身で、リュクサンブール宮殿に飾るために注文したものでした。ルーベンスは古代神話の神々や実在人物を巧みに画面に取り入れて、壮大な作品に仕上げました。『マリーのマルセイユ上陸』(下の絵・ルーブル美術館所蔵) は、ルーベンスの最大業績のひとつに数えられています。

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ドイツ語、フランドル語、フランス語、スペイン語、さらに当時国際的な公用語だったラテン語を駆使するルーベンスは、1621年に大公が亡くなってからは、イザベル大公妃の相談相手になり、妃の命を受けてスペインのマドリードに派遣されフェリペ4世に気に入られ、宮廷画家だったベラスケスと親交を結びました。また、イギリスに渡って美術好きなチャールズ1世と親しく交際したり、イタリアへも足跡を残すなど、外交官として自国の平和に貢献したことでも知られています。


「5月30日にあった主なできごと」

1265年 ダンテ誕生…イタリアの都市国家フィレンツェに生まれた詩人で、彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』や詩集『新生』などを著し、ルネサンスの先駆者といわれる ダンテ が生まれました。

1431年 ジャンヌダルク死去…「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女 ジャンヌ・ダルク が 「魔女」 の汚名をきせられ、処刑されました。

1912・48年 ライト兄弟死去…動力をつけた飛行機で、1903年に人類初の飛行に成功したアメリカの ライト兄弟 の、兄ウィルバーが1912年に、4歳下の弟オービルが1948年に亡くなりました。

1934年 東郷平八郎死去…日露戦争の日本海海戦を指揮し、ロシア艦隊を破ったことで「東洋のネルソン」と讃えられた 東郷平八郎 が亡くなりました。

今日5月27日は、『バイオリン協奏曲』 第1番・第2番(第3楽章が『ラ・カンパネーラ』として有名)などを作曲し、演奏家としても活躍したイタリアの作曲家パガニーニが、1840年に亡くなった日です。

1782年、イタリアの港町ジェノバで生まれたニコロ・パガニーニは、5歳のころから父にバイオリンの手ほどきを受け、13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれるほど、バイオリンの名手でした。あまりにも素晴らしい演奏に「悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」とうわさされるほど、伝説的な逸話がたくさん残されています。

パガニーニが23歳の時、ナポレオンの妹のエリーゼ姫に招かれ、宮廷で音楽会が何度も開かれました。ある演奏会の日、パガニーニはバイオリンのE線とG線だけを残して、他の線を切らせてしまいました。エリーゼ姫は「どうして2本の糸だけにしたの?」「E線は王女様、G線はこの私です。これから2本の線で、美しいお話をいたしますのでお聞きください」と、2本の線だけで見事な曲を披露しました。王女は感激して聞いていましたが、「それじゃ、私のE線を使わず、あなたのG線だけで弾いてちょうだい」といいますと、パガニーニは、ひるむことなく、G線だけであざやかに演奏してみせました。それが「G線のソナタ」だったということです。

作曲家としてのパガニーニの作品は、左手のピチカート・フラジョレット奏法など、高等技術を必要とする難曲として知られています。パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを恐れて楽譜を隠してしまい、ほとんど自作を出版しませんでした。その徹底ぶりも伝説的で、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにさえパート譜を配るのは演奏会の何日か前、本番後は楽譜をすべて回収しました。さらに練習ではパガニーニはソロを弾かず、楽団員でも本番で初めてパガニーニの弾くソロを聞くことができたといいます。

当時、パガニーニがどんなに人気だったかは、大作曲家といわれるリスト、シューマン、ブラームス、ラフマニノフらが、パガニーニの作品のテーマを用いて、さまざまな作品を残していることからも明白でしょう。しかし、そんな天才も病には勝てず、結核で数奇な人生を閉じました。

なお、1999年2月にNHKのドキュメント番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が放送されて大反響を呼び、フジ子ブームが巻き起こりました。その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は発売わずか3か月で30万枚の売上を記録、日本クラシック界異例の大ヒットとなったことは記憶に新しいところです。この『カンパネラ』はパガニーニの曲をもとに、リストが練習曲としてピアノアレンジしたものです。


「5月27日にあった主なできごと」

743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。

1564年 カルバン死去…ルターと並び評されるキリスト教宗教改革・新教(プロテスタント)の指導者 カルバン が亡くなりました。

1910年 コッホ死去…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが亡くなりました。

1904年 日本海海戦…日露戦争中のこの日、東郷平八郎の指揮する日本海軍の連合艦隊と、ロシアの誇るバルチック艦隊が対馬海峡付近で激突。2日間にわたる戦いで、ロシア艦隊は、戦力の大半を失って壊滅。日本側の損失はわずかで、海戦史上まれな一方的勝利となりました。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ「東洋の奇跡」とさえいわれました。優位に立った日本は、8月のポーツマス講和会議への道を開きました。

「おもしろ古典落語」の23回目は、『首屋(くびや』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸時代に、自分の首を売って歩くという不思議な男がおりました。風呂敷包みをひとつしょって、町にやってきました。「くびーっ、首屋でござーい。首・くび、首はいりませんか」

こんな調子で、番町あたりまでやってきます。むかしは、このあたりは旗本屋敷が多かったところで、この売り声を、ある殿様が聞きつけました。「これ、三太夫、あれへまいる者が、首…くびやと申しておる。おかしな稼業があらわれたものじゃ」「いえ、それはお聞きちがいでございましょう。首屋ではなく、栗屋でございましょう」「いや、そうではない。たしかに首と申しておる。もし首ならば、もとめてつかわすから、よく調べてまいれ」

「ははぁ、承知つかまりました。……冗談でしょう、ばかばかしい。誰が、世の中に二つとない自分の首を売る人間なんかいるものですか…、これこれ、それへまいる商人」「お呼びでございますか?」「そのほう、いったい何を商う?」「首でございます」「栗であろう?」「いえ、あたしの首を商います」「これは驚いた。さようなれば、殿がおもとめになるかもしらん。とにかく、わしといっしょにこの門の中へ入って、庭先にひかえておれ」「どうかよろしくおとりなし願います」

首屋はいわれた通り、庭にしゃがんでおりますと、殿様が縁側に出てまいりました。「これこれ三太夫、首を商うというのはこの者か?」「御意の通りでございます」「さようか、これ、町人、即答をゆるすぞ。そのほう、いかなる理由で首を売ろうというのか」「へぇ、たいしたわけでもねぇんでございますが、何をやってもうまくいかないんで、いっそのこと、自分の首を売ったほうがよかろうかと……」「ふーん、さようか。しからば、いったいいくらで、その首を商うのじゃ」「七両二分でございます」「して、その金子(きんす)は、身よりの者へでもとどけてつかわすのか」「いいえ、あっしが頂戴いたします」「その方、首を斬られて死ぬのであろう。金子など必要ではあるまい」「いえ、死ねば私が行くのは地獄でございましょう。『地獄の沙汰も金次第』と申しまして、金があれば、鬼も少しはやさしくしてくれるかと思いますので」

「おもしろいことを申すやつじゃ、三太夫、しからば金子をつかわせ」「…どうもありがとうございます。では、こういう具合に、金をすっかり胴巻にしまって腹にぴったりおしつけておきます」「しからば、用意はよいか」「へぇ、まことにおそれいりますが、切り戸を開けたままにして、もういっぺん娑婆のほうを見せていただきたいのでございます」「よし、そうしてつかわすぞ、では、過日もとめた新刀をためしてみるによって、…念仏か題目でもとなえたらよかろう」「いいえ、それにはおよびません。すっぱりおやりになってくんなさいまし」殿様は、白鞘(しろざや)の刀の柄を払って、庭に下りくると、ひしゃくの水を鍔(つば)ぎわから切っ先までかけさせます。

「首屋、覚悟はよいな」…殿様が「えいっ」と斬り下ろしてくる刃を、首屋はひらりとかわし、後ろへ飛びのいて風呂敷包みから張り子の首をほうりだすと、一目散に逃げ出しました。「ややっ、これは張り子の首ではないか、買ったのはそっちの首だ」

「いえ、こちらは看板でございます」


「5月26日にあった主なできごと」

1180年 以仁王・源頼政の死…保元の乱、平治の乱を経て 平清盛 が台頭、平氏政権が形成されたことに対し、後白河天皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画。これが露見して追討を受け、宇治平等院の戦いで敗死しました。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が6年間にわたって続き、鎌倉幕府誕生の前哨戦となりました。

1467年 応仁の乱…10年以上も続いた日本最大の内乱といわれる 応仁の乱 が、本格的な戦闘に入りました。

1877年 木戸孝允死去…西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」の一人で、明治新政府でも活躍した 木戸孝允 が亡くなりました。

1933年  滝川事件…京都帝国大学の滝川(たきがわ)教授の休職を、国が一方的に下す思想弾圧事件滝川事件がおきました。京大事件とも呼ばれます。

アドリア海をはさんでイタリアと向かいあったところに、6つの共和国(スロベニア・クロアチア・ボスニア=ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニア)からなり、いくつもの民族が違った言葉をもつ「ユーゴスラビア」という国がありました。今日5月25日は、この複雑な国を一つにまとめあげ、たくましい社会主義連邦共和国に育てあげた政治家チトーが、1892年に生まれた日です。

クロアチアの貧しい農家に生まれたヨシップ・チトーは、15歳のときから、かぎづくり職人の見習いになって働きはじめました。22歳の年の7月、第1次世界大戦が始まりました。チトーは、戦争には反対でしたが、戦場ヘおくられました。ところが、重傷を負ってロシア軍の捕虜となってしまいました。チトーが、自分の生きる道を発見したのはこのときです。

ロシアで、労働者たちが政府をうちたおす革命がおこり、これを見たチトーは、働く者が幸せになる社会の建設のために生きていくことを、心に誓ったのです。戦争が終わって祖国へ帰ると、共産党へ入って、革命家への道を歩みはじめました。36歳のときは、ひみつの政治活動がとがめられてとらえられ、6年ものあいだ、牢獄に閉じこめられました。でも、革命への情熱の火は消しませんでした。

1939年に始まった第2次世界大戦では、「祖国ユーゴスラビアは、他の国を武力で侵略する帝国主義の戦争に、決して巻きこまれてはならない。そして、どこの大国にも味方をしない」ことを宣言しました。しかし、ドイツ軍が侵略してきました。チトーは、いくつもの民族の心をひとつにまとめ、祖国愛にもえる「パルチザン」というゲリラ部隊をひきいて戦いつづけ、ドイツ軍を国から追いだすことに成功しました。

「すべての労働者が幸せになる、社会主義国家を建設しよう」──と、戦争が終わった1945年、連邦人民共和国を宣言して首相になったチトーは、社会主義の政治をおし進めました。やがて、同じ社会主義国のソ連ともはなれ、世界のどんな大きな勢力にもよりかからない中立主義をかかげて、平和主義にもえる国家を建設していきました。アメリカの勢力とソ連の勢力がにらみあっている冷戦を、世界の平和のために、にくんだのです。

1963年、新しい憲法を定め、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が生まれました。このときチトーは、偉大な力がたたえられて終身大統領にえらばれ、その後も、ヨーロッパやアジアの中立国が、世界の第三勢力として固く団結していくことを、10年も、15年も叫びつづけました。「大国の支配をこばんだ巨人」──これが1980年5月、87歳の生涯を終えたチトーへ、世界の人びとがささげた言葉でした。

しかし、チトーの死後、民族・国家・宗教のちがいなどから内紛がつづき、1991年から今世紀はじめまで、20数万人の死者と200万人もの避難民を生み出して国土が荒廃しました。ようやく6つの共和国が2006年までに独立、ほぼ復興を果たして、EU(ヨーロッパ連合)と協調しながら、新しい歩みをはじめています。


「5月25日にあった主なできごと」

1336年 楠正成死去…鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将で、後醍醐天皇による「建武の新政」の立役者だった 楠木正成 が亡くなりました。この日摂津国湊川(現在の神戸)で、九州から東上した足利尊氏の軍勢が、対立する楠正成・新田義貞軍と衝突(「湊川の戦い」)、尊氏軍が勝利して正成は自害しました。

1910年 大逆事件…信州の社会主義者・宮下太吉ら4名が明治天皇暗殺計画が発覚したとして、この日逮捕されました。この事件を口実に社会主義者、無政府主義者、思想家に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、20数人を逮捕。この政府主導の弾圧は「大逆事件」と呼ばれ、幸徳秋水 ら12名が処刑されました。

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