児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年02月

今日2月14日は、武士による独立国家を、関東に築こうとした平将門(たいらの まさかど)が、940年に亡くなった日です。

10世紀はじめの関東に、桓武天皇の血すじをひく平氏が、豪族として力を伸ばしはじめていました。平将門は、その平氏の一族平良将の子として生まれました。良将は、蝦夷をおさえるためにおかれた鎮守府の将軍でした。

将門は、少年時代に京都へのぼって、貴族の藤原氏につかえました。将来、強い権力をもつために、朝廷からおくられる高い官位がほしかったからです。ところが、10数年後に、望むような官位をもらえないまま、すでに父が亡くなった故郷へ帰ってみると、将門が父からゆずりうけた領地を、おじの国香(くにか)、良兼、良正が自分たちのものにしていたのです。

将門は、領地を返してくれるように、何度もおじたちにたのみました。でも、おじたちは、何の返事もしないばかりか、将門が新しく土地をひらこうとすることにも妨害を加え、さらには、大軍をひきいて攻めたててきました。

将門は立ちあがりました。初めは不意をつかれて苦戦でした。しかし、憎しみをもやして兵をたてなおすと、おじたちの連合軍を一挙にやぶり、国香を殺してしまいました。そののちも良兼、良正との戦いはつづきましたが、将門はことごとくうちやぶり、35歳のころには関東一の武将として、おそれられるようになりました。

939年、将門を悪い運命へひきずり込む事件がおこりました。朝廷の政治に不満をいだく常陸国(茨城県)の藤原玄明をかくまい、国の役所の国府を攻めて焼きはらったのです。しかも、勢いにのって、下野国(栃木県)から相模国(神奈川県)、駿河国(静岡県)へと勢力をのばし、やがて下総国(茨城県)に城をきずいて「わたしは新皇だ」と名のったからたまりません。

「将門は、朝廷にはむかう国賊だ。ただちに討ってしまえ」

朝廷は、藤原忠文を征夷大将軍に任命して、将門を討つ軍を関東にさしむけてきました。将門は、下総に陣をしいて敵をまちうけました。ところが、忠文の軍がやってくるまえに、兵を休めているところを国香の子の貞盛らの兵におそわれ、将門は頭に矢をうけて、あっけない最期をとげてしまいました。天下をとるほどの野望にもえていた将門は、このとき、まだ40歳にもなっていませんでした。

同じころ瀬戸内海でおこった藤原純友の反乱と、将門によるこの関東での争いをあわせて、承平・天慶の乱といい、武士が勃興するさきがけとなったのでした。


「2月14日はこんな日」

バレンタインデーとチョコレート…269年のこの日、ローマ皇帝が禁止していた兵士の結婚を、バレンタイン司祭が隠れて結婚させたことで死刑となったことを記念して欧米では「愛の日」とされ、若い男女が好きな相手に愛の手紙やプレゼントを贈る風習がありました。また、うるう年の2月29日のことを英語でleap year(跳躍の年) といい、女性から結婚の申し込みが許される日とされていました。この2つの西洋の習慣にヒントを得て、ある日本の菓子メーカーが、女性から好きな男性にチョコレートを贈りましょうと宣伝をしはじめ、1965年頃から定着しはじめました。そのため、女性が男性にチョコレートを贈るという習慣は、日本独特のものです。


「2月14日にあった主なできごと」

1779年 クック死去…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、さまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家 クック が亡くなりました。

1867年 豊田佐吉誕生…機織機の研究と改良に生涯をささげて日本の紡績産業の発展に力をつくし、「トヨタ自動車」をはじめとするトヨタグループ企業の基礎を築いた 豊田佐吉 が生まれました。

今日2月10日は、明治・大正から戦前・戦後にわたって女性解放運動・婦人運動の指導者として活躍した平塚雷鳥(らいちょう)が、1886年に生まれた日です。

東京麹町に、高級官吏を父に3人姉妹の末娘として生まれた平塚雷鳥(本名・明[はる])は、1887年から1年半欧米を視察旅行した父の影響で、ハイカラで自由な環境で育ちました。ところが小学校に入学したころから、父は一転して「女子には女学校以上の学問は必要ない」といった考え方をするようになりました。

しかし、父を説得し日本女子大学に入学しますが、日露戦争が始まると、国粋主義的な考えを押しつける講義に幻滅し、宗教書や哲学書を読むことに没頭、禅の修業にはげんだりしました。卒業後、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んだことがきっかけになって文学に目覚め、女性の文学会に入って、夏目漱石門下の新進作家・森田草平と知りあいます。処女小説『愛の末日』を書き上げると、それを森田が高く評価したことから、二人は恋仲になりました。ところが、まもなく「塩原事件」といわれる心中未遂事件を起こしたため、明は一夜にしてスキャンダラスな存在となりました。

明は、この事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で、抑圧された女性の自我の解放に関心を持つようになっていきました。そして1911年に青鞜(せいとう)社をおこし、日本で最初の女性による女性のための文芸雑誌『青鞜』を創刊します。明は「元始、女性は太陽であった…」という有名な創刊の辞を書くことになり、初めて「雷鳥」というペンネームを使用しました。

『青鞜』は、男女間で両極端の反響をまき起こしました。女性の大きな支持に対し、男性や新聞は冷淡で、青鞜社や平塚家に石が投げこまれるほどでした。でもそれにもひるまず、封建的家族制度反対、婦人参政権の獲得などを主張しました。さらに、青鞜社に集まる女性たちを「新しい女」と非難されると、雷鳥は、1913年の『中央公論』に「私は新しい女である」と書き、古い道徳や慣習をぶちこわすと宣言して、同年の『青鞜』の全ての号に、付録として「婦人問題特集」を組みこみました。その付録に、ある著者が「恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書いたことが「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、5歳年下の画家志望の青年奥村博史と共同生活をはじめました。雷鳥は、そのてんまつを『青鞜』の編集後記で読者に報告しています。

『青鞜』は、1916年に財政難のために解散しますが、雷鳥は、その後も婦人問題の評論家として活躍を続け、1918年に 与謝野晶子 と母性保護論争をおこしたことは、よく知られています。雷鳥が「国家は母性を保護すべきである」と主張したのに対し、晶子は、それは女性の依頼主義であるとして真っ向から対立したものです。

この論争のさ中、雷鳥は愛知県の繊維工場を視察し、その女性労働者の惨状に衝撃を受けて、帰途に婦人運動の団体設立の構想をします。市川房枝、奥むめおらに協力をもとめ、1920年に日本で初めての婦人運動団体「新婦人協会」を設立。婦人参政権運動と母性の保護を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させることを目的としました。特に「治安警察法」第5条改正(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れ、1922年に改正を成功させますが、運動は長続きせず、翌年末に解散、雷鳥は文筆生活に入りました。

第2次世界大戦後は、平和運動に取り組み、終生婦人運動と反戦・平和運動に献身、1971年に亡くなる直前まで積極的な活動を続けました。


「2月10日にあった主なできごと」

1657年 新井白石誕生…江戸時代中期に活躍した旗本・政治家であり、歴史、文学、言語学、政治、地理、兵法、考古学、民俗学などに通じる博学の学者だった 新井白石 が生まれました。

1763年 イギリスがカナダを獲得…イギリスとフランスとの間で争われた植民地7年戦争が終わり、パリ条約が結ばれて、フランスはカナダをはじめ、ミシシッピー川以東のルイジアナをイギリスに譲渡し、北アメリカの領土を失いました。英国はすでにインドのフランス植民地も得て、いわゆる「太陽の没しない大帝国」を築き上げました。

1851年 水野忠邦死去…江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる 水野忠邦 が亡くなりました。

1904年 日露戦争勃発…中国東北部の満州と朝鮮半島の支配権をめぐって紛糾した両国でしたが、日本政府はこの日、大国ロシアに対し宣戦布告をしました。

「おもしろ古典落語」の8回目は、『一眼国(いちがんこく)』という、奇想天外なお笑いの一席をお楽しみください。

昔はあちこちに、見世物小屋というのがありました。珍しいものを見せてお金をとろうという商売ですが、中にはインチキくさいものもありました。「さぁ、ごらんよ…世にもめずらしい怪物だぁ、目が3つで歯が2本だよ」入って見たら、鼻緒のぬけた下駄の片っぽが転がしてあります。たしかに、目が3つで、歯が2本ですから、文句がいえません。そうかというと、「八間(およそ15m)の大とうろうだよ…、どうだい」どんなに立派な灯籠かと思って木戸銭(料金)を払うと、「へい、いらっしゃい、こちらへ、こちらへ…」手をひっぱって裏口へとーんと突き出して、「表の方から裏のほうへ、通ろう、とうろう…」入口から出口まで、ちょうど八間というのですから、ひどい奴らがいたもんです。

(こんなインチキ商売はいつまでも続かない。両国に小屋を持っている香具師(やし)の親方は、六部(ろくぶ─巡礼)を一晩泊めてあげたあと、話をもちかけました。「おまえさんは諸国をずいぶんと歩いているから、珍しい話を聞いたり見たりしてるだろう、それを聞かせてくれれば、そいつをおれが探し出して、見世物小屋に出したいんだ。男と女が背中あわせになって生まれたとか、頭が2つとか3つの蛇を見かけたとかないかね、作りものならどんなもんでもできるが、生きてなくちゃだめなんだがね…」でも、六部は「そんな話はとんとない」といいます。一宿の恩をたてにさらにしつこく聞きますと、「一つ目の女の子」に会ったことがあるといいます。六部が思い出した話というのは、江戸から北へ、およそ百里(400km)も行ったところに大きな原っぱがあって、その真ん中にある大きな榎のあたりだといいます。これを聞くと香具師は喜んで、六部に金をあげ、早速その日のうちに旅支度をして家を出ました。北へ北へと夜を昼についでやってきたのが、大きな原っぱ…)

「ここんとこかな…、こりゃ、一つ目が出るような原っぱじゃねぇぞ、あの六部の奴、一杯食わしやがったんじゃねぇかね。あいつとちがってこちとら、路銀を使ってここまで来てんだからね。これで一つ目に会わなけりゃ、元も子もすっちまうってとこだ…。だが、待てよ、原の真ん中に榎がたった1本立ってるっていってやがったなぁ…そこに木が立ってるよ、ちょうど誂え通り…よーし、ものはためしだ、あの前までいってみよう」足を速めてさっささっさと行きすぎると、鐘がゴーン、なまあたたかい風がサーっと吹いてきました。

「『おじさん』『おじさん』って、どこかで声がしたよ。あっ、出たぁ…へへへへ、いつの間にか…一つ目が現われやがったねぇ…ありがてぇ、ありがてぇ、おじょうちゃん、おじょうちゃん、おじさんが、いいものあげるからね…おいで、おいで…」子どもは無邪気です。そばへやってきたのを、小脇にかかえこみました。子どもはびっくりして、キャーッと声をあげたので、口をおさえましたがもう遅い…法螺(ほら)がプゥゥゥゥ、早鐘がゴーンゴーンゴンゴンゴン…、プゥゥゥゥ…振り返ってみると、見通しのよいまっ平らな原っぱ、どこから出てきたのか、まるで地面から湧くようにピョコピョコ、だんだん人数が増えてせまってきます。どれもこれも一つ目ばかり。

「えれぇことになったな、こりゃ、子どももほしいが命も惜しい」あきらめて子どもをおっぽり出して逃げにかかると、なれない道、何かにつまずいて、どだっとのめったところを、「この野郎、とんでもねぇ野郎だ、おらんとこの娘かどわかそうとしやがった…、それっ、おっちばっちまえ、代官所へしょっぴいて行くんだ」

「これこれ、大勢してちょうちゃくをいたして、打ち殺してしまっては調べがつかん、それへひかえろ。そのほうの生国はいずこだ? 生まれはどこだ? なに、江戸? 江戸の者か。かどわかしの罪は重いぞ、面をあげい…面を上げい」「この野郎…面を上げろっ」「あっ、ご同役、ご同役…ご覧なさい、こいつは不思議だねぇ…目が二つある」

「調べはあとまわしだ、さっそく見世物に出せ」


「2月9日にあった主なできごと」

1152年 源頼朝が捕われる…保元の乱から3年、政治権力をめぐる争いは、平清盛方と源義朝方に分れて戦う平治の乱となりました。この日初陣の13歳の 源頼朝 は、父義朝とともに東国へのがれる途中捕われの身となり、伊豆の小島で流人の生活がはじまりました。

1856年 原敬誕生…日本で初めて政党内閣を組織し、爵位の辞退を表明したため平民宰相といわれた明治の政治家 原敬(はら たかし) が、生まれました。なお、原敬は1921年、首相在任中に暗殺されました。

1881年 ドストエフスキー死去…「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪・思想家 ドストエフスキー が亡くなりました。

1932年 井上準之助暗殺…大正から昭和初期の政治家だった 井上準之助 が、「血盟団」という右翼組織の青年によって暗殺されました。

1956年 原水爆実験中止決議…第2次世界大戦で広島・長崎に原爆被害を受けたわが国は、1954年南太平洋にあるビキニ環礁で行なわれたアメリカ水爆実験で、第5福竜丸が死の灰をあび、久保山愛吉さんの死亡したビキニ事件がおこりました。これがきっかけとなって、原水爆禁止運動がさかんとなり、国会はこの日原水爆実験中止を決議、アメリカ、ソ連、イギリス政府に実験中止の申し入れをしました。

今日2月8日は、ロシアの革命家、アナキズム(無政府主義)の理論家の一人で地理学者のクロポトキンが、1921年に亡くなった日です。

ピョートル・クロポトキンは、その一生を貧しく虐げられた人々の幸福のためにささげましたが、自身は1842年、代々宮廷での要職をになってきた名門貴族の3男としてモスクワに生まれました。父は、ロシア・トルコ戦争で成果をあげた軍人で、1200人もの農奴を有する大地主でした。父は、子どもたちや使用人たちに乱暴だったのに対し、母は知性のある教養人で、使用人たちや子どもたちにとても誠実でした。しかし、幼い時に亡くなってしまったため、クロポトキンら兄弟は、使用人たちの手によって養育されました。

1862年、中央幼年学校を卒業後、士官としてアムール・コサック軍に勤務し、1864年から66年にかけてロシア地理学協会の北東アジア探検隊に参加しました。アムール河流域や東部シベリアの研究を行なう過程で、重要な地理上の発見をするほど有能な地理学者でした。

1872年にスイスを訪れ、この地でアナキズムの指導者バクーニンと知り合って共鳴し、第一インターナショナルのバクーニン派に加わって社会運動家(自身のことばでいえば「革命家」)となります。ロシアに帰ると革命家の集りだったチャイコフスキー団に加わって、首都ペテルブルグの労働者の間で宣伝活動を行ったところ、逮捕、投獄されてしまいました。しかし、監獄病院から脱出してイギリスに亡命、1877年にジュネーブに移り、ヨーロッパ無政府主義の機関紙『革命』を発行しました。

1881年にスイスを追放されたクロポトキンは、フランスのリヨンで禁錮5年の判決を受けましたが、フランス世論の支持で釈放されました。1886年にはイギリスに渡り、ロンドン郊外に住んでアナキズム的共産主義の運動を推進しました。大杉栄 の翻訳した『青年に訴ふ』や『パンの略取』『無政府―その哲学と理想』『相互扶助論、進化の一要因』など多くの著書を刊行しました。学者としての長年の考証的学術研究に基づき、当時一世を風びした ダーウィン の主張する社会進化論や マルクス 主義にも批判を加え、社会運動ばかりでなく、文学にも大きな影響を与えました。

1917年ロシア革命の最中に帰国し、十月革命以後のソビエト政権に対しては、そのプロレタリアート独裁の考えに反対しながら、79年の生涯を閉じました。

「新しい社会には大きな国家権力はいらない。人民が自主的にやっていけばよい。地方自治が社会の根本だ。そして、工業と農業が結びつき、大都会と農村との対立はやめなくてはならない。その社会では、万人はすべて平等で、自分の個性を最大限に伸ばすことができる。国家、法律、軍隊、政党などは、みんななくなってしまうのだ」──このようなクロポトキンの考えは、アナキズム(無政府主義)とよばれ、今では実現不可能といわれています。しかし、愛に基づくビジョンは、人類が忘れ去ってはならない「理想の灯」なのではないでしょうか。


「2月8日にあった主なできごと」

1725年 ピョートル大帝死去…ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、バルト海交易ルートを確保した ピョートル大帝 が亡くなりました。

1828年 ベルヌ誕生… 『80日間世界一周』 『海底2万マイル』 『地底探検』 『十五少年漂流記』 などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家 ベルヌ が生まれました。

今日2月7日は、清朝(中国)第6代皇帝で、康熙(こうき)帝、雍正(ようせい)帝とともに、130年にわたる清朝の全盛期を築いた乾隆帝(けんりゅうてい)が、1799年に亡くなった日です。

17世紀前半の中国では、明が勢いを失いかけていました。現在の中国東北部に満州族が台頭し、1616年にヌルハチは「後金」を建てて、明の東北部を支配し、第2代のホンタイジは内モンゴルを併合して「清」を名乗ります。いっぽう、1644年、明朝に不満を持つ農民たちは、李自成を指導者にたてて大規模な反乱をおこして北京を占領して明を滅ぼしましたが、清の第3代皇帝の順治帝は、李自成を倒して中国支配のきっかけをつくり、第4代皇帝の康熙帝が、モンゴル高原、チベットや周辺まで勢力範囲を広げ、中国統一に至りました。

1711年、第5代皇帝雍正帝の第4子として生まれた乾隆帝は、祖父の康熙帝に、その賢さから愛されてそだち、1735年に即位しました。乾隆帝の功績の第一は「十全武功」と呼ばれる10回の外征です。ジュンガル、金川、グルカに2回、回部、台湾、ビルマ、安南(ベトナム)に1回計10回の遠征を誇り、自ら十全老人と呼びました。これによって、清の支配圏は中国史上最大規模に広がりました。

国内政治においても、康熙・雍正期の繁栄に支えられて国庫が豊かだったために、民衆にはたびたび減税を行い、古今の優れた書物を書き写して保存するという文化事業『四庫全書』の編さんにあたり、漢民族を懐柔しました。いっぽう、多くの書物を禁書にして、満州人に対する反対思想を封じこめました。

こうして、経済や文化もめざましく発展し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くの漢詩を作りました。また、中国の伝統的な文物をこよなく愛し、今も故宮博物院に残るたくさんのコレクションを収集するなど、まさに、清の絶頂期と讃えられています。

しかし晩年は、政治が乱れはじめ、「白蓮教徒の乱」をはじめ各地に乱がおきはじめ、やがて清は、人民の苦しみとともに、下り坂の時代に突入していくのです。


「2月7日にあった主なできごと」

1184年 一ノ谷の合戦…源義経 率いる源氏軍は、一ノ谷(神戸市)に陣を構えていた平氏軍を、背後の絶壁を駆け下りて奇襲に成功、源平戦勝利のきっかけとしました。

1812年 ディケンズ誕生…「オリバー・ツイスト」 「クリスマスキャロル」 「二都物語」 などを著したヒューマニズム作家 ディケンズ が生まれました。

1834年 メンデレーエフ誕生…ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成した メンデレーエフ が生まれました。

1885年 岩崎弥太郎死去…明治の初期に海運業をおこし、船の運送にともない海上保険、造船、鉱山、製鉄、銀行、製紙など、さまざまな産業に進出し、三井財閥と並んで近代日本の産業界に勢力をほこった三菱財閥の基礎をつくった実業家 岩崎弥太郎 が亡くなりました。

↑このページのトップヘ