児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年04月

今日4月12日は、戦国時代の甲斐(山梨)を本拠にした武将で、甲斐に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を支配し、越後の上杉謙信と5回にわたる川中島の戦いを行ったことで知られる武田信玄は、三方が原の戦いで徳川家康を破り、その勢いで織田信長をせめる途中、1573年に病死したといわれる日です。

1521年に、守護大名の父信虎の長男に生まれた武田信玄でしたが、1541年、父を駿河に追放して自立しました。父に愛されず、家督が弟の信繁へ行きそうになったのに対し、重臣たちが信玄の将来性を買ったことからのクーデターだったようです。当主となった若い信玄は、今でいう民主的な合議制をとり、「甲州法度次第」という軍略や家臣団の統制、治安の規定などを定めました。そして、外には信濃などへ攻め入りながら、内には治水工事、新田開発、金山の開発など、優れた政治的手腕を見せました。とくに古来から大雨による水害が発生していた笛吹川と釜無川の間にこしらえた堤防は、「信玄堤」として有名です。

また、武田信玄といえば、「風林火山」の軍旗を掲げたことがよく知られています。この言葉は中国の兵学書『孫子』にあるもので、「動くときは風のように速く、静かなときは林のように、攻撃する時は火のように、防御は山のように」といった意味で、信玄の戦い方をよく表していますが、これはあくまで借り物で、「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、仇は敵」という言葉のほうが、信玄の生きざまを表しているようです。

甲斐は、四方を山に囲まれた土地で海に隣接していないという弱点を持った国ですが、信玄はそんな甲斐の特徴をよく知っていて、なぜ城を作らないのかと問われて「石垣や堀で囲まれた城よりも、山のほうがもっと丈夫ではないか、敵が攻めてきたらこの山で防げばよい。それより、この国に住んでる一人ひとりが城であり、石垣なのだ」と笑いとばしたといいます。

武田信玄を語る上で外せないのが、越後の上杉謙信です。信玄と謙信は12年間、5度にわたる「川中島の戦い」を行いました。まさしく武田と上杉の総力戦であったといわれます。また、「敵に塩を送る」の故事があるように、謙信も信玄も互いに実力を認め合い、その信念ゆえにぶつかり合ったのでしょう。

武田信玄の名が広まったのは、江戸時代に『甲陽軍鑑』という書物があらわれ、信玄を中心に、数々の重臣や軍師山本勘助ら「武田二十四神将」と呼ばれる家臣たちの逸話、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率いた戦術などが紹介され、死後3年間は自分が死んだことを諸国に知らせないために「影武者」をたてさせた話など、江戸をはじめ各地で読み物として親しまれました。この書をもとにした、武田氏を題材とした創作がたくさんあらわれ、現代まで多大な影響力を持つに至っています。

なお、信玄の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」24巻目「武田信玄」をご覧ください。


「4月12日にあった主なできごと」

1861年 南北戦争勃発…アメリカ合衆国の南北戦争は、北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだリンカーンが大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、4年に及ぶ内戦がはじまりました。

1945年 ルーズベルト死去…アメリカ合衆国の第32代大統領で、アメリカ政治史上でただ一人4度大統領になったルーズベルトが亡くなりました。

1961年 人類初の宇宙飛行…ソ連(現ロシア)の宇宙飛行士ガガーリンが、宇宙船ボストーク1号に乗り1時間48分かけて地球を1周。人類初の宇宙飛行に成功しました。「地球は青かった」という感想の言葉は世界じゅうをかけめぐりました。

「おもしろ古典落語」の19回目は、『そば清(せい)』というお笑いの一席をお楽しみください。

世間にはよく「そば好き」という人がいます。ちょっとそばを食べても、5、6枚は食べないと食べたような気がしないなんていう、大変なそば好きもいます。

江戸に、清兵衛さんという旅商人(あきんど)がいました。小間物なんぞを持って旅に出て売るのが仕事ですが、この人は「そば清」といわれるほどそばが好き。10枚でも、20枚でも食べられるものですから、食べ比べのかけに誘われても負けたことがありません。ところが、だんだん名前が知られてくると、ちょっとやそっとの枚数では、かけに乗ってくれる人がいなくなりました。

ある時、清兵衛さんは、越後(今の新潟)から信州(今の長野)の方へ商売にでかけました。その途中どう間違えたのか、道に迷ってしまいました。「こりゃ、弱ったな、どっちを向いても山ばかり、里に出るにはどっちへ行ったらいいのだろう。誰か聞ける人がいないかな」と、向こうを見ますと、ひとりの狩人が、鉄砲で何かをねらっています。いったい何を撃つんだろうと、鉄砲の先を見ると、木の上に大きなウワバミ(巨大なへび)がトグロを巻いていて、こちらも狩人をねらっているようです。ドーンと鉄砲の音がしたと思ったら、姿が消えたのは狩人のほうで、ウワバミが狩人を飲みこんだのでした。

人間一人を飲みこんだのですから、さすがのウワバミも大きくお腹がふくれあがって、苦しそうです。しばらくのたうちまわっていましたが、そのうち、かたわらに生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめだしました。すると驚いたことに、はちきれそうだったお腹がたちまち小さくなって、元のようになりました。ウワバミもいい気持ちになったとみえて、隠れて震えていた清兵衛さんに気づかずに、熊笹をガサガサやりながら、岩かげに消えてしまいました。

「何だろう、ウワバミがペロペロなめていた草は? ははーん、あれは食べものがこなれる草だ…こいつはいいものを見つけたぞ。あいつをむしって持って行って、江戸でそば食いのかけをして、うんと儲けてやろう」こう思った清兵衛さんは、草をむしり取ると、何とか道を見つけて江戸へ戻ると、そば屋へかけこみました。

「どうです? 私がそば70枚食べられるかどうか、かけをする人はいませんか?」これを聞いて、お客さんがたくさん集まってきました。いくら清兵衛さんでも、70枚は食べられないだろうと、どんどんかけに応じる人が出てきて、ついにかけ金は10両にもなりました。

「それじゃやってみますが、まず半分くらい食べたところで、たばこを2、3服吸うあいだ、ちょっと待ってもらいたいんですが、よろしいかな」「もちろん構いませんよ。お中入りがなくちゃ、疲れちゃいますもんね。それじゃ、70枚のそばを注文してきますよ」ということで、そば70枚が積み上げられました。

「へぇ、ごちそうさま…それじゃ、いただきます」と食べ始めた清兵衛さん、その早いことといったらありません。食べるというより、そばが口の中に吸いこまれていくようです。「どうだい、もう10枚食ったよ、あざやかだね、15枚…20枚、えらいもんだね。ほら、25枚、早ぇーなぁ、やぁ、30枚だぜ。えっ、もう半分の35枚食った? ちょっと、食いっぷりが落ちてきたようだな。肩で息して、苦しそうだ。ねぇ、清兵衛さん、もうお止しよ、とてもだめでしょ、身体に毒だからさぁ」「とんでもありません。これでよしたら、大損だ、10両の金をもらえない上に、そば代も払わなくちゃいけないんだ、わたしはやりますよ。おそれいりますが、さっきおことわりした通り、ここで一服させてください」「ああ、中入りですな、どうぞ、どうぞ」「すいません、そっちの部屋へ連れてって、障子を閉めてくれませんか。ビッタリと、中をのぞかないでくださいね」

それからしばらく、ピシャピシャなめるような音がきこえましたが、やがてそれもきこえなくなりました。いくら待っても障子が開かないので、心配になった連中がさわぎだしました。「おかしいなぁ…清兵衛さーん! みんな待ってますよう」「おい、返事がないよ、とても食えないってんで、逃げちまったかな?」ガラッと、障子を開けてみると、清兵衛さんがいません。よくよく見ると、

そばが羽織を着て座っていました。清兵衛さんがなめた草は、人間を溶かす薬だったようで……。


「4月11日にあった主なできごと」

1868年 江戸城開城…徳川15代将軍だった徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸城が明治新政府の手にわたりました。前月行われた、旧幕府代表の勝海舟と、新政府代表西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が実現したものです。

1921年 メートル法の公布…欧米との交流がさかんになり、わが国でこれまで使われてきた尺貫法では不便なことが多く、メートル法の採用を決めました。しかし、なじんできた尺貫法も、業種によっては今も使用されています。

1951年 マッカーサー解任…太平洋戦争で降伏した日本は、連合国軍総司令部(GHQ)に占領され、アメリカのマッカーサー元帥が5年半近く総司令官として君臨してきましたが、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して解任されました。

今日4月8日は、正岡子規の創刊した俳句誌「ホトトギス」の中心となって、「花鳥諷詠」「客観写生」理論を完成し、大正・昭和期の俳壇をリードした高浜虚子(たかはま きょし)が、1959年に亡くなった日です。

1874年、愛媛県松山市に旧松山藩士の5男として生まれた虚子(本名・清)は、松山中学時代、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)と同級になり、その縁から 正岡子規 に師事して俳句を教わり、子規から本名をもじった虚子の号を授かりました。

当時の虚子と碧梧桐は仲がよく、共に京都の第三高等学校(現・京都大学)、仙台の第二高等学校(現・東北大学)に学びましたが中退、上京して東京・根岸にあった子規宅で世話になりました。

1902年に子規が亡くなると、虚子は俳句雑誌「ホトトギス」を引継ぎ、東京に移転して、俳句だけでなく和歌、散文などを加えた文芸誌として再出発、夏目漱石 の『吾輩は猫である』『坊っちゃん』、伊藤左千夫の『野菊の墓』などの小説の寄稿を受けています。虚子自身も俳句から離れ、写生文や小説を書いたりしましたが、1913年に俳句に復帰しました。その理由は、親しかった碧梧桐が、季語や字数にとらわれない自由表現の新傾向俳句づくりを始めたことに対し、俳句は子規の俳句論を受け継ぎ、伝統的な季語を入れた五七五調で詠まれるべきだと考えたからでした。

1927年には、俳句のあるべき姿は、「花鳥諷詠」(春夏秋冬の移り変りによって起る自然界の現象、それにともなう人間界の現象を詠うこと)「客観写生」(客観の景色でも主観の感情でも、はっきりしてわかりやすいこと) の詩であるという理念(共に虚子の造語)をはっきりと掲げました。こうして虚子の率いる「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正から、戦前の昭和期は、俳壇とは「ホトトギス」といわれるほど俳句を人々に普及させ、飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男ら、たくさんの俳人を育てました。

句集には『虚子句集』『虚子俳話』『句日記』などがあり、85歳で亡くなるまでに、「こがね虫なげうつ闇の深さかな」「遠山に日の当たりたる枯野かな」「春風や闘志抱きて丘に立つ」など、20万句を超える俳句を詠んだといわれています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、虚子の『子規居士』『漱石と私』など5編の随筆を読むことができます。


「4月8日の行事」

花まつり (シャカの誕生日)…今日4月8日は、今から二千数百年も昔、仏教を開いた シャカ(釈迦・しゃか)が誕生した日と伝えられ、灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)などといわれます。また、花の咲きにおう春に行なわれたことから「花まつり」とよばれて、日本各地のお寺では、花で飾った小さなお堂の中に、釈迦の誕生仏を安置して、お参りにきた人は甘茶をそそいでお祈りをする、はなやかな仏教の行事になっています。


「4月8日にあった主なできごと」

1147年 源頼朝誕生…平安時代末期に源義朝の3男に生まれ、平治の乱で敗れて伊豆へ流されるも平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定して、はじめて武士による政権となった「鎌倉幕府」を開いた 源頼朝 が生まれました。

1350年 吉田兼好死去…清少納言 の「枕草子」と並び、随筆文学の傑作「徒然草」を著わした僧侶で歌人の 吉田兼好 が亡くなりました。

1820年 ミロのビーナス発見…ギリシアのミロス島で、ひとりの農夫が両腕の欠けた美しい大理石の女神を発見。島の名にちなんで「ミロのビーナス」と命名されました。古代ギリシア時代の一級彫刻作品として、パリのルーブル美術館が所蔵しています。
 
1973年 ピカソ死去…スペインが生んだ世界的な画家・版画家・彫刻家・陶芸家 ピカソ が、この日92歳で亡くなりました。

ビタミンB1が不足して体の先のほうの神経がおかされ、足がしびれたり、むくんだりする脚気(かっけ)は、医学が進んだ今では何でもない病気ですが、江戸時代にはこの脚気で多くの死者をだし、明治に入ってもまだ、原因不明のおそろしい病気でした。今日4月7日は、ビタミンB1が脚気の治療に効果があることをつきとめ、脚気の不安から人びとを救った農芸化学者 鈴木梅太郎が、1874年に生まれた日です。

静岡県の農家に生まれ、幼いときから勉強が好きだった梅太郎は、14歳のとき、学問の志をおさえきれず、こっそり家を出て東京へ行きました。そして、次の年には、両親や兄を説きふせて東京農林学校(1890年から東京帝国大学農科大学)へ進み、栄養学を学びました。「植物は、土と空気から養分を吸うだけだ。それなのになぜ、その植物から砂糖、でんぷん、たんぱく質などが、とれるようになるのだろうか」──梅太郎が農林学校で学ぶ決心をしたのは、こんなことに疑問をいだいたからだといわれています。

22歳で大学を卒業した梅太郎は、5年後にヨーロッパへ渡り、ドイツではベルリン大学の化学者フィッシャーのもとで、たんぱく質の研究をつづけました。そして、32歳で帰国すると、東京帝国大学の教授などをつとめながら、米の研究を始めました。

留学中に「西洋人にくらべて、日本人は、どうして体格が悪いのだろう」と考え、さらにドイツを去るとき、フィッシャーに「日本人なら、日本人のための研究をしてみなさい」といわれ、日本人の主食について研究することを、思いたったのです。米の栄養について調べていくうちに、白米を食べる人に脚気がおおいことをつきとめました。

「玄米を食べる人には脚気は少ない。これは、白米にするときに、脚気を予防する成分を、とりのぞいてしまうからだろう」──こう考えた梅太郎は、精米のときにとりのぞく、糠(ぬか)や胚芽の研究にとりくみ、36歳のときに、糠から、のちにオリザニンと名づけられた成分をとりだすことに、成功しました。

しかし、脚気は伝染病だと思われていた時代でしたから、梅太郎が「この成分の不足が脚気になるのだ」ととなえても、だれも信用しません。人びとが、梅太郎の研究に注目するようになったのは、1年後にイギリスで、オリザニンと同じ成分の、ビタミンの研究が発表されてからのちのことでした。

55歳のときビタミンB1の結晶化にも成功した梅太郎は、酒類防腐剤のサルチル酸、米を使わない合成酒(理研酒)、殺虫剤コクドール、強化パンなどを作り、合成食物による食糧問題の改善に取り組んだ功績などで1942年に文化勲章を受け、その半年後に69歳で亡くなりました。


「4月7日にあった主なできごと」

1133年 法然誕生…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で「浄土宗」を開いた法然が生まれました。

1506年 ザビエル誕生…1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたスペインのイエズス会宣教師ザビエルがフランスとスペインとの国ざかいのナバラ王国(1512年にスペインにほろぼされた)に生まれました。

1882年 小川未明誕生…『赤いろうそくと人魚』 『野ばら』 『月夜とめがね』 など1000編近い童話を著した小川未明が生まれました。

1894年 宮城道雄誕生…『春の海』など、琴を主楽器とする日本特有の楽曲(箏曲<そうきょく>)の作曲者、演奏家として世界に名を知られた宮城道雄が生まれました。

1945年 戦艦大和撃沈…大日本帝国海軍が建造した排水量6万8千トンという当時世界最大の戦艦「大和(やまと)」は、この日沖縄にむけて出撃途上、屋久島沖でアメリカ航空機部隊386機の集中攻撃を受けて3000人の将兵とともに、海底深く沈没しました。

1947年 フォード死去…流れ作業による自動車の大量生産を成功させ、世界一の自動車会社を創立したフォードが亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の18回目は、『しわい屋』というお笑いの一席をお楽しみください。

「しわい屋」というのは、ケチ、しみったれのことで、けちん坊、赤にしや、吝嗇(りんしょく)、ガリガリ亡者……等など、いろいろな悪口がありますが、「6日知らず」というのがあります。どうして6日知らずなのかといいますと、日を数えるとき、指を1日、2日、3日、4日、5日と数えて握ったら、6日…と、いったん握ったものを、はなすのはいやだ、だから「6日知らず」だそうで、何とも世の中にはケチな人がいるもんです。

「小僧や、雨戸を修繕するんだ、お向いへ行って、金づちをかりておいで」「へい、行ってまいりました。でも、貸してくれません」「どうしてだ?」「鉄の釘を打ちなさるか、竹の釘を打ちなさるかっていうんで、雨戸を修繕するっていってますんで、鉄の釘でしょう。そしたら、それではお貸しできませんな。鉄と鉄でコチコチやられたら、金づちが減っちまいますから…ってんです」「何てまぁしみった野郎だ。しかたない、家のを使おう」どっちが、しみったれかわかりません。

ケチを自慢してる人たちがいます。「エー、つかぬことをうかがいますが、あなたは、どんなおかずでごはんを食べます?」「あっしは梅干です」「梅干をどんなふうにして?」「1日に1つずつ食べますな」「どんなふうに?」「朝めしのときに半分いただきます。昼に半分、で、晩は種をしゃぶって、それだけでは足りませんから、種を割って、中味をみんないただいてます」「そりゃ、ぜいたくだ」「これで、ぜいたくですか?」「そうですよ、日に梅干一つとすると、年に365つぶだ、同じ梅干をおかずにするんなら、もっと倹約しなくちゃ」「どんなふうに?」「いいですか、ごはんをよそったら、梅干をじっとにらむ。すると、だんだん口の中にすっぱい水がたまってくる。そうしたら、その勢いで、ごはんを食べてしまう。こうすりゃ、梅干は少しも減らない」何とも、あきれたものです。

「あなたの持ってる扇子は、どのくらいお使いになりますか?」「この扇子は10年使います」「で、どんな具合に?」「半分開きまして、最初の5年使います」「ほほう」「それがだめになったら、残りの半分を開いて、これを5年使います。都合10年」「ふーん、しかし、扇子の半開きっていうのはおもしろくないね。あたしなら、威勢よく全部開いちゃう。扇子を動かすと痛みが早いから、自分で首のほうを振る」 実にどうも、ものすごいのがいるもんです。

「こんばんは」「はいはい、いらっしゃい。お名前はおっしゃらなくても、声でわかります。門口は開けてますから、お入んなさい」「なるほど、開いてますな」「そりゃそうですよ。あたしが帰ってきて戸締りをする、また、あなたがいらしてそれを開ける、中へ入って閉める。帰る時に開けて、また閉める。そんなことをくりかえしてたら、戸も敷居もすりへってしまいますな。だから、ずーっと開けっぱなし」「こりゃ、恐れ入りやした」

「それにしても、真っ暗ですね」「家じゃ、夜になっても明かりはつけない」「でもこれじゃ、あなたがどこにいらっしゃるかわかりませんな」「手の鳴る方においでなさい。手なんかいくらたたいても減るもんじゃない。それどころか、だんだん皮が厚くなったら、ぞうりの裏張りに使えます。ちょっとしんぼうしてると、暗闇でもだんだん見えてくる……」「ほんとうだ、見えてきました。おや、驚いた、あなたはだかですか」「そう、年中はだか、表へ出るときだけ着物をきます」「寒いでしょうな」「いや、寒くなんかない。こっちへきて、あたしの身体をさわってごらんなさい、汗がでてるから…」「汗? あぁ、ほんとうだ。どういうわけで」「あたしの頭の上をごらんなさい」「何かぶらさがってますな」「たくあん石。あれを今にも切れそうな細びきでぶらさげてありますので、すわっていると、細びきが切れて、頭の上に落ちてきやしないかと、いつも冷や汗をかきつづけというわけでな」「いゃー、こんなとこにゃ危なくて、長居はしていられない、おいとまします」「お帰りですか、じゃこの薪をお持ちなさい」「これをどうしようってんです」「あなたの目と鼻の間をぶんなぐるんです」「そんなことしたら目から火がでる」「火が出たら、その火で履きものをさがしなさい」「いや、ご心配ご無用、たぶんそんなことだろうと思って、あたしは下駄をはかずにまいりました」

「裸足できなすったか、たぶんそうだろうと思って、こっちも、畳を裏返しにしておいた」


「4月6日にあった主なできごと」
 
1483年 ラファエロ誕生…ルネサンス期を代表する絵画、建築はじめ総合芸術の天才といわれるラファエロ が誕生しました。1520年に亡くなった日でもあります。

1896年 第1回オリンピック開催…古代ギリシアで4年に1度開催されたスポーツ競技を復活させようと、フランスの クーベルタン による提唱で国際オリンピック委員会(IOC)が1894年につくられ、この日ギリシアのアテネで近代オリンピック第1回大会が開かれました。参加国14か国、競技種目43種目、選手数240人と、小規模なものでした。

1919年 非暴力・非服従運動…インド独立運動の指導者 ガンジー は、支配国イギリスに対する非暴力・非服従運動を開始しました。この日、反英運動への取り締まる法律が施行されたのに、断食をして抗議したのをはじめ、イギリス製品の綿製品をボイコットして、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを自ら糸車をまわして呼びかけるなど、不買運動を行いました。

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