児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年04月

今日4月19日は、 アダム・スミスに始まるイギリスの「古典派経済学」を完成させたといわれる経済学者のリカードが、1772年に生まれた日です。

デビッド・リカードは、17人兄弟の3男としてロンドンに生まれました。父はユダヤ人の証券仲買人で、リカードが生まれる少し前にオランダからイギリスへ移住してきたばかりでした。父親は学問などあまり役立たないと考えていたのでしょう、リカードをほとんど学校へ通わすことなく、14歳で自分の証券仲買の仕事を手伝わすようになりました。ここでリカードは、業界のツボを、いち早く身に着けていきました。

ところが21歳のときリカードは、キリスト教信者の娘と恋に落ち、ユダヤ教からキリスト教に改宗したため、猛烈に反対する父と分かれざるをえませんでした。しかたなく一人で株式仲買人をはじめたものの、生活はすぐにひっ迫しはじめます。しかし当時のイギリスは、産業革命の真っただ中にあって、フランス革命やナポレオン戦争の影響もあって証券業の盛んな時です。能力のあるリカードは、時期をうまくつかんでまたたくまに頭角を現し、30歳のころには、イギリス財界でも有力者のひとりに数えられるほど、大成功を収めるに至りました。

いっぽうリカードは、仕事のかたわら、化学や地質学などの自然科学が好きで、生活にゆとりができるにつれて、鉱物の標本集めや、化学の実験を楽しむようになっていました。1779年のある日、温泉地でくつろいでいる時、巡回文庫から何げなくアダム・スミスの『国富論』を借りて読みました。この本は、資本主義経済を初めて理論づけた本で、リカードが経済学に興味を持つきっかけとなったのです。同じころに出版されたマルサスの『人口論』の2冊から、リカードは大きな影響を受けました。とりわけマルサスとは、1809年ころから親しくつきあいはじめ、生涯よきライバルでした。

当時のイギリスは、イングランド銀行が金本位制停止によって紙幣を増発したのが原因で、インフレーションを招いていました。これに対してリカードは『地金の価格高騰について』という論文を1810年に発表して、金本位制への復帰を主張、経済学者として有名になりました。さらに、穀物の輸出入に制限を加えて地主や農民を保護しようとした法律「穀物条例」が1815年に成立すると、これを支持するマルサスと真っ向から対立して条例廃止を主張する論文を著わし、2年後には主著となる『経済学および課税の原理』を刊行、自由貿易による利潤蓄積の増大が国富を増進させること、資本主義社会においては富はどのように分配するべきかといった分配法則や、地代どうするべきかなど、独自の学説を明らかにしています。

1819年には、証券業をすっかりやめると、下院議員に選出されました。リカードは労働者階級の味方というわけではありませんでしたが、政府が労働組合を圧迫したり、言論や集会の自由を破ったときは、敢然と反対をとなえました。議員になってからも経済学研究は続け、リカードの学説をつきつめていくと、アダム・スミスの「労働価値説」(商品の値打はこれを生産する労働の量の大きさによってきまる)をさらに徹底して、商品価値は投下された労働量によってきまるというものでした。

こうして、リカードのところへは、マルサスやジェームズ・ミルら、優れた経済学者たちが集まり、議論を戦わすのが常でした。1820年には「経済学クラブ」を創設し、イギリス経済学を盛んにする役割を担いましたが、身体の弱かったリカードには重荷になったようで、1823年51歳のとき、原因不明の病で亡くなったのでした。後にリカードの唱えた「労働価値説」は、ジョン・ミルやカール・マルクスらによって科学的に発展されていきます。


「4月19日にあった主なできごと」

1775年 アメリカ独立戦争の開始…イギリスの支配から独立するため、アメリカが8年以上にわたって民主主義革命をなしとげた戦争を開始しました。

1824年 バイロン死去…ヨーロッパじゅうがゆれ動き、混乱していた19世紀の初めに、ロマン派の代表的な詩人として活躍しイギリス最大の詩人のひとりといわれる バイロン が亡くなりました。

1882年 ダーウイン死去…イギリスの博物学者で、生物はみな時間とともに下等なものから高等なものに進化するという「進化論」に「自然淘汰説」という新しい学説をとなえた ダーウィン が亡くなりました。


* 4月20日からプライベートで 「クロアチア・スロベニアなど、旧ユーゴスラビア4か国の旅」 へ出かけるため、しばらくブログを休載いたします。次回は5月9日からの予定です。

今日4月18日は、『富嶽三十六景』や『北斎漫画』など、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、フランス印象派の画家をはじめゴッホ、セザンヌらに大きな影響を与えた葛飾北斎(かつしか ほくさい)が、1849年に亡くなった日です。

1760年に現在の東京・墨田区の貧しい百姓の子として生を受けた北斎は、90歳で亡くなるまで絵ひとすじに生き、生涯に3万点もの作品を発表したといわれています。北斎が絵師としての地位を不動のものにしたのは、70歳のころから3年ほどかけて完成させた傑作『富嶽三十六景』で、自身もようやく満足なものが描けるようになったと次のように記しています。

「6歳のころから絵が好きで、50歳すぎから70歳で絵らしいものが画けるようになったが、やっと、草木、虫魚の骨組みや動きをとらえることができるようになった。おそらく、80歳、90歳になれば、絵の奥義をきわめ、100歳になれば神秘を得、110歳になれば1点、1画、生きるがごとく画くであろう」──そして、「画狂老人」と署名しました。

天命により北斎は、90歳で臨終を迎えましたが、そのときは「天があと10年の間、いやあと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう」といいながら死んでいったそうです。

下の絵は、北斎の絶筆といわれる『富士越龍図』(長野・小布施町「北斎美術館」所蔵)で、霊峰・富士の麓から黒雲とともに昇天する龍に、自身をなぞらえているとされています。

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アメリカの雑誌『ライフ』は1999年に、「この1000年間で、最も重要な功績を残した世界の人物100人」を紹介していますが、日本人として取り上げられたのは、北斎ただ一人でした。

なお、北斎の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」28巻目「葛飾北斎」を、ぜひご覧ください。


「4月18日にあった主なできごと」

1942年 B25が日本を初空襲…米軍のB25爆撃機16機が、東京、横浜、名古屋などを初めて空襲しました。

1943年 山本五十六戦死…太平洋戦争を進めたときの日本海軍大将の 山本五十六 が、ソロモン諸島でアメリカ軍の攻撃にあい、戦死しました。日本海軍の暗号が米軍に解読されたのが原因といわれています。

1955年 アインシュタイン死去…相対性理論によって新しい科学を開き、核戦争に反対をとなえた20世紀最大の物理学者 アインシュタイン が亡くなりました。

「おもしろ古典落語」の20回目は、『子ほめ』というお笑いの一席をお楽しみください。

日頃は、おせじのひとつもいったことのない職人の熊さん。仕事が早じまいしたので、ご隠居さんのところへやってきました。「こんちは、さっき聞いたんですが、お宅に酒樽が届いたんですってね、一杯飲ませてくれませんか」「ああ、飲ませてあげるよ。ただ、なんだよ、うちじゃいいけど、よそじゃ、おせじの一つもいえなくちゃ、おごってなんかくれないよ」「おせじなんてのは、いったい、どんなことをいえばいいんです?」

「まあ、ちょっと人さまに会ったら、ていねいに言葉をかけるんだな。『こんにちは、いい天気でございます。しばらくお目にかかりませんでしたが、どちらかにお出かけでいらっしゃいましたか?』…で、その方が『商用で海岸の方へ…』とおっしゃったら、『道理で、潮風におふかれになったとみえて、たいそうお顔の色が黒くなりました。まぁ、そういうふうに一生懸命になっておいでになれば、お店のほうも大繁盛、まことにおめでとうございます』…なんてことをいうんだ」「そういえば、きっと飲ませてくれますか?」「それでだめだったら、奥の手を使う。むこうの年齢(とし)を聞くんだ。『失礼ではございますが、あなたのお年はおいくつで?』…その方が45だとおっしゃったら、『45にしちゃ、たいそうお若い、どうみても厄そこそこでございます』という。男の厄年は42だ。一つでも年を若くいわれれば嬉しくなって、一杯おごりたくなるもんだ」

さらに、50歳なら45・6、60歳なら55・6と、4~5歳若くいえばいいといわれれました。それから、たまたま職人仲間の八公に赤ん坊が生まれて祝い金をふんだくられたので、しゃくだから八公のところに飲みにいきたいので、赤ん坊のほめ方をと聞くと、ご隠居さんはそのセリフも教えてくれました。「『これはあなたのお子さまでございますか? 亡くなったおじいさんに似て、ご長命の相でいらっしゃる。栴檀(せんだん)は双葉よりかんばしく、蛇は寸にしてその気をのむ、どうか私もこんなお子さまにあやかりとうございます』とでもいえば、自分の子どもをほめられて悪い気のする親はいない、きっと一杯飲ませてくれるよ」とアドバイスされました。

「そいつはありがてぇ、じゃあ、さようなら」「まぁ、お待ち、うちで一杯つけるから飲んでいきな」「いや、今教えられたこと忘れないうちにやっつけてきます」と、喜んで町に出ると、顔見知りの伊勢屋の番頭に会いました。早速試してやろうと年を聞くと40歳。45より下は聞いていないので、無理やり45といってもらって、「えー、あなたは大変お若く見える」「いくつに見える?」「どう見ても厄そこそこ」「当たり前だ、ほんとうは40だもの、いいかげんにしろっ!」と頭をポカリとやられてしまいました。

「おう、いるか八公」「おや、だれかと思ったら熊さんかい。このあいだはお祝いをありがとう」「うん、今日は赤ん坊をほめにきたんだ」「そりゃ、ありがてぇ、奥に寝てるから、見てやってくれ。たいそう大きな赤ん坊だって、家じゅうで喜んでるところだ」「そうけぇ…うーん、なるほどでけぇや。しかし、ちょっとでかすぎねぇか、ひたいがしわしわで、もう入れ歯まではめてるのか」「そりゃ、家のじいさんだ、頭がいてぇって寝てるんだ」「ああ、そうか道理ででけぇと思った…これが赤ん坊か、おやおや、人形のような赤ん坊だな」「ありがとうよ、来る奴くるやつ、猿のようだとか、ほし柿みたいだなんて、ろくなこといわねぇ、人形みたいだなんていうのはお前だけだ、そんなにかわいいか?」「いえね、おなかを押すときゅっ、きゅって泣くからよ」「おいおい、乱暴するな、おなかを痛めちゃうじゃないか」

「かわいい手をしてるね、もみじみたいな手だ」「いいこといってくれるぜ」「「こんなかわいい手で、よくも祝い金をふんだくりゃがった」「いやなこというな、おれがもらったんだ」「いや、これから、ほめられるだけほめてやるよ」と、ご隠居さんに教わったセリフを思い出しながらいいました。「これはあなたのお子さまでございますか?」「さっきからそういってるじゃねぇか」「亡くなったおじいさんに似て、ご長命の相でいらっしゃる」「じいさんは、そこに寝てるっていっただろ」「せんだんの踏み台は、かんかん…棺桶よりもまだ高けぇ」「なんだいそりゃ」「なんだかわからねぇ…蛇は寸にしてみみずを呑む。どうかこういうお子さんに蚊帳(かや)つりてぇ」「夏じゃねゃから蚊帳なんかつらねぇよ、わけのわかんないことばかりいうねぇ」

「よし、いよいよ奥の手だ。ときに、しばらくおみえになりませんでしたが、どちらの方へお出かけになっていましたかと…えっ、商用で海岸のほうへ…道理で潮風に吹かれたとみえて、お顔の色がてぇそう……赤いね」「赤いから赤ん坊ってぇんだよ」「失礼なことを伺いますが、この赤ちゃんのお年はおいくつで?」「おいしっかりしろよ、きょうはお七夜だよ」「ああ、初七日か」「縁起でもねぇ、初七日ってぇのは死んだ人のことだ、今日はお七夜だから、一つだよ」「一つかい、うーん、一つにしちゃ、てぇそうお若けぇ」「ばかをいうな、一つで若いなら、いったいいくつにみえるんだ?」

「どう見てもタダだ」


「4月15日にあった主なできごと」

905年 古今和歌集完成…古今和歌集(古今集)は、日本で最初の勅撰(天皇の命令で和歌などを編集)和歌集で、醍醐天皇の命によって 紀貫之 ら4名によって編まれ、この日、約1100首、20巻が醍醐天皇に奏上されました。「枕草子」を著した清少納言は、古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたと記しています。

1452年 レオナルド・ダビンチ誕生…ルネッサンス期に絵画・建築・彫刻そして自然科学にも通じていた万能の天才と讃えられる レオナルド・ダビンチ が生まれました。

1865年 リンカーン死去…「奴隷解放の父」といわれるアメリカ合衆国16代大統領 リンカーン が、南北戦争の終わった5日後の夜、ワシントンの劇場で南部出身の俳優にピストルで撃たれ、翌朝、56歳の生涯を閉じました。

今日4月14日は、オランダの数学・物理・天文学者のホイヘンスが、1629年に生まれた日です。

オランダのハーグに生まれたクリスチャン・ホイヘンスは、資産家で政治家でもあった父から教育を受けた後、幼いころから好きだった数学をライデン大学で学びました。また、デカルトが父の友人でたびたび家に訪れていたことで、哲学にも興味をもっていたほか、1655年に大学を卒業したときは、法学も学び終えていたというほど、多彩な教養を身につけていました。さらに物理学を研究し、早くから曲線の求積などでその才能を発揮していました。

また、レンズを磨く新しい方法を考えて手作りで屈折望遠鏡を制作、1655年にはその望遠鏡を使って土星の第6衛星タイタンを発見。翌年には、土星の環を発見したほか、これまで誰もなしえなかったオリオン大星雲の観測スケッチを残しています。さらに、1657年には振り子時計を発明して特許をとり、まだ30歳にもならないうちに、ヨーロッパじゅうになりひびく名声をかちとることができました。

当時は航海術が進み、海上で正確な経度を測ることが求められていました。振り子の等時性は、ガリレオによって発見されていましたが、ホイヘンスは、振り子の長さを工夫することによって、従来の機械時計の誤差を1日10秒以内にすることを可能にし、世界ではじめて機械式時計の実用化に成功しました。それらの功績によって、1666年にフランスで科学アカデミーが創立されたとき、ルイ14世は最初の外国人会員にホイヘンスを迎えています。これは、当時の科学者にとって、大変名誉なことでした。

そのほか、世界で初めて火薬を使った往復型のエンジンを発明。1690年には、『光についての論述』という本を著わし、光の波動説を唱えました。波動が伝わるときは、ひとつの波面上のすべての点が新たな活動の中心となって新しい球面波を作り、それが重なって新しい波面を作るという「ホイヘンスの原理」を提唱し、その原理によって、光の反射、屈折、その他光の諸現象を解明したのでした。おなじころ、「光の粒子説」をとなえていた ニュートン と激しく論争をくりかえしたことはよく知られています。


「4月14日にあった主なできごと」

1759年 ヘンデル死去…『水上の音楽』『メサイア』などを作曲し、バッハと並びバロック音楽の完成者といわれる、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家 ヘンデル が亡くなりました。

1867年 高杉晋作死去…江戸時代の末期、長州藩に非正規軍「奇兵隊」を組織して幕府軍と戦った志士・高杉晋作 が亡くなりました。

1912年 タイタニック沈没…イギリスの豪華客船タイタニック号が、処女航海の途上、カナダ・ニューファンドランド沖で氷山に衝突して沈没、死者1500人以上の惨事となりました。

1917年 ザメンホフ死去…世界でおよそ100万人の人が使用している人工言語、エスペラントの創案者 ザメンホフ が亡くなりました。

今日4月13日は、明治・大正・昭和初期に活躍したユニークな行政官・政治家の後藤新平が、1929年に亡くなった日です。

1857年、現在の岩手県奥州市に生まれた新平は、伊達家水沢藩に仕える臣下で、一族には蘭学者の高野長英もいる名門でしたが、明治維新の際に藩が賊軍となったために貧しく、幼いころから本を読むのが好きでも、買うのもままならないほどでした。しかし、才気と行動力のあるのが幸いして、13歳で盛岡に出て県庁の給仕となって働きながら学んだのち、15歳で上京しました。

ある役人の雑用係をしながら、貧しいながらも誠実に勉強する新平に手をさしのべる人があらわれ、17歳で須賀川医学校に入学することができました。優秀な成績で卒業すると、愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者になり、さらにめざましく昇進して、24歳で学校長兼病院長となりました。この時後藤に転機が訪れました。岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を、真っ先にかけつけて、適切な手当をしたおかげで板垣は一命をとりとめました。そして、これが新平の栄達するきっかけになったのですから、人生というのは先がわからないものです。

1883年内務省に採用され、1890年にドイツに留学して帰国後に衛生局長、1898年から10年間は台湾総督府の民政長官として台湾の近代化に尽力、さらに南満州鉄道(満鉄)の初代総裁として満州の植民地経営の基礎を築いただけでなく、1908年には桂内閣逓信大臣をつとめ、寺内内閣では内務大臣、さらに外務大臣となり、シベリア出兵を推し進めました。その後東京市長に就任し、市政改革に努めるとともに、東京改造計画をまとめました。1923年9月1日におきた関東大震災の直後に発足した山本内閣では、内務大臣と帝都復興院総裁を兼任して大震災の復興をはかる計画案を固め、その翌年いまの日本放送協会(NHK)の前身となる東京放送局の初代総裁に就任するなど、めざましい活躍をしています。

新平の行政官、政治家としての業績は多方面にわたっていて、どれも異彩を放つものでした。就任する先々で調査部を新設して科学的調査の実施を命じたために、「科学的政治家」と評されました。人々の常識を越える多額の資金の投資を求めるものだったため、「大風呂敷の後藤」といわれて、世間になかなか素直に受け入れられませんでした。しかし、後世になってからは、その先見の明と構想力は評価されています。

「貧乏は不名誉ではない。貧乏を恥じるこころが不名誉である。古来の偉人英雄を見よ、貧乏から立身出世しているではないか」「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」「人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、 世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならぬ」など、遺した言葉にも含蓄があふれています。

なお新平は、日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持って、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めていることでも知られています。


「4月13日にあった主なできごと」

1592年 文禄の役…1590年に全国統一をはたした豊臣秀吉は、中国の「民」を支配下におこうと、第1次出兵として加藤清正や小西行長らの率いる兵16万人を釜山に上陸させました。これは「文禄の役」といわれ、その後ソウルを陥落させましたが攻めあぐね、よく年休戦をしました。

1612年 巌流島の決闘…宮本武蔵と佐々木小次郎が、山口県の巌流島で決闘を行ないました。武蔵は、約束の時間に遅れて小次郎をいらだたせ、「小次郎敗れたり」と叫んで相手の動揺を誘い、舟の櫓で一撃のもとに小次郎をたたきのめしたといわれています。この有名なシーンは、小説、映画、テレビドラマなどでおなじみです。

1743年 ジェファソン誕生…第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いたジェファソンが生まれました。

1818年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、16年もかけて日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた伊能忠敬が亡くなりました。

1912年 石川啄木死去…「はたらけど はたらけど なおわがくらし 楽にならざり じっと手をみる」などたくさんの短歌や詩、評論を残し、民衆歌人、天才詩人といわれた石川啄木が亡くなりました。

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