児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年04月

今日4月5日は、『測量船』『駱駝の瘤にまたがつて』など、西洋近代詩の感覚を日本の伝統的な叙情に活かした詩人 三好達治が、1964年に亡くなった日です。

1900年大阪市に生まれた三好達治は、父が小規模な印刷業を営んでいましたが、しだいに没落したため大阪市内で住まいを転々としました。幼い頃に養子にだされましたが、病弱のために家にもどされました。小学時代も欠席がちでしたが、図書館に通って夏目漱石ら多くの文学作品を読みふけることで、文学への素地ができたのは幸いでした。しかし、大阪市内の中学に入学するものの学費が続かず2年で中退、陸軍幼年学校をへて、1920年陸軍士官学校に入学するものの脱走事件を起こして逮捕され、2か月間陸軍刑務所に収監の後、退校処分となりました。

1922年、旧制三高(現・京都大学教養学部)に入学、丸山薫を通じて、詩の魅力にひきこまれて詩作を始め、室生犀星や萩原朔太郎を熟読しました。東京帝国大学仏文科に進学すると、三高時代の友人梶井基次郎らと同人誌『青空』を発刊、投稿した詩のいくつかが注目されるようになり、1928年に卒業すると創作活動に専心します。そして、翌年にボードレールの散文詩集『巴里の憂鬱』の全訳を著わし、一般読者を魅了させました。その翌年処女詩集『測量船』を刊行、[太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ](「雪」)など、39編の詩は、昭和の散文詩に新風をふきこむ名詩集として高い評価を受けるとともに、詩人の名も広く知れわたるようになりました。

1934年、堀辰雄らと詩の雑誌『四季』を創刊、まもなく立原道造や萩原朔太郎、中原中也も加わって、当時の詩壇を代表するグループとなりました。その後、達治の詩風は、『艸(くさ)千里』『一点鐘』など格調高い響きをもつ古典的な抒情詩へと移り、口語体から文語体に詩体をかえました。

達治は、亡くなる前年1953年に芸術院賞を受賞した『駱駝の瘤にまたがつて』など10数冊の詩集の他に、詩歌の手引書として『詩を読む人のために』、評論『萩原朔太郎』などを遺しています。


「4月5日にあった主なできごと」

1976年 四五天安門事件…中国の首都北京にある天安門広場で、1月に亡くなった周恩来をいたむためにささげられた花輪を撤去されたことに対し、民衆と警察が衝突、政府によって暴力的に鎮圧された「天安門事件」がおこりました。1989年6月4日に起きた「六四天安門事件」と区別するため、第1次天安門事件ともいいます。

1998年 明石海峡大橋…神戸と淡路島を結ぶ全長3911m、世界最長の吊り橋「明石海峡大橋」が開通しました。四国と淡路島を結ぶ大鳴門橋とともに、本州と四国を結ぶ3つのルートの一つとなっています。

第2次世界大戦のうち、日本がアジアに進出して、アメリカ、イギリス、中国などの連合国と戦った戦争を、とくに太平洋戦争とよびます。今日4月4日は、日本が、この太平洋戦争を進めたときの日本海軍司令官の山本五十六(やまもと いそろく)が、1884年に生まれた日です。

新潟県長岡市で、儒学者の家系の6男に生まれた五十六は、幼い頃から聡明で、海軍兵学校、海軍大学校を卒業。日露戦争に出征し、日本海海戦で大やけどを負い、左指2本を失いました。1919年から2年間、アメリカのハーバード大学で学び、その後米国駐在員に任命されました。1934年には、ロンドンで開かれた米・英・日・仏・伊5か国による「海軍軍縮会議」では日本代表になるなど、しだいに日本海軍の中枢を担うようになっていきました。

五十六は、世界の海軍力を比較すると、日本の海軍力がアメリカに大きく劣ることを痛感していました。特に航空部門に大きな差があると考え、海軍航空本部技術部長、第1航空戦隊司令官、海軍航空本部長として、特に航空の重要性を力説してその充実に力を注ぎつづけました。

1939年に55歳で連合国艦隊司令長官になった五十六は、日本がアメリカと戦うことにはあくまで反対でした。1940年に、日本がドイツ、イタリアとの軍事同盟「三国同盟」が検討されることになったときも「それではアメリカ、イギリスを敵にまわすことになってしまう」と断固反対しましたが、陸軍や右翼の圧力に屈して、条約を結ばざるをえませんでした。

対米戦争の勝算をたずねられた五十六は、次のように答えました。「それは是非やれと言われれば、初めの半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのはしかたないが、かくなりし上は日米戦争を回避するようご努力願いたい」と。この言葉が「1年ならば勝てる」との意味に受け取られて、戦争に踏み切らせたという見方をする人もいます。

1941年12月8日、日本はついに戦争の火ぶたを切ってしまいました。「戦争が長びけば日本は負ける。早く敵に打撃をあたえて、アメリカ国民たちに戦争をつづける気をなくさせることが第一だ」 ──このように考えた五十六は、ハワイの真珠湾奇襲攻撃を成功させました。五十六は、奇襲攻撃の最後通牒を、攻撃前に行うよう指示していましたが、ワシントンの日本大使館のミスにより、最後通牒は奇襲後に届くことになって、アメリカに [国際信義にもとる、卑劣なだまし討ち] という口実を与えしまったのは誤算でした。

五十六の予言通り、戦いを有利に進めてきたものの、開戦からわずか半年のちの1943年4月、日本は敗戦を決定づける「ミッドウェー海戦」に敗れました。五十六は、飛行機で前線を視察する途中に暗号を解読され、ブーゲンビル上空で待ち伏せしていた米軍機に撃墜され、戦死したのでした。


「4月4日にあった主なできごと」

1284年 北条時宗死去…鎌倉幕府の第8代執権で、文永・弘安の役で、攻めてきた元の軍隊を退けた北条時宗が亡くなりました。

1615年 大坂夏の陣…前年、大坂冬の陣で大坂城を攻め落とせなかった徳川家康は、講和を条件に外堀を埋めさせて防備が弱くなったところへ、諸大名の兵20万人を率いて攻め入り、落城させました。豊臣秀頼と生母淀君は自殺し、ここに豊臣家は滅びました。

1968年 キング牧師暗殺…アメリカの黒人指導者キング牧師は、白人による人種差別撤廃する法律を認めさせ、黒人の権利と自由を求める公民権運動を進めたことで、ノーベル平和賞を受賞したばかりでしたが、これに反発した白人により、この日演説中に暗殺されました。

今日4月1日は、『ディカーニカ近郷夜話』『ミルゴロド』『検察官』『外套』『死せる魂』などの作品で知られるロシアの作家ゴーゴリが、1809年に生まれた日です。

ニコライ・ゴーゴリは、現在のウクライナ共和国にある小村ソロチンツィの、あまり豊かではない地主の家に生まれました。中学時代に小説や演劇に興味を持ち、16歳のとき父が亡くなると、役者をめざして首都ペテルブルクに出ました。しかし、役者としては誰も認めてくれず、下級役人となりました。しかし、卑屈な役人の姿に幻滅して長く続きませんでした。この時期の、薄給にあえぐ生活ぶりは、「ペテルブルクもの」と呼ばれる作品群に生かされています。

1831年に、ウクライナの民話をもとにした初めての小説集『ディカーニカ近郷夜話』を雑誌に発表したところ評判となり、作家としての自信がめばえました。さらに、有名作家プーシキンがゴーリキの才能を高く評価してくれ、以後、長く親交を持つに至りました。そして、ウクライナの歴史を中心とした『ミルゴロド』、ペテルブルクを舞台にした『肖像画』『狂人日記』『鼻』などの中編小説を発表して、作家としての地位を確立していきました。

小説以外にも戯曲も書き、1836年に上演された喜劇『検察官』は、その代表作です。この作品は、ある田舎町の市長や役人が、ほら吹き男を、お忍びで来た検察官と間違えて大歓迎する話で、ペテルブルクの上演では、保守的な人々から総スカンを食ってしまいました。生来、神経質な性格のゴーゴリは、これに嫌気をさし、それからおよそ12年間をイタリアで過ごすことになります。ローマに向かう途中のパリで、プーシキンの訃報を知って衝撃を受けたゴーゴリは、以後の自身の使命は、ロシア民衆を覚醒させ、理想社会へと教え導くことにささげようと決意するのでした。

『外套』(やっとの思いで新調した外套を、追いはぎにとられてしまった役人の悲劇) を書きあげたあと、1842年には未完の小説『死せる魂』の第1部を刊行しました。死んだ農奴の戸籍を買い集める詐欺師チチコフを中心に、悪徳人間たちを通して、腐敗したロシアの恥ずべき姿を見事に描いた傑作で、ゴーゴリは第2部・第3部にチチコフの成長と魂の救済、美と調和を体現する理想のロシアを描く計画でした。しかし、さまざまな批判に自信を失い、精神の衰弱のために執筆は進まず、1852年、苦悶のあまり第2部の原稿を火の中に投げ入れてしまいました。それから10日後、44年の生涯を閉じてしまったのです。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、ゴーゴリの作品 『ディカーニカ近郷夜話』『狂人日記』など(各平井肇訳)を読むことができます。


「4月1日にあった主なできごと」

1173年 親鸞死去…『南無阿弥陀仏』と念仏をとなえれば来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然に学び、その教えを発展させて「浄土真宗」を開いた親鸞が生まれした。

1815年 ビスマルク誕生…プロイセン王の右腕としてドイツ統一をめざして鉄血政策を推進し、1871年にプロイセン王をドイツ皇帝として戴冠させ、ドイツ統一をなしとげたビスマルクが生まれました。

1938年 国家総動員法の公布…1937年7月、北京郊外の盧溝橋での日中の衝突事件に端を発した日華事変は、急速に激化の一途をたどりました。広大な中国の山野で活動する大軍の需要を満たすため、この日国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる権限を規定した「国家総動員法」を公布しました。

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