児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年02月

今日2月21日は、『みつばちマーヤの冒険』などの動物文学を著したドイツの作家ボンゼルスが、1880年に生まれた日です。

北ドイツの港町ハンブルク郊外の医者の子として生まれたボンゼルスは、18歳のときに家を飛び出して、ヨーロッパ各地からアジアなどを放浪して歩きました。やがて、ミュンヘンの出版社へ勤務するようになってからも、エジプト、インド、アメリカなどへ旅行をくりかえしました。38歳ころになり、バイエルン地方にあるシュタルンベルク湖のほとりに落ち着いて、自然にかこまれながら暮らすようになりました。そして、1912年に豊富な体験を生かした作品『みつばちマーヤの冒険』を発表、さらにその続編の『天国の住民』や『マリオと動物たち』、旅行記として『インド紀行』『放浪者のおぼえがき』、その他たくさんの小説、詩、戯曲を書き遺して、1952年に亡くなりました。

『みつばちマーヤの冒険』は、次のような内容です。

ある古城の下にみつばちの国がありました。そこにマーヤが生まれましたが、好奇心の旺盛なマーヤには、毎日毎日同じことが繰り返されるお城での生活がなじめません。マーヤは城を逃げ出し、冒険の旅にでかけることを決意します。カブト虫のペピイをはじめ、ハエ、トンボ、コウロギ、バッタなどに次々に出会ったマーヤは、これらの昆虫たちとすぐに友だちになって、さまざまな知識を身につけます。やがて、クモの網にかかってグルグル巻きにされるなど、自然界におこるさまざまな事件を通してマーヤは、一歩ずつ成長していきます。そんなある日、みつばちの国を滅ぼそうとするクマンバチのことを知ったマーヤは、牢獄に閉じ込められても壁を破ってぬけだし、みつばちの女王に急を知らせます。そして、全滅されそうになったみつばちの国を、マーヤの知恵と勇気によって救うのでした……。

古くから人々のあいだに伝わってきた民話には、動物や昆虫などを主人公にした物語がたくさんあります。そうしたお話とは違って、生き物の習性や生活をしっかりみつめる文学が近代になってあらわれてきました。『みつばちマーヤの冒険』は、さらに一歩ふみこんだ、昆虫たちを、人を愛するような温かい心でみつめ、生きる喜びや悲しみをえがいた作品で、そこに子どもたちを感銘させる真実があるようです。ザルテンの著した『バンビ』とならぶ、動物文学の傑作として、高く評価されています。

なお、『みつばちマーヤの冒険』が日本の子どもたちに広く知られるようになったのは、ボンゼルスの原作をもとに、1975年に「テレビ朝日」系列で52話にわたり放送されたテレビアニメがきっかけでした。とても評判がよく、続編を願う声に応えて、『新・みつばちマーヤの冒険』が1982~83年にテレビ大阪系列で、やはり52話にわたり放送されました。(ともに日本アニメーション制作)  しかしこちらは、ボンゼルスの『天国の住民』『マリオと動物たち』を参考にはしているものの、ストーリーとしては全くのオリジナルといってよいようです。


「2月21日にあった主なできごと」

1911年 対米不平等条約改正…江戸幕府は1859年、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの間で通商条約を結びました。しかし、関税自主権がない上、領事裁判権を認めた不平等なもので、この改正が明治政府の課題でもありました。1894年に陸奥宗光外相がイギリスとの改正に成功していましたが、この日小村寿太郎外相はアメリカとの修正条項に調印。他国との条約も順次修正され、条約改正が達成されました。

1936年 美濃部達吉負傷…「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」(まず国家があり、その後に天皇があり、その天皇は国家の代表として一切の権利を有する)を唱えた美濃部達吉が、天皇を絶対視する右翼の男に自宅で右足を撃たれ、重傷を負いました。

1942年 食糧管理制度…太平洋戦争がはじまり、主食が不足するようになったため、「食糧管理法」を公布しました。これにより、米・麦などを農民に供出させ、国民に配給するしくみを作りました。戦後も食糧は不足していたために、GHQはこの制度を続けるように命じ、1994年に「食糧法」が公布されるまで続きました。

今日2月18日は、明治時代初期に来日したお雇い外国人の一人で、日本美術を高く評価し、紹介に努めたことで知られるアメリカの東洋美術史家フェノロサが、1853年に生まれた日です。

ボストン郊外のセーラムに生まれたアーネスト・フェノロサは、ハーバード大学を卒業後、先に来日していた モース の紹介で、1878年に来日し、東京大学で政治学、哲学などを教えました。講義のかたわら、ボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだ体験から、日本美術に深い関心を寄せるうち、助手の 岡倉天心 とともに、古寺の美術品を訪ね、その奥深さやスケールの大きさに感銘しました。

「日本は、昔から伝わるりっぱな美術を持っている。これを捨てて外国の美術のまねをするのはよくない」

明治維新以降、西洋の文物に押され、寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受けたフェノロサは、日本美術の保護に立ち上がり、自らの文化を低く評価する日本人に対し、いかに素晴らしい文化であるかを、ことあるごとに熱弁するのでした。

1882年に内国絵画コンテストの審査官に推されると、狩野芳崖や橋本雅邦らの作品に注目し、後援しました。また、1884年には文部省の委員として、天心とともに関西地方の古美術調査に訪れ、それまで数百年もの間、だれの目にもふれられなかった法隆寺夢殿の秘仏・救世観音を確認するなど、日本の美術行政や文化財保護行政にも、深く関わりをもつようになりました。フェノロサは、救世観音と出会った翌年、キリスト教を捨て仏教徒となったといわれています。

さらに1886年には、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の開設に尽力し、開校してからは美学と美術史を教え、校長になった天心を援助しました。

1890年に、ボストン美術館東洋部長に迎えられて帰国しますが、ヨーロッパやアメリカに日本美術の紹介をし続けました。その後も3度来日し、1908年ヨーロッパを遊学中にロンドンで亡くなりましたが、遺言により、大津市にある寺に葬られています。


「2月18日にあった主なできごと」

1207年 法然と親鸞流刑に…『南無阿弥陀仏』と念仏をとなえれば、来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた 法然 と弟子の 親鸞 は、旧来の仏教宗派に念仏の中止を訴えられ、法然は土佐に、親鸞は越後に流されました。

1546年 ルター死去…ドイツの宗教家で、免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めた ルター が亡くなりました。

1564年 ミケランジェロ死去…レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロと並び、ルネッサンスの3大巨匠といわれる彫刻家・画家・建築家・詩人として活躍した ミケランジェロ が亡くなりました。

1930年 冥王星の発見…アメリカの天文学者トンボーは、存在が予測されていた冥王星を発見し、太陽系の一番外側を回る9番目の惑星とされました。しかし、2006年に国際天文学界は、惑星ではない「準惑星」に分類しました。

「おもしろ古典落語」の9回目は、『平林(たいらばやし)』という、ばかばかしいお笑いの一席をお楽しみください。

昔は、学校なんていうものがありませんでしたから、おとなになっても、まともに字を読んだり書いたりできない人がたくさんありました。

ある店のご主人が、小僧の定吉を呼んで、使いをたのみます。「定吉や、本町の『平林(ひらばやし)』さんのところへ行ってきておくれ」「へーい、行ってきます」「これこれ、待ちなさい。用も聞かずに、出かけるやつがあるか?」「どうも、手軽すぎると思いました。で、どういうご用ですか」「この手紙を届けておくれ」「へーい、わかりました。で、どこへとどけるんでしたっけ」「本町の平林(ひらばやし)さんだよ」「そうでした。へへへ…、で、何をしに行くんでしたっけ?」「あきれたやつだ、手紙を届けるんだよ。いいか、おまえは忘れっぽいから、この手紙にあて名が書いてあるから、もし忘れたら、だれかに読んでもらいなさい。いいね、じゃ、早く行っておいで」

「うちの旦那はうるさくていけないよ。でも、使いはいいよ、気が晴れるからな。こうして歩いてると、いやなことも何も忘れられるし…歩いていることも忘れたりして。いや、忘れちゃいけないんだ。あれっ、どこへ行くんだっけかな。そうそう、この手紙を持っていくんだ。誰のとこかな、あっ、そうだ、ここに書いてあるんだったな。しかたない、誰かに聞いてみよう。むこうから人がくるよ。あのう、この手紙のあて名を読んでもらえませんか」

「上の字が『平(たいら)』で、下に『林(はやし)』だから『たいらばやし』だよ」「ありがとうございました。『たいらばやし』ね、でも…、そんな名前だったけかなぁ。そうだ、そこを通るお年寄りに聞いてみよう。お年寄りは、物事をよく知ってるっていうからね、ちょっとおたずねします。この名前は『たいらばやし』でいいんですかね」「ほほう、ちょっと貸してごらん。この上の字は『平(ひら)』、下は『林(りん)』、だから『ひらりん』じゃな」

「どうも、ありがとうございます。ひらりん、ひらりん、ひらひらりんりん、ちょうちょが飛んでるみたいな名前だな、さっきが『たいらばやし』で、こんどは『ひらりん』か、こりゃ、どっちだったかな。『たいらばやしか、ひらりんか』、そうだ、両方いいながら歩こう。『たいらばやしか、ひらりんか』……、どうも、旦那に聞いたのとちょっと違うみたいだな。あそこの大工さんに聞いてみよう。すみません、この字は何て読むんでしょうか」

「いいか、こいつは2つの字だと思うから、いけねぇんだ。ひとつずつ読めばいい。一番上が『一』、次が『八』、それから『十』、その下に材木の『木(もく)』の字がふたつ並んでるだろ、だから『一八十の木木(いちはちじゅうのもくもく)』って読まなくちゃいけねぇ」

「ああ、さようで…『いちはちじゅうのもくもく』。なんか妖怪の子どもみたいな名前だなぁ。しかたない、みんな並べていってみよう。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく』…こんな名前だったっけかなぁ? あっ、あそこに品のいいおかみさんがいるから聞いてみよう。これは『いちはちじゅうのもくもく』って読んでいいんでしょうか」

「えーっ、そんな読み方なんてあるもんですか。一八十(いちはちじゅう)って、堅く読んではいけないの、『一』はひとつ、『八』はやっつ、『十』はとう、それから木が二つあるから、き、き。『ひとつとやっつでとっきき』と読んでちょうだい」

「わかりました、ありがとうございます。どうも、聞くたびに違うなぁ…、いいや、まとめていってやれ。そのうちに、本人が聞きつけて出てきてくれるだろう。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく ひとつとやっつでとっきき』……」

そこへ通りかかった男が、きみょうな言葉をぶつぶついってる小僧がいるな、とよく見ると…。「なんだ、定吉じゃないか?」「あぁ、本町の平林(ひらばやし)さん、あっ、ちょっと待ってください。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく ひとつとやっつでとっきき』……『ひらばやし』っていうのはないね。

ああ、ちょっとおしいですが、今日はお宅に用事はありません」


「2月17日にあった主なできごと」

1856年 ハイネ死去…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表したドイツの文学者 ハイネ が亡くなりました。

1872年 島崎藤村誕生…処女詩集『若菜集』や『落梅集』で近代詩に新しい道を開き、のちに「破戒」や「夜明け前」などを著した作家 島崎藤村 が生まれました。

1925年 ツタンカーメン発掘…イギリスの考古学者カーターはこの日、3000年も昔の古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの、235kgもの黄金の棺に眠るミイラを発見しました。

1946年 金融緊急措置令…第2次世界大戦後の急激なインフレを抑えるため、金融緊急措置令を施行。これにより、銀行預金は封鎖され、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方、旧円の市場流通を停止、新紙幣(新円)との交換を月に世帯主300円、家族一人月100円以内に制限させるなどの金融制限策を実施しました。しかし、この効果は一時的で、1950年ころの物価は戦前の200倍にも達したといわれています。当時国民は、公定価格の30~40倍ものヤミ価格で生活必需品を買っていました。ヤミでは買わないとの信念を貫いた東京地裁の判事が、栄養失調で死亡したニュースも伝えられています。

今日2月16日は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者として活躍した荻生徂徠(おぎゅう そらい)が、1666年に生まれた日です。

日本民族の文化の歴史の中で、もっとも華やかに開花した文化のひとつに「元禄文化」があげられます。それまでの文化は貴族か武士による文化でしたが、17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけておこった元禄文化は、主に京都・大阪など上方の町人を中心に発展した、まったく新しいものでした。新しい文化は、武士の学問だった儒教にも影響を与え、日本特有の学問にうちたてようとする人たちが現われました。荻生徂徠もその一人で、「古文辞学派」という儒学の一派をおこした人です。

徂徠の父は、のちに5代将軍となる 徳川綱吉 (在位1680~1709年)に仕える医者でしたが、1679年綱吉の怒りにふれ、江戸を追われてしまいました。14歳にして家族で母の故郷である上総の本納村(今の茂原市)に移りすみました。徂徠は、ここでたくさんの漢籍や和書などを13年あまりも独学し、のちの学問の基礎をつくりました。そして、1690年、許されて一家とともに江戸にもどり、芝増上寺の近くに塾を開きましたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを、近所の豆腐屋に助けられたというエピソードが残されています。

1696年、将軍綱吉の側近で川越藩主の柳沢吉保に認められた徂徠は、吉保の相談役となりました。大石良雄 率いる「赤穂浪士の乱」をおこした浪士たちの処置をめぐり、吉保に意見を求められ、切腹を上申したことはよく知られています。将軍からも信頼されるようになり、やがて500石を与えられ、政治上のアドバイスをするまでになりました。しかし1709年、徂徠44歳のとき、綱吉の死去にともなって吉保も失脚、日本橋茅場町に居を移して私塾を開き、学問に専念するようになりました。

徂徠は、はじめのうちは儒学の一派で南宋でおこった「朱子学」を学びましたが、しだいに孔子や孟子らの教えを説いた書物を読み進めるうち、聖人といわれる孔子や孟子が、正しい人間の生き方の教えを説いただけでなく、政治や社会のしくみを大切にしていることがわかりました。そこで、聖人たちの生きていた時代に注目し「古文辞学」を重視する儒学の新しい派を形成し、幕府の政治にあてはめて考えるようになりました。1722年以後は、「享保の改革」を推し進めた8代将軍 徳川吉宗 の信任を得て、『政談』などを著し、政治のあり方や進め方を進言しています。1728年、多くの門弟を育てて63歳で死去しましたが、その文献学的手法は、本居宣長 ら、国学にも影響を与えています。


「2月16日にあった主なできごと」

1190年 西行死去…平安時代の末期の僧侶で歌人の 西行 が亡くなりました。西行は、旅のなかにある人間として、また歌と仏道という二つの道を歩んだ人間として、宗祇や芭蕉らたくさんの人に影響を与えました。

1222年 日蓮誕生…鎌倉時代中期の僧侶で、法華経に基づく教えこそが唯一の仏教の真髄と説く日蓮宗(法華宗)を開いた 日蓮 が生まれました。

1883年 天気図…東京中央気象台が、全国11か所の測候所の観測記録を電報で取りよせ、この日わが国で初めて天気図を作成。3月1日からは毎日印刷して発行されるようになりました。

1922年 大隈重信死去…明治時代に参議・外相・首相などを歴任した政治家で、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設させた 大隈重信 が亡くなりました。

1959年 カストロ首相誕生…事実上アメリカの傀儡(かいらい)政権だったキューバのバチスタ政権を、農民の支持を得て武力で倒したカストロが、ラテンアメリカ最初の社会主義国を作りあげ、この日首相に就任しました。

今日2月15日は、昭和期に活躍した作家で、『幽閉』(『山椒魚』)で認められてから、『ジョン万次郎漂流記』『駅前旅館』『黒い雨』など、独自の作品を著した井伏鱒二(いぶせ ますじ)が、1898年に生まれた日です。

広島県の旧家に生まれた井伏鱒二は、5歳のときに父を亡くし、祖父にかわいがられて育ちました。中学生のころは画家を志し、卒業すると3か月間奈良・京都を写生旅行をし、作品を持ってある有名画家に入門を申しこんだところ断られてしまいました。やがて文学に転向することを決意して、早稲田大学の仏文科で学ぶかたわら、日本美術学校で絵の勉強にも励みました。しかし1921年、井伏は担当教授と衝突したこと、無二の親友が自殺したことなどから大学を中退してしまいます。

井伏が本格的に文学活動をするようになったのは、1923年に同人誌「世紀」に参加したころからで、岩屋に閉じ込められた山椒魚の驚きや悲しみをユーモラスに描いた処女作『幽閉』で、新進作家として名が知れるようになりました。『幽閉』は1929年に改作され『山椒魚』の題名で再発表したほか、『鯉』『屋根の上のサワン』などのユーモアと詩情豊かな作品を次々に生み出していきました。

1930年には、初の作品集『夜ふけと梅の花』を出版、1938年には『ジョン万次郎漂流記』で、直木賞を受賞して作家としての地位を確立します。戦時中は陸軍に徴用され、日本軍が占領したシンガポールに駐在して、現地で日本語新聞の編集に携わるなどたくさんの戦争体験は、戦後の作品に大きな影響を与えています。

第2次世界大戦後の代表作には、『遥拝隊長』や、映画でも評判となった『駅前旅館』『本日休診』など、巧みな話術による独特の笑いと哀歓は、多くの人たちを魅了しました。いっぽう、広島の原爆の悲劇を描いた『黒い雨』は、市民の日常生活の場からさらりと描いた作品ではあっても、戦争へのうらみが全編にあふれる佳作として、1966年に野間文芸賞を受賞したばかりか、文化勲章も受章しました。

なお井伏は、ヒュー・ロフティング著『ドリトル先生物語シリーズ』(12巻)の翻訳も遺して、1993年95歳で亡くなりました。


「2月15日にあった主なできごと」

1564年 ガリレオ誕生…イタリアの物理学者・天文学者で、振子の等時性や落下の法則などを発見するなど、近代科学の父といわれる ガリレオ が生まれました。

1618年 河村瑞賢誕生…江戸の大火事の際、木曾の材木を買い占めて巨富を得、事業家として成功した 河村瑞賢 が生まれたといわれる日です。瑞賢は、東回り航路や西回り航路を整え、流通経済を発展させたことなどでも知られいてます。

1877年 西南戦争はじまる…西郷隆盛 は、私塾の生徒や明治新政府への不満をいだく士族ら1万数千人を率いて鹿児島を出発、熊本城を包囲しました。この乱は、「西南戦争」または「西南の役」などとよばれるわが国最後の内乱でした。戦争は9月24日まで続き、城山に籠城していた西郷らの切腹で終わりました。

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