児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年03月

今日3月9日は、明治新政府の招きで来日、札幌農学校(現北海道大学)を創設し、「少年よ大志を抱け」という言葉を残したアメリカの教育者クラーク博士が、1886年に亡くなった日です。

1826年にマサチューセッツ州アッシュフィールドに、医師の子として生まれたウィリアム・スミス・クラークは、アマースト大学を卒業後同大学の教授を長くつとめました。日本人留学生でのちに同志社を創設する 新島襄 は教え子の一人でした。1867年にはマサチューセッツ農科大学学長になりましたが、その在職中、新島襄の紹介により明治政府の熱い要請を受けて、1876年7月、札幌農学校教頭として来日、実質的な創設者となりました。

在職期間は1年にも満たないものでしたが、専門の植物学ばかりでなく、自然科学全般にわたる講義を英語で行い、キリスト教信仰に基づくアメリカ式教育は大きな成果をあげました。その教育目標を、実践に役立つ身体づくりと、強じんな精神をつくることにおき、学生はもちろん、農学関係者をはじめ、明治の文化人や人々の考え方にも影響を与えました。札幌独立教会を創設した思想家の 内村鑑三 や 国際連盟事務次長となった 新渡戸稲造 は、博士から深い感化を受けたことで知られています。

そして、翌年の1877年5月の別れにあたって、学生たちに「Boys, be ambitious!(少年たちよ、大志を抱きなさい)」(しかし、金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声といった束の間の大志を求めてはならない。人間としてあるべきすべてのものを求める大志を抱きなさい) と結びました。この言葉は、新しい国土の開拓に責任ある若者たちへのはなむけの言葉として強いインパクトを与え、名言として今も記憶され続けています。

帰国後は、マサチューセッツ農科大学の学長を1879年までつとめましたが、洋上大学の開学企画や鉱山経営に失敗するなど、不遇な晩年だったといわれています。


「3月9日にあった主なできごと」

1888年 梅原龍三郎誕生…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する 梅原龍三郎 が生まれました。

1933年 ニューデール政策…アメリカ大統領の ルーズベルト が世界恐慌を克服しようと「ニューディール(新規まき直し)政策」を発表。この日から100日間に銀行および破産直前の会社や個人の救済、TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共事業、CCC(民間資源保存局)による大規模雇用などの全国民的な経済活動をスタートさせました。  

1934年 ガガーリン誕生…人類として初めて宇宙飛行をなしとげたソ連の宇宙飛行士 ガガーリン が生まれました。

今日3月8日は、江戸時代後期の農民指導者で、「先祖株組合」という世界初の産業組合をこしらえた大原幽学(おおはら ゆうがく)が、1858年に幕府の弾圧に屈して自害した日です。

幽学は、1797年尾張藩に仕える身分の高い武士の次男として生まれました。しかし、18歳のときに父から勘当され、近畿・中国・四国を長く放浪しました。その間に儒学を学び、高野山へのぼって仏教をおさめ、神学を研究。ある和尚から易を学んでいたため、旅費につまると占いで礼金を受けたようです。

こうして諸国をめぐって豊富な知識を身につけた幽学は、1831年に房総半島に入りました。翌年下総国(千葉県)長部(ながべ)村の名主と心を許しあって、この地で生涯の理想のやりかたを実践する決意をしました。そして、農民たちへ、「性学」という、儒学を基礎としながら仏教、神道の説をもとり入れ、3道の中和を説く独自の道徳を講じたり、各地で学んできた農業技術を教えて歩きました。幽学の教えは、荒廃しきっていた農村に受け入れられはじめ、口でおしえるだけでなく自ら実践する生き方に、村人たちは次第に心を開いていきました。

1838年、幽学は「先祖株組合」を創設しました。金5両分(米3俵分)の株を先祖株とし組合員に株を積み立てさせ、1軒分が100両になると家を絶やさないために半分だけ渡し、残りの半分は子孫に残すという仕組みでした。さらに幽学は、耕地整理、質素倹約の奨励、バクチの禁止、また子どもの教育・しつけのために換え子制度(3~6歳の子を1~2年他家へ預ける)の奨励など、農民生活のあらゆる面を指導しました。また「改心楼」という教導所も建設するなど、長部村は数年のうちにみちがえるような豊かな村に変身していきました。

しかし幽学に不幸がおこりました。1852年、反感を持つ勢力が「改心楼」へ乱入したことをきっかけにして、怪しんだ勘定奉行がこの事件を取り調べはじめたのです。調べは執拗なもので、5年にも及びました。その結果、「性学」を間違った教えと断定して弾圧を強め、1857年には、幽学を100日間の江戸での謹慎、改心楼の取り壊し、先祖株組合の解散をいい渡したのです。

1858年正月、許されて長部村にもどった幽学が見たものは、性学を学んだはずの村の荒れはてた姿でした。「改心楼」を再興すれば、自分の身が危うくなるばかりか村人にも迷惑をかける、死んで人々の眠ってしまった心を覚ますほかはないと、墓地で切腹して果てたのです。心から農民を愛し、農事を改良して暮らしを豊かにし、幸福に生きる道を教えた点では、同時代の農民指導者 二宮尊徳 をも上回る野の哲人でした。


「3月8日にあった主なできごと」

1917年 ロシア(2月)革命…1914年に第1次世界大戦が始まると、経済的な基盤の弱かったロシア帝国は、深刻な食糧危機に陥っていました。この日、首都ペトログラードで窮状に耐えかねた女性労働者たちのデモがストライキを敢行、兵士たちもこれを支持しました。事態を収拾できなくなったニコライ2世が退位して、ロシア帝国は崩壊。この「2月革命」(注:ロシア暦2月23日)により、新しく生まれた臨時政府と各地に設置されたソビエトが対立することになりました。こうして10月に、ソビエトが臨時政府を倒して政権を樹立し、世界で初めての社会主義国家が誕生するのです。

今日3月7日は、古代ギリシアの哲学者・学者・教育者・著述家として、さまざまな学問を集大成したアリストテレスが、紀元前322年に亡くなった日です。

ギリシアでは、すでに紀元前776年から、ゼウス神の祭りとして古代オリンピックが開かれていました。また、同じころから、芸術や科学や哲学がさかえはじめていました。この古代ギリシアが生んだ大哲学者に、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3人があげられます。

プラトンは、紀元前427年に貴族の子として生まれ、子どものころから、文字のほかに詩や絵や音楽などを学びました。ゆたかな教養を身につけて政治家になるのが夢でした。ところが、20歳のころに、偉大な哲学者ソクラテスにめぐりあって哲学を学ぶようになり、やがて10年ののちに、ソクラテスが無知な政治家たちにさばかれて死刑になるのを目のまえに見てからは、正しいことがおこなわれない政治に疑問をもち、政治家になるよりも、人間の真実の生きかたを考える哲学を学ぶほうが大切だ、と信じるようになったからです。その後のプラトンは、アカデメイアとよばれた学校を建てて、真理の探求と若い人たちの教育に生涯をささげました。また、『ソクラテスの弁明』など、尊敬していたソクラテスの教えを数多く書き残しました。

アリストテレスは、プラトンよりも43年あとの紀元前384年、マケドニア王の待医を父に、ギリシア北部に生まれました。幼い頃から、学問の道にすすむことを心にきめていました。17歳のとき、アリストテレスはプラトンのアカデメイアに入りました。そして、はじめは弟子として、のちには協力者としてプラトンに代わって生徒たちを教えながら、20年間をここですごしました。先生のプラトンが死んでからは、アレクサンドロス 大王の家庭教師として、マケドニアに招かれました。

7年後の紀元前335年に再びアテネにもどり、郊外にリケイオンという学園を開いて、研究と教育に専念しました。物事の観察と分析の方法を重視して、弟子たちとさまざまなことを議論しながらともに学び、三段論法を体系化した「論理学」、物理・天文・気象・動物・植物の「自然科学」、さらに「倫理学」「政治学」など、あらゆる学問を網羅的に、しかも完成度の高いものに整理しました。

いわば、アリストテレスを出発点としない学問はほとんどないといってもよいほどで、その遺産は、2000年以上経っても評価されるものが多く、「すべての学問の父」とたたえられているのもうなずけます。ソクラテスがいなければプラトンは生まれず、プラトンがいなければ、アリストテレスはあらわれなかったかもしれませんが、その集大成をアリストテレスがやりとげた、といえそうです。

「人間は、ものごとをよく知ることを愛し、世の中の真理をとらえて、生きていかなければならない」──これが、古代ギリシアの哲学者たちが、最も大切にしたことでした。


「3月7日にあった主なできごと」

1608年 中江藤樹誕生…人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして 「近江聖人」 とその徳望が慕われた江戸時代の儒学者 中江藤樹 が生まれました。

1778年 ハワイ島の発見…イギリスの探検家 クック がハワイ島を発見しました。翌年に上陸すると、原住民たちは神の化身として厚くもてなしたといわれています。なおハワイは、王国、共和国を経て、1898年にアメリカに合併されています。

今日3月4日は、「20世紀のベートーベン」と高く評価されているロシアの作曲家プロコフィエフが、1953年に亡くなった日です。

セルゲイ・プロコフィエフは、1891年、帝政期のロシア(現在のウクライナ)に、農学者の子として生まれました。母が優れたピアニストだったため、幼い頃から母にピアノを学び、5歳のころには即興曲を音符に記すことができるほどでした。8歳の時には、モスクワで見た歌劇やバレエに刺激されて、自ら書いた台本でオペラを作曲、12歳の時には完成度の高い歌劇を作曲するほどの天才ぶりを発揮し、わずか13歳でペテルブルク(当時の首都・現在のサンクトペテルブルク)音楽院に入って、大作曲家リムスキー・コルサコフに師事して作曲を学びました。その間にも、ピアノ・ソナタ第1・2番、ピアノ協奏曲第1番などを作曲。10年ほどの在籍後、第1次世界大戦がはじまった1914年に卒業したときは、作曲とピアノの二つの最高賞を受けています。

1917年にロシア革命がおきると、その翌年にアメリカに亡命しますが、その途中に日本を訪れ、東京と横浜で演奏会が開かれました。その後パリに居を移し、20年近い海外生活の後、1936年に社会主義国となったソ連に帰国、ショスタコービッチやハチャトリアン、カバレフスキーらと共に、ソビエトを代表する作曲家として、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたるたくさんの作品が残されており、今なお、演奏される曲がかなりの数にのぼる人気作曲家の一人です。

なお『ピーターとおおかみ』は、ロシアの民話を基に、プロコフィエフ自身が台本を書き、「子どものための交響的物語」として作曲されました。初演は1936年5月、モスクワの児童劇場で行われましたが、とてもわかりやすい上に、音楽的によくできているため、世界じゅうの子どもたちに愛され続けています。

この曲の特徴は、物語がはじまる前に、登場人物それぞれが、オーケストラの特定の楽器で紹介されるところでしょう。主人公の少年ピーターは弦楽四重奏、ピーターの仲良しの小鳥はフルート、おおかみに食べられてしまうあひるはオーボエ、ねこはクラリネット、口やかましいおじいさんはバスーン、狩人はティンパニー、おおかみは3本のホルンというように、それぞれの楽器が、ある決まったメロディで演奏され、性格も表現される工夫がなされています。

勇敢な少年ピーターが、知恵を働かせておおかみを生け捕りにするまでの詳しいストーリーは、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「レディバードブックス100点セット」『ピーターとおおかみ』(日本語参考訳)をご覧ください。


「3月4日にあった主なできごと」

1053年 平等院鳳凰堂…藤原頼通は、父 藤原道長 からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」とし、極楽浄土といわれる鳳凰堂(阿弥陀堂)を完成させました。

1697年 賀茂真淵誕生…江戸時代の中ごろに活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた 賀茂真淵 が生まれました。

1788年 寛政の改革…江戸幕府11代将軍家斉は、白河藩主として評判の高かった 松平定信 を老中首座・将軍補佐とし、定信は「寛政の改革」を実施して幕政の改革をはじめました。8代将軍吉宗の「享保の改革」をめざしたものでしたが、あまりに堅苦しいものだったため、成功にはいたりませんでした。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と田沼意次時代を懐かしむ狂歌に詠まれるほどでした。

1878年 有島武郎誕生…絵のぐをぬすんだ生徒と、その生徒をやさしくいましめる先生との心のふれあいをえがいた児童文学『一房の葡萄』や『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』など社会性の高い作品を数多く残した白樺派の作家 有島武郎 が生まれました。

「おもしろ古典落語」の12回目は、『蜀山人(しょくさんじん)』という、江戸時代に狂歌の名人といわれた方のお笑いの一席をお楽しみください。五・七・五の「俳句」を、面白おかしく表現した文芸を「川柳」というのに対し、五・七・五・七・七の「和歌」を面白おかしく表現したのが「狂歌」です。1749年の今日3月3日に生まれた蜀山人の本名は、大田直次郎、号を南畝(なんぽ)といい、直参という徳川家のお役人でした。狂歌のほうでは四方赤良(よものあから)、寝惚(ねぼけ)先生などの別号もありました。

たいへんなお酒好きで、酒にまつわる逸話を、たくさん残しております。ある日、狂歌の弟子3、4人がやってきて、「どうも先生はお酒をあがると、乱暴をなさっていけません。どうかこれからは、お酒はつつしんでいただきます」「やぼなことをいうな。わしは酒をやめては生きている甲斐がない。そんな意見はやめだ」「先生がどうしてもお酒をやめないとおっしゃれば、しかたがありません。わたしたちがかわるがわるこちらへまいってきて、酒屋がきたら、どんどん追いかえします」「乱暴な話だな。よしよし、それじゃやめるとしよう」「それでは、たしかにやめるという証書を一札いただきとうぞんじます」「うるさいやつだな、書いてやるよ」

手もとにあった紙に書きながしたのが、「鉄(くろがね)の門よりかたきわが禁酒 ならば手柄にやぶれ朝比奈(あさいな)」という狂歌。朝比奈というのは鎌倉時代の豪傑、朝比奈三郎義秀のことで、その朝比奈さえもやぶれぬほどに、じぶんの禁酒のちかいはかたいと、うたったものでした。

弟子たちが帰ったところへ、入れかわりにやってきましたのが魚屋。「先生、初がつおの生きのいいのが入りました」「せっかくだが、今日はよしだ」「そんなことをいわねえで、買っておくんなせえ。先生だって、先祖代々の江戸っ子でしょう。どてらを質へたたっこんでも、初がつおを食わなけりゃ江戸っ子のはじだというくれえだ。一分二朱にまけておきやすから」「おいおい、値が高いから買わんというのじゃない。酒が飲めないから、かつおを買ったところでつまらぬからだ」「へえ、酒が飲めねえ? また、なんだって酒をやめたんですか」「いましがた弟子たちがきてな、酒を飲んではいかんというから、しかたなくやめたんだ」

「先生、ふざけちゃいけねえ。忘れもしねえ3年前、先生のところへはじめてきたときに、何ていいなすった。きさま、酒は飲めるかというから、あっしゃ下戸で奈良漬を食っても酔いますといったら、そんなやつに屋敷へ出入りされちゃ、先祖にすまねえ。それがいやなら酒を飲め、といったじゃありませんか。くすりを飲むような苦い顔をしいしい飲みおぼえて、やっと一人前の酒飲みになったんで、いわば、先生が本家だ。その本家が出店へことわりもなしにのれんをおろすたぁ合点がいかねえ。こうなりゃあっしも江戸っ子だ。先生が飲まねえうちは帰らねぇ」「まあ待て、そういえばおまえを酒飲みにしたのは、なるほどわたしだ。その師匠が禁酒をしては弟子にすまぬというのはもっともの話、じつはな、わしも飲みたくてうずうずしてたところなんだ。よし、改心して、もとの酒飲みになってやろう」「やあ、さすがは先生だ。よくわかってくれやした」「そうなったらまず酒だ。酒屋へいって、二升ばかりいい酒をとってこい。おまえと二人で、仲なおりに一ぱいやろう」

のんきなもので、魚屋を相手に、初がつおで飲みまして、いい心持ちで寝てしまいました。そんなこととはつゆ知らぬ門人たち、先生のところへきてみると、プンプン酒のにおいをさせて、高いびきで寝ています。「先生、禁酒の歌までお作りになりながら、このありさまは何ごとですか。神宮さまへの誓いをやぶっては、ばちがあたりましょう」「そう怒るな。大神宮さまへの誓いのほうは、そのままではおそれおおいから、短冊だけはとりかえておいた」

門人が神だなの短冊をみると、「わが禁酒 やぶれ衣となりにけり それついでくれ やれさしてやれ」 破れ衣をついだり、さしたりするのと、酒をさしたりついだりするのを、うまくかけた、みごとな狂歌です。「先生はどうしても、お酒はやめられませんか」「うん、狂歌と酒は、やめられんな」「それではどうでしょう、即吟で、もし狂歌ができなかったときは、お酒をやめる、ということではいかがでしょう」「そうだな。よし、そのときにはやめよう」「では、お約束いたしましたよ。これから内田へ、みんなで出かけることになっておりますから、これでごめんこうむります」「まてまて、内田というのは、昌平橋にある居酒屋の内田か」「さようです」「それなら、おれもいく」

これじゃぁ何にもなりません。師弟そろって内田という店で飲みましたが、なにしろ先生は大酒豪のこと、徳利が林のように並びました。ところが、いざ勘定をすることになると、持ち金を全部あわせても足りません。困った弟子が、「先生、勘定が意外にかさんで、金が足りません」「こんど、いっしょに払うといっとけ」「かしこまりました。けれど、さっきのお約束もありますので、この勘定が足らんところで、即吟を一つお願いいたします」「きわどいところへ切りこんできたな」「もしおできにならなかったら、お約束の禁酒ということになりますから」「わかっておる」と、とりよせた紙へ、さらさらと、

「これはしたり うちだと思い酒飲みて 代といわれてなんとしょう平」大酒を飲んだ上での即吟ですから、門弟たちもおどろきました。それでも門弟たちは、なんとかして酒をやめさせたいと思いまして、蜀山人につきあいのある人たちに、難題をお出しください、もし先生が即吟ができませんときは、酒をやめさせていただきたい、と、頼んでまわりました。これはおもしろいと、頼まれた人たちが、いろいろの題をだしますが、どれもすらすらと詠んで、さらに苦にするということもありません。

暮れのある日のこと、蜀山人先生、赤坂から青山へ用たしにいきましたところ、途中でチラチラと雪が降り出してしまいました。困ったことになったと思いながら、赤坂の溜池の知りあいの家の前まできましたとき、そこの内儀(おかみ)が声をかけまして、「まあ先生、この雪の中をどちらへいらっしゃいますので」「青山までまいるのだが」「雨具がなくては、お羽織がだいなしになります。さあ、これをどうぞおめしくださいまし」と、黒羅紗の合羽をだしてくれました。「これはかたじけない」「ついては先生、この合羽で即吟を一首、お願いしとうございますが」 ふところから紙をだして、さらさらと書きましたのは、

「声黄色 合羽は黒し 雪白し ここは赤坂 青山へいく」 みごとに5つの色が、詠みこまれております。これでは、いつまでたっても禁酒はむりなようで…。こうして、さまざまな逸話をのこしました蜀山人、この世に、いとまをつげたのは1823年、ときに75歳といいますから、そのころとしては、たいへん長生きをしたわけであります。

辞世の狂歌として、「ほととぎす 鳴きつるかた身 初がつお 春と夏との入相の鐘」「この世をば どれおいとまとせん(線)香の 煙とともに はい(灰)さようなら」「いままでは 人のことかと思ったに おれが死ぬとは こいつたまらん」この3首が伝えられていますが、このなかの「この世をば…」という1首は、じつは『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九の辞世ですので、おことわりいたしておきます。

「まちがえも 狂歌(今日か)あすかの辞世では 南畝(なんぼ)なんでも 一九(いく)らなんでも」


「3月3日の行事」

ひな祭り…旧暦ではこの頃に桃がかわいい花を咲かせるために、「桃の節句」ともいわれ、女の子のすこやかな成長を願って「ひな人形」を飾ります。その起源は、むかし中国で重三(3が並ぶ)の節句と呼ばれていたものが、平安時代に日本に伝わってきたものです。貴族のあいだだけで行なわれていましたが、江戸時代になって一般の家庭にも広がるようになりました。


「3月3日にあった主なできごと」

1847年 ベル誕生…電話を発明し、事業家として成功した ベル が生まれました。

1854年 日米和親条約…アメリカの ペリー 提督が、前年6月につづき7隻の軍艦を率いて再び日本へやってきて、横浜で「日米和親条約」(神奈川条約)を幕府と締結しました。これにより、下田と函館の2港へ入ることを認めたため、200年以上続いた鎖国が終わりました。

1860年 桜田門外の変…大雪が降るこの日の朝9時ごろ、江戸城外桜田門近くで、江戸城に向かう大老 井伊直弼 と約60人の行列に、一発の銃声が響きました。これを合図に水戸浪士ら18名が行列に切り込み、かごの中の井伊の首をはねました。浪士たちは井伊大老による安政の大獄で、水戸藩主をはじめ多数の処罰を恨んだ行動でした。

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