児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年03月

今日3月24日は、19世紀後半のイギリスで、美術工芸家であり詩人であり、またあるときは社会運動家としてめざましい働きをしたモリスが、1834年に生まれた日です。

ヨーロッパでは、18世紀の末ごろからイギリスを中心に産業革命がすすみ、19世紀になると機械によって大量生産された商品があふれるようになりました。ところが、かつての職人たちは誇りを失い、手仕事の美しさも失われていきました。モリスは質の良くない品物が市場に出まわるのは、機械というのがよくないと考え、機械が発明される前のように、すべて人間の手や技で作れと主張しました。そんな生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想と実践は、各国に大きな影響を与え、20世紀のモダンデザインの源流になったと、高く評価されています。

ウィリアム・モリスは、ロンドンの証券仲買人の子としてロンドン郊外に生まれましたが、3歳の時に父が亡くなり、教師をめざしてオクスフォード大学に入学しました。まもなく、父の巨額の遺産を相続、後に著名な詩人となるバーン・ジョーンズと知り合い、共にフランス旅行をするうち、中世のゴシック建築に魅かれ、芸術家をめざすようになりました。

1861年、ラファエル前派の芸術家たちとモリス商会を設立し、ステンドグラスや家具などを制作し、質素な材料ではあっても、豊かな装飾をほどこした作品を次々に生み出していきました。1865年には叙事詩『地上の楽園』を完成させ、詩人としての名声も得ました。また、当時のイギリスの商業印刷に対抗し、ケルムスコット・プレスを設立して、理想の書物の制作に乗り出してもいます。

1877年ごろからモリスは、当時おこったブルガリアの大虐殺事件に関心をいだいたのがきっかけになって、社会主義運動に傾いていきました。芸術が市民のものとなるためには、市民の生活向上が欠かせないと考えたからなのでしょう。古建築の破壊に反対し、森林伐採や河川の汚染に抗議するなど、今日の文明批判の源として光を放っています。

晩年は、ユートピア小説を書いたり都市問題などについて研究したり、講演の日々を精力的に行ないましたが、1896年、ノルウェー旅行のさなかに弱かったか身体が急速に衰え、63年の幅広い活動を終えたのでした。
 
モリスは日本人にも思想・精神面で影響を与えています。夏目漱石がイギリス留学中にモリスの『地上の楽園』を愛読し、その思想に共鳴したこと、芥川竜之介がモリスを卒業論文のテーマに選んだこと、白樺派の人たちがモリスから、思想・精神面で強い影響を与えられたことなどが知られています。


「3月24日にあった主なできごと」

1185年 平氏の滅亡…一の谷、屋島の戦いに敗れた平氏は、源義経の率いる水軍を、壇ノ浦(山口県・下関市)で迎えうちました。この日の正午近くに戦闘が始まり、平氏は西から東へ流れる潮流にのって有利に戦いを進めていました。ところが、3時過ぎになって潮流が逆になると形勢は逆転。敗戦を覚悟した平氏は、次々に海に身を投げていきました。この「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡、以後源頼朝の支配が確立しました。

1603年 エリザベス女王死去…「グッド・クィーン・ベス」(すばらしい女王、エリザベス)という愛称で国民からしたわれるエリザベス1世が亡くなりました。

1870年 本多光太郎誕生…明治から昭和にかけて、日本の科学の基礎をきずき、長岡半太郎と並んでその力を世界に示した物理学者本多光太郎が生まれました。

1905年 ベルヌ死去…「80日間世界一周」 「海底2万マイル」「十五少年漂流記」などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家ベルヌが亡くなりました。

 

「おもしろ古典落語」の14回目は、『王子のきつね』というお笑いの一席をお楽しみください。「王子」といっても童話の王子様ではありません。江戸にある地名で、当時はうらさみしい場所でした。

昔話にでてくる「きつね」というのは、愛嬌のある化け方をする「たぬき」とちがって、どちらかというと陰険でたちの悪い化け方をします。風呂だといっては野良の糞尿(こい)だめの中に人をつけたり、酒だといって馬の小便を飲ませたり、ぼた餅だといって馬糞を食べさせたり…。でも、きつねはまた、稲荷の使い姫といって、信仰の厚い方は、とても大切にします。

王子稲荷の近くの稲村の陰に、一匹のきつねがいました。頭に草を乗っけ、ひょいとひっくりかえると、たちまち22、3歳の若い女に化けました。それを不思議そうに見ていたある若い男、「(やっ、化けた。いい娘に化けたもんだね。誰を化かそうっていうんだろう?  誰もいないよ。ていうことは、このおれを化かそうってんだ。やだよ、逃げよう。でも、追っかけてくるんだろうな。そうだ、化かされたつもりで、向こうを化かしてやろうか)…そこにいるの、お玉ちゃんじゃありません?」

「あらっ、まあぁ、兄さん。しばらく」「(しばらくだってやがる。こっちは会ったこともないのに。でも向こうに合わせておかないと、こわいからね) どうも、しばらくでした。どちらへ?」「ええ、今お稲荷さまへお詣りして、その帰りにあんまりお天気がよくて気持ちがいいから、裏手をぶらぶら歩いていたの」「そうかい、じつはおれもお稲荷さまへお詣りにいった帰りよ、それにしても、よくおれのことを覚えていてくれたねぇ。お玉ちゃんもすっかりきれいになって、どうです、せっかくだから、ちょっといっしょに飯でも食いませんか」「あたしは構わないんですけど、兄さんこそ、あたしみたいな者といっしょではご迷惑じゃありません?」「とんでもねぇ、そんなら、この先に扇屋という料理屋があるんです。そこへ行って、ゆっくりお話をいたしましょう」

料理屋の2階に上がって、さかずきのやりとりをするうち、お玉ちゃんはすっかり油断して、いい心持ちになってしまいます。「兄さん、あたしすっかり酔っちまったわ」「うん、そういやぁ、だいぶいい色になったねぇ。ちょっとやりすぎたんですね。そこへ、横んなって、…いいさ、おれとお玉ちゃんの仲じゃないか、この座布団を2つに折って、枕がわりにして…そうそう、で、いい頃を見計らって、起こしますから、安心してお休み、あたしはここで飲んでいますから」

お玉ちゃんはぐっすり寝込んでしまいました。それを見届けた男は、そうーっと階段を下りると「お帰りでございますか?」「しーっ、静かにしておくれ、いまね、2階で連れの女が寝たところだから…なぁに、ちょっと飲みすぎて、頭が痛いとかいってるから寝かしたんだ。心配はいらねぇ…ちょっと思い出したんだが、この先におじがいるもんでね。またってぇのはおっくうだ、ちょっと来たついでに顔だししようってやつだ。なんかこう、土産になるようなものはないかい? えっ、卵焼き? あっ、それを3人前ばかり折につめておくれ。…それから、勘定はね、2階の連れからもらっとくれ。いいかい、ちゃんと財布を預けておいたから。まだしばらく寝かしておいて、こっちから起こしちゃいけないよ。目をさましたら、用足しがあって、おれは帰ったとそういっておくれ。…折詰ができた? じゃ、よろしくたのむよ」

いっぽう料理屋の方では、そろそろ勘定をというので、2階に仲居さんが上がってお玉ちゃんに声をかけますと「…まぁ、すっかり酔ってしまって…あいすみません。あらっ、連れの者はどうしました?」「なんでも、ご近所に親戚がおありなので、ちょっと顔だしをしてくるとか、卵焼をお土産にお帰りになりました」「まぁ、そうですか。人を寝かしたままで帰っちゃうなんてひどい人ですわね。で、こちらのお勘定は?」「それが、あなたさまからいただくようにと……」

ビックリしたとたんに、きつねは神通力を失ったのでしょう。口が耳まで裂けると、耳がピーン立って、後ろから太い尻尾がニューッと飛び出してきましたから、仲居さんは驚いて部屋を飛び出し、階段を踏みはずしてガラガラガラ…ストン。かけつけた男どもが「やや、こりゃきつねめ。さては先ほど帰った男も、うむ、太いやつだ」と寄ってたかってさんざんに打ちのめしましたから、きつねはたまらず、命からがら逃げだしました。そこへ扇屋の旦那が帰って事情を聞くと、男どもを一喝しました。

「ここはどこだ? 王子だぞ、うちの店がこうやって繁盛しているのも、みんなお稲荷さまのおかげなんだ。おきつねさまてぇのは、お稲荷さまのお使い姫ぐらいのことは、お前たちも知ってるだろう。そのおきつねさまが、わざわざ来てくださったんだ、日頃の恩返しに、うんとごちそうしてお帰し申すのがあたりまえだ、それを殴ったり、たたいたりして、とんでもねぇやつらだ、誰だ、殴ったのは?」こうして、扇屋では店を閉め、お詫び詣りに、みんなでお稲荷さんへ出かけて護摩をあげるという大騒ぎ。

そうとは知らず途中でずらかった若者は、卵焼の土産を持って友だちの家を訪ねます。きつねをだました自慢話をすると、「馬鹿ったれ、きつねは稲荷の使いだぞ。そんなイタズラをすれば必ずたたるから、ぼた餠でも持ってわびに行け」とさとされて、翌朝きつねに出あったあたりに来てみると、子ぎつねが遊んでいます。聞けば、おっ母さんが人間に化かされたあげく、全身打撲で床にふしているといいます。さてはと合点して平謝り。ぼた餠を子ぎつねに渡すと、ほうほうの体で逃げ帰りました。

子ぎつねは、ウンウンうなっている母ぎつねに、「おっかさん、人間のおじさんがボタ餠を持ってあやまりに来たよ。食べようよ」

「お待ち。たべちゃいけないよ。馬の糞かもしれない」


「3月23日にあった主なできごと」

1910年 黒沢明誕生…映画『羅生門』でベネチア国際映画祭でグランプリを獲得した他、『七人の侍』『生きる』『椿三十郎』など、数多くの映画作品の監督・脚本を手がけ、国際的にも「世界のクロサワ」と評された 黒沢明 が生まれました。

今日3月22日は、『しゃぼん玉』『あの町この町』『うさぎのダンス』などの童謡、『船頭小唄』『東京行進曲』といった流行歌、『東京音頭』などの新民謡と、現在も歌い継がれている大衆歌をたくさん作曲した中山晋平が、1887年に生まれた日です。

長野県新野村(現中野市)の旧家に生まれた中山晋平は、季節ごとに表情を変える美しい自然の中で、のびやかに育っていきました。村祭りの時の笛の名手として異才ぶりを示していたといわれています。父親が亡くなったため、呉服屋に奉公に出るなど、幼いころから苦労しましたが、尋常高等小学校卒業後に代用教員となりました。唱歌が好きで、生徒からも唱歌先生と呼ばれるほどでした。

音楽の世界に生きたいと夢に燃えた晋平は、18歳で上京すると、早稲田大学の教授で新劇指導者でもあった島村抱月と出会いました。願いがかなって抱月の書生として弟子入りし、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学、1912年に卒業すると、浅草の小学校の教師となりました。

そして1914年、島村抱月が松井須磨子らと旗揚げした「芸術座」の公演に、トルストイ 原作の『復活』を上演しようとしていたとき、晋平は、劇中にうたう歌の作曲を依頼されました。こうして完成した『カチューシャの唄』(♪ カチューシャ可愛いや別れのつらさ…) は、松井須磨子の唄で全国的に大ヒット、さらに翌年公演したツルゲーネフ原作『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』(♪ 命短し恋せよ乙女…) も大人気となり、晋平は一躍有名な作曲家にのしあがりました。同時に、その流行をみながら、日本人の誰もが口ずさめるような歌をこしらえることを、改めて決心したのでした。

やがて晋平は、5歳年上の詩人・野口雨情と出会い、『船頭小唄』や『波浮の港』をヒットさせました。そのころ 鈴木三重吉 が主宰した児童雑誌「赤い鳥」が中心となって、芸術的な童謡を作るべきだという新童謡運動が起こると、雨情もまた、新しい童謡に対する情熱に刺激を受け、晋平とのコンビで次々と童謡をヒットさせました。『しゃぼん玉』『あの町この町』『雨ふりお月さん』『こがね虫』『しょじょ寺のたぬきばやし』など、枚挙にいとまがありません。北原白秋との共作『雨降り』『砂山』、西条八十との共作『まりと殿様』なども評判となりました。

さらに、全国各地で口ずさまれる新民謡にも力をそそぎ、ふるさとのために作った『中野小唄』はじめ、『東京音頭』『上州小唄』『松本民謡』などをこしらえました。1929年には西條八十とコンビで作った歌謡曲『東京行進曲』は、佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録しました。晋平メロディは、「晋平ぶし」ともいわれ、その特徴は七音階ドレミファソラシドのファとシを省いた五音短音階で作っているところにあります。これが今日に至るまで歌謡曲の主流となっていて、晋平のメロディラインが自由で自然体であるため、みんなに愛唱されてきたのでしょう。

しかし、戦後はほとんど曲を作ることはなく、1952年、日本の近代的大衆歌謡のスタイルをこしらえあげるという、大きな役割を果たした生涯を終えたのでした。


「3月22日にあった主なできごと」

1932年 ゲーテ死去…、「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた ゲーテ が亡くなりました。

 

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このたびの「東北関東大震災」により、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆さまやそのご家族に対し、心よりお見舞い申し上げます。

なお、私事ながら、地震のあった2日前、多少重いものを持ったことが原因で「ぎっくり腰」となり、ほとんど歩行ができなくなってしまいました。1~2か月は安静にしなくてはと覚悟していたところ、有能な整体師の適切な治療と、「安静などせず、多少痛くてもできるだけ動くように」というアドバイスのおかげで、10日ほどで完治いたしました。6回分を休載しご心配をおかけしましたが、ほぼ日常にもどれそうです。

当ブログをいつもご覧いただいている方々には申し訳ございませんが、諸事情により、数日間休刊いたします。 ご迷惑をお掛け致しますが、来週中には再スタートできる見込みですので、しばらくの間お待ちいただけましたら幸いです。 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

「おもしろ古典落語」の13回目は、『ぞろぞろ』 という、ミステリアスなお笑いの一席をお楽しみください。

昔、江戸・浅草の「うら田んぼ」のまん中に、「太郎稲荷」という小さな神社がありました。今ではすっかり荒れはてていて、その神社の前に、めったに客がこない茶店があります。老夫婦二人だけで細々とやっていますが、茶店だけでは食べていけないので、荒物や飴、駄菓子などを少しばかり置いて、かろうじて生計をたてています。貧しくはあっても、じいさんもばあさんも信心深く、神社の掃除や供えものは毎日欠かすことがありません。

ある日のこと、土砂降りの夕立がありました。いなかの中の一軒家ですから、外を歩いてる人が残らずこの茶屋に雨宿りにかけこんできました。雨がやむまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていきます。こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずありません。

雨がやんだので、飛び出していった客がまた戻ってきました。「だめだだめだ。今の雨で、つるつるつるっと、滑って歩けない。おじいさん、お宅でわらじを売ってませんか。売ってる? ありがてぇ、助かった、一足ください」「へぇ、ありがとう存じます。八文でございます」一人が買うと、おれも、じゃ私もというので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのないワラジが、一度に売り切れになりました。

「ありがたいね、ばあさん、夕立さまさまだね。太郎稲荷さまのご利益(りやく)だ。明日、お稲荷さまへ、赤いご飯を炊いておくれよ。それからお神酒に、お榊も忘れなさんな、いいかい?」「はい、おじいさん、あっ、お店にお客さんですよ」「おや、源さん、今の土砂降りはどうでした?」「大変だったよ、大門寺の軒下であの雨はしのいだがねぇ、ここまでくるのに何度つんのめりそうになったか…あぁ、ようやくここにたどりついたってとこよ。これから鳥越まで用足しに行くんだけど、ワラジを一足売ってくれねぇか」「すまねえ、お前さんが来なさることがわかってりゃ、一足くらいとっておくんだったが、雨宿りのお客さんが残らず買っていっちゃって、一足もなくなっちまった」「だって、そこにあるじゃねぇか。天井を見ねえな、おじいさん」

そういわれて見上げると、たしかに一足あります。源さんが引っ張って取ろうとすると、何と、ぞろぞろっとワラジがつながって出てきたではありませんか。それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろりぞろり、いくらでも出てきます。これが世間の評判になって、茶店の老夫婦は正直者、太郎稲荷のご利益だと、この茶屋はたちまち名所になりました……。

そこからあまり遠くない田町に、はやらない髪結床がありました。客もなく手持ちぶさたで、自分のヒゲばかり抜いています。そこへ知人がやってきて太郎稲荷のことを教えられました。ばかばかしいけど退屈しのぎと思って稲荷見物に出かけたところ、押すな押すなの大盛況。茶店のおかげで稲荷も大繁盛で、のぼりや供え物は並べるところがないほどです。もちろん、老夫婦の茶店には黒山の人だかりで、お札(ふだ)がわりにワラジを買う客で、朝から晩まで押すな押すなの大行列。

これを見た親方、「そうだ、神仏のご利益。おれも授かろう。これから裸足参りをするぞ…南無太郎稲荷大明神さま、なにとぞあたくしにも、この茶店の年寄り同様のご利益をお授けくださいますように…南無太郎稲荷大明神さま…南無太郎稲荷大明神さま…」

いっしんに祈って、満願の七日目。願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せます。親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀(かみそり)をあてがってすっと剃ると、……後から新しいヒゲがぞろぞろぞろっ……。


「3月10日にあった主なできごと」

710年 奈良時代始まる…天智天皇(中大兄皇子) の4女である元明天皇が、藤原京から奈良の平城京に都を移し、奈良時代がはじまりました。

1945年 東京大空襲…第2次世界大戦の末期、東京はアメリカ軍により100回以上もの空襲を受けましたが、前夜から深夜にかけての空襲はもっとも大規模なものでした。B-29爆撃機およそ300機が飛来して、超低空から大量の手榴弾、機銃掃射、木造家屋へ焼夷弾を浴びせました。爆撃は2時間40分にもわたり、その夜の東京は、強い北西の季節風が吹いていたため、下町地区は火の海と化し、死亡・行方不明者は10万人以上、焼失家屋18万戸、罹災37万世帯、東京市街地の3分の1以上が焼失しました。

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